節制における抑制(自制)と忍耐の有り様

2016年10月21日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-2-4-5. 節制における抑制(自制)と忍耐の有り様
 節制は、本来、快楽享受を抑制することである。その大原則からいうと、忍耐は、不快の忍耐であるから、節制では中心にはならない。食において、不味いもの(不快)を甘受することを節制は求めない。快楽抑制に限定している。性欲の場合も、同様である。不快・苦痛の性行為に節制は関与しない。
 節制は、抑制の営みであるが、自分のそとにあるものを抑制するのではなく、自己のうちにある欲求の抑制であり、自制ということになる。自身の快楽享受を自制するのである。忍耐は、あまり出てくることはないが、強く抑制するときには、不快・苦痛となるから、そこでは、自分のうちの苦痛・不快を甘受するものとして忍耐の出番がある。
 節制(=食と性の欲求の抑制)の対象・有り様は、そとから見える。過食や肥満は、自分では自覚しないことがあるが、そとからは誰が見てもよく分かる。性的逸脱も、単なる自己内の淫らな妄想をいうのではなく実在の異性にかかわることであれば、露見する。節制という自制・抑制は、これをしている・していないがそとから見える。だが、忍耐は、自身においては苦痛と忍耐の自覚はしっかりと持っていても、自分のうちのことで、そとからは分かりにくい。節制、快楽享受の抑制においても、不快に我慢しているかどうかの忍耐は見えづらい。かりに節食がスムースで苦痛でないのなら、清清しく感じているのなら、忍耐などの出番はない。辛いことになってはじめて忍耐は登場する。それは、そとからは分かりにくい。節食を苦痛と感じる感覚は、こころのうちのことである。かつ、忍耐は、しばしば、それに苦痛を感じていることを隠す。苦痛になるということは、そのことでの弱虫ということでもある。弱虫は知られたいことではないから、うちに忍び隠す。よけいに辛苦と忍耐は分かりにくくなる。