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渡辺淳一先輩の解剖
ヨーロッパ四万キロドライブ

新新・先輩渡辺淳一氏の解剖その17

2009-12-10 23:08:41 | Weblog

02特定される性的関係の暴露

自分の著名人との性関係を実名で暴露することは、近年増加している。
某日活俳優の「○々(妻の実名)へ ○々(著者実名)の愛の落書き集」も有名である。
《本の出版にあたり、関係した女性を数えてみると、『優に100人は超えちゃうのだ。その内訳は、約8割が名だたる女優なんだね。もちろん芸能界には【千人切り】を自称する後輩もいるが、…ただ僕の場合は結婚してからの10年間の軌跡というわけだから、われながらその精力に感嘆せざるをえないのだ》として、実名で性関係のさわりを暴露したのだ。

山田氏も「せんせい」として大物政治家との性愛を実況中継した。カメラ、隠しマイクを駆使し、後で相手に嘘だといわれることに備えた。

こうした「実録愛欲暴露小説」は相手になった男たちも、暴露し返す権利がある。渡辺氏においても、そうした話もあると聞くが、最近の超有名作家である村山由佳氏(45歳)の場合も、すぐにでも、報復を受けても良いかもしれない。

なにせ、朝日新聞に《千葉県鴨川市という狭い地域で「夫ではない5人の男との性愛に揺れながら成長していく女」とされ、『自分のプライベートと重ねて読まれる可能性(恐れ?)をも承知した上で選んだ設定であり、物語です』と言い放っている》のだから。少なくとも、自分の家庭を入れれば、6家族に激震や崩壊を与えた。男たちから見た作家の姿が活字となり登場してくるであろう。

 編集者の中には、新潮社の人達が渡辺氏の文を添削したように、実録性愛話を持ち込むだけで、文学にしてしまう才人が多い。

歪んだ性欲も、さることながら、六人の男との性愛(もっとも、夫は…)劇は、滅多に明るみになることは少ないであろうから。出版社は巨額な設けを考えているであろう。


03最大の被害者

村山由佳氏が立ち去った後の鴨川市は大騒ぎであろうが、所詮小さな話である。週刊春秋には「淑女の雑誌から」として一ページ、エロ話がある。
購読者が日経新聞の一面を読むとき、最終ページのポルノ文字と挿絵は自分の前にいる乗客や食卓の家族に突き付けられる。
つまり、最大の被害者は本人だけでなく、目の前に猥褻を突き付けられる家族であり、電車の中の乗客である。
実際に朝の神聖な食卓に広げられた例を述べると《(上巻146ページ小満)   
《その火照る肌に触れながら、久木は改めて考える。
いったい、女性が「アクメ」に達するときの快感は、どの程度のものなのか。
女という性を体験したことがない男には、所詮、空想するだけだが、男よりはるかに強く、深いことはたしかなようである。

むろん、男も射精の瞬間にはかなり強烈な快感があるが、きわめて短く、いわゆる一瞬に近い。それにくらべたら数倍か、あるいは数十倍か。一説には、射精の瞬間が延々と続くのと同じともいうが、それなら大変な快楽で、俗に何倍などともっともらしく数値でいうのは、その瞬間を時間的に継続するとして、計算したのであろうか》

この長々とした考察はいつされたのであろうか。誰もいなくなった深夜のマンションであろうか、あるいは術中(…)顔を挙げてのセリフか。
以下、私の人格を維持しながらの転記は不可能である「文」ガ長々と続く。
世の中は、地球上のすべての生き物は、「子孫を残すという」唯一の使命を帯びた」遺伝子に絶対的な服従を強いられている。

彼だって、闇の中で、その遺伝子と向かい合いながら、自慰さえしていれば犯罪者になることもなかったのだ。

がんばって、二回果てれば、どんな遺伝子だって「お前は馬鹿か!」とその日は姿を消すだろう。

しかも、妄想を文字にして、ほかの人たちの妄想を掻き立てる側に回ることができれば、思いがけない金が転がり込んでこないとも限らないのである。
文壇という業界だけでなく、すべての人は猥褻物を突き付けられことの有害さを、自覚し排斥または正当な評価のために恐れずに、立ち向かうべきである。

この二十年間、裏の世界で生きてきた猥褻印刷物が町中に氾濫してきた。最大の被害者は国民である。すでに、三・五流の世の中は四流になってしまった。

書店の棚は、青少年をターゲットにした卑猥を売り物とした印刷物で溢れている。誰もが猥褻本を出す。著名な国会議員ですら愛人(単に本人が名乗り出たに過ぎないが)に言ったとされる言葉も活字化された。
《当時、日経で連載され、おじさまたちの話題を独占していた『失楽園』は必ず読むように言われました。「今日のは、よかったなぁ…感じちゃったなぁ…あなたも読んだかい?よかっただろう?」》と言ったの言わないの。

日中に性欲を刺激させるとしたら、猥褻である。自らの性欲を満足させるための「金と手段」を持っている老人の性欲すら刺激するとしたら、それらを持たない若者を悪質に刺激するのは重度の猥褻である。

渡辺淳一氏が猥褻陳列罪で逮捕されなかったのは二十世紀末のためである。
もう少し前なら、この後の重なり続ける恥もなかった。

第3章 性愛知識
【傾城はてまえ勝手ないけんする】
 偉大な作家の場合、暗いのは医者のほうで、被害者は受け持たれた患者である
人体実験を繰り返す。しかも、自分に都合の悪い所業について当然黙ったままである。

性交は子孫を残すために、遺伝子が生き物に与えた最大の使命である。
結婚は子孫を残すためにされる取引とも考えられ、双方が「この相手なら良い子孫が期待できる」との値踏みが底辺にある。
グレーテ・マイセル・ヘッスは《男も女もまず、自分たちに託された個体の保存のことを配慮しなければならない》と述べて、受胎を完成しようとする瞬間の女性は必死であるとしている。
《正常な女は、目の前の混乱で自覚しないかもしれないが、そのヴァギナに精液が射出されることを願い、自分の方で接触を強めることによって所期の目標に向かって男を誘うことに努める。

情欲を高めたいという彼女の要求は、何処までも正常なものである。》と続く。
男側も同じように全力を尽くしているはずであるが、渡辺先輩の場合は、その過程を飯の種にするために「忙中閑あり」である。相手が『当然ながら』必死の抵抗を見せていても、『男とはそうしたものだ・・・』などと顔を上げて呟いたり、作品に仕立てるためのメモを取ったりすることを忘れない。

本来、子孫造りに教師がいるわけではない。《男の歴史も、女の歴史も人間の性情と混迷との歴史であり、虚妄と偉大さ、笑いと残忍さ、喝采と嘲笑、快楽と苦痛、明るさと暗さ、畏敬と無知、純粋と不純とが展開される》(豊満の美・エリック・ホイエル・高山洋吉訳・刀江書院)

哺乳類である人類が子孫を残すためには、女性の卵巣に存在する卵子が卵巣から離れ男性の精子と合体しなければならない。子宮が合体場であり、受精卵が出産されるまで育てられる場でもある。渡辺淳一氏が秘口として生涯を捧げる部位は玄関にすぎない。

渡辺医学博士も述べているが、男の仕事は4mlくらいの精子を子宮内に向かって発射することで終わる。

しかし、(渡辺博士は述べていないが)胎内に生命を抱えた女性は長い危険な状態を強いられる。

しかも、最後には、命を賭けた出産がある。子宮からの産道は狭く、構造的に言えば通過は不可能に近い。
出産時には骨盤骨は骨折し、膣が亀裂することで、巨大であるが正常大の胎児はようやく外に出ることができる。

この過程で、無数の女性が命を落としてきた。ごく近年までは、妊娠出産は死と隣り合わせであった。

この本能的に抱く恐怖のために、女性が受精を拒否しないように、受精時をはじめとして全行程に快楽神経が作動するシステムが用意されている。生まれた後は赤ん坊が母親から見捨てられないように「可愛さ」をアピールする本能を身につけている。

これが、性愛の根源の姿であり、渡辺氏は自分の言葉として「男は一人の女を満足させるにも全力を挙げなければならないが、女は(肉体的に)骨を折らずとも幾人もの男に耐え得る」述べているが実は、骨盤の骨折をしている。

この快感作動システム(A-10神経興奮)は、インドタントラ教で「肉体は忘我恍惚エクスタシーの境地をへて解脱にいたるための媒体」と説明されている。
そのような生命を賭けた子孫作りのためヒトは当然、相手がだれでも良いというわけにはいかない。細胞の遺伝子は「改良型の子孫」を強制しているからである。目的は子孫繁栄、子孫改良である。

両性はこの過程で駆け引き気をしている。《精子を運ぶファルスはシンボルで、これが女の美を命じており、自分がその怖ろしい魔術にかかったように感じている女が、その性の情熱と憎悪とを燃やしている。女は胸の中で激しく闘っているが、女の敗北は運命である。女の敗北の証拠は、男の気に入るための情事である》
渡辺淳一氏をはじめとする官能作家が職業とするのが「快感作動システム(A-10神経興奮)の目的外作動」取り出しである。

女の視点はさて置き(この本は渡辺氏という男の研究なので)主として男性の視点を重視してみる。
男の視点から女性を観察した言葉は多い。

《美しい女といえどライバルの多い時は決して相手を捨てるまで手を抜いてはならない》とか《混乱した考え、狂気と哀愁、憂鬱症、倦怠と食傷、発情と生命欲を思う考えを呼び醒まし、また餓えたり絶望したりしている心から苦味の快感を呼び醒ますものでなければならない。悩みの神秘も、美の一つなのである》ボードレールの言葉である。

フェリックス・デルマンも《心臓を刺して傷つける苛責の懊悩を好む。わたしは色が鈍くなり、褪めるのを好み、燃える合図の中で消耗する官能の炎を口にする疲れた顔の女を好む。わたしは誰も読み取れない、誰も見つけることのできない、私自身の深奥の本性と奇病を病むすべてのものとを好む》
エリック・ホイエルは続ける。《自然と言う女神が、男と言う形で、男を通じて、その運命的な命令を執行するのである。この女神が男に地上を支配させ、地上では男が女を支配しているのである。

女はこの男の指図に従ってきたが、女は原初の昔、母性という大きな謎を秘めていた。女は偉大な母として神性のシンボルになっていた。

女は、独りさびしく、そして大きな力をもって、男の世界に君臨している。
男は、女の謎めいたところと身体とを好む。
男は、女の中にその最も高くて最もやさしい感動、そのもっとも深くて最も残忍な情欲を求める。

男にとって女は、ある時はマドンナであり、ある時は野獣ある。こうして、女は外形をも変えるのである。
透いて見えるように組み立てられた女の身体は、いとも甘い感動を発散する。女の身体が開けひろげられて、形の塊の中に融け込むと、きわめて官能的な炎がその身体を包む。

性欲の永遠に尽きぬ流れが氾濫し、女の周囲を巡っている。われわれの性情の閉ざされた奥底では、繁殖と遊蕩とが永遠に混在している。女が勝利を祝う。男たちの間から深奥の情欲の叫びがあがるとき、その情欲は王者の自由の瞬間において充たされる。女はいつも、男のこの叫びに餓えている。それは女の憬れを犠牲にし、ついにその調子を狂わせ、それを不自然なものにする。男が肉を好むと、女は肉の山に変わる》
 
しかし、このように男たちは自分の言葉に酔うが、女からみれば男は単純そのものであるという。

《経験を積んだある女性がつぎのように告白している。私は男の人をいつでも虜にすることを知っていました。男の人を興奮させることは、私にとって楽しいことでした。
彼らは大抵の場合、瞬間的なエロティクな衝動を土台にしていて、相手を選択する。

しかし、精神系は好きだという心を曇らせるが、好きだという心は精神系を曇らせない。》と。

 渡辺淳一氏が発見したと錯覚している「性愛はエクスタシーによってのみ完成する」についても、遥か四千年もの昔、メソポタミアの人びとは人の心の秘密をすでに歌っていた。人類が残した無数の書は性愛について

「やさしさから激情へ、甘い快楽から肉欲へと向かうイナンナとドゥムジの愛の詩」を通して。大恋愛の結末はいつも悪いに決まっていることを。(愛とセクシュアリティの歴史・福井憲彦ら訳・新曜社)

飢えた人間だけが食べ物に飛びつくのである。

性に満ち足りている人間は、手の込んだ満足方法を必要とするのである。
こうした手の込んだ満足方法をことも異常と呼ぶ事はできない。
そもそも、こうした手の込んだ性交方法を用いさせる動機を与え、或いは直接要求するのが女であることも珍しくない

エドヴァルダ夫人(ピエール・アンジェリック)は《快楽の強烈な感情に伴う恥辱と羞恥心とはそれ自身愚鈍の証拠に過ぎない。人間は快楽の器官に限られてはいない。しかし、この忘れることのできない器官は人間に一つの秘密を教える》とすべてのことは自然であると。

性愛の本質も《(ゴンクール兄弟)無鉄砲な男は、相手の女から、『だんだんに男に許してゆくという、長い苦しみや、私は相手にされないと感じて、それを無益に嘆く恥辱』を省いてやる》とか《(温かい石・遊蕩児ヴァルモン)女の偏見を破ってはならない。女の失錯を取り入れる》など既に看破されている。
性欲が生物の本能であるから、興奮させる物語は金になる。今日の新聞も「京都名門大学生六人が『酔った女子大生に集団暴行』」と報じていた。しかし、次のページからはエロページとなる。売れるためには何でも恥を忘れる。
出版社は、どの時代も何百人もの官能小説家を抱えていたといえる。しかし、優れた作家は性や性の痛快さの魅力を文学に高める。このためには、精神を純粋にして自分の中にある下品なものを殺し切らなければならない。
官能作家としての自分の姿を認めたくない作家ほど抵抗する。

渡辺淳一氏が同業者との対談で「エロ小説になってはならない」と強調しているのもそのためであろう。

性愛描写の「総論」が言い尽くされた後、各論である「正常編」も「異常編」も夥しく出版されてしまった。

なかにし氏との対談の時点では「なかにし氏は異常ではないでしょう」と相手の顔色を窺う発言をしていた。

なかにし氏は渡辺氏のいう異常という言葉の意味を測りかねた。「私に、対談料に見合わないことを言わそうとしているのか?

そもそも、渡辺氏の世界を超えた異常とは何か?」彼は言葉を失ったように見えた。
事実そのころから、渡辺淳一氏は異常な性愛ものを書くようになったと考える。異常編としては「猥褻」と「暴力と死に結びついたもの」とに分類される。
全ての作家が自分で発見したと高言する「この分野の感覚」は人類誕生以来の感覚に過ぎない。

ローマで開花したエロティシズムは中世で抑圧される。その時代の実態はいつものように異常であったが、教会がその文字による表現の自由を許さなかった。しかし絵画にはエロティシズム表現を許したとされる。《エロティシズムは地獄の姿として表現を許した。この時代の画家たちは、教会のために仕事をした。そして、教会にとって、エロティシズムは罪だったのである。絵画がエロティシズムを導入し得る唯一の様相は、断罪なのであった。地獄の表現―厳密には、罪の忌まわしい画像―のみが、エロティシズムを登場させることを許した。》

中世が終ると、文字による表現の自由を獲得したが性愛分野はかえって混乱を招く。なぜなら、生殖という目的と唯一しかない簡単明瞭単純な行為であるから、行き詰りは当然である。

性愛文学はアルブレヒト・ディーラーの作品のように「エロティシズムとサディスム」が強く結び付き始めた。
次にエロティシズムの魅力が結び付けられたのが「死」である。バルドゥング・グリーン(『愛と死』『死と女』)が現れる。

「死」は我々を恐れさせるけれども、
われわれを妖術の恐怖の重苦しい歓喜の方向へ引きずって行く全能の死のイメージがあると。つまり、彼は苦痛にでなく、死・死の腐敗にその魅力を結びつけた。
 現代では、猥褻についても出尽くしてしまった。映像も一日中垂れ流されている。結局、残されたものは有名人と結びついた異常性愛小説しかないとされている。つまり、「渡辺淳一氏の異常性愛小説」などである。

猥褻小説に陥っているのは、作家自身の本質的な「性行動に対するゆがんだ精神」に起因する。
渡辺淳一氏など無数に存在した性愛作家が自らの人生の目的と、耽溺し生活費を売るための商売の核としているのは「膣とか外性器」である。
譬えて言えば「家とか住んでいる家族を賛美したり貶したりする」のに「門とか玄関の評価」で終始しているわけである。
受精から出産までの恐怖から気をそらせるために快楽神経に直結している感覚器のアンテナを分布させている。
呼び鈴とかインターフォンに当たるのがこの刺激受容体である。これらはすべて、子孫を残すためのものである。
 性は「子孫維持のため」のものであり、
愛は「改良型の遺伝子の組み合わせを追求するため」の行動である。
 ヒトに限らず、生き物すべてに見られる「快感」は単純な脳の中のA-10神経に電流が流れることによる。

 大金を得たとき、合格したときから始まって全ての喜びは、A-10神経の興奮に過ぎない。
 しかし、受精を目的としない性行為に人生の時間を費やす人々が無数に存在したことも知られている。 

聖アウグスティヌスは、「人間は生殖よりむしろ快楽のために性交をする唯一の生き物」だと言ったが、人類と極めて近いボルボなどは、すれ違うボルボと挨拶代わりに性交をするから「唯一の生き物」ではなかったが、この時代はまだボルボは知られていなかった。猿もマスターベーションを発見すると病みつきになるといわれる。
01性行動における快楽
モームは《(作家の手帳)性本能の満足を決して悪事と見なされなかったら、人間の幸福はどんなに大きなものだろう》
渡辺淳一氏が述べる「エクスタシー」とは何だろうか。マグロの一キロとか、白米茶碗二杯などというような「質と量」が読む人に正確に伝わってこないのである。渡辺淳一氏のお相手の貞淑な人妻が「いとおしい、ひきつけたような目をして失神」をしても、我々はその程度を知り様がないのである。
  彼自身も多分快感失神などしたことはないであろう。なぜなら、その前後に起こる現象を解析し、記録することに追われているからだ。
単なる「性的快感」でよいのでないか。これならば、生物が改良型子孫を残すためにDNAが仕掛けた本能と納得がいく。
性行動における快感は、単なる「A-10回路に電位が流れること 」にすぎない。
根本的に言えば、ひとは何かに挑み、成功した時に感じる達成感をもたらす。このご褒美が、「快感神経興奮」で極めて単純である。満足感高揚感という陽性の「エクスタシー」もあれば、断食やマラソンや素もぐりなどで、それ以上苦しさを我慢すれば、生体がストレスのために崩壊するという陰性の場合にも、究極の逃避として「快感エクスタシー」を出現させる。つまり、A-10神経の興奮状態は一種類しかない。この状態は当然薬物でも再現させることが出来る。メキシコのシャーマンはキノコ(シロシベ)を摂取することで、エクスタシー」状態となる。その中に含まれるシロシンが、(セロトニンを受け止める)セレプター・レセプターに作用して(関所つまり脳の安定化装置としての)視床の働きをが弱める。すると、普段は、意識の外に蓄えられている記憶が堰を切ったように、無制限に前頭葉に送り込まれ、幻想幻視高揚感に包まれる。
A-10神経にドーパミンが流れることである。この「死んでもいい」とさえ感じるA-10神経細胞の興奮は、「マラソンで四十キロ近くで出現するランナーズ・ハイ」、「素潜りで五十メートル近くなったときにおきる感覚」、「思わぬ金の獲得」、「精神的な愛の成就」、「合格」など、世の中のすべてのもので得られる至福感と全く同一のものである。

まー、自慰が右手に一番近いA-10神経刺激方法とは言えるが…
つまり、エクスタシーの姿である。
生物最大の目的である「子孫を残すための受精関連」には全身に快感を刺激するネットワークが張り巡らされている。これならば、生物が子孫を残す仕掛けの一つと納得がいく。
つまり、遺伝子対遺伝子の空中戦ともいえる受精行為は本来一方的な行動ではない。
しかし、バトリンの観察では「性交は、はじめは利他的な行為である。だが、興奮が増していくにつれて、相手に払われた注意は次第に減少してゆき、そのあげく、オルガスムの直前やその間には、相手の利益はすっかり忘れ去られてしまう。」
【引きつけたやうな目つきで下女よがり】
しかし、「主体が、自分自身にのみ関わる満足に心を奪われているときでさえ、ひとつの完全なる調和の感覚、相手と一緒に至上の快楽を享受するという調和の感覚を経験することもある。」そうだ。


新新・先輩渡辺淳一氏の解剖その16

2009-12-08 21:26:03 | Weblog
 猥褻であると指摘は猥褻な部分によって判定される。最悪の部分で全体は評価される。
テーブルいっぱいに手の込んだ料理が並べられていても、中に大便が混じてあれば全体が汚物である。ラーメン屋でラーメンを食べようとして、汁はまあまあであったが箸で持ち挙げた麺が腐敗臭がしている。
ラーメンを注文していても、箸にネズミの死骸が引っ掛かれば、ラーメンを賞味するどころではない。
「腐敗物はさて置き、このスープはいけますよ」と言うひとはいない。
文句をいう権利があるであろう。
 猥褻物も、毎日、突き付けられていると、なんとなく汚らしさに麻痺してしまってくる。陰毛写真も、アダルト映画、写真も少しずつ前へ前へとその座を移してくる。
猥褻陳列罪は刑法175条に定義されている。《わいせつな文書、図画その他の物を頒付し、販売し、または公然と陳列したものは、二年以下の懲役または二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処する。販売の目的でこれらの物を所持した者も、同様とする》
我が国で有罪となり知られているのは、DHローレンスの「チャタレイ夫人の恋人」である。一九五〇年小山書店から伊藤整の訳により出版された。
永井荷風の作とされる「四畳半襖の下張」も発禁処分を受けて、地下本としてのみ流通していたが、突然白昼に晒された。六〇年代になり官能小説といわれるものが一ジャンルとして位置を獲得する。八〇年代になってからポルノ、風俗情報を売り物にする夕刊紙を始めとし、一斉に走り出したため、当局の取り締まりが不可能となった。
その中で、川上宗薫、宇野鴻一郎、富島健夫が官能御三家といわれる。
 経済紙に愛欲エロ小説が本格的に登場した。渡辺淳一氏である。
荷風の時代も性欲に刺激された市民の姿がみられる。
《市中電車の雑踏と動揺に乗じ女客に対して種々なる戯れをなすものあるは人の知る処なり。釣革にぶらさがる女の袖口より脇の下をそっと覗いて独り悦に入るものあり》
百年後の現在は更に増強する。

書かれる目的が性欲を文字、挿絵で刺激しようとするものであるから、多くの場合有害になる。国民の被害
当然、最大の被害者はわいせつな文と絵を突き付けられる国民である。
【思ひ内にあれは前がたかくなり】
その青年は近くの淑女の顰蹙を買う。煽情された性犯罪国民
2番目の被害者は性欲を煽情されても犯罪に走ってしまった犯人と被害者である。
何日にも及ぶ「絞め殺す・性行為」の描写は国民(わが国民とするべきであるが、隣国中国では爆発的人気とされているので)の「脳による制御システムで辛うじて、押さえつけられいる本能」(本当は良質な子孫を残す本能)を刺激する。
人間の性欲はわずかな刺激で混乱し、一旦動き始めると、自分では制御が不可能となる場合が多い。
この現象を学問的にいうと《(異常性愛に基づく犯罪・非行に関する治療プログラム小田晋医学と医療No455)異常性愛敵対的傾向を背後に有する性犯罪行為は、重大事件が報道されるごとに、人々に強い不安と衝撃を与えるとともに、日常的にも、いわゆる痴漢行為として日常生活上の脅威・迷惑の種となる。
また加害者の側にとっても、性的嗜好障害の持つ嗜癖的、脅迫的性質が、その社会的適応上の重大な問題をひきおこす陥穿になる。
こうした性障害に基づく犯罪に対する治療は、従来悲観論が大勢であった。
小田氏症例としてだしているのは「二十七歳男性公務員。電車内で性器を露出して異性に見せるという行為を反復して検挙された。本人の供述では露出癖が脅迫的になっており、社会的・倫理的不当性は認識しているが抑制できないということだった》
渡辺先輩の作品を、熟読するたびに、古来よりの、人間の本質を表す次の言葉にうなづくうなづく。
《見渡して見給え、性的な行動で、短い
人生の時間を使い切ってしまった無数の男女を!》
一般的にいうと、穏やかな顔で、テレビでしっかりした話をし、小説の舞台描写、会話(いずれも意味がなくとも)をほどほどにしている人間が、日経新聞を始めとする一流誌朝刊で国民を前に「話を性器へ性器へと進めていく」とは信じられない。「どうせ、ゴーストライターが書いていて、先生こそ大きな迷惑を被っているのよ。一度、弱みを握られたら、お終いだから」なんて洗濯場ではなく、湯沸かし場で言われているかもしれない。
しかし、「あの人がなぜあんな事を!」という話は世の中に常にある。
特に性本能がからんだ話は無数である。人生は、まことに喜劇場面の、積み重ねに過ぎない。

危機一髪の幸運」と「考えられない不幸」は隣合わせである。

例えば、問題の日経新聞の三面記事を見ると《某スーパーの再建を請け負った経営者(57歳)が強制わいせつ罪で逮捕される。「後方から抱き付き、着衣の上から背中を咬む」「背中側から、履いていたズボンの中に手を差し入れる」「社長室に女性を呼び、全裸になって『肩を揉め』と命令し、自分の陰部を触らせた」「個室にサクラの女性を用意して呼び出した女性を安心させ、アダルトビデオまがいの複数プレイを強要した」「女性の陰部に手を入れ、グルグルと掻き回した」》なんとも日経新聞は渡辺淳一氏に負けない下品な記事を載せるのであろうか。ヒトの性欲の強さと悲しさの記事も続く。《妻子もある30歳の男が、刑務所から出てきたばかりなのに、連続婦女暴行事件で逮捕された。「若い女性をみると、我慢できなかった。重い罪になるとは分かっていたが、欲望を抑えることができなかった」と自供している》と。

同時期、超高名な大学教授(四十五歳)が痴漢行為で逮捕される。《電車内で女子高校生を触る。調べに対し、容疑者は「覚えていない」などと容疑を否認しているという。酒を相当量飲んでいたとみられる。午後10時過ぎ、高校二年の女子生徒(17歳)の尻を触るなどのわいせつ行為をした。女性高生が「やめて下さい」と叫び、周囲にいた乗客らが駅員に引き渡した。
教授は2年前も、横浜駅構内で女性の跡をつけるなど不審な行動を神奈川県警捜査員に見つかり、駅構内で手鏡を使い女子高生のスカートの中をのぞいたとして現行犯逮捕。裁判で無罪を主張したものの、罰金五〇万円などの判決が確定した。》そして読売新聞(20.9.20)には《某大学人間総合科学研究科教授(53歳)が強制わいせつ罪の疑いで逮捕された。教授は大学の研究室に20歳台の女性を招き入れ、体を触るなどのわいせつな行為をした疑い。「無理やりではない」と容疑を否認している》と。
数日に一度はこうした「負の方向に動き始めた人間の脆さ」の記事が見られる。
そして、ついに殺人事件である。《七歳少女誘拐殺人犯人である三十六歳の男の自宅のクロゼットの中から、紺の女子用スクール水着の中に女の子の衣服のほか、下着などを詰め、女の子の体をかたどった【人形】が見つけられた》
 元教授が指摘していた経済政策の過ちが、2008年に現実となった。
敵意を持って、ある人物を長期間、大がかりに尾行を続ければ、軽犯罪や迷惑防止法で逮捕することは容易である。それはヒトラーのやり口である。週刊誌がスキャンダルをキャッチするのもおなじである。
 国民は「絶対的権力を振り回す権力者に果敢に異論を述べる人物が手鏡を持っていたことで、葬り去ること」と「日経新聞で猥褻を陳列し続けることを黙認したこと」について改めて考えるべきだ。
 全体が猥褻となった世の中で生きる個人の本能的行動については、平等性が求められる。

第十一回
01思いがけない被害者
私自身が被害者となってしまった。
猥褻とは無関係な開業医人生を送っていたのに、目から飛び込む猥褻描写そして評論のための転記で汚れてしまった。すっかり、「目年増」になってしまって、同時に進行していた「愛おしい野良猫」などでも純粋な表現ができなくなった。
旅行の予約でも「ヒコウキ」は「秘口キ」と発音してしまう。
同様に、私のパソコンも汚れてしまった。
「あい」を変換すれば「愛の流刑地」となり、「えく」と押せば「エクスタシー」となってしまう。娘に下げ渡すことができない。
上品な川柳も柳多留から、末摘花までぐーっと踏み込んだ。
 最近私の兄弟も違った内容の被害者であることが判明した。兄から電話があった。「お前、いつもマンガ喫茶にいるって?」私は調べている内容が内容のため、マンガ喫茶で長時間書くことにしている。兄は、私が家を追い出されて、マンガ喫茶で寝泊まりしているのではないかと心配していたのである。弁護士の兄の所に「この頃珍しくない中年の家出」の相談があって、もしや、弟もと、ピンときたのであろう。
しかし、誰も予期しなかった被害者が存在した。それはこの期間に日経新聞の同じページの寄稿者である。
このページは本来「文化欄」であり、日経新聞の名物の「交遊録」が左上にある。
その欄のすぐ下に次の文が載っているのである。
《(愛の流刑地・密会)もし、それを付けてといわれたら、そうするつもりだったが、何もいわれなかったので、つい、そのまま求めてしまった。
でも、もし妊娠するようなことがあっては…歓びと不安の交錯するなかで、菊治はそっときいてみる「このままで、いいの?ねぇ、もう…」
(中略)こんな自分に対して、「ください」といい「はい」といいきるとは、なんと優しくて大胆な女なのか。(以下中略)だがそれにしても、女性に、「ください」といわれたのは初めてである。
その一言に、女のかぎりない、愛の深さと広さを感じてしまう。そして男はみな、そんなことをいわれたら、愛おしさのあまり狂ってしまう。(中略)
【はらんでもおれはしらぬむごいやつ】
ほとんど同時に、二人はのぼりつめたのか。(以下中略)熱情からの醒めかたは、女より男のほうが早い。精を放出する性と、受けとめる性とでは、体に残る余韻も違うのかもしれない。むろん女も、男にさほどの愛着をもっていなければ、醒めかたは早く、早々に起きあがる。(以下中略)
菊治の胸元に冬香の顔が、そしてお腹の上に冬香の乳房が当たる。そしていま燃えたばかりの冬香の股間に菊治の左膝をおしつけ、もう一方の肢を冬香のお臀にのせて両方から挟みこむ。
(以下中略)菊治はこんなしっとりとした肌が好きだ。以前、際き合っていた女性のなかに、やや色黒でゴムまりのように弾む肌があったが、それにはなぜか馴染めなかった。
とにかくいま結ばれたことで、身体も肌も秘所も、すべて菊治が期待していたとおりであることがわかった》
《(21)小雨の京の一隅で、ひっそりと一組の男と女が眠っている。なにか小説の一節にでてくるような情景だと思いながら、目を閉じていると・(以下中略)》
《だが、いま果てたばかりで、すぐできるのか。迷いながら背中に手を這わせ…》《白いスリップ一枚になった冬香が(以下中略)》から始まる、事前行為がえんえんと続く。【他人のうまさ女房わかれかね】
この延々と続く濡れ場の上は「文化」欄で、線を跨いだところは「交遊録」である。鎌田正彦エスビーエス社長が「弛まぬ精神力」と力説し、「私の履歴書」には河野洋平氏が連載。
全体は「翔んでいる狩野派十選。市瀬俊治の『民画の心招き猫に込め』」である。他日は、片山鳥取知事が「交遊録」で《彼が弱冠27歳のとき、秋田の能代税務署長に任じられた時の先輩との交遊話を書かれている。》と真剣に回顧。
高山龍三氏は「チベット学の祖苦難の道」を寄稿し、石黒正大氏は「自分で道を切り開いてきた仲間との語らいは、時に優しく、時に厳しく、心を包んでくれる」と述べている。ある日の交遊録は森川圭造氏で「人生の後半戦になると様々な出会いのなかで、生きているのではなく、生かされているのだなとつくづく感謝の念がわく」と述べている。負けるな」、であるが、横線一本の下の「何十時間も何日間も続いている『エクスタシー場面』には勝てないし、「わたしの記事見てくれた?」といえるわけが無い。
朝食のテーブルで、悠々と開示できるわけもない。
「なんで、交遊録のわたしが家族の顰蹙を買わなければならないのだ!」
一年中、朝からこのような猥褻文学を突きつけられるのだ。白昼の性犯罪が多発していることと、無関係と言えないかもしれない。



新新・先輩渡辺淳一氏の解剖その15

2009-12-08 21:21:26 | Weblog
05猥褻文学の悪影響
 小説すばる」は一年中「官能愛欲特集」である。二割は下品な猥褻な文学である。
エロ作家同士の対談もひどかった。

当然ながら、エロ本はエロ本の指定された場に置かれなければならないし、エロ本作家や出版社は、世間に臆面もなく顔を晒してはならない

《裁判記録は、各国で何がふつうになったかを証明したし、また毎日新しく証明している。ドイツでは検閲はこの理由から、や別の理由から、エロチックな映画をひじょうに早くから禁止したが、青年男女の性中枢をそうとう強く刺激する、低級小説のみだらで、うその多い感傷ものは、そのまま見逃されている》
 この年になって、理解できたが、人間という生き物は、性的能力を全員が備えていると言うことに驚かされる。そして、それを行使していることである。
握力とか歩行力くらいの普及度である。
そして、世之介ではないが「皆様そこそこの能力をお持ち」だという。
問題は、その周辺に過ぎない
古来より女は結実受胎という最終目的に手段を選ばない。このためにあらゆる奸策が用いられている。
官能と性欲とを性交として具体化させるために、と言われている。
古来、禁断の実の定義は無数に存在した。個人により異なるだけでなく、すぐ、定義を変更するのに躊躇しないヒトも多い。
実を食べた後に規制緩和をしてしまう。
 
人間の歴史も五千年にも及ぶと、生き方において、我々が新しいものを加えることはまずない。
有名無名の無数の先輩たちがしてきたことを、我々はほんの短い人生なるもので、体験するにほかならない。「いや違う、俺だけは独創的な一生を送った」と息巻く人もいるかも知れないが、先輩たちの体験を組み合わせただけである。
 
本当は全てに先例があり、人の行動に正確な解析のできない事はない

渡辺先輩がベッドのなかで、性的な素質があるにもかかわらず、狂乱に彼も人生を描こうとしたはずである。

《(影絵)彼はついにエロ本を買う。それによると、抱き合うと気持がいいらしいが、それはあくまで男だけで、女はみんないやいやらしい。男はきまって「犯す」とか「奪う」とか「パンティを引き裂く」といった行為ばかりで、女のほうは「悲鳴」とか、「襲われた」「泣いた」「殺された」といった内容が圧倒的に多い。稀に「夫婦和合」とか「女の悦び」などといった言葉が出てきても、いま一つぴんとこない。性において、男は圧倒的に暴力的で、女はそれに従わされる可哀想な存在なのだとしか思えない。
渡辺君は半世紀後に書き手の方に回る。夕刊フジ(17.1.26)ですら絶句している。
《(愛の流刑地)自らにそういいきかせた男は、すでに立上っている女の乳首を口に含み、熱い吐息をくわえながら、其の先端を舌の先で巻きながら転がす。同時に一方の手は秘所の先端に添え、蕾を優しく分け、その頂点に触れるか触れぬがごとく、左右にゆっくりと振るわせる。(中略)その突くっ伏した形で、男はさに一段と唇と舌を駆使して奉仕を続け、再び女が堪えきれず、はっきり口で哀願し、せがむのを見届けたところで、男は満を持したように入っていく》《温かく、優しい秘所である。その内側に潜む無数の襞が、ぴったりと菊治のものをとらえて、つつみこむ》
初めの濡れ場では、菊治が冬香に「脱いで…」と促してかせ結ばれるまでに一週間、さらり果てるまで何と九日。年末を過ぎて二回目の情事が描かれた年始に至るまで、日経新聞はひたすらエロエロ状態になってしまったこれは猥褻ですよ。
「この小説は猥褻だ」と当然、購読者から抗議が殺到する。しかし、日経新聞は少しも歯牙にかけない。日経新聞東京本社の社長室は「連載の開始以来、数多くの感想、意見が寄せられています。内容に対する賛否はありますが、こうした読者の声は現代の愛の形に対する関心の高さを示していると考えています」とコメントするのみである。
夕刊フジが《主人公男女年齢といい、女性のタイプといい、ダブル不倫といい、基本的なぶて対設定は『失楽園』に酷似。違いと言えば『失楽園』の凜子には子供がいなかったが、冬香は三人の子持ち―という程度。渡辺淳一氏はひょっとして、読者の好みを意識したのか》とその設定の低いレベルを指摘しても《連載小説を依頼する場合、作家のアイディアを生かす形にすることを基本にしています》とかわす。【お宅にはだけは言われたくない、という尤もな返事である】
4月25日まで

06愛欲小説を挿絵で煽る

絵入り小説は17世紀にはその性描写さを売り物にしてきた。
渡辺少年の自慰に明け暮れている頃、本の良い悪いは三割方挿絵できまったであろう。
(愛の流刑地)の小松久子画伯がどの程度の画家であるか、私は詳しくは知らないが、一流好みの作家と依頼者であるから、高名な画伯であろう。
渡辺先輩の挿絵を担当することは、そのまま画伯の人生経験の豊かさを消費者は吟味することである。
同一日における「二回目のエクスタシー」(渡辺先輩はよく経験しているらしいが、消費者には、なんのことか良く理解できないか…)の場面《突然、鞭(無知の間違いか?)を打たれた馬のように、再び冬香は走り出し…(中略)

「ひひん」と嘶き、駆け出した牝馬は、いかな雄といえども抑えきれない。牝の走りに雄が煽られ、煽られた雄に牝がひたと吸いつき、そのまま二人は地響きをたてながら、快楽の先の死の谷めがけて突きすすむ》
小松久子画伯は二頭の馬が左の方に走る絵を描いている。牝馬と雄馬(受験にでれば牡馬と書かなければバツであろうが…)が走る…これには深い意味があるのか? 彼女自身の深層心理に去来するものは…
秘密口を執拗にイトオシム場面では、バラの絵が描かれている。秘密口とバラはどんな関係があるのか?
《(愛の流刑地・冬香花火24)に彼の好みの女性姿が描かれている。
「もう何度、抱き合ってきたことか、回数なぞ数えきれないが、夏の浴衣を脱がせるのは初めてである。(中略)蝶々結びというか、その結びめに手をさし込み、左右へ引くと、帯は呆気なく解けてしまう。白いふくらみ、柔らかくて、すべすべした肌である。やはり、愛する男と狂おしく燃えて満たされると、肌も艶めくのか。細い首も、柔らかなふくらみのある胸元も、かすかにへこんだ下腹も、その先の恥骨の窪みも、すべて淫らで美しい。(中略)そしていま冬香は、奪われる寸前の美しき生贄である。》
こうした文と小松久子画伯の挿絵が突然突き付けられるのである。
「私は画家に過ぎませんから」かな…【あてこすられてせがれはなみだぐみ】
(想う人の面影を頭に描きながらこするのを、あてこすりという)
【かなしさは昔は帯へはさんだり】
【人間万事さまざまの馬鹿をする】
自分自身の自慰行為を公衆の面前に曝け出し、しかも報酬を受け取る世の中となった。
 最新作の「欲情の作法」で《性的欲望は種保存と繁栄のために欠かすことのできない、基本的な欲望である。しかし、現実に、この欲望をあからさまに露出し、表現することは厳しく批判され、罰せられることも少なくありません。たとえ、基本的な欲望だからといって、時と場所と状況を無視して表現することは許されません》と自身の行動と正反対のことを述べていることは面白い。当局に呼ばれて転向したのであろうか。
第2章 猥褻小説の被害
「やれ!」と遺伝子に命令された瞬間つまり「抵抗できなくなる瞬間」が「犯行可能な状況」と重なった「意志の少しだけ弱いヒト」は不幸である。
性犯罪の原点である
何時の世のマスコミも「バレてしまった、ことの羅列」に過ぎない。

性文学をどう読むか(クロンハウゼン中田耕治訳新潮社)
「まぎれまない」好色本は例外なく欲望充足のファンタジィを提出することを目的としている。
乗馬は性交と比較される
アメリカ合衆国最高裁判所
現代社会の標準を適用し、その作品全体から見て支配的なテーマが普通人の好色的趣味に訴えるか否かによって決まる。
次のような場合ワイセツと判断される。すなわち全体から見て好色的関心に訴えることが主眼となっているばあい―たとえば裸体、性、排泄に破廉恥な、あるいは病的な関心を示すこと―で、その描写や表現が写実性において在来の限度を超える場合
あらゆる人が、一方においては性衝動、性的興味、他方においてはそれを抑圧する普遍的な社会の圧力との二つの相反する力に支配されている。この結果、われわれの性的な面に対して、ある羞恥感、当惑感、罪悪感が生じる。こういう感覚をさらに一層掻き立てる―ある作家の言葉を借りれば痛い所をこすりつける―ことによって生計をたてようとする人びとを、われわれは度を越したと呼ぶ。
ドイツのゲーテは「ああ、私の胸のなかで二つの魂が競い合っている」といった
 読者に色情を起こさせる心理的刺激として仕組まれた著作は、読者の関心をつぎからつぎへと色情的な場面でつなぎとめなければならない。不必要な、非催淫的な風景描写、性格描写、長ったらしい哲学的な解説などで読者を飽きさせてはならない。(中略)二義的な問題や逸脱で読者を混乱させてはならない。

「風流滑稽譚」「居酒屋」などの外国文学の傑作がロンドンでは猥褻と断定され焼かれた。

猥褻も当局が摘発した場合のみ新聞に載る。わたしは、渡辺淳一氏のそれは猥褻で、日経は共犯者であると信じている。双方とも確信犯である。

平成二十一年四月某日、朝日新聞も日経も一面と三面記事で「三十四歳の人気タレントが深夜三時公園で全裸になっていたところを逮捕された」として、詳細な記事としている。

日経には、この程度のことで大騒ぎする権利があるか。
この記事を載せる権利があるか。

全裸で公園にいた行為で公然わいせつ罪で逮捕された大きさと「渡辺淳一氏のエロ通俗作品」を一年間にわたって、朝刊に連載し続けた公然わいせつ性と比較すべきである。
面白おかしく書く権利があるか。  猥褻問題については古来より、イタチゴッコが続いている。
荷風も当局にマークされた人物であるが、毅然としていた。
《この詩章を読みて卑猥なりとなすものあらば、そはこの詩章の深意を解すること能はざるものなり》と言い放ったことを真似て、渡辺氏は「私のそれは文学であり、影響される方がおかしい」と言うであろう。が、読む者に影響を期待しない作家がいるはずがない。
最近、渡辺氏週刊誌などで医学博士の肩書 (四十年以上昔に動物実験でとったもの) で、乳がんをはじめとする病気の説明」をしている。作家はこの記事が読者の早期発見に繋がることを期待しているわけである。「良い影響」は自分の手柄で、「悪影響」は読む者の責任だ、はありえない。 
我が先輩は一度も、自分の作品が公然猥褻陳列罪になるとは考えていない。
少なくとも、日経を見ていたが、渡辺淳一氏が猥褻物陳列罪で拘留されたという記事はなかった。その裏で、ある写真家は当局に呼ばれていた。この違いはなにか。多分、日経新聞という大新聞しかも日本経済に大影響を与える新聞とのペアだからである。日経新聞は公器である我が新聞は発禁にはなるはずがないことを知っていたのだ。
しかも、この頃より猥褻物陳列に関する当局の取り締まりが緩くなり、国民は猥褻物を突き付けられること常態化し始めていた。マスコミは猥褻を売り物とするようになっていたのである。

荷風の場合、当局に呼ばれては《警視庁にては『この小説は先生のお作ですなこの辺は少しどうも一般の読者には烈しすぎるようです。この次からは筆加減』》といわれ続け、複数回発禁を経験した。彼自身は《猥褻なる文学絵画の世を害する事元より論なし。書生猥褻なる小説を手にすれば学問をそっちのけにして下女の尻を追ふべく、親爺猥褻なる画を見れば養女に手を出すべし。懼れざるべけんや》と猥褻に対して大変厳しい態度を取り続けていた。
そして猥褻について《猥褻なる文学とは『人をして淫欲を興さしむもの』をいふなり。人とは如何なる人を指せるや。社会一般を指すなり。十人が十人の事をいふなり。
然らばここに一冊子あり。これを読みて十中五人はあぢな気を興し五人は一向に平気ならば如何とす。十中の五人をして気を悪くせしむるものはこれ明らかに猥褻のものなり。然らば十中一人独り春情を催したりとせば如何。これ猥褻の嫌ひあるものなり。猥褻の嫌ひあるもの果たしてまったく猥褻なるや否や。凡そ徳を尚ぶものは悪の大小を問わざる成。凡て不善に近きものを遠ざく。何ぞ猥褻の真偽を究むるの要あらんや》と。
そして猥褻なものが国民を下劣にさせると述べる。《文学美術にして猥褻の嫌ひあるもの甚だ多し。恋愛小説を描ける小説、婦女の裸体を描ける絵画の類、悉くこれを排くべきか。悉くこれを排けて可なり。
善を喜ぶのあまり時に悪を憎むこと甚だしきに過ぐると、その弊いづれか大なるや。猥褻に近きものを排くるは人をして危きに近よらしめざるなり。
 淫事の恐るべきは武骨一片の野暮淫の淫たるが故に非らざる成と。それ果たしていづれか是なる》
残念ながら、先輩のこの作品が猥褻文学であることは明瞭である。
彼自身が述べていのが、何の助け(おかずと言うと聞く)もなく自慰できた高校二年生の段階から次の段階に進むのは、「夫婦生活」などのエロ本を入手してからと書いている。
大きくなって彼自身が、そうした種類の本を書いてしまったのだ。
彼が、いくら自作がエロ本やポルノではないと主張しても、この本に引用した部分は明らかに猥褻文である。

新新・先輩渡辺淳一氏の解剖その14

2009-12-08 21:12:43 | Weblog


03編集者の介入

最後に辿り着くのは「通俗小説」である。週刊新潮の斎藤編集長が述べている。「結局、女・金・事件」の通俗小説である。

出版社の指示に従って、内容を書く作家の懐には金や売名が転がり込む。
文芸批評は作家についてであるが、実は出版社と作家という双方についての批評となる。つまり、消費者側に立とうとすれば「死に物狂いの業界」-とてつもない組織を相手にすることになる。
 
こうした時代になると、出版社は作家独りの才能を問題にしなくなっていく。小説を書いて名声と金を得たいという人々は無数にいる。
出版社のお眼鏡に適う人を探すだけでなく、出された作品に編集者が公然と手を入れてきたのだ。
第3章出版社と渡辺氏の関係場合
渡辺淳一氏は昭和40年「死化粧」で新潮同人雑誌賞した。
特に昭和44年頃よりは、いわゆる医学界の裏事件を暴きだす作家として、出版社が群がりはじめる。

山崎豊子氏の「白い虚塔」の大成功にわが社も続け」である。
医学部を放逐された者にしかかけないものが望まれた。
彼も十分に答える。「ダブル・ハート」「脳死人間」「医学部教授選挙」「小説心臓移植」「二つの性」「血痕追跡」「ある心中の失敗」「恐怖はゆるやかに」「傷ついた屍体」「乳房切断」「光と影」「空白の実験室」「宣告」「腕の傷」「薔薇連想」「母胎流転」「少女の死ぬ時」「無影燈」「乳房の遍歴」「処女自閉」「白き手の報復」「解剖学的女性論」「母胎悲傷」「白き狩人」「背をみせた女」などである。

昭和44~47年までのわずか三年間に81作品を発表している。一本が安くても、これだけ書けば、文豪・富豪の二冠を手に入れたのも当然のことである。
水上氏や渡辺氏が「編集者の介入」について述べている。

《渡辺氏:僕が「死化粧」で新潮の同人水上氏との対談で渡辺氏は「このころより発表前の作品を添削してもらい始めた」》と述べはじめた。
《雑誌賞をもらって、作品を見てもらうようになってから、ご存じだと思いますが新潮社の菅原さんや小島さんなどという編集者がいまして、随分文章に赤チェックをいれられて。それからこの山の上ホテルがなんとなく苦手なのは、そのころ「文芸」に何本か小説書いて、このホテルに缶詰にされたんですが、坂本一亀さんに「あきまへん」と何度もいわれて、なかなか解放してもらえなかった。そんないささかしんどい思い出があるものですから。水上氏:僕も真っ赤だった。渡辺氏:例えば少し簡単すぎるけど「雨がしとしと降っていた」この「しとしと」なんか頭からバッテンで。要するに自分の言葉になっていないものは全部赤チェックで、自分の言葉が出るまで考えろって、削られて削られて、それをやっていくうちに文章がどんどんなくなっていく(笑)水上氏:私も「霧と影」のときは、四回書き直しました。八百枚の原稿用紙を四回書き直すんだから、三千二百枚。清書だけでも大変でした。「である」というのが余計だと言われましたね。「したのである」なんていうところは、いい気になっているとして切られるわけですよ。それは温かかったですね。一亀さんは》

このように対談というのは怖い。
相手の言葉につられて、隠していたものが、ポロッと出てしまう。
後に名文といわれる作品が編集者との共同作品であったことが述べられている。
結果的に名作であれば、勿論良いことである。

 ただし、さらに編集者が内容にも介入してきた。

 新聞雑誌がセックス描写を望み、それを筆者登用の条件とする段階になったことは何ページにある。

『失楽園』という題自体がそうである。

リンゴを食べて、泣きながら楽園を追われる絵を見て「これだ!」と思ったのであろう。悲しいかな、学問の無きことを
フィールディングは「トム・ジョーンズ」の中で述べている。「学問の無いことは親の責任でもある」と。

共同制作者である出版社の諸氏はどうしたのか?
彼らの中に一人くらい、知識あるものがいても良いのに。でも、業界の人は大声を出すかもしれない。

「なんで悪いのだ、エロ本に著作権なんかありゃしないんだ。題が、同じだって、何だと!」と。

先生(この世界、先生と言っていれば、間違いない)が強く関与し、巨額の原稿料を払う日経新聞が了承した経済紙連載小説の題であることに大変驚いた。何故、出版社、ペンクラブは抗議しないのかと一人憤慨した。

ミルトンと渡辺氏は天と地のように隔たった地位にあるが、家族関係に悩むという共通点があった。偉大な作家にとっては、その小さな共通点は途方もなく巨大に映り、自分とミルトンは兄弟以上の親しみを感じたのであろう。そして、遂には「肉体関係を結んだ看護師または人妻など」と同一関係と結論し、「作品の題名盗用などは小さい事と許される」と解釈したのであろうか?

ミルトンは配偶者関係において不幸な環境にあったといわれている。

特に失明が加わったミルトンの晩年は更に不幸が倍増した。渡辺氏も様々なところで「家庭内幸福は文学活動の敵である」と公言している。作品で「様々な理由で離婚できないが、実質的な家庭崩壊」を示唆している。

医学博士である前途有望な現役講師(異例の講師就任も、近くにいた私から見れば『変わり者で、自らを詩人と呼ばれることを最大の喜びとしていた整形外科河邨教授の特殊な引立て』も大きく作用していたと見えた)も「妻子を捨てて、愛人を連れ東京に逃げた」行動でそのこと実践した。

この辺のことは時間の経過に伴い美化されていく。
「大学は心臓移植を内部告発したので解雇した」「文学活動に専念するために背水
の陣でを引いた」「妻子を残して和子と上京」「愛人和子は『来てくれるか、と聞いたら、イエスと言っただけだ』」「妻子のことは文学者の私には無関係だ」など、「捨てた・捨てられた」など、事件の真相は歴史上でも常に不明である
この世が「四・五流の世である」ことを証明する「各人の弁明が異なる」
つまり混乱させ、長引かせれば勝ち、である。

 ともあれ、公器である経済新聞は朝刊に人妻官能小説『失楽園』を、連載を始めた。4百万の家庭に猥褻小説を陳列し始めた。

明らかに、文学の立場からすれば、題の盗用と非難されるべきと見えるが、これがまかり通る世になったのであろうか。
それとも、新聞社はわざわざ顰蹙を買おうとしたのか、あるいは知識人たちの無知

さことを嘲るための罠を仕掛けたのであろうか。
しかし、文壇は静まり返って、誰も抗議しない。ライバルのぎりぎりを超えた性描写の部分だけを読むからか?
「いや、出版社、皆に教養知識がないに過ぎない」と断言する人もいる。

リンゴを食べて、泣きながら楽園を追われる絵を見て「これだ!」と思ったのであろう。
真実であれば、偉大な作家自身がその重鎮として君臨する文壇業界の悲劇である。

この業界の学問水準が低下していることは周知のことにしても、やはりフィールディングは述べている。「学問の無いことは親の責任でもある」と。
共同制作者である出版社の諸氏はどうしたのか?彼らの中に一人くらい、知識人がいても良いはずであろうに。
【学問とはしごは飛んでのぼられず】
22文芸業者の教養の低下

教養の低下というのは、人格への影響である。人格を高め強めることがないのなら、何にもならない。教養は人生に役立つべきのものである。その目的は美ではなく善である。誰もが知るように、教養はしばしば自惚れを生じさせる。(モーム)
 最近、新聞広告で「白髪の老紳士」が書のタイトルの横に載せられていた。ちょっと元気なく見えたのは、七十五歳にもなって、白衣を着てお医者さの芝居衣装姿であろう。白いチャンチャンコである。

混乱して、最後には、「性小説業界には版権・盗作などという単語はないんだ」という人もでるしまつである。

渡辺作品のもう一つの特徴は「文句」に出典が示されていないことだ。一般的に言
って、純粋に出来事だけの描写で我慢する小説と比べて、力量の不足を説明文で補おうとする小説においては、人間の行動の分析を、「誰々さんが看破したように」などと、先人の知識・考えなどを借用するのが不偏である。

不思議に思うのは、渡辺氏の小説には、有名無名は別にして、先人の名前がでない。
失楽園という題名をはじめ、すべて自分が考え出した如くに書かれている。
真実、すべてが斬新で渡辺氏が最初に発明したものであれば、すばらしいのである

が、人類の存在も五千年間を越えているので、現代人が新しい事をつけ加える事はまずない。

渡辺氏自身は、どこかでメモした先人の知識を、いつの間にか、自分が発明したように思い込んだのであろう

本能としての性欲をターゲットにした金儲けはローマ時代で、ほぼ出つくしてい
る。性愛の方法から売春、不倫まで、その体系を整えて、今日に至っている。特に受胎を目的としない性行為は既にローマ時代で極めつくされている。
クロマニオン人の時代からローマ時代にいたるまでに「高慢、強欲(特に人のもの
を欲しがる)、淫乱、怒り、貪欲、ねたみ、怠慢」あるいは「怒り、高慢、不貞、虚栄、貪欲、ねたみ、強欲」という七つの大罪が人間世界に浸透している。古代ギリシャやローマになって、それらの組み合わせは完成の域に達し、犯罪・愚行・倒錯などのためにその時代は世界中で笑いものにされている。例えば「ティベリウス帝は種々様々な趣向をこらしたいくつかの寝室を、このうえなくみだらな絵画や浅浮彫りで飾り、またフェラエニスの作品を備え付けたから、誰でも行為のさい、必要な態位のモデルに困ることはなかった」と。

もう既に、ローマの姿は「一流、二流には程遠い三・五流」の世の中といえよう。
一流は皆無、二流、三流はほめ言葉である。
この世は四・五流の世と考えれば、戦争から騙し合いに至るこの世の出来事が納得できる。






第4部 性愛小説研究開始
はじめに
決して渡辺淳一氏のことを指すわけではないが、一般的に言って、女性を食い散らしてきた物書きであれば、戦果を誇りたい,と思うであろう。しかし、自分に不利なことは書くことはない。
「あれほど貞淑で高貴な女性が私の性の技術研究によって、示す、あの狂乱はなんだ」とか性行為における驚きと感動を「私は発見した」と書きとめ作品として売り、露出癖だけでなく、金銭も手にする。
しかも、作家は高齢者になり、筆に艶がなくなってくる。しかし、生活費用や予定納税の心配があり、編集者に捨てられないように、何でも注文に応じるようになる。
私も、題材も書き方も、相談づくである。ともあれ「ハイ、ハイ」と。
ただし、書くものが国民に良いものであるかを老人ならば、よく考慮しなければならない。
第1章性愛小説とは
 性的刺激を目的としたものはどんなに 華麗な文章でも、物語とか会話とか描写などが性愛行動(性器の駆け引き)を主題とすればエロ小説である。
小説家が、自身の性器活動報告で金を稼いでも、作家はとくに恥じることはない。作家本人の性癖であるから。
 「人間とはそうしたものだから」とモームは言う。《嫉妬心とか悪意とか利己心とか卑劣さとか、人間性の邪悪な面を―事実、人間の善良な性質よりも下劣な性質をもっぱら暴露する結果になるのだが、自分自身の中に憎むべき性質をいかに多く持ち合わせているか、完全な馬鹿者でもない限り、人間誰しも十分によく心得ているからである》と。
【半分は床に分けたり七十年】
なかにし氏《谷崎潤一郎の小説は素晴らしいけど、彼の中ではそれは気持ちいいからやっていていただけで方法論や哲学としては持っていたわけではなかったんですね。六歳ぐらいのときに女の子と遊んでオシッコを飲まされて、それが何となく気持ちよかったなんて書いているけど、そういう性癖が文学まてに高まったものなんですよ》と渡辺氏を前にして、「性癖」という単語を出す。
スタンダールは「赤と黒」の主人公ジュリアンに「驚くほどの記憶をはじめ、勇気、臆病、野心、鋭い感受性、計算ずくの頭脳、邪心深さ、虚栄心、怒りやすい性質、破廉恥、忘恩など、すべてスタンダール自身が持っている性格を与えた。
しかも渡辺先輩に、見られる独特で 天性で 若い頃から 少しもゆるがない本質(決して、成長がないとは言えない)は「わが身で、世間を推し量る」本質である
《作家たるもの、自分が書いたものが自分以外の者にとっても価値があるかどうか、時には自問すべきである。モーム》
01猥褻小説とは
*猥褻なる文学絵画の世を害する事元より論なし。書生猥褻なる小説を手にすれば学問をそっちのけにして下女の尻を追ふべく、親爺猥褻なる画を見れば養女に手を出すべし。懼れざるべけんや。
猥褻なる文学とは『人をして淫欲を興さしむもの』をいふなり。人とは如何なる人を指せるや。社会一般を指すなり。十人が十人の事をいふなり。
然らばここに一冊子あり。これを読みて十中五人はあぢな気を興し五人は一向に平気ならば如何とす。十中の五人をして気を悪くせしむるものはこれ明らかに猥褻のものなり。然らば十中一人独り春情を催したりとせば如何。これ猥褻の嫌ひあるものなり。猥褻の嫌ひあるもの果たしてまったく猥褻なるや否や。凡そ徳を尚ぶものは悪の大小を問わざる成。凡て不善に近きものを遠ざく。何ぞ猥褻の真偽を究むるの要あらんや。
 文学美術にして猥褻の嫌ひあるもの甚だ多し。恋愛小説を描ける小説、婦女の裸体を描ける絵画の類、悉くこれを排くべきか。悉くこれを排けて可なり。
善を喜ぶのあまり時に悪を憎むこと甚だしきに過ぐると、その弊いづれか大なるや。猥褻に近きものを排くるは人をして危きに近よらしめざるなり。
 淫事の恐るべきは武骨一片の野暮淫の淫たるが故に非らざる成と。それ果たしていづれか是なる。
02荷風の性愛描写
通俗作家としての永井荷風の性愛描写は新潮社の日本文学全集に納められている12作品(24字19行2段で605ページ)に一箇所だけである。(腕くらべ)
わが先輩との少しだけの、違いを検証するために引用する。
《菊千代の特徴と価値とを挙げ始めたら第一はその肌の白さである。日本の女で此位肌の白いのみか全身薄薔薇色の何とも云へないよい血色したものは滅多にない。第二はその肉付である。俗に云う餅肌の堅肥りその軟きに過ぎず又堅きに過ぎぬ丁度頃合なしまりのいい肉付にはおのずから美妙極る弾力があって抱き〆る男の身體にすべすべとしながらぴったりと隙間なく吸ひ付く。菊千代の肉付は咽喉や横腹、肩先のやうな骨ある處までくり々々と見事に肥って居るが、然し一體が小柄でちよこまかと目まぐるしい程すこしもぢつとしていない性なので、かの大柄なでつぷりとした女に見るような重苦しい處は少しもない。膝の上にも軽々と載せられるし、腕の中にもふはりと抱きすくめ得られる。膝の上に載せるとはち切れるやうな乳房は男の胸の上に吸付きながらうごめき、ゴム鞠のやうな尻の圓みは男の太腿の上にくびれてはまり込み、絹のやうなその軟い内腿は羽布団の如く男の腰骨から脾腹にまつはる。横ざまに抱きかかえると其の小柄な身全體はわけなく男の両腕の間にくりくりと圓まってしまひながら、その肌の滑りかさいくら抱き〆て見ても抱き〆るそばからすぐ滑降りぬけて行きさうな心持。腕ばかりでは抱き〆めかねて男は身を海老折に両腿を曲げて支へれば、云ひがたい菊千代の肌身はとろとろと飴のやうに男の下腹から股の間に溶け入って腰から背の方まで流れかかるやうな心持。つまり菊千代は抱きすくめられながら絶えず楽にその小柄な身を彼方此方と動かす。その度々に男は全でちがった女と寝たやうな新しい心持になってさらに新しい誘惑を感ずるのである》
まさに、この文章は猥褻ではない。
《吉岡は花柳通を以て自称するだけ数多の藝者を知っていたが菊千代のやうな女には一度も出会わなかった。
(中略)菊千代が他の一般の芸者と違っている最後の特徴を挙げるとその談話である。その寝物語である。その口説である。菊千代は別に遊芸のはなしもしない。役者の評判もしない。朋輩の陰口もきかない。抱主の噂もしない。出先の茶屋の不平も云はない。饒舌ることは皆自分の身の上の事ばかりである。それもまとまった話は一ツもない。男に弄ばれた話ばかりである。何某子爵のお屋敷に御奉公して居た時から芸者になって今日までいろいろのお客からいろいろな弄ばれ方をしたといふ其話ばかりである。時には他の藝者の咄を交ゆるにしてもそれは矢張お客との情交というより閨中の消息である。旅行の話も温泉の話も芝居の話も活動写真の話も日比谷公園の話も菊千代の口から語られる話の中心はいつも情事此の一事に止まる》
03一流外国文学
ヒロインの描写は読者をひきつけるための重要な因子である。スタイルについて、シュトラッツ教授の観察によるとイギリスの女は手足が真っ直ぐで、肩が広く、胸郭がよく隆起しており、乳房は小さくて、よい位置についている。手足や胴は細く見えるが、女らしい張りと丸みをもっている。そして、ドイツの女はブロンドの髪、青い眼、白い肌と赤い唇、高い身長、広い肩、膨らんだ胸、丸みのある腰、関節が細くて長い、細い脚を持っていて、ジャワの麗人はすらりとした胴、よい腰線をもった真っ直ぐな脚、高いところについている乳房、手や足は非の打ち所のない格好をしている。最大の美点はここでは、艶の無い、柔らかな肌と、すらりとしていて優美な手足であるそうだ。
 しかし、作品に登場させるためには分類ではなく生き生きとしていなくてはならない。
《真の色艶、堅固なる瑞々しき身体
その姿体は調和のとれた豊満さをそなえていた。その身体は高慢な嬾さ(ものうさ)に浸っていた。静安の天性が彼女を包んでいた。北方人の魂がけっしてよく知り得ないような、日の照り渡った静寂と揺るぎない観照とをむさぼる性質をそなえており、平和な生活を官能的に享楽する性質を備えていた。
彼女の晴れやかな微笑のうちには、新たないろいろなものが読みとられた。
ある憂鬱な寛大さ、多少の倦怠、一抹の皮肉、穏和な良識など。
彼女は年齢のためにある冷静さを得ていて、心情の幻にとらわれることがなく、夢中になることがあまりなかった。 
そして彼女の愛情はクリストフが抑えかねている情熱の激発にたいして、洞察的な微笑を浮かべながらみずから警めていた。それでもなお彼女は、弱々しい点もあり、日々の風向きに身を任せることもあり、一種の嬌態を見せることもあった。彼女はその嬌態をみずからあざけってはいたが、強いて捨て去ろうとはしなかった。事物にたいしてもまた自己にたいしても少しも逆らわなかった。
きわめて温良でやや疲れた性質の中に、ごく穏やかな宿命観をもっていた。(ジャン・クリストフ・ロマンローラン》
04我が国の現代文学
山田かな子
以下の山田女史の引用は渡辺氏に似ているが素人の妄想も編集のプロにかかると文学になるという例である。
《(せんせい・山田かな子飛鳥新社)午前7時15分。ホテル○○のベージュ色の褪せた天井や壁に、朝日が窓ガラスに屈曲を作り、小さい虹のような光を発して、カーテンの隙間から射しているのが、わたしの体に舌を這わせる先生の体越しに、見えていたのでございます。愛はお金に換算できないものでございます。
愛する人から、セックスの報酬のようにお金を受け取るのは不本意なことに思われました。そうした思いもございましたので、この二十万を使って、また上京して先生にお逢い、真心からお尽くししょうと心に決めたのでございます。
宿舎に戻られた先生はすぐにお電話をくださいました。
「すごく良かったよ」その誉めて下ったお言葉が、とても、嬉しく感じられたのでございます》
【目と耳はただだが口は高くつき】
今度は渡辺氏のものである。前者とほとんど遜色がない。
《鐘が聞こえる京の宿で、絹の白無地でつくった長襦袢を着せて抱きたいといったことがある。抄子はそれを覚えていて持ってきたようである。
男と女が結ばれるとき、赤やピンクの色が刺激的だといわれている。実際、遊女は赤の襦袢や湯文字を身につけて、男の気をそそったようである。
外国でも赤やピンクのランジェリーが好まれ、ときに娼婦は黒の下着も身につける。(中略)たしかに赤は煽情的で黒は非日常の感覚もかきたてるし、そのあたりのことは安芸にもわかる》
《同じ宝石でも、つつむものによって内容が変わってくる。路傍におけばただの石塊としか見えないものも、美しい包装をほどこせば原石とは比較にならぬ価値をもってくる》
 渡辺淳一氏の最高作品が何か不明だが、一、二作で終わっていたらボロは出なかったであろう。山田氏もこれだけで終わってしまつた。
村山さん
夫との性生活が書かれ、「売夫とか不倫で知った快楽」が忙しくなって、夫がうとましくなり、別記を経て捨て、性跳、成長していく女性が自伝風に書かれている。
【ふとしまりなまたぐらを母あんじ】
 渡辺淳一氏が「自分のいちばんいやらしいところを曝せ」と忠告して書いたものである。
渡辺氏は「それでいいのだ」と、なんと自分が選考委員をしている三賞をやってしまった。
手切れ金と陰口を叩く者もいる。
その根拠は68ページの村山氏の描写を読んで呆れ果てた評論にしめす。
 図書館も購入するのであろうか。
渡辺淳一氏が「間男の立場から」文学を作ったとすれば、村山氏は間女から見た体験暴露文学である。
 こうした同好の作家と出版社そして「文を添削してくれるプロ」が対談や酒の入った場で、オフレコの猥談をすれば、文学なんて無制限に可能である。
これに、広告を扱う新聞業界があれば、振り込めサギなど簡単である。

新新・先輩渡辺淳一氏の解剖目次

2009-12-08 12:41:22 | Weblog
心の美学 番外珍品

先輩・渡辺淳一氏の解剖
そして出版社の失楽園
目次

はじめに
新聞の終焉
本書の目的
第1部 渡辺文学解剖への道
01解剖計画の切っ掛け
02ロンドンでの夢
03解剖決意する
05渡辺淳一氏の作品は猥褻か否か
06解剖開始
07時間との戦い
08閉店間際の商店の裏悲しさ
09評論の困難さ
10購買者による解剖・批評の権利の正当性
11批評されて逆上するか否か
第2章 心臓移植と我々
01北の町での心臓移植
02週刊新潮が渡辺氏に接近
03話は思わぬ方向に
04情を通じて情報を
05渡辺文学の原型か
06小説構成腰砕け
第3章渡辺淳一氏の『失楽園』序幕
01週刊新潮を罵る
02札幌を離れる
04「新人賞」狙い
05暗い心では暗い作品
06マスコミの接近
07小説家への道
08文学賞の落とし穴
09渡辺淳一氏と大手出版社
10黒い報告書の内幕
第4章 高齢者の性愛小説
01高齢作家の性愛小説
02この執念の原動力
03新聞社と作家との事前話合い
04連載に先立ち
第2部渡辺文学の原点への旅
第1章渡辺淳一氏誕生
01《人生は所詮あわれな役者
第2章少年期
第3章劣悪医学生
01献体凌辱
第4章整形外科医
01医学博士へ
02講師になる
03大学病院の乱脈
04主人公(29歳)の女あさり
05同級生たちの精神的レベルの低さ
06若い渡辺淳一氏の心の冷酷さ
07白き手の復讐 胎児殺人事件
第3部 医学部の暗部内部告発
第1章整形外科教室
01無能な新米医師を田舎派遣
02教授絶対の構造
03患者を嘘でごまかす
04 人体実験
05「麗しき白骨」にみる整形外科
第2章)犯罪と認定すべき部分
01章医療ミスの実例
02主人公自身の医療ミス
第3章 整形外科教室の犯罪
01 製薬会社との癒着と治験の偽装
第4章暗く劣悪な医療現場のゴミ箱話
第4部 現代の文芸批評
01暴露記事の典型例
もし付けてと
02文学賞の軽さ
なれあい談合
03直木賞選評
04出版社、古典文学、名作を捨てる
新聞社・出版社の『失楽園』
第1章渡辺氏を批評することは出版業界を論評するに同じ
01紙新聞の衰退
02渡辺氏と新聞業界
03《欲情の作法》にいっせいに群がる 
04広告幻冬舎
05小説の寿命
06やらせ広告
07ステネマーケティング
08これが時代が待った作品か
09渡辺氏に続く性愛作家
第2章新聞社出版社の危機
01産業界広告が消えた
02形振り構わぬ書籍広告
03編集者の介入
第3章出版社と渡辺氏の関係
22文芸業者の教養の低下
第4部 性愛小説研究開始
第1章性愛小説とは
01猥褻小説とは
02荷風の性愛描写
04我が国の現代文学
山田かな子
村山さん
05猥褻文学の悪影響
06愛欲小説を挿絵で煽る
第2章 猥褻小説の被害
01思いがけない被害者
02特定される性的関係の暴露
03最大の被害者
第3章 性愛知識
01性行動における快楽
01性行動における快楽
02歴史からの性行動
03キリスト教世界の結婚の問題
04フランス事情
05世紀末の性行動
06性交の快感
第4章 小説家の品格
01 きちんとした作家
07性行為の危険性
02クローニンの品格
03荷風の品格
第6部 渡辺作品主人公の性格
第1章作家の心が目指したもの
01今メスをとって
02昼の顔は穏やか
第2章 渡辺作品主人公の品格と弱点 
01主人公の欲情
02主人公の欲情の対象
03作家の好み
04無制限な女性関係
05欲情の対象の拡大
06対象の女性の名前の研究
07封印された女性たち
08対象の例外
09別れ方「捨てる」と「捨てられる」
雅子、先生を捨てる《(何処へ)
11捨てられる
第3章  偉大な作家の弱点
01主題の未消化
2内容や主題に酷似作品が
03情欲制御不能
04性行為を強いる
05内容の繰り返し
07 責任逃れ
08視点のずれと「あいまいさ」
09攻撃に弱い性質
10小説ではなくマリオネット
11男も渡辺氏、女も渡辺氏
12挫折感の落差
13暗黙のルールを読み取る能力の低さ
15こだわり・ヒロインの名前
14くどさ

06対象の女性の名前の研究 
16こだわり・自慰シャトウ・ルージュ
第4章 結局、 実態は 間男
01間男の嫉妬競争相手
02ここに家庭
第6部偉大な作家の「第二の『失楽園』」
第7部作家の性格に迫る分類
第1章総論
第2章各論
01医師医学博士若き講師に対する執着
02尊大で傲慢な態度を示し、他人の立場や気持ちを慮ることがない
03動物に対して残酷な身体的暴力を加えたことがある
04気分の高揚
05己の身の丈で世間を推し量る
06非行の繰り返し
終章
天に向かっての報告
《解剖結果
【参考川柳








     

新新・先輩渡辺淳一氏の解剖その13

2009-12-07 21:30:22 | Weblog
第5部 新聞社・出版社の『失楽園』
第1章渡辺氏を批評することは出版業界を論評するに同じ
渡辺作品や自費出版で大儲けしたのであろうか、その出版社の幹部は九億円の横領疑惑で逮捕された。
渡辺淳一氏の前に座ると何となく非難できない。
《お定さんに学ぶ・丸谷才一氏との対談でも、辛口の丸谷氏も「『失楽園』拝見しました。なかなかいい出来ばえですね。」「対談の席ですから、不満な点を言うのはやめて、もっぱら長所だけについて語ることにしますが(笑)」》などと、普段の姿からかけ離れた姿をみせる。
渡辺淳一氏はオールマスコミと提携することによって、発禁処分も免れ、巨万の財を成したかもしれないが、週刊新潮をはじめとする雑誌だけでなく、発行部数が年々低下しいく大手新聞軍団にも翻弄された一生ともいえる。
02渡辺氏と新聞業界
朝日新聞もオコボレにあずかった。
渡辺淳一氏の横三十八縦十七センチという巨大な広告を二回も取ったのである。書籍広告は新聞がその使命としている情報提供源に食い込んだのか。
いわく《時代が待っていた驚異のベストセラー「欲情の作法」》
04広告で幻冬舎は「女と男の原点をとらえた。発売一週間でたちまち23万部!時代が待っていた驚異のベストセラー!」とあった。紙面に責任を持つべし朝日新聞!である。
ただし、その後一カ月間では四万部しか売れなかった。国民も馬鹿ではないのだ。 
ただし、この出版社は幹部が九億円のネコババ容疑で逮捕されると言う事件で一躍有名となる。本をひとつ当てれば大儲けか。
つまり、儲けたのは広告とネコババ記事を載せた朝日をはじめとする大手新聞だけに終わりそうである。
それにしても、有名人の絶賛はどうだ。
キャスターと肩書きされた安藤優子氏は「欲情の作法は心穏やかに、幸せに満たされるためのバイブルのようなもの。もう少し早く書いて欲しかった」と絶賛し、作家とされる村山由佳氏「なんと罪作りな本を書いてくれたことだろう。男に対抗しようと思えば、女もこの本を読むしかないではないか」俳優の児玉清氏は「渡辺さんならではの洒脱説法はおかしくて楽しくてその上めっちゃ勇気を与えてくれる。錆びた血がまた騒ぎだした」と。しかし、児玉氏の罪は重い。なぜなら、彼はNHKの読書番組の司会者であるからだ。公平を欠くコメントを冗談、洒落です、と済ますことはできない。 彼らは本当にこの本を読んだのだろうか。国民にぜひ読むように本当に推薦したのか。これらの「ごますりの言葉」も無責任であるが、この題も、なんだ!
しかし、天下の朝日新聞の記事でありしかも《二週間で23万部も売れた》とすれば、これは世論であり、支持率である。
私も彼らの絶賛で「渡辺淳一著欲情の作法」そして「村山由佳著ダブルファンタジー」を購入し、読んで騙されたことに気付き激怒した。
新聞社が「振り込めサギ」の片棒を担いだといえる。役割とすれば、携帯電話か。




06やらせ広告
朝日新聞は「サクラ操りやらせ広告」という記事を載せた。(2009.5.1)自身の新聞広告について無視である。
《芸能人のブログで商品を取り上げてもらうサービスを仲介する会社もある。
タレントやモデルら約100人が登録し、企業の注文に応じて「この○○お気に入りです」などと書いてもらう。料金は芸能人の人気度に応じて一回300~90万円。この会社の幹部は「『芸能人御用達』という言葉に消費者は弱い」と語る。
「このリップグロスは潤いとツヤがはっきりでます。唇がべとつかないのも気に入っています」都内のオフィスビルの一室で、若い男がインターネットの商品比較サイトにこう書きこんだ。一般消費者を装って商品を褒める「クチコミ」を請け負う会社のオペレーターだ。三人のオペレーターが十以上の比較サイトに書き込んでいく。社長は「『良い所も悪い所もあるけれど、結果的に満足した』という感じに書くのがコツなんです」と話す。
 昨年末、マクドナルドの新商品発売に長い行列ができ、マスコミがとりあげた。実は大勢のアルバイトだった。それを知らない国民は社会現象のようにみえる。
07ステネマーケティング
広告と悟らせないこうした手法は「ステルス(見えない)マーケティング」と呼ばれる。明治学院大学の川上教授は「広告は企業から消費者に発信されるメッセージ。誠実でなければ意味がない」と指摘する。「真実を隠すという意味で、食品偽装と同じだ」。気づかないうちに忍び寄るステルス情報を、こう表現した》と。
さしずめ、出版業界においては作家(ライバルを褒めて買ったものが『金を捨てた』と怒ればプラスになるや評論家(まーこれが商売)がこれにあたるか。
08これが時代が待った作品か
欲情の作法に対する怒り《恋愛は、すべての人々が心に秘めている本能的な欲望です。(中略)この欲望があるから、人類はこれまで絶えることなく繁栄してきたのです。もし人々の中からこの欲望が薄れ、消滅したら、人類はたちまち滅亡してしまいます。》《恋愛は当然のことながら、男のほうから口説き、仕掛けるものです》《恋愛の最終目標は、心身ともに深まり、許し合うことです。愛の本質は互いを求め合う「欲情」そのものです》
この薄い作品を読み、解剖整理すると、渡辺淳一氏の本質が見えてくる。
 まず、浮かんでくる疑問は「誰に向けた文か?」である。
人類の繁栄の根源となった男と女の恋愛・性交の重要性を説いている。つまり「恋愛」の「指南書」である。
性交に踏み切れない男に向けた「どのように挿入に持ち込むか」という指南書である。
《多くの男は女性を前に想像します》と決めつける。《彼女の服を脱がし、ブラジャーを除いたら、胸のふくらみはどの程度で、その感触は…さらに下着を脱がして裸にしたら、どのように恥ずかしがり、股間のヘアや秘所はどんなだろうか。そして最後に運よく、自分のペニスを彼女の中に入れてもらえたら、どんなに素敵で心地いいだろうか》と。特異な妄想である。
《「口説く部屋にはソファがあったほうが便利だ」「白一色の下着が清楚で男たちが好むことは、大奥に住む女性たちすべてがわかっていて、それに従っていたのです。男が清楚を好むことは昔も今も変わらぬ永遠の嗜好です。それを認めるか否かはともかく、『男は清楚な女性を好む』という一点だけは忘れず、頭の片隅に入れておいて欲しいものです》と教訓を垂れる。しかし、誰に対しての教訓であろうか。話からすれば、人類の繁栄に欠かすことができない「性交」を始めようとする「童貞と処女」に話しているのであろうか。しかし、この組合せは現代においては皆無に近い。
高校生とか中学生の第一回目の試合に対する指南書に見せかけているに過ぎない。そうした童貞と処女のノウハウであれば「愛」だけでよく、わざわざ「欲情」などという単語は不自然である。
つまり、「欲情の作法」は恋愛感情で立ち往生している若者たちに肉体関係を指南するものではない。一読すればこの本には、「何一つ新しいこと」は載っていない。
この作品は「男はいかにしてこれという女を見つけ、ものにするか」に終始する。
《すべての男性の最終目的はあくまで好きな女性を抱き、セックスすることです。これに反して、女性はそれほどの性的欲望をもっていません。それよりまず優しく声をかけられたり、大切に守ってくれる、いわゆる精神的な愛のほうを求めます。でも、それでは妊娠し、子供を産むところまではすすみません。
ここで必要になるのが、男の異常なまでの女性への性的欲望である。これにより、女性は強引に性に目覚めさせられ、ひきずられ、さらにセックスを重ねるうちに悦びを覚え、自らも性に加担していきます》
《いずれにせよ、男と女の原点に立ち返って考えてみると、女性を見て興奮し、欲情するのは、決してわるいことではないのです。むろんだからといって、犯罪になるようなことは許されません》と「七十過ぎても性欲に翻弄される自身の姿」を曝しているに過ぎない。
男の欲情は「生殖を目的とした本能」としながら、女性には「生殖を目的とした本能」を認めていない。遠い過去に少しにしても医学に身を置いたものなら、女性のほうが、自分の子孫を残すための本 能は男より強いことは知るべきである。
第一、天下に性豪・不倫の渡辺とその名を轟かせている渡辺淳一氏は「既婚者しかも子供がいる七十五歳の後期高齢者」であり、「不倫と異常性愛と猥褻」を組合わせて、道徳倫理に挑戦している作家である。彼が生殖を目的とした性交の指南書を書こうとすること自体が重大な錯誤である。
《容易に許す・体を許す・抱かれる・挿入する側・挿入される側・「やりたい」の一言・ともかく、女性の秘所に挿入して結ばれたい・もう抱いたも同然だ・男のように、なんであれ、とにかく挿入して射精すればいい、というものとは根本的に違う・すぐ躰を求めるのは早すぎる・一般に、男は挿入して射精しないことには満足しない生きものですが、男なら正直にいって、彼女の躰が目的です。相手の女性と関係することが望みで、そのためにあらゆる努力をしているのです・はっきりいって恋は詐欺なのです
本心を隠して、清潔そうに、上品に振舞って彼女の中に入っていく。それが恋の手管というものです》こうした渡辺淳一氏の本質が全編を覆っている。それらは「暴力を否定しない性犯罪者たちのやり方・手口」といえる。
自らの性癖を高言したいために「精子や卵子」そして「欲情は人類繁栄の根源」などが登場する。不倫・間男には生殖は最悪であろうに。
09渡辺氏に続く性愛作家
 男が書くと実話官能小説になるが、女性が書くと文学となる。
特に、渡辺淳一氏教室の村山由佳、高樹のぶ子、藤○は彼の可愛い「欲情文学家」として順調に成長している。
が、朝日新聞は「かお」欄で取り上げ、村山由佳文学に群がり始めた。
「ダブルファンタジー」は「五人以上の男と、一年間続けた欲情の実況報告」である。これに夫を(世の常識に従って)加える。毎日、下着などの脱着をしなくてはならないし、その場所探しで、大変であろう。愛があれば、できるものかなあ。
のっけから《男の臀とは、どうしてこうも冷たいのだろう。(中略)触れたてのひらと一緒に胸の奥まですっと冷えかけたのをごまかすように、奈津は、両手で男の臀部をきつくつかんだ。
低く呻いて、男が口づけてくる。ざらりと侵入してきた舌から露骨に口臭消しのミントが香り、やる気の温度がまた二度下がる。「どおしたの?」と、男がささやく。「もしかして、まだちょっと緊張してる?」-あんたのリードが不味いから気が乗らないだけでしょうが。(中略)だめだ。この男とは、合わない。どうやら、はずれくじを引いてしまったようだった。思えば待ち合わせて歩きだした時からその予感はあったのだ。(中略)案の定、それをいいように解釈した男が「ね、気持ちいい?」濡れた音の間からささやいた。「ね、ナツさん、気持ちいい?」いいけど、いちいち訊かれたら気が散って没頭できない。
【馬鹿亭主ええかええかとやたら聞き】
仕方なく生返事すると、「ね、僕とさ、また逢ってくれる?」暗がりの中で奈津は、今度こそほんとうに眉を寄せた。なんだっていきなり、子供がおねだりするような舌足らずな口調になるのだ?気色悪い。いっそ、はっきり聞こえるように舌打ちしたい気分だった》
【正直にお七はへたと申上ゲ】という序章で始まるのが「実録愛欲実況小説」である。
 インターネットで男を買ったあと、初老の演出家志澤とのメ―ル交換がはじまり、延々と続く。
演出家志澤は奈津の猥談仲間の杏子の言葉を借りれば《だってあんた、考えてもみなさいよ。あれだけの男がほかに居る?(中略)あのひとの色好みは周知の事実だしさ。
おまけにどういうわけか、当の女たちまでがそれを許しちゃうってあたりが彼の彼たる所以じゃないかしらね。
【業平にさせぬは昔はぢのやう】
(中略)あれはね、女たらしなんてもんじゃない。天性のひとたらし》
68ページにはの自慰(オナニー)の実況が開始される。
【くじりあき千代蚊屋の句をふと案じ】【あれさもう牛の角文字ゆがみ文字】
最後に夫が手伝いする実況が続く。
【門口で医者と親子が待っている】
【あたらしいうち女房は沖の石】
この演出家とメールやり取りは、過激となり次第に猥褻になっていき、「したい?」「ええ、したいですよ」となる。106ページから、ついに彼とのべッドシーン。
【留守だからしなとはひょんな寝言なり】
夫との距離がどんどん離れていく。夫が離婚を言い出す。
 東京に仕事部屋を持つ。

鍵を夫に渡さない。
《「…やっぱりな」「え?」「どうせそんなこったろうと思ったよ。下心見え見えじゃん」「なあ、エッチなら俺がしてやるからさ、ほかに男作るのはやめようよ」》
【間男をさせまいとやつたらにさせる】
《「この際だからはっきり言っておく。私、もう二度と、あんたとするのはいや」「やめて。とにかく、あなたとはもう、絶対しない。絶対に」》
《「私に『鍵は渡さない』って言われて、男を作る気だっていうことには連想は働くくせに、どうして自分が何だってそこまで拒まれるのかってことには考えが回らないの?私が拒絶しているのは、鍵を渡すことじゃない。あなたそのものなんだよ?」》
【間男を切れろと亭主惚れている】
【町内で知らぬは亭主ばかりなり】
この夫婦を引き裂いた演出家は十年も前―奈津が応募したコンクールの選考委員のひとりだった。
後で聞かされたところによれば、奈津の作品がもう一作の同時受賞という形で選ばれたのは、彼による半ばゴリ押しに近い推薦のおかげだったらしい。その後も、気にかけてもらってはいたと思う。案外可愛がってくれているのではないかという一種の気配のわうなものをたまに会う彼からたしかに感じていた。
志澤との25ページに及ぶ強烈なセックス実況中継。
【誰にでもこうするものと思ひなんすなよ】開眼した奈津。

【傾城の間夫のへのこで蟹になり】
《志澤―司会者に名を呼ばれた志澤がうっそうと立ち上がる。とたんに脈拍がはねあがり、奈津は、心臓の音が隣に座る人に聞こえてしまうのではないかと思った。(中略)上品な光沢のある、黒に近い紺地の着流し姿。
【鶏の何か言いたい足づかい】  
本来なら見る人に静謐な印象さえ与えるもののはずが、志澤の上背や体格のせいか、それとも立ち居ふるまいのせいなのか、動くたびに剣呑な気配が立ち上る。あるいはそう感じること自体、自分の躯の中心が、あの男に結わえつけられているからなのだろうか》
《元気も元気、三日にあげずに男を連れこんでは、骨までとろけるようなセックスを愉しんでいますよと》
ある会で志澤と再会する。
「この後、抱いて」と遠廻しに言う。
「今夜は…その…お持ち帰りっていうことは、無しなのかな」狼狽えて言葉を継ごうとした奈津をぎょろりとした目であきれたように見ると「ああ、無しだねえ」「それは…」「つまり、これから先もずっと、ってこと?」「あーははあ」「まあ、たぶんね」
「こんなことばっかしてると、おれ、いつか刺されるかも」
《今夜の自分は、志澤の目にはどれほど物欲しげに映ったことだろう。
【其の心布団へ紙をはさむなり】
あらためて思い起こしたとたん、激しい公開と羞恥が一緒くたにこみあげてきて、奈津は危うく吐きそうになった。ああ、いやだ。こんな自分が、いやだ。もう、たまらない。そけがすべて志澤に端を発していると思うと、殺意とすれすれの強い感情が躯ののなかを吹き荒れる》
【がくぜんとまたたきをするひきがえる】
【ぼたもとをなぜしたと下女大口説】
結局四度の情事で志澤に捨てられる。
自慰(オナニー)だけでは寂しさは
岩井、大林との情事
【下女が白状あの人もこの人も】
一年間の混乱した、セックスレポートである。
 彼女は何が変わった
どこが成長したのだろうか
 朝日新聞の「ひと」欄を読んで、この本(1695円税抜き)を買ってしまった消費者は感想を述べる権利がある。
単なる「エロ本」だ。
まぎれもない「振り込めサギ」である。
捨てた演出家志澤に対する恨みを暴露しただけではないか。
「あのひとに、言われたの。初めて私と会ったときのことをよく覚えているって。とても悪い目をしていたって」

296ページ
《ほとんどの男がなおざりに済ませる種類のことに、岩井は信じられないほど長い時間を費やした。
【極ずいの浅い黄舌人形が好き】
【くじるたび背中でもがく芥川】
(中略)そのつもりで思いっきり乱れて。そして、なっちゃんのいやらしいところを全部俺に見せて。全部。ぜんぶ》
【前後忘却浅黄犬首へ腰】
《ええ、しじゅう欲しがってばかりで我慢のない、この躯への罰です》
《仕事帰りの岩井がこの部屋に寄るのは、このごろでは週に二日くらいだろうか。これでもずいぶん落ち着いたほうだ。
【この様にさせはせまいと女房言ひ】
香港から戻ったばかりの頃は、毎日抱き合っていた。

【とっさんは留守かか様が来なさいと】朝の行きがけに寄って、帰りにも寄っていくほどで、これじゃまるで覚えたての中学生みたいですよね、と岩井は照れ笑いをしていた。(中略)》
【ふし身のへのこしてもおへしてもおへ】
これが310ページまで続く。そして317ページからまた始まる。
《アイアイ製のダブルベッド。表参道の洒落たインテリアショップで、一人には大きすぎるこれを選んだとき、脳裏に描いていたのは別の男との情事だった。別の―》
 どう見ても、演出家志澤は渡辺淳一氏ではないか。そう考える私が悪いのではなく、そのような誤解を消費者に与える作家が悪い。

第2章新聞社出版社の危機 
08年バブルははじけ、巨大証券業界が世界中の経済を破綻させ始めたが、文芸業界も「自らが所属する世界を破綻させる道を歩み始めた。
01産業界広告が消えた
歴史から見れば泡沫に過ぎない書籍が広告によって無限に登場している。
「その瞬間儲かれば良い」という考え方から遠いと思われていた業界である。書店で千円前後の金を払わせなければならない。各出版社間の激烈な競争だけでなく、インターネット業界や記事を丸写しするテレビ業界とも闘わなくてはならない。
しかも、それらは表向きは無料である。
 新聞やテレビの広告は、その時代の「生産コストと売上の差が大きすぎる―儲け過ぎ」の業種と考えられる。最近の広告は銀行、建設、不動産など荒稼ぎをしていた業種が消えた。そして天下の朝日新聞で幅を利かせいるのは健康商品やDVDなどである。それらが朝日の一面広告の費用を捻出できる不思議さを痛感する
02形振り構わぬ書籍広告
そしてなによりも書籍広告の多さである。書籍広告と発表記事と写真で新聞はその殆ど占められている。
それほどに、この業界は利潤の多いところかと驚かされる。
 そして、そのキャッチフレーズも過激となっている。《増刷出来!!好評発売中!》などは必ず登場する言葉である。
 購買者は在宅で文学界のレベルの高さを知ることができる。
《2009年本屋大賞最終選考ノミネート作品第29回小説推理新人賞受賞・週刊文春2008年ミステリーベスト10第1位。新人離れした筆力と緻密な構成で、ミステリー界を席巻しつづける話題作!
湊かなえ著「告白」「愛美は事故で死んだのではありません。このクラスの生徒に殺されたのです」愛娘を失った女性教師の告白からはじまるこの物語は、事件に関わった5人のモノローグで描かれる。そして告白の連鎖は、事件の全貌を浮かび上がらせていく》
《話題騒然の母子小説最新刊 大好評5刷!!
「角田光代著『森に眠る魚』」あの一言を口にしなければよかったのか。では、あの言葉を彼女に言わせたものは何だったのか。気づくと私たちも森を歩いている。特殊な物語は、誰の身の上にも起こりうることに気づかされている。井上荒野氏(作家)読売新聞、それでも彼女たちは子供の手を握り、たどたどしく歩きながら、自分たちの出口を見つけてゆくのだ。途切れもことなく続いてゆく『母親』という尊い日常に向って。朝比奈あすか氏(作家)共同通信配信書評より》
読売新聞(21.10.4)も負けてはいない。
《「小説で世界を介護する」川上未映子
神なき時代に文学は何を問えるか》
《夏川草介著「神様のカルテ」
発売たちまち大増刷! 5万部突破!
読んだ人すべての心を温かくする、新たなベストセラーの誕生です。
固く食いしばった歯と歯の隙間から、嗚咽が漏れてしまう。
(東京都紀伊国屋書店新宿本店吉野さん)人の命の重さを、人の死を心で知っている。心が洗われるようなとは、このこと!!
(京都府三省堂書店京都駅店中澤さん)読み終えて、改めて地域医療がずっと抱え込み、かつ解決の糸口が見えない問題の深刻さに気付かされる。それも、かなりの重みを持って。(長野県平安堂長野店羽生田さん)今年の1位に推します。(岩手県さわや書店松本さん)》
《トイレに飾ると人生が好転!幸運が次々訪れる!
「愛と幸せを呼ぶ『天使の絵』」離婚の危機、夫の自殺願望、引きこもり、子どもの反抗が消えた!
医師の日野原重明先生、女優の石井めぐみさん推奨!
成績がどんどん上がり 東大合格!恋人ができた!子宝に恵まれた!就職ができた!売り上げが上昇!》
《「ヘヴン」川上未映子講談社
驚愕と衝動!圧倒的感動!涙がとどめなく流れる――。
反響続々発売即4刷7万部突破!
善悪の根源を問う、著者初の長編小説
読者の心をいろんな意味で鷲掴みにする魅力的な作品。おおすめです!
{テレビ松田哲夫氏}
大きなプレッシャーをはねのけた素晴らしい作品。(NHK週刊ブックレビュー中江)
張り詰めた展開。濃密過ぎる言葉の羅列。棲ざましい傑作!読むべし!!
(ダ・ブィンチ横里編集長)
「ヘヴン」はいままでにない形で孤独な読者を励ますように思える。いじめる側といじめられる側の論理の齟齬がいかに大きくても、内容がいかに悲惨であってもだ。((朝日新聞文芸評論家斉藤美奈子)
これはシンプルで深い、まぎれもない傑作である。
(東京新聞沼野充義氏)深く心打たれた。・・・・なんとも空恐ろしい両義性を奥に抱えた小説である。「(朝日新聞鴻巣友季子」
棲ざましい、という表現しか思い浮かばない。圧倒的なパワー、ひれふせ、世界。(オリオン書房辻内さん)
『魂』を感じました。心の叫びを感じました。
(有隣堂アトレ恵比寿店加藤さん)読み終えた後、しばらく言葉が出て来なかった。小説の力をまだまだ信じられると思いました。「リプロ渋谷店幸さん」》
残念なことは、内容のイメージが掴めないことである。とかく褒めすぎは「褒めていない」ことと同じ。
しかし、高が、文学業に過ぎず、1470円税別に過ぎないから、「(朝日新聞で見たので買った」という「霊感商品、痩せられる本、建物、生命・医療保険」であったら、新聞には責任はないのであろうか。《「霊感があった」トラウマ あなたが生まれてきた理由 江原啓之。人生を輝かせる65の珠玉メッセージ。
苦しみのなかにこそ、あなたが生まれて来た理由があるのです。本書は、悩みを克服し、たましいを磨く方法を教えてくれます》なども国民が信じてしまいそうである。しかし、内容の伴わない場合は「騙された」結果となる。広告には、やはり、公器である大新聞も責任なしとはいえない。
 あれほどの広告を載せるのは本業界のバブル破裂が近いことを直感させる。
自家出版を促す「高齢者を狙った、甘い誘い」も目につくが、「売れるものはなにか」を出版社は目の色を変えて探している。散り際の偉大な作家の千円の作品に何億円もの広告費用が投資される。


新新・先輩渡辺淳一氏の解剖その12

2009-12-07 21:26:11 | Weblog

第4部 現代の文芸批評
 
コールリッヂはシェイクスピア論(桂田利吉訳岩波文庫)で述べている。

本を読むことは、彼に何をあたえるのか。彼に寄れば、読者は四種の類型に分類できる、そうである。
《海綿型(読むものの一切を吸収し、然る後それを殆ど同じ状態に於いて、只幾分汚れたものとして、吐き返す人々)
砂時計型(読んだものを何一つ保持していないで、只時を過ごすために本を通り過ぎることに満足している人々)
濾過袋型(読んだものの残渣ばかりを蓄えておく人々)
モガアルの金剛石型(読書によって自らを益し、又それによって他人をも益する人々。大変まれ)》

 そして、読んだ作品から快感を得なければ、彼にとって有益ではない、と言う。《常に我々を善良にし、又向上させ、或はそれがために酬いられるものでなければならない》としている。
そのため、その作品を批評する心構えは、これらの有益性があるか否かを検証しなければならない。
《作品、殊に作り話とか、想像から作られた作品を検討する場合は、先づそれが如何なる感情や情熱に呼びかけているのか―即ち仁愛の感情に対してか、或は復讐の感情に対してか、或は又競争を刺激し、又は羨望の念を惹き起させようとする意図を以て、両者に共通な嘲罵の仮面を被り、書かれたものであるかどうかということを検討してみなければならない》
《評論、雑誌、新聞、小説等の流行は『正当な判断の構成を妨げ、又恐らくそれを拒むやうな障害物となる。
(中略)かういったものを耽読する習慣は精神力の完全な破壊が来る結果となる。さういったものを読むことは読者にとっては、娯楽といふよりは、寧ろ時間の浪費と言はれる程の純然たる損失である。
忌まわしい病的な感受性を以て読者の心を満たす』
(中略)評論は概して有害なものである。何故ならば、評論家は何等確固たる原理に基づくことなくして、とやかくの断定を下し、評論は常に人身攻撃に充ちているからである。なかんずく、評論は人々に考えることよりは、断定することを教へる》
 しかし、文字印刷は、二十世紀末よりその目的は確固なものでなくなりつつある。
 コンピュータ発達に伴って、紙印刷の不要論も大きくなっている。
特に顕著なのは、新聞や定期発刊雑誌である。
 これらは、内容の評価によって購買を誘い収入を上げるという本来の姿から、
広告によって稼ぐという歪な姿になっていることに気がつかなかった。
 二十年くらい前からのインターネット普及によって、その地位が脅かされ続けている。
報道スピードに負けている。そして、なりよりも収入源である広告の激減がその生存を脅かしている。
遥か以前は、文字印刷販売を職業とする業者業界は作家と購買する読者を仲介することを仕事としていた。
それは「株式会社とその株を買う投資家の間の証券業界」に似ていた。
証券業界が自ら販売するものを作り出し、広告し売りつけはじめた。
 最初は業界に恥じない優良な投資先であったが、証券会社が巨大化しヘッジファンドとして、他を殺しても生き残る生存競争となっていくにしたがい、劣悪なものでも売りつける方針をとるようになってきた。
01朝日新聞の広告衰退
最近、すべての新聞社における広告収入が低下している。それまで巨額の広告費を出していた業種は新聞からインターネットへシフトしている。それを埋めているのが書籍広告である。その占拠率は異常な上昇をしている。
朝日新聞09.10.19の広告を分析するとやはり36紙面である。その中の広告の縦計1186cmは新聞の64.5969%を占めている。
10月23日は「横は同じで、縦は総計1938センチメートルである。このうち広告は981センチメートルで48.5パーセントである。21.10.29の朝日新聞の広告占拠率を調べるとこの日の朝刊は36ページであり、50.62%パーセント」が広告であつた。
紙面の半分が広告という異常事態となっている。
 もし、民間テレビで、十分間ごとに、十分間の広告が入れば、その放送局を見るものはいないであろう。
 しかも、新聞は数パーセントの記事しか見ないのに、大枚を定期に取られている。
02新聞・出版社の歴史
「新聞の発達」と「出版と広告」についてフックスが述べている。
《新聞の誕生は少なくとも十七世紀のはじめにはじまって、それ以前にはさかぼらない。 
しかし、ブルジョア時代になって、新聞はその独特の顔をもち、それまで行われていたようなニュース提供の素朴な形より、もっと進んだものになった。
(中略)思想のいちばん重要な宣伝方法と闘争方法となり、それによって、大衆が精神的に結合され、教育され、指導される道具となった。
 人類は個人単独では生きていけなくなっていて、必ず連帯がなければならない。万人が万人に結び付いている状態である。そこで新聞は万人を世界と結びつける機能を持っている。その機能は新聞に膨大な権力を与えることになった。  
 新聞の理想的な義務とはこの機能を人類の自由と進歩のために、発揮することである。
しかし、現実の新聞発行は、大部分のばあい、営業である。
そのため、新聞は純粋な商品性をおびてくる。
新聞の紙面には、発行人にとっていちばんボロいカネもうけを意味することだけが「取り扱われる」。とくに1870年以降、どの新聞も「恋愛や性」について赤裸々に載せることで、売上を伸ばそうとしはじめた。
 絵入り新聞は最初から、純粋に性的なものと、いちばんはっきり結びついていた。そして、膨大な発行部数となっていった。(中略)
すべての高さとすべての低さ、時代が実現したすべての力、時代がよびおこした、すべての不快なあさましさは、まるで正確な温度計によってのように(絵入り)新聞によって、確かめることができる。
(風俗の歴史フックス安田徳太郎訳角川文庫)》

1996年に新聞社を含めた出版業界はバブルが弾けたといわれる。その後も無料に近いインターネットなどの電子雑誌に押されて衰退が続いている。
2009年になり、出版業者は、一昔文学と言われていたものへの回帰を図ろうとしている。太宰治や夏目漱石などの単語が広告に出る。松本清張をその中に入れるかどうか異論があるであろう。
しかし、古典文学や名作を国民から奪い取ったのは出版社自身である。
下品で刺激的な小説しか国民に提供してこなかった出版業者は、「国民が読んで考えるシステム」を破壊させてしまった。わが身から出たサビである。テレビが無惨な「集団ゲームと楽屋話」の地獄から抜け出させず、地を這い回っているように。
03紙マスコミの賭けと負け
パソコンと安価な印刷方法の出現で出版業界もバブルを迎え、大きな金儲けのチャンスを感じたのであろう。
それは週刊新潮、週刊文春で代表される新聞社以外から発刊される週刊雑誌によって、姿を現す。
新聞社は、政府などと持ちつ持たれつの関係があるから、「都合悪い話」は編集者が握りつぶしていたであろう。しかし、そういう話こそを暴露する一匹オオカミ的週刊雑誌の登場となった。
この熾烈な競争は結局週刊新潮の斎藤編集長が拘る「事件と金と女」という汚れた裏面に行き着く。
04暴露記事の典型例
「欲得・騙し合い・金・女・男」に絞られるが、これらをすべて満たすのは、事件の中心部にいた者の暴露記事である。
暴露すること自体も「欲得・騙し合い・金・女・男」の表裏関係にあり、読者が二重に誤魔化されることもある。
こうした記事の典型例は「愛人対決」(週刊文春15.5号)である。
《平成元年宇野総理が就任してわずか三日後に発売の「サンデー毎日」に総理との愛人関係を告発。『三本指』は流行語にもなった。
『宇野氏は中西さんが神楽坂で芸者をしていたころ、お座敷で彼女の手の三本の指をギュッと握り、「これでどうだ」と月三十万円での愛人契約を迫ったという。
自民党はその直後の参議院選で大敗。総理期間は69日。この69 で宇野氏は永遠に卑猥な冗談の餌食となる。
中西さんは日本憲政史上初のセックススキャンダルで総理を退陣に追い込んだ」
中西さんは手記を書いたことは後悔していないが、鳥越俊太郎氏が編集長であったサンデー毎日という発表する場所が間違えたとおもっている。
《数年後の雑誌で、鳥越さんが宇野総理の記事をやったとき、女房に意見を聞こうとゲラを見せたんですよ。その時女房は『この女は卑怯だ』と言っていましてね。ハハハ」と言っているんです。
ご自身はゴシップを書いてお給料をもらっているのに、公の場で私をバカにするような発言をなさるなんて許せません。
宇野さんもそうだけど、鳥越さんにあたったことも巡りあわせがわるかったんですね」
そういうこと(男女の問題)の繰り返しで日本の政治はまわってきたんですよ。これからだって、きっとこういうことはあると思います。
中西さんはなにを期待して、愛人を告発したのであろうか。宇野氏が総理大臣に成るのには到底ふさわしくないと考えてとすれば、69日という最短で失脚させたことでその目的を成就した》
しかし、少なくとも、毎月30万円で納得していたのである。その金額が少なかったと言おうとしたのか、あるいはサンデー毎日からの料金が少なかったというのか。
スキャンダルとして取り上げた鳥越氏に怒りを向けているが、所詮、男と女のスキャンダルである。
それを飯の種にしているのが、週刊誌であるから、目くそ鼻くその範疇である。
週刊新潮は黒い報告書をもっていたが、小説部門では、松本清張の評判でファンが多かった。
サンデー毎日の山崎氏の「白い巨塔」が終わり、各社は気が抜けたようになっていた。団鬼六のSM物はさすがにまずい、ということで、渡辺淳一氏にいっせいに群がったのである。みんなで手を出せば、怖くないか。
《(愛の流刑地91)そして、そんなきっかりした女が、激しく乱れるところが、さらに好ましい。これが逆に、だらしない女が乱れたところで、なんの興もない。それより、普段は控えめに、清楚に見える女が乱れてこそ、男は高ぶり、深入りしたくなる。(中略)
そんな彼女を菊治はいつになく激しく愛し、ついにこれまで味わったことの無い強いエクスタシーへと導く
朝方七時に目覚めた。といっても尿意をむ覚えてトイレに行き、すぐ戻ってきたのだが(中略)まだ、朝方で、まわりは寝静まってもの音一つない。そんなときに、昨夜乱れて果てた女の柔らかな肌を探るほど、幸せなことはない。》
05性愛小説頼り
《密会19もし、それを付けてといわれたら、そうするつもりだったが、何もいわれなかったので、つい、そのまま求めてしまった。
でも、もし妊娠するようなことがあっては・・・歓びと不安の交錯するなかで、菊治はそっときいてみる「このままで、いいの?「ねぇ、もう…」(以下中略)
こんな自分に対して、「ください」といい「はい」といいきるとは、なんと優しくて大胆な女なのか。(以下中略)
だがそれにしても、女性に、「ください」といわれたのは初めてである。
その一言に、女のかぎりない、愛の深さと広さを感じてしまう。そして男はみな、そんなことをいわれたら、愛おしさのあまり狂ってしまう》
【はらんでもおれはしらぬとむごいやつ】
【色男はしたにばかり(斗)産をさせ】

《ほとんど同時に、二人はのぼりつめたのか。(以下中略)熱情からの醒めかたは、女より男のほうが早い。精を放出する性と、受けとめる性とでは、体に残る余韻も違うのかもしれない。むろん女も、男にさほどの愛着をもっていなければ、醒めかたは早く、早々に起きあがる。(以下中略)
菊治の胸元に冬香の顔が、そしてお腹の上に冬香の乳房が当たる。そしていま燃えたばかりの冬香の股間に菊治の左膝をおしつけ、もう一方の肢を冬香のお臀にのせて両方から挟みこむ。
(以下中略)菊治はこんなしっとりとした肌が好きだ。以前、際き合っていた女性のなかに、やや色黒でゴムまりのように弾む肌があったが、それにはなぜか馴染めなかった。
とにかくいま結ばれたことで、身体も肌も秘所も、すべて菊治が期待していたとおりであることがわかった。(以下略)
むろん、獣は菊治だが、自らにいいきかせる。「焦っては、いけない」ここまできたら、一刻も早く冬香と結ばれたい。
だが乱暴な求めかたはまずい。ゆっくりと優しく、ときに焦らすくらいのほうがいい。それは長年、女性と接して、おのずと体得した実感である。(中略)
いま、冬香はたしかに感じているようである。
ならば、さらにさらに追い詰めたい。若さは衰えても、事前の戯れの優しさでは負けはしない。(以下略)
《21・小雨の京の一隅で、ひっそりと一組の男と女が眠っている。なにか小説の一節にでてくるような情景だと思いながら、目を閉じていると・(中略)
だが、いま果てたばかりで、すぐできるのか。迷いながら背中に手を這わせ・・・(中略)白いスリップ一枚になった冬香が(以下略)》から始まる、事前行為がえんえんと続く。
【すこし解説】《問題・作者は何をいいたいか?》作家が「愛しい」「美しい」などと 多用し始めている時は、何を書くのか、どのように表現するかという最重要な能力の欠如を露呈している。
「…のようである」「思う」
(愛の流刑地(92))もひどい。
実は、私のパソコンもすっかり汚染されてしまった。「ヒコウキ飛行機」を変換させると「秘口器」になってしまう。
《(愛の流刑地94)「少し待って・・・」だが、冬香はとまらない。間違いなくいまの冬香のほうが燃えて淫らになっているようである。(中略)むろん、そんな女の積極性を菊治は嫌いでない。それどころか、むしろ嬉しく愛しく思う》
このようにして、この20年間、新聞社や出版社は渡辺淳一氏を食べて金を稼いだし、彼もマスコミとの巨大な相関図を作り上げて、官憲による「公然猥褻陳列罪」としての摘発を逃れ富豪となった。 
このシステムがあるかぎり、「写真家篠山某氏(68)が受けた猥褻容疑事件」のような事態にはならないのだ。
「天下の日経新聞を発禁処分にする」こともできないし、「この前のほうが猥褻性とすれば高いのでは?あれが良くて、これがどうして、ダメなの??」と作家に反論されるであろう。
彼は次々に選考委員を引き受け、彼の性愛流儀でなければ、デビュできなくなった。島清恋愛小説文学賞などを受賞し、彼と対談する高樹のぶ子氏、村山由佳氏、などが渡辺淳一氏好み(多分、躯心と顔といやな目つき)である。
躰を躯と書き、聞くを「訊く」と書く人はみんな仲間であろう。
この両人は渡辺氏にとれば、左右の乳房であろう。
つまり、日本の文字業界は性愛通俗小説で席巻された。
これだけの護送船団であれば、どんな猥褻表現も発禁にはならなくなった。
しかし、国民は毎朝、淫乱な猥褻文章を眼前に突きつけられた。市中のストリップ劇場がすべての壁を取り払った街の中のようになった。
愛の極限を追求するというそうだが、彼の小説で国民は精神的に得たものはない。
 出版社が犯した罪はあまりにも大きく、もはや、いまさら持ち出す(彼らの)高い志を信用しないし、期待もしない。
それに伴い古典も名作も国民から遠い存在となった。
文化を保護し発展させるマスコミが、文化の衰退の原因となった。
そうした現実を忘れ、直木賞や芥川賞の選考委員は年に二回、高級料亭に集まって、自分たちが招いた結末であることを忘れ、候補作の質の低さを怒ってみせている。
06 現代文壇
 玉石混合となってしなった。誰でも書き、きれいな服を着せられて、本屋には少しの期間並んで、縄を掛けられ、どこかに運ばれる。
 解体機に入れられて、真っ白な紙に帰る。そして、次の活字が印刷される。
07小説の寿命
モームが言っている。
《出版社の話では、小説の寿命は平均すると九十日だとか。
自分が全身全霊をこめ、数ヶ月間の苦闘のあげくに仕上げた労作が、数時間で読まれた後、それほど早く忘れ去られるなんて、その事実を受け入れるのは酷だ。
自作のどれか一冊全部が無理なら、その一部でもいいから一、二世代は生き残ってほしいと願わぬほどの弱気の著者はいないと思う》
高名な文学賞授賞作でも、一年間だけの命である。
出版社は新しい話題作を十万部を超えるものを探すために、知恵を巡らす。
08文学賞の軽さ
なれあい談合は振り込め詐欺と同じだ
文化特捜隊の高津祐典氏によれば「文学賞」大国日本。出版社や地方自治体だけでなく、書店が選ぶなど、466件もある。今のところ、純文学で「新進作家」が対象となる芥川賞は知名度が高く、「国民の文学賞」という座にある。
一方、直木賞は、すでに知名度のあるエンターテインメント系の作家が受賞することが多い。
しかし、所詮、半年の新人賞に過ぎない、とも言われている。
渡辺氏の秘蔵っ子とも言える村山由佳氏が週刊文春に掲載した「ダブル・ファンタジー」で渡辺淳一氏が審査員を務める賞を総なめにした。さすがに、押して押された両者は照れているのではないかと思う。

振り込め詐欺と同じだ


これが柴田連三郎賞であれば、ストレートに暴露した「せんせい」の山田


09直木賞選評会
小説業者にも無数のジャンルがあって、『生殖器の動きを観察することで金を稼ぐ人』から『魂を救おうと真剣に祈る人』もいる
同じ人が、そして、自分が選考で重要な役を担ったことを伝えている
これらの発言は、自分を選んでくれた人に謝礼を遠廻しに述べているのか。
これって、小説業界の相関関係であり癒着を露呈している、
しかも、高級料亭に呼ばれた人々の前に置かれるのは、出版社が選んだ五六点である。『これから、直木賞を選考してください』と言われる。日本を代表する「芥川賞と直木賞」の選考の場に性愛小説家である渡辺淳一氏と五木寛之氏が同席して、穏やかな表情で、言葉を交わしている風景を想像すると愉快になる。
 腹の中の選考基準には天と地ほどの違いがあろうに、「やあ、やあ、お元気ですか」と繕う。油と水・聖と淫・ラーメン業界と精進料理業界などの異なる業種の代表者が文字という共通だけで選考している。
そしてつまり、単に小説家に過ぎないのに、出版社から指名されて、同じ業界で台頭し自分のライバルとなっていくであろう若手の小説を選考する。
選考委員たちは、出版社のメンツを潰さないように、6点の中からどれかを選ぼう選評に冷や汗を流す。
《浅田次郎氏「小説に限らず、文学はこころやかたちを他者に強要するものてはなく、最小限の定時ののち他者の想像力に委ねるべきのものである。社会とは、非凡なる凡人たちの集合である。その非凡さを摘出しなければ、読者の納得する「平凡」を書いたことにはならない。本作の登場人物がみな愚かしく見えるのは、そのせいであろう。ただし、それらを描き出す小説家に必要なものは、けっして社会経験などではなく、観察力と想像力である」
井上ひさし氏「この壮大なホラーを成立させるためには、あらゆる細部をいちいち、もっともらしいものに作り上げなければならない。(中略)作者と登場人物がわかっていればそれでいいのだろうか」
北方謙三氏「さまざまな傾向の、候補作が並んだ。小説が活発化しているのかどうかは、いまのところわからないが、私は好意的な対した。(中略)物語としては面白く読めるのに、読後に空漠とした印象が残るのは、作者の方が読者より面白がっているから、と思えなくもない。資質が奔放に走るのを、どこかで抑制すべきであろう、と私は感じた。」
阿刀田高氏「この作者の文学に対する見識や業績を勘案すれば、評価のできないまま《よい作品のはず》という分別も浮かんでくるのだが、それはかえって礼を失することになるだろう。微哀を察していただきたい。わたしとしては『たぶん、文学観のちがいでしょう。おおかたの意見に従います』」宮城谷昌光「非凡をめざせば、非現実にゆきつくが、そこに主題をすえつづける困難さは、察しがつく。この種の小説は、自然主義的な描写をはっきりと拒絶して、文体だけで呼吸してゆかなければならないのに、そのあたりに思い切りと工夫が弱い。氏は自分に甘い。妥協はなんの利点にもならない。文学的弱点になるだけである。」
宮部みゆき氏「選考委員の社交辞令ではなく(以下略)」
しかし、格上の渡辺淳一氏は候補作の不毛を述べて、悠然としている。
渡辺氏「『授賞作なしだが』、今回の候補作については、いずれも失望した。むろん、それなりにいろいろ工夫され、アイディアを絞り、巧みにつくろうと努力していることはわかるが、いずれも頭書きというか、頭で書きすぎである。
はっきりいって、小説は頭で書くものではない。それより体というか、実感で書くもので、実際、だからこそ、その小説独自のリアリティが生まれてくる。
小説の読みどころは、まさしくここにあるのだが、今回の候補作には、この作家の内から滲むリアリティが欠けている。   
当選作についても、舞台となる昭和初期の雰囲気が描けていないし、お話そのものも、頭で作り出された域を出ていない。
 直木賞の選考会は年に二回あり、ときに二作受賞もあるのだが、現在の選考基準は甘すぎるというのが、わたしの実感である。(中略)『カラスの親指』は馴染みのない詐欺師の世界を描いて面白いといえば面白い。だが面白さを追い求めてドラマチックにすればするほど、リアリティが薄れてつまらなくなる。たしかに、お話づくりの才能はあるのかもしれないが、ここまでくるといささかしらけて、小説で問い詰めるテーマなのか疑問になる。むろんこうした作品を好む人も多いかもしれないが、文学賞の対象になる作品とは言い難い。
(中略)いかにも安易でご都合主義である。」
渡辺淳一氏「『のぼうの城』は、ユニークな面白い武将をつくろうとする意企はよくわかるが、その気持ちが先行しすぎてリアリティに欠ける。テレビドラマで描くのならともかく、小説としては、この軽さでは説得力に欠けるし、それ以前に文章が甘すぎる。また各々の挿話のあとに、もっともらしく資料を付加するのは、むしろ逆効果でしらける。
他はいずれも思いつきの域を出ず、内容も甘すぎる」
五木寛之氏「みな、プロの書き手としてそれなりにキャリアをつんだ候補作家たちの文体に、工夫と創意の跡が見られないことへの不満を、そんな言い方でもらしたのかもしれない。しかし、私には、その文学的という点にこそ、この作家のアキレスの踵を感じないでいられなかった。本物のあたらしさは、決して心地よい文学性など感じさせないはずだからである。
ほとんどの選考委員に評価された冒頭の作品の趣味のいい文学性は、ひょっとすると、この書き手の最大の弱点かもしれない。別の作品が候補になったこと自体が、直木賞という賞を活性化したといっていい。 
 紆余曲折のすえ、受賞作がきまった。これまでの安定した実績を踏まえて積極的に推す声もあり、また全面的に否定する声もあったが、受賞作にはそれなりの理由もある、いうのが一貫した私の実感である。すんなりと圧倒的な支持で受賞しなかった、ということも、その作家の才能の一つなのだ。」と難解である》
 田舎の絵画展などの選考会場の脂ぎった雰囲気とも少し違う。師弟関係丸出しとこちらは比べて、互いに軽蔑しながらの選考だから、小説より面白いか。
10出版社、古典文学、名作を捨てる
その大きなツケを出版社だけでなく、国民も払わされている。なぜ、新聞の淫乱な小説を見て、国民は狼狽しなければならないのだ!

新新・先輩渡辺淳一氏の解剖その十一

2009-12-07 16:24:16 | Weblog

    02作家自身の医療ミス

渡辺氏が書いた膨大な医療現場ものには、「医療に不適な資質」が現れているが、下記のエピソードはその全てを含んでいる。引用は最長となるが、渡辺氏を分析するためには欠かせない。

《伸夫が市内の開業病院に乞われておこなっ椎間板ヘルニアの手術は、あきらかに失敗であった。患者は四十八歳の男性で、数ケ月前から腰の痛みを訴え、手術を希望していることだった。その病院の院長は専門は外科であったが、整形外科も診療科目に入れてあった。

そのため院長は整形外科の患者も診ていたが、専門外なので、月に二度、伸夫が行ってアドバイスをしたり、手術をしていた。
問題の椎間板ヘルニアの患者を診せられたとき、伸夫は少し疑問を覚えた。

(中略)ぐちゃぐちゃと言い訳があり、《伸夫はしばらく薬やコルセットで経過を見て、それで快くならないとき、手術をしても遅くないと思ったが、院長がすでに椎間板ヘルニアと診断を下し、本人も手術を望んでいるというので、手術に踏みきった。

だが実際に脊椎の中を開いてみると、椎間板の膨隆もなく、神経根を圧迫している気配もない。それでもせっかく開いたのだから摘っておくことにこしたことはないと思って、椎間板へメスをいれ、中の椎間板の一部を抉出した。「おもったより、なかは正常でしたよ」伸夫はほとんど健康といえる椎間板へメスをくわえたうしろめたさを覚えながら、院長に告げた。

(中略)そのまま、伸夫はその患者のことを忘れていたし院長もなにもいわなかった。むろん患者からも連絡はなかったから、痛みもおさまって、元気になっているのだと思っていた。

だが、それから一年後に、その患者が死んだことを、院長から知らされた。「直腸癌で亡くなったそうです」瞬間、伸夫は声がでなかった。しばらくして辛うじてうなずく。「やっぱり…」臨床所見もそうであったが、手術所見でも椎間板ヘルニアらしい徴候はきわめて少なかった。患者がしきりに腰が痛いというので、そうかと思ったが、いま一つ納得できなかった。

「じゃ、癌の転移だったんじゃありませんか」院長はつぶやく。「でも、そんなことは、まったくいわなかったので…」

どうやら、患者はもともと腸に癌があり、それが腰椎に転移して腰痛がおきたようである。
当然、病院に来たときには、便に血が混るとか、腹部の軽い違和感くらいはあったはずである。だが本人は腰痛のことばかり訴えて(以下略)そのため院長は肛門や便を検べることをせず、椎間板ヘルニアと思いこんでいたようである。

「しかし、驚いたなあ」院長は頭を掻き、てれかくしのように小さく笑った。
【アタマ掻き・・・】

外科の医師として、院長はあきらかにミスを犯していた。

(中略)もう少し詳しく患者の話をきき、慎重に診察すれば気がつくはずだった。
だが、ミスを犯したのは院長だけではない。伸夫とて、もう少し念入りに診ていれば、椎間板ヘルニアのような単純なものでないことはわかったはずである。

実際、診察しながら、そして手術をしながらも、おかしいとは思い続けていた。それなのに、その疑問を深く追求もせず、簡単に手術をして、それでよしと思いこんでいたのは、明らかにこちらの怠慢である。

【「伸夫は」と三人称で言いながら、「こちらの」というのはおかしい】二人の医師が診ていながら、どちらも粗雑な診察で見逃している。

だが敢えて言いわけをいわせてもらえれば、伸夫は、院長がすでに椎間板ヘルニアと診断を下し、患者が手術を希望している、ということで、安心しすぎたようである。そして院長は伸夫が整形外科の専門医であることにたよりすぎたようである。(中略)

このミスの後味の悪さは拭いようがない。
「どうも、参りました」院長が一本とられたように頭を下げる。それに合わせて、

伸夫も目を伏せながら、どこも悪くないのに、メスで抉られた椎間板のすべすべとした感触が甦ってくる。「いやあな感じ…」今度の感じは、死と直接つながっているだに、長く心に残りそうである。》

典型的な医療ミスであり、責任逃れである。
     第3章 整形外科教室の犯罪
  01 製薬会社との癒着と治験の偽装

金と直結する「スポンサーとの癒着」について渡辺淳一氏は精通している。医学博士で、医学部講師であったころに奔走していた。それについては「白夜緑陰の章192ページ」に詳しい。

渡辺講師は整形外科教室の年間一千万円(四十数年前の金額である)を製薬会社に強請る仕事をしていた。
《医学部と製薬会社との癒着(白夜緑陰の章・新潮社)
  国民を欺く

医局運営費そして学会費用、実験費用「これは博士号のためも多い」 はすべて製薬会社におんぶする
このために、医局に貢献してくれる製薬会社の薬品に変えていく。「わが社の薬に交換して下さい。その代わり…」

治検では「効果なし」がやや有効」に「やや有効」が有効」というように甘くならざるを得ない

「書こう」と製薬会社に承諾したことは「悪くは書かない」という意思表示でもある。

また新薬の治験を頼まれたときは、金が出す製薬会社の場合は「効果なし」は「やや有効」になり、「やや有効」は「有効」に改変する。以下略。》

しかし、これはまさに「腐敗した医学部」を当事者が内部告発したものである。国民は、無効の薬を投薬され続けたのである。私もその当時、「新しく開発された心臓の薬」を投薬され続けていた。

その薬は、今では「心臓に危険な薬剤」とされている。父は強くこれらの毒物投薬を乗り越えて80歳まで生きることができた。もっとも、すぐ東京に転居し、毒物から解放されたことにもよる。

これら「整形外科をはじめとする医学部世界で飲み食いされた」巨額な金は結局国民の医療費から出ているのである。

《(白夜Ⅳ)講師は医局の中心的なスタッフとして、医局の運営にもたずさわる。(中略)全医局員の生活費、運営費を捻出しなればならない。(中略)結局、他から金を集めることになるが、この場合真先に目をつけられるのが製薬会社である。「今度、東京で学会があるんだが、君のところで面倒を見てもらえないだろうか」

そんな調子で、いくらかの寄付金を仰いだり、東京での宿泊費を全額してもらったりする。ときには夜の食事から飲んだ分まで製薬会社に負担してもらう。(中略)しかし、はっきりいって、学会の旅費ぐらいはまだしれている。それよりはるかに大きいのは、医局で学会を主宰するときの費用である。

(中略)それらのもろもろの諸経費をいれると、一千万は軽くこえる。(教授の給料が十万円)(中略)「いまから、製薬会社に気配りしておいたほうがいいぞ」各社に応分の寄付を仰がなければならない。もちろん薬の買上量によって差はつけるが、かなりのがくになる。「じゃあ、O製薬の論文も書いておかなければなりませんね」
 新薬の治験例についての論文である。(中略)

ひどいことに、渡辺淳一氏らは寄付を受けるために、治験論文を捏造することをためらわない。《製薬会社に依頼されている以上、「効果なし」とは書けない。観察は正確におこなっても、その判定は「効果なし」が「やや有効」に、「やや有効」が「有効」というように、いくぶん甘くならざるをえない。せっかく大学病院に頼んで、「効果なし」と判定されたのでは、依頼した意味がなくなる。依頼の底には「一つよろしく」という意味が含まれている。

したがって、「書こう」と承諾したことは、「悪くは書かない」という意思表示でもある(中略)実験の費用も足りない分を製薬会社に頼むようになるのも無理もない。
【役人の子はにぎにぎをよく覚え】

「あのメーカーの抗生物質を使おう」「少し高いけど、本人になら、かまわないだろう」健保本人は全額保険で支払われるから、個人負担がない。》

「空白の実験室」の内容が事実だけを書く渡辺淳一氏のことであるから、犯罪であろう。

《大学病院外科で、教授、助教授、講師が相次いで、放射線によって殺され、整形外科助教授が単独調査をする。犯人を突き止めた時、彼自身もストロンチゥム液を飲まされていた》という話。
      第4章暗く劣悪な医療現場のゴミ箱話
「少女が死ぬ時」に出てくる軽蔑すべき医者の姿も、彼自身または同僚の姿であろう。
《三〇三号室には伸夫と看護師和子だけになる。
むろん横に患者がいるが、呼吸困難で意識はほとんどない。伸夫はサクションで痰を引きながら、ときたま患者の脈を見ている和子の表情を盗み見る。

和子はそれを知ってか知らずか患者の顔を見守っている。伸夫はふと、「今度、お茶でも飲もうか」といいかけて声をのむ。

(中略)伸夫は当直室の棚にあったウィスキーを飲み、床に入って碁の本を開く。もしいまここに、彼女がきてくれたら…・

伸夫はそんなことを空想しながら、かって当直室で看護師と関係したという先輩を思い出す。
(中略)もし和子がここに現れたら、伸夫も接吻ぐらいはするかもしれない。

まわりに病室があるとはいえ、深夜だし、部屋の中央には布団が敷いてある。二人で夜通し仕事をした仲だから、ついおかしな気持ちになるのも無理はない。
 
(中略)今夜、電話のベルが鳴っても起きないでおこうか…(中「略)眠ったふりをして、和子が入ってきた途端、抱き締めて接吻をする…(中略)
【足音のたんびに腰をつかいやめ】

彼はその一時間後電話で起こされる。

呼吸停止の患者に人口呼吸をしているに和子を見る。人口呼吸を続けながら、伸夫は、馬のりになっていた和子の白衣の裾がまくれていたことを思い出す。
「はっ、はっ…」と上体にはずみをつけて胸を圧す度に、和子の裾のまくれたお臀が上下する。

忘年会のとき、そのお臀がフラダンスして、その愛らしさにみなが拍手した。突然、伸夫は可笑しくなり、笑いたいのをおさえて顔をそむける。

(中略)「駄目ですか」「もう少し、やってみよう」すでに死んでいるのを知りながら、伸夫は「あと五分」と自分にいいきかせた。五分ときめたことに、特に理由があるわけではなかった。

ただ心臓の音がきこえなくなったからといって、すぐに人口呼吸をやめるのは心残りである。

自分が手を停めた瞬間が、死亡時間になるのでは辛い。他人の死亡時間を、自分の意思できめるのは気が重い。

それに二度目の電話を受けたとき、寝呆けていてすぐ起きられなかったのも、心のわだかまりとなって残っていた。あのとき、もう少し早く起きていたら、あるいは助かったかもしれない。

(中略)だかそれでもいましばらく人口呼吸を続けるべきである。それは患者のた
めには効果はないかもしれないが、伸夫自身を納得させるためには意味がある。

(中略)一ヶ月前のデートのあと伸夫と深い関係になってから、和子はさらに優しくなっていた。初めのころ、先輩の江藤医師と後輩の森本医師と和子が関係があると疑う》
【何だ、これは】

《開胸しての心臓マッサージとなる。交代で、少女の心臓を直接掴んでノマッサージを続ける。その間、二人の医者は延々と猥談を続ける。

その下品なこと!《「この子は意外に男好きかもしれんぞ」「まさか」「だって、体の細い割には毛深いだろう」「毛が生えていますか」「腋の下など、かなり生えているじゃないか」「そりゃ十四ですから」「十四にしちゃ多い方だよ」「そうですか」「当然あそこも生えてるだろう」「さあ」北岡はかすかに顔を赧らめた。「お前の受持ちだろう」「それはそうですけれど、喘息なのにそんなところまで…」「先輩は蘇生術をやりながら、いつもそんなことを考えているんですか」「退屈だからね」「いくら退屈でも、少しひどいですね」「こんな話が一番いいんだ」
(中略)

「おい、煙草を吸いたくなったな」「そうですね」「一本つけてくれよ」「ここで、ですか」
「灰が長くなって、心臓の上に落ちたりしたら大変ですからね」「平気さ」「でも感染して」「灰だから細菌はないよ、心臓の上で、じゅっ、といってすぐ消えちゃうよ」

(中略)
「あれはヒステリーの顔だな」「看護師ですか」
「うん、鼻筋は通っているけど、眼にけんがある」「そうかもしれません」「独身かい」「ええ」「二十六、七ってとこか」「たしか七のはずです」「そうだろうな」「ああいうのは、いいぜ」

「でも、あの看護師は真面目ですよ」「それがまたいいんだ」「そうでしょうか」「一見、真面目そうなのが、好きになるとひどいからね」「やられたことがあるんですか」「一見、冷たそうなのが燃えると、これが一番淫らだよ」「今度、そっちの方も教えてください」「そうだな、その方がこんな仕事よりいくら楽かもしれない」「お前、彼女を誘惑してみたら」「あの看護師はぼくより年上ですよ」「二つだろう、それがまたいいんだぞ。お前は一寸いい男だからひっかかるよ」「変なこと言わんで下さい」「初めはつんとしているけど、堕ちるのは案外早いよ」

突然マッサージを止めた「死亡時間は十一時四十四分だ」「キリギリスが二度鳴いた時に決めた」》

これが文学であろうか! 

『白き手の復讐(新潮社)』の解説で、郷原宏氏は《「『白き手の復讐』は三木露風の第四詩集『白き手の猟人』から題名をとっているのであろう。(中略)似ているのは題名だけで、内容的にはそれこそ白と黒ほどの違いがある」》としている。 
これには四作品が収められているが、そのなかの三作品は大学院内の犯罪である。小説としてではなく、内部告発とすべきである。

高い倫理観を掲げる渡辺淳一氏なら、このような犯罪を見逃しては、医療現場を守ったことにはならない。

新新・先輩渡辺淳一氏の解剖その十

2009-12-07 16:11:45 | Weblog

  03患者を嘘でごまかす
 
 伸夫は患者の母親に伝える《「どうしても切らなければ、駄目ですか」「いまの状態では、切断だけが唯一の治療法です」気がつかないうちに、伸夫は支配する側の傲慢さを身につけている。
医療行為という人道的な行為のなかで、「してやる者」と「していただく者」という上下関係が生まれている。

 「放っておけば、あと二、三カ月、もつかもたぬかわからないのですよ。切ったにしても、あるいは手遅れかもしれませんけど…」

 説明しながら、伸夫はあるサディスティックな感情にとらわれている。哀れな子羊をさらに絶望の淵に陥れる。》

「患者への説明と同意」は完全に無視されているどころか、手術の失敗を「成功しました」とか「みんなが一生懸命にしました」など患者や家族に嘘をつく。
 
 「白夜」にある「脊椎腫瘍の少女の手術」も医療ミスに近い成功を期待しないものだった。

《教授が完全摘出を諦め、傷を閉じることを決意したのは、手術がはじまって二時間あとだった。(中略)「止めよう」教授は大声でいったが、それはあきらかな退却宣言であった。頑張ったけど出来なかった、その苛立ちが声を大きくさせているようだった。

(中略)この種の手術を初めて見た伸夫にも、失敗だったことはよくわかった。「説明ムンテラだけは、きちんとやっておけ」
 
(中略)「しかしこれじゃ、手術をやって死期を早めたものじゃありませんか」

「たくさんの手術のなかには、そういう手術もある。それを相手に納得させるのも医師の仕事さ」吉田医師はそういうと、マスクをはずして手術室を出ていた。

(中略)少女の意識が戻った。

「先生、手術はうまくいったんですね」瞬間、伸夫はうなずいた。それから慌てて、「一生懸命にやったから、大丈夫だから眠りなさい」といった。少女は少し考えるように伸夫を見てから「これで、もう治るのですね」と念をおした。「ああ…」「よかったあ」少女はそういうと、乾いた唇を舐め、それから安心したように目を閉じた。

(中略)確実に少女は死に向かう。

(中略)医師がいっていることが嘘だということに、少女はいつ気がつくのか、それを思うと伸夫はじっとしていられない。
 「はっきり、いったほうがいいんじゃないでしょうか」たまりかねて、伸夫は先輩の吉田医師にきいてみた。

だが彼は即座に首を横に振った。「向こうからなにもきかないのに、こちらからいう必要はない」「でも、このままでは、じき嘘だと分かってしまいますよ。そのときどういえばいいんですか」「黙っていればいい」「それじゃ、彼女は恨んで…」「恨んでもいい。患者は自分が助からないことは自然にわかってくる。それまで待つのだ。わかっても医者に文句なぞいわない。いったところでどうしょうもないし、そのときはもういう気力もなくなっている」「…」(中略)

少女の容態が急速に悪くなったのは、その二日あとだった。(中略)少女はものをいうのも億劫なのか、伸夫が入っていっても、かすかに目を向けるだけだった。首を動かさずに瞳だけを動かす。その目が伸夫には冷えびえと醒めて怨んでいるように見えた。(中略)このとりとめのない虚しさも小説になるかもしれない。

 伸夫はふと思い出し、・・・手帖に書きくわえた。》

【実際に小説にこの言葉まで挿入させている。恐ろしい】
【面に怒りの猫の屍】
     04 人体実験

彼は後に心臓移植を野心のために、患者をモルモット扱いにしたと、和田教授を口汚く罵るわけであるが、渡辺氏が所属する整形外科教室においても「彼らと何ら変わらない臨床人体実験」がなされていた》

先輩は「医学の研究というものは、大なり小なり、人体実験的な要素がくわわるものだ」と伸夫の批判に答える。

《「臨床医学なんて、みな広い意味で人体実験だからな」

「大学で少し研究らしいことをやると、ジャーナリストや患者がすぐ騒ぎ出す」「それは人体実験の場合でしょう」「お前はそんなことをいうが、臨床医学なんて、みな広い意味で人体実験だからな」

 「失敗ってことは、死んだってことですか」「早めに摘り出して、助かった人もいたれど、大半は化膿して膿胸を起こして、随分死んだな」「じゃ、手術を受けた人達は、実験材料にされたわけですね」「この手術も、初めのころはよく死んだからね、いまから二、三年前は毎晩かついでいた」》

《「手術を多い日は毎日二、三人のペースでやったが、あれはみな失敗だった」「失敗ってことは、死んだってことですか」「ずいぶん死んだな」「しかし、そういう人がいなければ、現在の進歩はなかったわけだから」》
そう思って改めて見ると、医局の医師達がやっていることのなかには、さまざまな人体実験が含まれていた。

そしてその医師のなかには、もちろん伸夫自身も入っている

渡辺氏は犯罪者として自覚がないため、悔悟が無い。しかし、彼は「記述する目的もそれが引き起こす結果」を思考することなく、ベラベラと書いてしまう。 しかし、さすがに、自分に都合の悪い所業については設定・情況を変えている。
後の「光と影」の原点とも考えられる「切断と病巣摘出」「疾患を見て人間を無視」という医学部の裏面が見える。

和田寿郎氏を攻撃したり、仲間の醜さを描いたりしているが、注意深く読めば、渡辺氏自分が犯した事に過ぎないことがわかる。

この最大の弱点はこの「白夜」に顕著である。

彷徨、朝霧、青芝、緑陰という副題だけが文学であるこの四冊にわたる長編に見られる。

失敗に失敗を重ねていた人体実験・骨移植犯罪は、このように記述されている。

《伸夫達の医局でやっているのは、牛や犬といった異種の骨に種々処理をくわえて人体に植える異種骨移植が中心であった。(中略)しかし、そうして処理した異種骨を、臨床的に応用した結果は必ずしもかんばしいものではなかった。一応、体内に定着したようにみえても、途中から化膿してきたり、なかには異物として排除されるものもある。》

当然ながら、患者にたいして「情報の開示も説明も同意」も得ないままに、無数の生命を奪っていった整形外科教室の真実を「小説・骨移植」として描くべきであった。

渡辺氏も、その犯罪行為の真っ只中にいたわけである。全てを知っている彼が、まず、自分を書くべきであった。

実は、関東の大学整形外科教室と情況を変えて、これらのことを洗いざらい書いている。
  05「麗しき白骨」にみる整形外科
ポストの奪い合いなど、金を出してまでも知る価値はないが、作品の中には、整形外科医たちの非人間的な犯罪が出てくる。罪悪感を持たない作家が何気なく書いているのでさらに怖い。

教室のテーマである種骨移植研究のために小動物を無数に犠牲にする。麗しき白骨」にさり気なく、動物実験に使用した動物を鍋物にして食べる話が挿入されている。当然渡辺氏の教室の話である。

人類になんの恩恵ももたらさなかった、こうした「ゴミといえる実験」にこんなに多くの小動物の命が奪われている。

小さな田舎大学では何万匹という数となるとすれば、全国では…と考えると心が痛む。
もう既に奪われた命。今現在も奪われつつある命。ゴミを幾つ集めてもゴミの山に過ぎない。

「白夜」に登場する医科大学の「地に落ちた下劣な内容」は、当然、恥辱にまみれた医科大学に対する内部告発とみられる話であるが、渡辺淳一氏の場合はそうした内部告発とは考えらくい。

その理由は心臓移植事件で、内部告発というか暴露に近い小説を発表したことで、大学を追放された形となり、愛人と上京したが、彼らを待っていた最悪な環境の中で書かれたものだからである。
「商業雑誌に搭載されたい」という必死の欲望のなかで、書かれたもので、読者に媚びたものである。自分でも「その小説の主張・意味するもの」などを考える余裕はなかったであろう。

通俗小説作家が医学物を書くと、このように汚いものになるかと驚くばかりである。

医者と看護師などの男女関係の想像を超えた乱れなどが淡々と書かれている。昼間が患者の地獄であれば、夜の世界は小動物の地獄である。

話にわさびを利かせるつもりか、しばしば、聞かれてもいないのに自分の医学に対しての姿勢を述べる

それは自らの過去の劣悪医療を美化しようとする「眼くらまし」かもしれない。
 ともあれ、酔いしれるほどの美文を述べてもすでに、医療現場を去ってしまった彼には無縁である。

さりげなく盛り込まれている捏造話とは①渡辺氏が札幌の教室で行ってきた人体実験である「異種骨移植研究」を別の大学でされたように書いてあることである。
②実験に使用する異種骨は動物を殺して取り、同種骨は病理解剖から入手しようとするが病理が屍体損壊に当たるとして拒否したため、整形外科自身が実施した下肢切断手術で取り出した切断後の骨を患者に無断で人体実験に使用した。
内部告発により発覚しそうになるとさらに嘘をつく。患者にも嘘を言って同意させる。

関東地方の某大学整形外科教授選考という設定にしてあるが、渡辺氏は千葉と思われる大学病院内部で起こったこれらのことを、知りようがないことは、心臓移植の場合と違って明らかである。

つまり、札幌での人体実験を暴いたのである。心臓移植を巡る母校の内輪争いを出版して、大学を追放されたのであるが、関東の整形外科教室ということにした。

しかし、この地方の整形外科医者なら、だれでも「どこの大学(千葉県の某大学のお家騒動ともっぱら噂されているが)で、登場する人物も完全に特定できる」ことは心臓移植の時と同じである。

しかし、お家騒動(この大学では、お祭りみたいなものだが)以外の犯罪は札幌のことであろう。

実は渡辺氏たちも
「異種・同種骨移植」は無残な結果に終わったのであるが、公表していない。にもかかわらず、さらに大きな嘘をつく。
その整形外科教室の教授が会長となった整形外科総会学会のデータを捏造し、「異種骨移植は成功した」と発表する。

心臓移植で書き込むことができなかった札幌の大学で実際に行われていた「医療ミスというより医療分野の犯罪」を複雑な醜い教授選考劇に犯罪を盛り込んだに過ぎない。
「異種骨移植」についての総括を渡辺淳一氏はすべきである。
    第2章)犯罪と認定すべき部分

 01章医療ミスの実例
医者と看護師などの男女関係の想像を超えた乱れなどが淡々と書かれている。昼間が患者の地獄であれば、夜の世界は小動物の地獄である。
 
「私は医者なるがゆえに、たくさんの人々のなんの虚飾もない、生きざまと死にざまを見ることができた。」ではなく「医者がいたために、(説明も承諾もないままに)患者は「人体実験」に使われて、兎・犬・猿などの小動物は医者の学会発表や医学博士獲得のための実験につかわれた。彼らにかからなければ、もう少し生きたであろうのに、突然、命を落とした」のが事実である。

 この文章は「老境に入って、猥褻を文学に昇華させる」ことを取り扱うより、微妙な問題であるので詳記する。

この記述の正確さは「白夜」に詳しい。わたしとしては、出会い頭で読んでしまったが、同じ空気を吸った者として、二度と読みたくないものであるが、偉大な作家が若きの日の精神を50年間貫いていることについては「よくも、医師免許取り消しとか逮捕されなかったなー」と呆れてしまった。「なんと、ドロドロとした医学校であり、腐りきった学生」であろうか!

新新・先輩渡辺淳一氏の解剖その九

2009-12-07 00:38:41 | Weblog

      第3部 医学部の暗部内部告発
 
 サンデー毎日が昭和38~40年まで掲載した山崎豊子氏の白い巨塔は、医学部の欲にまみれた内部抗争を描いたもので、大きな反響をもたらしたヒット作品であった。こうした小説は松本清張以来のものであった。
財前教授は悪徳医者の代名詞にもなった。そして、正小説は「転移を見逃した財前教授が裁判で無罪を勝ち取った」結果で終わった。

 あとがきで、山崎氏は振り返る。
《「ところが、この小説の判決について、多くの方々から「小説といえども、社会的反響を考えて、作者はもっと社会的責任をもった結末にすべきであった」という声が寄せられた。作家としてはすでに完結した小説の続きを書くことは、考えられないことであった。しかし、生々しく、強い読者の方々の声に直面し、社会的素材を扱った場合の作家の社会的責任と小説的生命の在り方について、深く考えさせられた」》

 このためか、完結していた小説の続編を書かざるを得ず、財前教授を手遅れの胃がんで、殺すことで幕を引かなければならなかった。 
 これは、山崎豊子の完全な腰くだけである。

大学病院を舞台に、人間の生命をあずかる尊厳な職業であるはずの医師たちの世界が、それとはまったく逆な世俗的な欲望によって汚されている実態を、するどく衝く》小説が求められた。
しかし、山崎氏が放り投げたように医者でないものが、書き続けられるはずがない。

だから、大学を放り出され失意の中にいる渡辺淳一氏は「医学部内部告発」にぴったりの人だった。
 しかし、彼が持ち込むものは、《人間の生命の尊厳(解説の言葉)》を描く作品とは程遠く、ドロドロとした男女関係の話に過ぎなかった。

 フィールディングが医者をからかう
《医者を持って死に神の一味とするものがあるが、これぐらい不当な謬見はない。それどころか、もし医薬によって治る者の数を医薬の犠牲となる者の数と対比してみることができるとすれば、前者が少しは後者をしのぐだろうと余は信ずる。中にはこの点非常に用心深い医者もあって、患者を殺す危険を避けるためにすべて治療の術を差し控え、毒にも薬にもならぬようなものしか処方しない物もる。そういう中には、大真面目で「自然が自ら手をくだして働くに任せるべきで、医者は傍らに立って、いわば上手にやる自然の背中をたたいたり声援してやったりすればよいのだ」ということを金言として口にしている者もある》
      
      第1章整形外科教室

 彼が書き出したものを整理すると、十年間所属していたその大学病院は、劣悪な内容のものであったことが浮かび上がる。
医者の時期を経験したことのある作家は誰しもが、自身の若かった日々を書き出す。

《私はこれまで数えきれないほどの人々にみずからメスを加え、血を見、神経を探し、骨に触れ、そして死をみてきた。人体に対して、初めの三年間は恐怖と驚異だけであり、次の三年は夢を持ち、次の三年はその従順さに絶望した。そしてこの頃になって、ようやく自然科学が実はロマンと隣り合わせなのだと思いはじめている。この作品集はそうした意味で、私の医学と人間を結ぶ不安定な足どりということもできる》

 ここまでは格調高いが、エピソードに追われて、後が続かない。

持ち前の「作家の品格」を知らずに露呈してしまうものである。

しかも、以下のように自分を弁護する。

《人はそれぞれ自分の立場に応じて自分を正当化させる理由を考え、それで納得しようとする。それは悪いというより、生きていく上の知恵として、誰しも必要不可欠なものかもしれない》

 素直な記述から、当然、医学博士である若い整形外科講師が、教授を先頭とした集団で、患者だけのために、全力を傾注している姿が目に浮かぶ。

 しかし、渡辺淳一氏が愛する整形外科教室から「心臓移植事件」で大学を放逐されて、水商売の女性裕子と東京へ逃げた時であり、ストーカー行為と住居侵入罪で警察に手錠をかけられたり、同棲していた女性に自殺未遂を起こされたり、という風にどん底の生活を余儀なくされていた時期に書かれた小説を見れば「医学部が極言すれば『医療地獄』であった」ことが、記述されている。彼が直面していた精神的状況からすれば、すべてが事実であろうと考える。

      01無能な新米医師を田舎派遣
 
 田舎の大学がすることで、大きな間違いは、地方の医療サービスを軽視して、何一つ医療技術を持たない新人たちを、平然と派遣することである。
 渡辺氏たちは学生でありながら、地方の病院で無資格診療をしていた。
 
《伸夫は、二三日経つと、自分がニセ医者であることを忘れて、病院のアラを指摘する。院長が医療技術を持っていないとか、患者の言いなりに診断書を出す、とか決めつける。《「これだけ頼んでも駄目なのかね」そういって睨むと、「おい、若い医者」といった。伸夫はきこえぬふりをして、次の患者のカルテをとりあげたが、男は前から動かなかった。「なんでい、藪」「なにっ…」伸夫が睨み帰したとたん婦長があいだに入った。(中略)男に悪口をあびせられたのも腹が立ったが、それ以上に、院長も看護師も、患者に甘いのが不愉快だった》

 ここで分かることは、無資格診療をしていることに全く反省がないこと、彼が患者本位の姿勢をしていないことである。

この見方によっては傲慢とさえ取られかねない態度は辞めるまでの十年間続く。

 整形外科に入って、無知の医者が患者を技術習得のためにモルモット扱いする様子が「白夜Ⅰ.」の後半に書かれている。なにもできないのに数カ月で、地方の病院にアルバイトに行くことが決まっている。このために、最低限の知識を詰め込まなければならないからだ。
 
《地方の人々には失礼だが、医師にとって地方の病院にでるのは一種の試練の場でもあった。
整形外科医として、アキレス腱と簡単な下腿骨折の手術だけしかできない状態で田舎に医師としていく。

「僕らみたいな医者でもいいんでしょうか」「そりゃ、いないよりましだろう…」》
     新米医者渡辺淳一氏も田舎へ。

《炭鉱の病院では、伸夫は医師ということで別格存在だった。給料は宿舎での住居費や食費は病院負担で無料なうえに、六万円近くになった。妻子をかかえた三十半ばの職員の給料が二万円そこそこだからかなりいい。独り身では遣いきれない。
(中略)大学の新兵がここにくれば大きな回転椅子に座って、ふんぞり返ることもできる。伸夫は一人前の医師になることが、これほど快適なものだとはしらなかった。

しかし、そうした新卒の医者の高揚感は落盤事故発生で吹っ飛んでしまう。渡辺新米医師には何らの医療技術がなかったのだ。ベテラン看護師の後ろでおろおろとするだけである。

 《(中略)だが、そう思えば思うほど、自分の医療技術のまずさが気になってくる。なにもできないのに、こんなにいい待遇を受けていいのだろうか)
【上手にも下手にも村の一人医者】
  
 診察治療に全く自信がないわけで、大事故で患者が運ばれてきても、パニックに陥るだけである。多くの失敗を重ねる。
 
《腰抜けを腰痛骨折と診断したのもお粗末だったが、外傷性気胸を治せなかったのも悔いが残る。

もし昨日のうちに肺にサクションを挿入すれば治ったかもしれない。どうせ死ぬのならやってみるべきだった。
 
 次々に目の前で運び込まれた人々が適切な加療を受けないままに死んでいく。
(中略)伸夫はそのなかでしっかりと目を開いて死者を見ていた。この人は初めから自分一人に委ねられていながら、なに一つ成すすべもなく、死に追いやった。自分がもう少し早く決断していれば、あるいは助かったかもしれない。それ以上に、気胸を治す方法を知っていれば楽にすることができたかもしれない。
伸夫はいまはじめて、自分が一人の運命を握っていたのを知った。自分が決断するか否かによって、患者の命から、その家族、そしてまわりの人達の運命まで変った》

ついには診療所に着いたときすで死んでしまっていることを願う。
【主人公はひどい医師である】

《病院にきたとき死んでいたのならなにもすることはない。死後の清拭と死亡診断書を書くくらいなら自分でもできる。それならボロを出さなくてすむ。「みんな死んできてくれるといい・・・」  
伸夫は山を見ながら切実にそう思った》
 大事故の陰に隠れてしまっているため個人が死んでも、医療行為を疑うものはいない。

 「運命だった」「仕方がなかった」と家族は慰めているかもしれない。(中略)でも本当は運命ではなかった。完全に他に方法がなかったとはいいきれない。  
考えるうちに伸夫は次第に怖くなってきた。三十九歳の男を追い込み、その妻を未亡人にし、子供を遺児にしたのも、すべて自分の責任である。
あのとき「やる」と一言いえなかった。その決断の弱さが、幾人もの人達の運命を変えてしまった。
気がつかぬうちに、自分が多くの人達の運命を左右する立場にいた。
【代脈がちと見直した晩に死に】
 
 (中略)その責任をどうしてとればいいのか。伸夫は遺族の前にいって謝ろうかと思った。

 あなたのご主人は本当は助かることができたかもしれない自分が決断すれば・・だが、いまさらそんなことをいうのは、相手を悲しませるだけかもしれない。それに死者が甦るわけでもない。いまはじっとしているより仕方がない。なにも考えず、悪夢の思いが醒めるのを待つべきかもしれない。
【若後家のたよりになってやりたがり】
【あれまでの寿命とごけのほぐれ口】

 彼等はなにも知らないから、運命だと諦めてくれる。実際いまのとなっては自分にそういいきかせて諦めるより仕方がない。
しかも本当は運命ではなかった。完全に他に方法がなかったとはいいきれない。
【能い後家ができると噺す医者仲間】

 自分は、無資格医者にも劣る医療技術しか持たぬにも拘わらず、金のためにず、炭鉱の町などに行き、殺人に近い医療ミスを繰り返しているのに、周囲を攻撃することだけはやめない。

 特に、大学以外の医療機関を攻撃する姿勢には異常なものがある。
なかでも根室済世会病院はなぜか、実名で劣悪な地方病院として指弾されている。

《医師達はみな親切で、病院は小さいだけに家庭的雰囲気もあったが、のんきで、いま以上に抜き出ようという意欲のある者はいなかった。 
彼等の目標といえば、せいぜい適当な時に病院を出て、開業するといった気持ちしかなく、診療が終わっても遅くまで研究したり、論文を書こうといった医者はいなかった。

「いっそのこと、まわりが全部氷に囲まれたらあきらめもつくんですが、それまではいつも、こんな街からは逃げ出そうと思うんです」》と。しかし、この中に劣悪と非難される内容は記されていない。単に、大学病院でないというだけである。渡辺氏が金のために炭鉱の診療所などにほとんど何の医療技術も持たないままに、行っている。そして前記のような医療ミスを繰り返している。このことこそ攻撃されるべきである。

 彼は大学病院を非難したのは、自分が切り捨てられた後に書いた「無影燈」が最初である。
       02教授絶対の構造
国民は大学病院は高度の医療のために存在すると信じている。
「診療・教育・研究」が三本柱とされているが、しかし、本当の姿は研究所に過ぎない。

 大学に所属する医師はほとんどの時間を「教授のテーマ研究の下請け、自分自身の研究」に使う。それ以外は「自分の生活費と教室の維持費の確保のためのアルバイト」に費やす。
 
《医局に入ってすぐ、伸夫は教授に、『大学は診療機関であるとともに研究機関だ研究する意思のない者は大学にいる必要はない』といわれた。》
《しかも臨床に即した研究は「無い」とはいいえない程度である。だから、診療に割く時間は極少ない》
患者を大切にする気持ちなど、教授にはなく、その姿勢がすべての医者の精神を支配していた。
だから、患者の不満や付随するトラブルは毎日のように起こる。
患者《「俺は昨日、汽車できて、昨夜は一泊してこの病院に来たんだ。大学病院というところは、患者を待たせて威張ってやがる」》
医者《「待たされて、帰った人もいるそうです」「帰りたい人は帰ればいいんだ。そのほうが患者もへって俺たちも楽さ」  

 医者「大学病院ってとこは、町の診療所じゃないんだからね。すり傷や打身など相手にしてちゃ、やっていけないんだ。
町医者で手に負えない、本当に難しくて、重症の患者だけきてくれればいいんだ。その他は、どんどん帰ってもらって結構さ」
医者「帰っていくのは軽い、つまらない患者ばかりさ。その意味では、待たせるのも、満更意味がないとはいえないな」》 

 なにげない仲間の会話には患者を人体実験にすることへの反省はない。
《股関節脱臼の手術にしても…いわゆる定説がなく、各医師が暗中模索しながらゆっているというのが実情であった。こういう分野は未知な部分が多いだけに、研究するには絶好で、医師達の好奇心をそそるが、反面患者が一種の実験材料にされる危険がないともいいきれない》
【ないともいいきれない、とは実験材料にされた、読むべきである。】
そこには、誤診、治療方針の誤り、手の失敗、というさまざまな医療ミスの連続が無数に述べられている。
 
 《「ちょっと悪性を思わせる所見があると、なんでも切断、というのはどういうものでしょうか。あれでは、責任逃がれ、といった感じがするんですが」吉田医師「まあ、あれはどちらでもいいんだ」「しかし、教授はきっぱりと『切断する』といいましたよ」「そこが教授の凄いところさ。わからんことをわかったように言う。」
《同期の内藤が「わたしは切断したほうがいいと思います」と答える。(中略)伸夫は腕組みしたまま心の中で舌打ちする。内藤のやつ、俺が切断に反対したものだから、逆に切断を主張している。(中略)先程の伸夫の意見に対して、「それで支えられるかね」と教授がきき返したことから、教授の意見は「切断」と察して、連中は早まわりしているのかもしれない。
切断すべきか否かは、神様だって決められやしない。
「まあ、あれはどっちでもいいんだよ」「でも、圧倒的に切断派が多かったじゅありませんか」
「数では差がついたが、あれは正直なところ教授だってわからないんだ」
「しかし、きっぱり、『切断する』といいましたよ」「そこが教授の凄いところさ。わからんことをわかったようにいう。これはなかなかできるものではない。しかし。上に立つ者は迷ってはだめだ」「でも、あの一言で、患者の運命が決まったんですよ」「そういうのを、平気で決められるようにならないと大物の医者とはいえないんだ」