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渡辺淳一先輩の解剖
ヨーロッパ四万キロドライブ

新新・先輩渡辺淳一氏の解剖その19

2009-12-10 23:23:40 | Weblog

05世紀末の性行動

歴史は「改良型子孫を残せ」という遺伝子の指令に忠実である人間の行動の積み重ねともいえる。渡辺氏のが出現が世紀末だからといって、特別、風紀が乱れるというわけでもない。

フィックスの大著「風俗の歴史」にも「世紀末の風俗」という巻があるにしても、風俗の乱れはいつの世にもある。

しかし「世紀末」という言葉は「何があっても不思議がない」という雰囲気が
ある。事実、十九世紀の末期には、《大きな混乱が生じ、ブルジョワの妻は徐々に性に目覚めて、性的な存在と化していき、一方、多くの娼婦たちは立派な奥方たちと見分けがつかなくなる。

取り締まる警察官たち自身にも、何が何だかわけが分らなくなってゆく。
純粋な姦通と金銭ずくの姦通との境界が、警官たちには理解できなくなるのだ》とある。
06性交の快感
紀元前三千年のメソポタミアには「自由な」愛の行いをさまたげるどのような禁止も抑圧もなかった。
そこでは、男と女のほんらいの使命、嘗ての言葉で言う「さだめ」とは、神々の根源的な意志と照らしあわせて、結婚であるとされていた。そこで、つぎのような人物は、力のない不幸な生存を運命づけられたはずれ者、とみなされていた。つまり「妻もめとらぬ、子もはぐくまぬ(…)独り身のままの未熟な男。そして処女を破られることもなく、子をはらんだこともない未熟な女、夫によって服の留めをはずされ、だきしめられるために服をぬがされたこともなく、両の乳房が乳でゆたかにふくらみ母親になるまで夫に歓びを味わわせる経験ももたぬ未熟な女」と書かれている。

シュメール語では「男が愛人をまちがいなく絶頂にまでいたらせることができる能力」を「ニシュ・リッビ(心臓がもちあがる)」といった。
このころの石版には多くの「祈り」が刻まれている。そこでは「愛する女は燃えあがり、いささか狂おしくいましめを解かれ、わけのわからぬことを口走って、欲望と快楽にほえたてる」姿が記録されている。

 第一の祈りは「わたしをうばって。こわがっちゃだめ。おそれずに経たせて。イシュタル(愛の女神)とシャマシュ、エア、アサッリュイの命により。このやり方はわたしが考えたのではない。まさに愛の女神イシュタルのやり方なのだ(以下略)」「サアふるいたつのよ。ふるいたって。もりあがれ。もりあがれ。(中略)野羊みたいに六回も。牡鹿みたいに七回も。雄うずらみたいに十二回も。さあやってちょうだい。(以下略)」

 渡辺淳一氏が発見したと錯覚している「性愛はエクスタシー」によってのみ完成する」についても、遥か四千年もの昔、メソポタミアの人びとは人の心の秘密をすでに歌っていた。
「やさしさから激情へ、甘い快楽から肉欲へと向かうイナンナとドゥムジの愛の詩」を通して。大恋愛の結末はいつも悪いに決まっていることを。
(愛とセクシュアリティの歴史・福井憲彦ら訳・新曜社)
07性行為の危険性
このように、快感は、生殖行為に対するご褒美であるから、目的を逸脱した快感だけを目的とした性行為過多が安全であるわけでない。
我が国の川柳では腎虚と表現される。
【よそでへりますと内儀ハいしやへいひ】
【新世帯ひとのおもった程はせず】
と、亭主の枕元で女房が泣き崩れるように、原因は「外の女」である。
「女房だけで腎虚に陥る」ことも稀にはある。
【腎虚をばかたっくるしいやつが病み】
【胸倉を取った方から涙ぐみ】

なかにし氏との対談も《そういうものを、男はセックスの度に実感する。だから男が愛を書くと、どこかに死の影や虚無が滲んでくる。そして虚しいけど、また挑むという、大げさに言えば男の恋愛という行為のなかには、なにか哲学的な思考をせざるをえないようなところがある。このあたりが女性の生理には、ないところかもしれない》と。

この「すべての動物は交わりの後悲しい」は《Omne animali post coitum trste》として有名な語句である。彼が言い出したわけでない。
だから「すべての動物はまじわりのあとで悲しい」と、昔から言われていますね、とすべきである。

最初に性行為の危険性を憂慮する文書を発表したひとりである十八世紀医学界の第一人者S・A・Dティッソは《人類の増殖のためにはある程度精液を放出することはやむえないが、これ以外は注意深く精液を節約し、ぜったいに生殖という建設的な目的だけに使うように男性に忠告した。男性の行為の中でもっとも危険なもののひとつは、『マスターベーション』と呼ぶ、生殖を目的としない行為で精液を失うことだ。この行為で精液を失えば「思考力がにぶり、気が狂うことさえある。体力が衰える結果、せき、発熱、体力消耗(すなわち結核)激しい頭痛、リウマチの痛み、痛みを伴うしびれ。顔に吹き出物、鼻、胸、ももに化膿性の水泡ができ、痛がゆい。性的不能、早漏、淋病、有痛性の持続性勃起症、膀胱腫瘍などにより生殖力が低下する。腸の失不調、便秘、痔など」が起こる。「脳や神経の病気、麻痺状態、痴愚状態が突然起きる」》という人もいる。

ラルマンは《精子を失いすぎると最後には狂気につながる。親たる者はたえず目を光らせて、若者がエロ本を読んだり、淫らな想像にふけったり、自慰(オナニー)をしないように注意しなければならないとした。》

【すこし解説】渡辺淳一氏は、大変な肯定派であつて「幻視」ではくどいほどその必要性(?)を説いている。妻を貰うと「自分の波長に即したマスターベーション」ができなくなるのが一つの難点だ、と述べる。

自慰の危険性についてはヘルマン・ブールハーフェも述べている。
《精液の無分別な消費は倦怠感、体力の低下、動作の鈍化、ひきつけ、体力消耗、乾燥、発熱、脳膜の痛み、痴呆その他の害をもたらす。》
彼を引き継いだ学者はセクシュアリティのある側面を病気と同一視する理論を展開した。《病気には過度な興奮からおきるものと興奮不足から起きるものの二種類がある。キスとか親密な接触といった、男女の性的なふれあいは神経を興奮させるが、性交でも度を越さなければしばしのやすらぎを得ることができる。ただ、あまりに頻繁にオーガズムを感じるとエネルギーを放出しすぎるおそれがあるし、また、精液をあまり多量に失うことも避けるべきである。これまでにも小説家や詩人、宗教家などはしばしば、放埓な女性と性交渉をもつと、視力の低下、骨髄の消耗、知力の衰えを招くなど》と言っている。

第4章 小説家の品格
01 きちんとした作家
スティヴンソンが述べているが
《(旅は驢馬をつれて・吉田健一訳岩波文庫)どのような本でも、本質的には、それを書くものの友達に宛てた廻状である。彼等のみが著者の真意を理解し、どの頁にも個人的な音信や、友情の證しや、感謝の言葉を見出す。この場合に一般の読者は郵送料を出してくれる、親切な後援者である。我々は我々の友達以外に、何を誇りとすることが出来ようか》
荷風もまずは自費で数十部つくり友達に贈呈することが多かった。
 今は創始者の志を忘れ、営利を目的とする出版社と結託した小説が世に溢れている。マスコミに踊る「大好評十四万部突破、反響続々六十一万部突破、二百五十万部突破」などの活字で「読まなければ遅れる!」と煽り立てる。読む途中で、無駄な金を使ったと分かり、初めて「消費者」という単語が「せっかく稼いだ金銭を浪費する」という意味と悟る。
 つまり、作家が「読者である自分を友達として考えている」ことが伝わるか否かに、すべてが掛かる。
しかも、届けられた文は面白く愉快でなければならない。
 バルザックは《小説の第一条件は、読者に興味を起こさせることである。が、そのためには、読者に錯覚を起こさせ、作者が語って聞かせてくれていることは、実際にあったのだと、読者が思いこむように仕向けなければならない》と述べている。
多くの小説の主題は人間性の種々相を取扱い、友人たる私に至福感をもたらすためには、作家は《視野の広さ、余裕のある人生観照の態度、精神の健康さが備わってなければならない》
 《メスを捨て、多くの人々の魂を救おう》と決心し、この言葉を読者に約束した限り、貫くか、黙るしかない。
マルクス・アウレーウス
これ以上さまよい歩くな
終局の目的に向かっていそげ

「生き残るために すべてを書き出す」
昔から《自分ひとりで一場を支え、客を楽しませる芸を見せ得るとおもうほど思い上がった自惚れをいだく者がございましたら、彼らが、己のみが阿呆として描かれていると考える幸せに巡り逢わんことを、望むばかりでございます》

《医者で文学者をかねた作家といえば、わが国の文豪、森鴎外、ロシアのチェーホフ、そしてドイツのハンス・カロッサなどが想起される》とあるが、特にこの業界に医者が多いわけではない。
渡辺氏の作品に見られる「業界専門用語羅列による目くらまし」が使用できるという特徴がある。
 渡辺淳一氏はカフカを勉強したらしいが、目指した作家としてはカロッサというより、やはり、クローニンであろう。
02クローニンの品格
《鴎外やカロッサが純文学的にもきびしい態度をとり、チェーホフが苦渋に満ちたユーモアをもって創作にあたったのに対して、クローニンはもっと平俗的な、もっと身近な、いわば世間話をするような気易い調子で、医者と患者、もしくは医者対社会の問題を、逸話風に叙述することによって、読者に直接あたたかいヒューマニズムと正義感を訴えようとしているといってよく、したがってつねに、いい意味での大衆作家的観点に立って、社会および社会のなかに生きる人間の喜怒哀楽を描きつくそうとする作風といえるでしょう。
医学というものの本質をみきわめ、あるいは医学的体験を生命の根源にまでさかのぼって反省し定着する――いわば魂の実権を通じて主体的なものを探り、そこから濾過されたものだけを描くといったカロッサの手法とは、これは次元も世界もちがって、あくまでも人道主義的な観点から、社会の悪を悪として描くのがクローニンの創作態度である。
したがって読者はそこに自分たち自身と同じ次元、同じ世界に住む人間を読みとって、そこから直接的な強い共感をうるに至る》
渡辺淳一氏にはハンス・カロッサはあまりに遠すぎた。
カロッサの「若い医者の日」は「幼年時代」「青春変転」「美しき惑ひの年」に続く作品で自叙伝的物語の最後を飾っている。しかし、渡辺淳一氏は六十歳以上になって大成功を収めるとは想像もしなかったであろうから、「どんな目的で書くか」「その内容がどんな意味があるか」などを考えなかったであろう。
 若いころの志が変化していく悲しさをクローニンが述べている。高名になるにつれ、初心を忘れていくのが世の常である。
クローニンは自分の人生を振り返り、ある時、妻が言った言葉を常に忘れない。 《彼女はまっすぐ、私の眉間を見すえた。「あたしは、あの鋲底靴をはいていたころのあなたのほうが好きだったようよ。あのころは、あなたも患者のことをよけいに考えて、お金のことなんか、あんまりかんがえなかったんですもの」
私は髪の根本まで真赤になった。私は彼女を客間からたたきだしたい気持ちだった――「なんだって?お前は満足ということを知らんのか」と―しかし、われながら驚いたことに、私は沈黙をまもっていた。やがて長い沈黙のあとで、私は口の中で言った。「たぶん、お前のいうとおりだろう・・・あのころのことは、いつまでも忘れてはいけないんだ・・・おぼえておくだけの値打ちのある時代だったな」》
我々も、こう言われて体中が真っ赤になった経験があるであろう。
 渡辺淳一氏は「メスで患者の命を救うことを諦め、文を書いて人々の魂を救おう」と決意したはずであるから、ある瞬間までは、こうした人々のようになりたいと望んだであろう。
愛欲描写の厚い黒雲が途切れた時に「人の魂を救いたい」などという言葉がでてくる。純粋な美文と女体への執着描写が入り混じる。
「愛の流刑地」の十七の章節は(邂逅、密会、黒髪、蓬莱、風花、淡雪、春昼、短夜、青嵐、梅雨、花火、風死す、病葉、夜長、野分、秋思、雪女)では「エロ作家ではないぞ」という分断された叫びが聞こえる。「幻覚」では「墓地の桜、カウンセリング、昏睡状態、強迫性障害、ラブホテル、適応障害、不能治療、異常人格、過剰投与、突然死、証拠保全、スキャンダル、人格崩壊、朧月夜」と進行していく。
これらには医学博士は精通しているが一般的ないため、それぞれの場で、男性看護師が「私は医者でないけれど」とか「本を読んだ知識であるが」とか、彼の作品では稀でない言葉の後に、詳細な説明がある。
本の目次であり、決して渡辺淳一氏の生涯を自分でまとめたものではない事はいうまでもない。
 しかし、これらの単語から「友達に、どんな話をしよう」という事が全く伝わらない。
クローニンは《事実をそのままに叙述した従来の自叙伝とは、かなりおもむきのちがう、著者独自の人生記録を展開しているといっていいと思う》と解説されているが、その「人生の途上にて」の目次と比べてみる。《(竹内道之助訳三笠書房)臨床講義・精神病院にて・貧民街の白薔薇・インド洋上の聖者・最初の手術・しょう紅熱事件・咳止めの薬・真紅の奇跡・誤診挿話・タムさんと後家さんの話・国民性の一典型・ミス・マルカム・運命の賽の目・老医師の死・新婚初夜・白衣の天使・星からの電話・動脈瘤の歴史・三十八の棺・開業医となる・虚栄の市・尼院長と夜の女・大司教と下僕・遺伝の悲劇・ある自殺未遂・不貞の妻・結婚と家庭・才能とアルコール・医業をなげうつ・処女作誕生・田舎医者・宗教・ヴェローナの二紳士・山上の教会・貧者の一燈・霊の都・廃墟に芽ぐむもの・ツグミの歌・アメリカとアメリカ人・神とその存在・わが信条》である。
そして、「医師および作家の自叙伝」と副題が付けられている。
そして、この作品の書き出しは《その四月の阿蘇、屋根裏の寝室で目を覚ますと、ゆうべおそくまで勉強していたので、頭がまだぼんやりしていたが、私はいやでも自分の経済状態を考えてみずにはいられなかった》であり、我々を友達と迎え入れてくれている心が伝わる。
そうした(みんなが目指す)文学とはどういうものか。少し長い引用になるが、このページ以降続く汚い引用の前に、清らかな空気を味わっておきたい。
《(試験)この運命的な書付の脅威を目の前にして、私が最初の試験官としてあたらなければならないのは、モーリス・ギャズビー博士という、ポーモントが不安そうに話していた人だったので、私はすっかり怖気づいていた。
やがて、ものぐさそうな冷淡な態度で、私を次の試験官に引きついだ。それは国王の侍医、ドウソン卿であった。
私は立ち上がって、顔色も蒼ざめ、心臓をはげしく波打たせながら、部屋を出て行った。今週のはじめに感じていた疲労や、無気力などは消えてしまっていた。合格したいという願望は、ほとんど必死にちかいものだった。しかし、ギャズビーが不合格にするにちがいない。と私は信じた。目をあげて見ると、ドウソン卿が、親しそうな、ちょっとユーモラスな微笑をうかべて、私を見ていた。「どうしたんだね」と彼は思いがけない質問をした。「なんでもありません、先生」と、私はどもりながら言った。「ギャズビー博士のほうの成績が、あまりよくなかったらしいのです―それだけのことです」「そんなことは心配せんでもいい。ここにある標本をごらん。そして思ったとおりなんでも言って見たまえ」(中略)
ちょっと沈黙がつづいた。私はこの国王の侍医から、やわらかな皮肉をいわれるものと覚悟して、目をあげた。彼は妙な表情をうかべたまま、しばらくの間、黙って私をみつめていた。
「きみ」と彼はついに言った。「この試験場で、独創的なこと、真実なこと、わたしの知らんことを言ったのは、きみがはじめてだ。わしはきみにお祝いを述べよう」私はまた真赤になった。「もうひとこと答えてくれたまえ―これはわし一個人の好奇心によることなんだが。きみはだいたいの主義として、どんなことを考えているのかね。―つまり、きみが自分の職業を実際にもちいる場合、抱いている基礎的な観念だね」
私が必死になって考えている間、沈黙がつづいた。やがてついに、いままで自分がつくりだした好結果も、これでみんなぶちこわしだと思いながら、私はだしぬけに言った。「ぼくは―ぼくは、どんなことでも、既定の事実として考えないようにと、たえず自分に言いきかせているつもりです」「ありがとう―いや、たいへんありがとう」しばらくの後、私はほかの受験生とともに階下へ行った。 
ついにそれも終わった。午後四時、私は疲れきった憂鬱な気持ちで、外套をひっかけながら、クローク・ルームから出てきた。すると、広間の大きな暖炉の前に、ドウソン卿が立っているのに気づいた。わたしは何気なく通りすぎようとした。ところが、ドウソンは仔細ありげに手を差し出し、ほほえみながら話しかけ、私がついに―ついに、英国医学会の会員となったことを知らせてくれた。ああ、合格したのだ!合格したのだ!私はたちまち元気を快復した。頭痛もけしとび、疲労なんか忘れてしまって、輝くばかりにいきいきとしてきた。
(中略)その瞬間、人生がいかにいいものに思えたことであろう。この喜びを、深く愛するものと共にすることは、なんと素晴らしいものだったろう。最初、私たちはお互いに口もきけなかった。(以下略)
人生に役立たなければ文学ではない。
少しでも役に立つことを願いながら書かれるものであろう。私小説でも通俗小説でもそうだ。
反対に性的刺激を目的としたものは、うわべがどんなに華麗な文章でも性愛行動へ向かったものはエロ小説である。
特に斜陽になってきた月刊・週刊雑誌は猥褻領域で活路を見出そうと計画して、前に述べたように、編集長は若い無名作家たちを採用することの条件として、「二度、濡れ場の挿入」を要求した。
弱い立場の作家が反抗できるわけがない。異常な場でのレイプや性行動を指示された若い作家の末路は、誰もが推測する通りとなる。
つまり、使い捨てられるのである。
金銭や名前の大書に拘らない作家はスタンドを消した後は書かない。なぜなら、みんな同じだからである。「わぁー、とか、へぇー」とか、「あんな貴婦人があんな事を」なんてーことは五千年前に出尽くしている。

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