02特定される性的関係の暴露
自分の著名人との性関係を実名で暴露することは、近年増加している。
某日活俳優の「○々(妻の実名)へ ○々(著者実名)の愛の落書き集」も有名である。
《本の出版にあたり、関係した女性を数えてみると、『優に100人は超えちゃうのだ。その内訳は、約8割が名だたる女優なんだね。もちろん芸能界には【千人切り】を自称する後輩もいるが、…ただ僕の場合は結婚してからの10年間の軌跡というわけだから、われながらその精力に感嘆せざるをえないのだ》として、実名で性関係のさわりを暴露したのだ。
山田氏も「せんせい」として大物政治家との性愛を実況中継した。カメラ、隠しマイクを駆使し、後で相手に嘘だといわれることに備えた。
こうした「実録愛欲暴露小説」は相手になった男たちも、暴露し返す権利がある。渡辺氏においても、そうした話もあると聞くが、最近の超有名作家である村山由佳氏(45歳)の場合も、すぐにでも、報復を受けても良いかもしれない。
なにせ、朝日新聞に《千葉県鴨川市という狭い地域で「夫ではない5人の男との性愛に揺れながら成長していく女」とされ、『自分のプライベートと重ねて読まれる可能性(恐れ?)をも承知した上で選んだ設定であり、物語です』と言い放っている》のだから。少なくとも、自分の家庭を入れれば、6家族に激震や崩壊を与えた。男たちから見た作家の姿が活字となり登場してくるであろう。
編集者の中には、新潮社の人達が渡辺氏の文を添削したように、実録性愛話を持ち込むだけで、文学にしてしまう才人が多い。
歪んだ性欲も、さることながら、六人の男との性愛(もっとも、夫は…)劇は、滅多に明るみになることは少ないであろうから。出版社は巨額な設けを考えているであろう。
03最大の被害者
村山由佳氏が立ち去った後の鴨川市は大騒ぎであろうが、所詮小さな話である。週刊春秋には「淑女の雑誌から」として一ページ、エロ話がある。
購読者が日経新聞の一面を読むとき、最終ページのポルノ文字と挿絵は自分の前にいる乗客や食卓の家族に突き付けられる。
つまり、最大の被害者は本人だけでなく、目の前に猥褻を突き付けられる家族であり、電車の中の乗客である。
実際に朝の神聖な食卓に広げられた例を述べると《(上巻146ページ小満)
《その火照る肌に触れながら、久木は改めて考える。
いったい、女性が「アクメ」に達するときの快感は、どの程度のものなのか。
女という性を体験したことがない男には、所詮、空想するだけだが、男よりはるかに強く、深いことはたしかなようである。
むろん、男も射精の瞬間にはかなり強烈な快感があるが、きわめて短く、いわゆる一瞬に近い。それにくらべたら数倍か、あるいは数十倍か。一説には、射精の瞬間が延々と続くのと同じともいうが、それなら大変な快楽で、俗に何倍などともっともらしく数値でいうのは、その瞬間を時間的に継続するとして、計算したのであろうか》
この長々とした考察はいつされたのであろうか。誰もいなくなった深夜のマンションであろうか、あるいは術中(…)顔を挙げてのセリフか。
以下、私の人格を維持しながらの転記は不可能である「文」ガ長々と続く。
世の中は、地球上のすべての生き物は、「子孫を残すという」唯一の使命を帯びた」遺伝子に絶対的な服従を強いられている。
彼だって、闇の中で、その遺伝子と向かい合いながら、自慰さえしていれば犯罪者になることもなかったのだ。
がんばって、二回果てれば、どんな遺伝子だって「お前は馬鹿か!」とその日は姿を消すだろう。
しかも、妄想を文字にして、ほかの人たちの妄想を掻き立てる側に回ることができれば、思いがけない金が転がり込んでこないとも限らないのである。
文壇という業界だけでなく、すべての人は猥褻物を突き付けられことの有害さを、自覚し排斥または正当な評価のために恐れずに、立ち向かうべきである。
この二十年間、裏の世界で生きてきた猥褻印刷物が町中に氾濫してきた。最大の被害者は国民である。すでに、三・五流の世の中は四流になってしまった。
書店の棚は、青少年をターゲットにした卑猥を売り物とした印刷物で溢れている。誰もが猥褻本を出す。著名な国会議員ですら愛人(単に本人が名乗り出たに過ぎないが)に言ったとされる言葉も活字化された。
《当時、日経で連載され、おじさまたちの話題を独占していた『失楽園』は必ず読むように言われました。「今日のは、よかったなぁ…感じちゃったなぁ…あなたも読んだかい?よかっただろう?」》と言ったの言わないの。
日中に性欲を刺激させるとしたら、猥褻である。自らの性欲を満足させるための「金と手段」を持っている老人の性欲すら刺激するとしたら、それらを持たない若者を悪質に刺激するのは重度の猥褻である。
渡辺淳一氏が猥褻陳列罪で逮捕されなかったのは二十世紀末のためである。
もう少し前なら、この後の重なり続ける恥もなかった。
第3章 性愛知識
【傾城はてまえ勝手ないけんする】
偉大な作家の場合、暗いのは医者のほうで、被害者は受け持たれた患者である
人体実験を繰り返す。しかも、自分に都合の悪い所業について当然黙ったままである。
性交は子孫を残すために、遺伝子が生き物に与えた最大の使命である。
結婚は子孫を残すためにされる取引とも考えられ、双方が「この相手なら良い子孫が期待できる」との値踏みが底辺にある。
グレーテ・マイセル・ヘッスは《男も女もまず、自分たちに託された個体の保存のことを配慮しなければならない》と述べて、受胎を完成しようとする瞬間の女性は必死であるとしている。
《正常な女は、目の前の混乱で自覚しないかもしれないが、そのヴァギナに精液が射出されることを願い、自分の方で接触を強めることによって所期の目標に向かって男を誘うことに努める。
情欲を高めたいという彼女の要求は、何処までも正常なものである。》と続く。
男側も同じように全力を尽くしているはずであるが、渡辺先輩の場合は、その過程を飯の種にするために「忙中閑あり」である。相手が『当然ながら』必死の抵抗を見せていても、『男とはそうしたものだ・・・』などと顔を上げて呟いたり、作品に仕立てるためのメモを取ったりすることを忘れない。
本来、子孫造りに教師がいるわけではない。《男の歴史も、女の歴史も人間の性情と混迷との歴史であり、虚妄と偉大さ、笑いと残忍さ、喝采と嘲笑、快楽と苦痛、明るさと暗さ、畏敬と無知、純粋と不純とが展開される》(豊満の美・エリック・ホイエル・高山洋吉訳・刀江書院)
哺乳類である人類が子孫を残すためには、女性の卵巣に存在する卵子が卵巣から離れ男性の精子と合体しなければならない。子宮が合体場であり、受精卵が出産されるまで育てられる場でもある。渡辺淳一氏が秘口として生涯を捧げる部位は玄関にすぎない。
渡辺医学博士も述べているが、男の仕事は4mlくらいの精子を子宮内に向かって発射することで終わる。
しかし、(渡辺博士は述べていないが)胎内に生命を抱えた女性は長い危険な状態を強いられる。
しかも、最後には、命を賭けた出産がある。子宮からの産道は狭く、構造的に言えば通過は不可能に近い。
出産時には骨盤骨は骨折し、膣が亀裂することで、巨大であるが正常大の胎児はようやく外に出ることができる。
この過程で、無数の女性が命を落としてきた。ごく近年までは、妊娠出産は死と隣り合わせであった。
この本能的に抱く恐怖のために、女性が受精を拒否しないように、受精時をはじめとして全行程に快楽神経が作動するシステムが用意されている。生まれた後は赤ん坊が母親から見捨てられないように「可愛さ」をアピールする本能を身につけている。
これが、性愛の根源の姿であり、渡辺氏は自分の言葉として「男は一人の女を満足させるにも全力を挙げなければならないが、女は(肉体的に)骨を折らずとも幾人もの男に耐え得る」述べているが実は、骨盤の骨折をしている。
この快感作動システム(A-10神経興奮)は、インドタントラ教で「肉体は忘我恍惚エクスタシーの境地をへて解脱にいたるための媒体」と説明されている。
そのような生命を賭けた子孫作りのためヒトは当然、相手がだれでも良いというわけにはいかない。細胞の遺伝子は「改良型の子孫」を強制しているからである。目的は子孫繁栄、子孫改良である。
両性はこの過程で駆け引き気をしている。《精子を運ぶファルスはシンボルで、これが女の美を命じており、自分がその怖ろしい魔術にかかったように感じている女が、その性の情熱と憎悪とを燃やしている。女は胸の中で激しく闘っているが、女の敗北は運命である。女の敗北の証拠は、男の気に入るための情事である》
渡辺淳一氏をはじめとする官能作家が職業とするのが「快感作動システム(A-10神経興奮)の目的外作動」取り出しである。
女の視点はさて置き(この本は渡辺氏という男の研究なので)主として男性の視点を重視してみる。
男の視点から女性を観察した言葉は多い。
《美しい女といえどライバルの多い時は決して相手を捨てるまで手を抜いてはならない》とか《混乱した考え、狂気と哀愁、憂鬱症、倦怠と食傷、発情と生命欲を思う考えを呼び醒まし、また餓えたり絶望したりしている心から苦味の快感を呼び醒ますものでなければならない。悩みの神秘も、美の一つなのである》ボードレールの言葉である。
フェリックス・デルマンも《心臓を刺して傷つける苛責の懊悩を好む。わたしは色が鈍くなり、褪めるのを好み、燃える合図の中で消耗する官能の炎を口にする疲れた顔の女を好む。わたしは誰も読み取れない、誰も見つけることのできない、私自身の深奥の本性と奇病を病むすべてのものとを好む》
エリック・ホイエルは続ける。《自然と言う女神が、男と言う形で、男を通じて、その運命的な命令を執行するのである。この女神が男に地上を支配させ、地上では男が女を支配しているのである。
女はこの男の指図に従ってきたが、女は原初の昔、母性という大きな謎を秘めていた。女は偉大な母として神性のシンボルになっていた。
女は、独りさびしく、そして大きな力をもって、男の世界に君臨している。
男は、女の謎めいたところと身体とを好む。
男は、女の中にその最も高くて最もやさしい感動、そのもっとも深くて最も残忍な情欲を求める。
男にとって女は、ある時はマドンナであり、ある時は野獣ある。こうして、女は外形をも変えるのである。
透いて見えるように組み立てられた女の身体は、いとも甘い感動を発散する。女の身体が開けひろげられて、形の塊の中に融け込むと、きわめて官能的な炎がその身体を包む。
性欲の永遠に尽きぬ流れが氾濫し、女の周囲を巡っている。われわれの性情の閉ざされた奥底では、繁殖と遊蕩とが永遠に混在している。女が勝利を祝う。男たちの間から深奥の情欲の叫びがあがるとき、その情欲は王者の自由の瞬間において充たされる。女はいつも、男のこの叫びに餓えている。それは女の憬れを犠牲にし、ついにその調子を狂わせ、それを不自然なものにする。男が肉を好むと、女は肉の山に変わる》
しかし、このように男たちは自分の言葉に酔うが、女からみれば男は単純そのものであるという。
《経験を積んだある女性がつぎのように告白している。私は男の人をいつでも虜にすることを知っていました。男の人を興奮させることは、私にとって楽しいことでした。
彼らは大抵の場合、瞬間的なエロティクな衝動を土台にしていて、相手を選択する。
しかし、精神系は好きだという心を曇らせるが、好きだという心は精神系を曇らせない。》と。
渡辺淳一氏が発見したと錯覚している「性愛はエクスタシーによってのみ完成する」についても、遥か四千年もの昔、メソポタミアの人びとは人の心の秘密をすでに歌っていた。人類が残した無数の書は性愛について
「やさしさから激情へ、甘い快楽から肉欲へと向かうイナンナとドゥムジの愛の詩」を通して。大恋愛の結末はいつも悪いに決まっていることを。(愛とセクシュアリティの歴史・福井憲彦ら訳・新曜社)
飢えた人間だけが食べ物に飛びつくのである。
性に満ち足りている人間は、手の込んだ満足方法を必要とするのである。
こうした手の込んだ満足方法をことも異常と呼ぶ事はできない。
そもそも、こうした手の込んだ性交方法を用いさせる動機を与え、或いは直接要求するのが女であることも珍しくない
エドヴァルダ夫人(ピエール・アンジェリック)は《快楽の強烈な感情に伴う恥辱と羞恥心とはそれ自身愚鈍の証拠に過ぎない。人間は快楽の器官に限られてはいない。しかし、この忘れることのできない器官は人間に一つの秘密を教える》とすべてのことは自然であると。
性愛の本質も《(ゴンクール兄弟)無鉄砲な男は、相手の女から、『だんだんに男に許してゆくという、長い苦しみや、私は相手にされないと感じて、それを無益に嘆く恥辱』を省いてやる》とか《(温かい石・遊蕩児ヴァルモン)女の偏見を破ってはならない。女の失錯を取り入れる》など既に看破されている。
性欲が生物の本能であるから、興奮させる物語は金になる。今日の新聞も「京都名門大学生六人が『酔った女子大生に集団暴行』」と報じていた。しかし、次のページからはエロページとなる。売れるためには何でも恥を忘れる。
出版社は、どの時代も何百人もの官能小説家を抱えていたといえる。しかし、優れた作家は性や性の痛快さの魅力を文学に高める。このためには、精神を純粋にして自分の中にある下品なものを殺し切らなければならない。
官能作家としての自分の姿を認めたくない作家ほど抵抗する。
渡辺淳一氏が同業者との対談で「エロ小説になってはならない」と強調しているのもそのためであろう。
性愛描写の「総論」が言い尽くされた後、各論である「正常編」も「異常編」も夥しく出版されてしまった。
なかにし氏との対談の時点では「なかにし氏は異常ではないでしょう」と相手の顔色を窺う発言をしていた。
なかにし氏は渡辺氏のいう異常という言葉の意味を測りかねた。「私に、対談料に見合わないことを言わそうとしているのか?
そもそも、渡辺氏の世界を超えた異常とは何か?」彼は言葉を失ったように見えた。
事実そのころから、渡辺淳一氏は異常な性愛ものを書くようになったと考える。異常編としては「猥褻」と「暴力と死に結びついたもの」とに分類される。
全ての作家が自分で発見したと高言する「この分野の感覚」は人類誕生以来の感覚に過ぎない。
ローマで開花したエロティシズムは中世で抑圧される。その時代の実態はいつものように異常であったが、教会がその文字による表現の自由を許さなかった。しかし絵画にはエロティシズム表現を許したとされる。《エロティシズムは地獄の姿として表現を許した。この時代の画家たちは、教会のために仕事をした。そして、教会にとって、エロティシズムは罪だったのである。絵画がエロティシズムを導入し得る唯一の様相は、断罪なのであった。地獄の表現―厳密には、罪の忌まわしい画像―のみが、エロティシズムを登場させることを許した。》
中世が終ると、文字による表現の自由を獲得したが性愛分野はかえって混乱を招く。なぜなら、生殖という目的と唯一しかない簡単明瞭単純な行為であるから、行き詰りは当然である。
性愛文学はアルブレヒト・ディーラーの作品のように「エロティシズムとサディスム」が強く結び付き始めた。
次にエロティシズムの魅力が結び付けられたのが「死」である。バルドゥング・グリーン(『愛と死』『死と女』)が現れる。
「死」は我々を恐れさせるけれども、
われわれを妖術の恐怖の重苦しい歓喜の方向へ引きずって行く全能の死のイメージがあると。つまり、彼は苦痛にでなく、死・死の腐敗にその魅力を結びつけた。
現代では、猥褻についても出尽くしてしまった。映像も一日中垂れ流されている。結局、残されたものは有名人と結びついた異常性愛小説しかないとされている。つまり、「渡辺淳一氏の異常性愛小説」などである。
猥褻小説に陥っているのは、作家自身の本質的な「性行動に対するゆがんだ精神」に起因する。
渡辺淳一氏など無数に存在した性愛作家が自らの人生の目的と、耽溺し生活費を売るための商売の核としているのは「膣とか外性器」である。
譬えて言えば「家とか住んでいる家族を賛美したり貶したりする」のに「門とか玄関の評価」で終始しているわけである。
受精から出産までの恐怖から気をそらせるために快楽神経に直結している感覚器のアンテナを分布させている。
呼び鈴とかインターフォンに当たるのがこの刺激受容体である。これらはすべて、子孫を残すためのものである。
性は「子孫維持のため」のものであり、
愛は「改良型の遺伝子の組み合わせを追求するため」の行動である。
ヒトに限らず、生き物すべてに見られる「快感」は単純な脳の中のA-10神経に電流が流れることによる。
大金を得たとき、合格したときから始まって全ての喜びは、A-10神経の興奮に過ぎない。
しかし、受精を目的としない性行為に人生の時間を費やす人々が無数に存在したことも知られている。
聖アウグスティヌスは、「人間は生殖よりむしろ快楽のために性交をする唯一の生き物」だと言ったが、人類と極めて近いボルボなどは、すれ違うボルボと挨拶代わりに性交をするから「唯一の生き物」ではなかったが、この時代はまだボルボは知られていなかった。猿もマスターベーションを発見すると病みつきになるといわれる。
01性行動における快楽
モームは《(作家の手帳)性本能の満足を決して悪事と見なされなかったら、人間の幸福はどんなに大きなものだろう》
渡辺淳一氏が述べる「エクスタシー」とは何だろうか。マグロの一キロとか、白米茶碗二杯などというような「質と量」が読む人に正確に伝わってこないのである。渡辺淳一氏のお相手の貞淑な人妻が「いとおしい、ひきつけたような目をして失神」をしても、我々はその程度を知り様がないのである。
彼自身も多分快感失神などしたことはないであろう。なぜなら、その前後に起こる現象を解析し、記録することに追われているからだ。
単なる「性的快感」でよいのでないか。これならば、生物が改良型子孫を残すためにDNAが仕掛けた本能と納得がいく。
性行動における快感は、単なる「A-10回路に電位が流れること 」にすぎない。
根本的に言えば、ひとは何かに挑み、成功した時に感じる達成感をもたらす。このご褒美が、「快感神経興奮」で極めて単純である。満足感高揚感という陽性の「エクスタシー」もあれば、断食やマラソンや素もぐりなどで、それ以上苦しさを我慢すれば、生体がストレスのために崩壊するという陰性の場合にも、究極の逃避として「快感エクスタシー」を出現させる。つまり、A-10神経の興奮状態は一種類しかない。この状態は当然薬物でも再現させることが出来る。メキシコのシャーマンはキノコ(シロシベ)を摂取することで、エクスタシー」状態となる。その中に含まれるシロシンが、(セロトニンを受け止める)セレプター・レセプターに作用して(関所つまり脳の安定化装置としての)視床の働きをが弱める。すると、普段は、意識の外に蓄えられている記憶が堰を切ったように、無制限に前頭葉に送り込まれ、幻想幻視高揚感に包まれる。
A-10神経にドーパミンが流れることである。この「死んでもいい」とさえ感じるA-10神経細胞の興奮は、「マラソンで四十キロ近くで出現するランナーズ・ハイ」、「素潜りで五十メートル近くなったときにおきる感覚」、「思わぬ金の獲得」、「精神的な愛の成就」、「合格」など、世の中のすべてのもので得られる至福感と全く同一のものである。
まー、自慰が右手に一番近いA-10神経刺激方法とは言えるが…
つまり、エクスタシーの姿である。
生物最大の目的である「子孫を残すための受精関連」には全身に快感を刺激するネットワークが張り巡らされている。これならば、生物が子孫を残す仕掛けの一つと納得がいく。
つまり、遺伝子対遺伝子の空中戦ともいえる受精行為は本来一方的な行動ではない。
しかし、バトリンの観察では「性交は、はじめは利他的な行為である。だが、興奮が増していくにつれて、相手に払われた注意は次第に減少してゆき、そのあげく、オルガスムの直前やその間には、相手の利益はすっかり忘れ去られてしまう。」
【引きつけたやうな目つきで下女よがり】
しかし、「主体が、自分自身にのみ関わる満足に心を奪われているときでさえ、ひとつの完全なる調和の感覚、相手と一緒に至上の快楽を享受するという調和の感覚を経験することもある。」そうだ。