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渡辺淳一先輩の解剖
ヨーロッパ四万キロドライブ

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新新・先輩渡辺淳一氏の解剖その27

2009-12-24 00:59:21 | Weblog
渡辺氏は「自分は常に正しく、万能であるという姿勢」や「男が与える行為で、女性は恍惚に導かれる展開」そして「女性は無限、男は有限との主張」を逆説的に書いているのであろう。
何かが、欠けていることに気づかない元講師ではないから。
それは自分の姿を隠しているからであろう。渡辺淳一氏が攻撃されたり、パンツを脱がされたりあるいは愛撫されることに触れられていない。
愛撫されて、のた打ち回る渡辺氏の姿を想像されるのを拒否している。
村山さんは、自慰のシーンをくどく書いているが、渡辺氏は「自慰をした。少したってまた自慰をした」としか具体的な方法には触れない。
読者は、「何のために、そしてどんな方法で高名な作家は自慰をするのか」を知ることができない。
09攻撃に弱い性質
官能女流作家は自分が引き揚げたようなものだから、たとえば「村山由佳さんとの一流官能雑誌・小説すばるでの対談『作家たるもの肉食系であれ』」では、彼女たちは「ハイハイ」と聞いている。
しかし、なかにし礼との対談では、そうはいかなかった。始めはおとなしくしていたが、なかにし礼氏が渡辺淳一氏の意見を否定しはじめた。《なかにし礼:先生(先生というと、心を許す弱点が医師にはある)はサディスティクに自分を追い詰めてマゾスティックに書くという姿勢を、哲学として貫いているからね。
渡辺淳一:あなたの場合も少なくともセックスは正常だと思うんだ。
(な)ぼくが?
(渡)うん、基本的に。
(な)正常かなあ・・・
(渡)いや、そうじゃなくて、谷崎的なものがないと言う意味だよ。
(な)いやいや、それはね、渡辺さんは僕のこと、わかってないかもしれない。
(渡)そうかあ。まあ、そういう異常なところがあるのなら、さらにいいけれど。
(な)でもね、はっきり言って、僕は全然ノーマルじゃない。渡辺さんに宣言しても、しょうがないんだけど。僕は完璧にアブノーマルですよ。日常の恋愛経験において。
(な)だって、セックスって平凡なものですよ。他者との差別化がなかったら書く必要はないじゃないですか
(渡)そう言い切ると、アブノーマルづくしになってしまうけど。とにかく正常なセックスを情熱かけて非常に難しいね。そこから正常をこえた、異常で本質的なものまであげていくのはね。》
渡辺淳一氏の思考回路が止まり、パニックに陥っていることがわかる。
なかにし礼はこのあたりで、渡辺淳一氏が「己の身の丈で世間を推し量っている」人間に過ぎないと看破したのであろう。
彼の作品は常に「女性に対して能動的である。彼が「女性に性的な愛撫をされて、恍惚となる場面はひとつもない」つまり、口では相思相愛と叫んでいるが、
所詮、作家の話を意味深くさせようとしているに過ぎない。
この「ひとりよがり」は自慰(オナニー)だけでなく、あらゆる場面に出てくる。「男というものは・・・」「僕は医師だからわかるが・・・」「僕は医者ではないから・・・」
渡辺劇場はマリオネットだから、劇は右手と左手だけで展開されるから、異論とか反抗はない。
このため、突然、予期せぬ攻撃にあうと「逆切れ」するか「オロオロ」としてしまう。
10小説ではなくマリオネット
マリオネット劇であることはどこでも証明できる
《どのような事情があるのかわからぬが、これほど待っているのに、どうして電話の一本もよこさないのか。なにやら彼女がもったいぶっているような気がしてきて、文句の一つもいってやりたくなる。
「勝手にしろ・…」久我は思わず舌打ちをして、改めて自分が強く、梓を求めていることを知る。
「要するに、梓が欲しいのだ」つぶやくうちに、自ずと「邪念」という言葉が浮かんでくる。
去年も今年も、変わらず梓を愛しているが、その底にはあきらかに邪念がある。だが次の瞬間、久我はその邪念こそ、男の生きざまそのものだと思う。
なにやら開き直っているようだが、邪念があるからこそ、人は前向きに力強く生きていけるものかもしれない。邪念というと邪しまな印象が強いが、広く考えたら、それこそ生きとし生けるものが共通に抱く煩悩である。そして、その煩悩こそが、愛の原動力であり、梓への滾る思いの原点である。邪念が悪いわけでない。
「去年今年変わらぬはそれ邪念のみ」
この句は、偽らぬ自らの姿である》
11男も渡辺氏、女も渡辺氏
例えば、「メトレス」で修子をレイプする場面である。《修子が遠野を知ったのはいまから四年前である。二十八から三十二歳までの、女が最も揺れるときに、愛を受け入れていたのだから嫌なわけはない。
「お願いですから・…」「駄目だ」「いやよ」叫んだ瞬間、修子は激しい平手打ちを頬にくらってよろめいた。
それからあとの行為は、正に獣そのものであった。初め修子はそれを憎み、必死で抵抗した。全身をばたつかせ、伸びた爪の先で彼の腕といわず顔といわず引っかいた。べッドに仰向けに倒されて両の胸を締めつけられたとき、修子はこのまま息絶えるかと思った。一時は首まで締め(本当は絞め)られて、意識が遠くなったような気もした。だが、その苦しさのなかでも、憎んでいた。
(中略)
意識のなかでは、奪う遠野を憎んでいながら、体は徐々に男の動きに従っていく。こんな反応を見て、男は女に自信を抱くのかもしれない。とやかくいっても抱いてしまえばそれまでで、女は体の誘惑に負けて最後は大人しくなる。それは単なる男の想いあがりでなく、女のある一面を表しているようである。
耳元で囁く「好きだぞ…」くすぐったさを交えて、その声はいましがた狼藉を働いた男の声とは思えぬほど、優しさに満ちている。
【解説】この部の後半は第三者の視点である。それゆえ、渡辺淳一氏の話は「マリオネット」劇であると言う所以である。
しかも、ステージで人形が行動しているのに、渡辺淳一氏が現れて、いろいろと注釈をつける「マリオネット劇」である。
 化身でも霧子をレイプするとき、主人公の視点と作家の視点が交互に出てくる。(参考・レイプの章)
口では相思相愛と叫んでいるが、渡辺淳一氏がひとりで、男になったり女になったりしているだけである。
 独りでマリオネットをしていると考えればよい。
《「行きたくないんだが・・・」「いいのよ、おじさま」
すると突然、絵利子がいう。「おじさま、本当にありがとう」
「おじさまのおかげで、とっても楽しかったわ」
「君になにかプレゼントしたいんだが、なんでもいいから、いってくれ」
「あたし、もらってるからいいわ」
「いいわ、なにをいただかなくても、あたしがちゃんと覚えているから」「覚えている?」「あたし、妊娠までしたんだから、おじさまのこと忘れることはないわ」塔野はものもいえず目を伏せた》
12万能感と挫折感の落差
作家の性格の弱点はこの落差が大きいことで、野望が達成したときと失敗したときであるから、私のような「鬱と躁」とも少し違う。
詩人と言われると至福になる教授の引き立てで講師となった。(中略)
《いまや伸夫は順風満帆で外科医の道を突っ走り、若い後輩のなかには、伸夫を、一種羨望の眼差しで見つめる者もいる。(中略)伸夫への憧憬は若い医師だけでなく看護師から付添いのおばさん、はては患者達まで、若くして講師になった医師として、一目おいてくれる。それらを思うとわれながら自分の幸運に感謝したい気持になる。
【薬箱初にもたせてふりかへり】
(やつと朋をとった医者、晴れがましくも、大得意でふりかえりながら)
若くして講師となるが、いろいろと野望の障害になる周辺のことが見えてくる。《(白夜)当初こそ、つとまるものか、心配でまわりの目を気にしたが、一年経つと自身もついてきて落着いてきた。
(だがその至福の頂点にいながら、ときにその幸せが不気味に思えることがある。
(中略)いまはたしかに恵まれているが、こんな状態がいつまでも続くわけがない。これはいっときで、やがて暗いときがくる。そんな醒めた重いが、ふと心の奥で芽生える。
(中略)「若いのに…」という一点において、伸夫の至福は成り立っている。(中略)大学に残る以上、教授にならなれば意味はないが(中略)伸夫の上には、優勝な助教授もいる。彼は五歳上だが、伸夫のいまの実力では適わないし、単純に考えた場合、伸夫より助教授が教授になる確率が高い。少し落着いて見廻すと、伸夫の前途はかなり多難のようである》
【この部分も「伸夫」を「わたし」に置き換えると、渡辺淳一氏の心の動きが明確になってくる。なぜなら、渡辺淳一氏の成長を理解しようとする読者には伸夫という男が、このように「ぐちゃぐちゃ」というか解らないから】》
その彼が心臓移植の渦中に自ら飛び込み折角の講師という位地から追放される。
《(何処へ)とくに悠介の場合、十年間勤めてきた大学病院の医師という職業を捨てなければならなかった。
それも三十五歳で講師という比較的恵まれた地位についていただけに未練もあった。
昭和四十三年悠介の大学で日本で最初の心臓移植がおこなわれた。悠介は同じ学内にいる者として調べた結果、好ましくない手術と断じて、批判的な文章を発表したが、それ以来、一部の医師達の反撥を招き、気まずい雰囲気になっていた。むろん学内にも今回の手術に対して批判的な人はいたが、陰口として批判するのと、文章で公に発表するのとでは大分事情が異なるようである。そのあたりを見抜けなかった悠介の若さは問題だが、それにしても、大学というところは住み難いところである。
このまま謝って大人しくすればいられないわけではないが》
【認識の甘さに笑ってしまう】
しかも、彼は辞めた理由をあのところでは白状し、別のところでは美化する。
《「ついに、開業医に勤めることになってしまった・・・」医師の場合、勤め先によってある漠然としたランクがあって、最も権威があるのが大学病院、最低が開業医ということになる》
十年間勤めてきた大学病院の医師という職業を捨てなければならなかった。
《それも三十五歳で講師という比較的恵まれた地位についていただけに未練もあった》
また《「やはり失った肩書きは大きすぎたのではないか…」とか名作「無影燈」でも見習看護師に《「あの先生、素晴らしく優秀で、三十二歳で講師になって、そのままいれば教授になる方だったんですって?」「恋愛問題が原因だとか、大学の教授と喧嘩をしたとか、いろいろ聞いたんですけれど、どれが本当でしょうか」》など言わせていて、未練タラタラである。
この最大の転機について、もう少し平易に述べていれば、渡辺淳一氏ファンも共に怒ることができたろう。
《「いまメスを揮って一人をすくうより、小説を書いて人間の魂を救うほうが、はるかに大きな価値がある」》と、見果てぬ夢を追って一人で満足する。
「ついに、開業医に勤めることになってしまった・・・」
以下は「幻視」にでてくる「絶世の女医にセックスをさせてもらう」シーンであるが、この異常な「ヘリ下り」ようは「よほどに有名な女性」に許してもらった「与えられた」記憶であろう。
《だって考えてみるがいい、僕は先生が経営されている精神病院に勤める一介の看護師にすぎず、年齢も先生より五歳も年下の三十一歳である。
 そんな僕が突然、医師仲間でも有名な美貌の先生と、二人だけで食事をする機会に恵まれたのである。僕にとっては容易に近づき難い、まさに高嶺の花の先生から直接、声をかけられ、誘われたのである。
氷見子先生165,6センチ45キロぐらい。
とにかく先生の顔は小づくりで、お人形のように目鼻立ちが整っているうえに、明眸というか、眼元が涼しく爽やかである。初めて先生を見たとき、創造主はかくも美しいものをつくり給うのかと、驚き震えたものである。(8,21頁)
あれは僕だけが見たヒミツのシーンである。そう思いながら、その夜、僕は壁に飾ってある先生の写真と昼間見た白い脚を重ね合わせながら、自慰(オナニー)をしてしまった。
 いや、正直言うと、以前から写真を見ながらしてはいたのだが、そのときから、僕の頭の中で先生の肌のイメージが一段と鮮やかになり、さらに激しく果てるのが癖になったのである。(わざわざ、段落行飛ばし)
【あてこすられてせがれはなみだぐみ】
(下山弘氏注:想う人の面影を頭に描きながらこするのを、あてこすりという)

  切断の醍醐味と陶酔感
《眉子先生はプリマドンナ万里子の下肢を切断する。翌朝、眉子は爽快な気分に浸される。『それにしてもあの肢が切り離された瞬間、手に伝わってくる重みの感触は、なんと素敵なことか。鋸が骨の最後の一ミリを切り落とすと直ちに受けとる。その瞬間の、やさしくなつかしい重さをわすれられない。(?)あの快感は外科医でしか味わえない。わたしは切り落とされてくる肢の重さを知りたいために、外科医になったのか…』》
【【すこし解説】下肢切断だから、外科医ではなく整形外科医であろうが。しかし、実はこれは、完全な犯罪であった】

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新新・先輩渡辺淳一氏の解剖その26

2009-12-24 00:58:31 | Weblog

衝動制御障害とは
一般に、思い付いたことにブレーキがかからない状態を「衝動制御障害」というが、すでに19世紀に「男子色情症と女子色情症」として「強迫的性行動」が知られていた。これらの衝動制御障害の患者数は、米国の人口の3ないし15%(8百万から4千万人)と推計されていて、決して少なくない。
この衝動制御障害はある種の報酬—買うか盗むか勝ち取るかした品物やセックス経験―を求める衝動が引き起こす。(キム博士・文藝春秋)
多くの行動は衝動的に始まり、時間が経つにつれ強迫的になる。
衝動性のある行動は「衝動的」に見えるが、そのことに一日中とり憑かれていれば「強迫的」にも見えるだろう。
われわれが「衝動の障害」と表現するのは、その行動が、衝動によって突き動かされたものだからで、行動自体はたいていが自我親和的である。つまり、その行動は自分の意志と一致しているとみなされる。このことは、衝動制御障害の人たちがその行動に溺れたいと思っているという意味ではないし、行動によって問題が起こらないという意味でもない。しかしほとんどの場合、行動をしたいという強い欲求があり、実行したあとには、おそらくすぐに、自責の念や罪悪感、恥辱感が押し寄せてくる。
強迫行動はそうした思考から解放されたいがために行なわれる。たとえば、汚染の恐怖から解放されたくて、何度も手を洗う。だが、買い物依存症と強迫的性行動は、買い物や性行動をしたいという衝動を含むので、わたしたちは衝動制御障害だと考えている。
(愛の流刑地(93))
とやかくいっても、男は燃える女が好きだ。自分のしていることを受け入れ、ただちに反応する。その素直さが嬉しくて愛しい。》
【間男はてまえ勝手な意見する】
着物を脱がせるところから、しか描けないのであれば、表に出てはならない
着物がどうだとか、絵柄が、口金が、などで、何を言いたいのであろうか
表の作家はスタンドを消した後は書かないのである。
みんな同じ。わぁー、とか、へぇー、とか、あんな貴婦人があんな事をなんてー
なんてことはもう新しいことは一つも無い。
 団鬼六氏が、生涯をこの描写費やした。
05内容の繰り返し
 基本形を組み合わせて作る
その一 
売れない小説家
月収三四十万円、妻と別居。五十五歳
あーあ、これしかないわたしのアイディア
エ・アロール et Alors それがどうしたの
文学なんてものは「簡単なもの」である。
主題にヒントがあれば、性的行動に纏わる記憶という内部からの情報を書留めて、次に脳を常に性欲でいっぱいにしておけばよいのだ。
妄想というか「夢か現か幻か」という状態は、ネアンデルタール人以来人類(人類だけでなく生き物も)が経験しているものである。この無意識の世界には、過去に自身が経験した記憶の何万倍もの情報が蓄えられている。 
現実には存在しない、さまざまな「魑魅魍魎の幻覚世界」、持ち、自分が体験しない事柄を生き物は脳に蓄えている
八種類のロギスモイ
大食、高慢、欲情、貪欲、絶望、怒り、アケーディア(精神的怠慢)、虚栄
「白き狩人」と「幻覚」はワンパターン
「白き狩人」では女医眉子の底知れぬ狂気と背徳を描く。しかし、考えれば、このパターンは「幻覚」の絶世の女医が見せる「狂気と背徳」と同じだ。白き狩人
私は、この小説の「解説」で「狂気に垣間見える『生と死』の心理」と題し、渡辺淳一氏を「魂の残酷な救済者」と呼んだ香山リカが理解できない。
 支離滅裂なこの構成はなんだ
複雑な(本当は単純な)内容をすべて関係者の「日記」で表現できると考えた作家の頭はおかしい。
 また、それを指摘できなくて、一年間掲載させた「微笑」の編集者もおかしい。
 例えば村形万里子の日記「今日、わたしは先生と回診をしながら、つくづく先生の顔を見て、そのなにかが、おぼろげながらわかったように思った。それは…わたしはうまく言い表わせないが、少し気取って言えば、『アンニュイ』とでも言うべきものかもしれない。『アンニュイ』はフランス語だが、日本語でいえば、『倦怠』という意味にでもなるのであろうか。しかし日本語の『倦怠』という言葉は字面のせいか、あるいは発音のせいか、そのものずばりのは、倦いて怠ける、という意味から、怠慢とか怠惰という意味を連想してしまう。だが先生の表情には、そんなふしだらな連想を誘う言葉は似合わない。日本語で強いて言えば『気だるげ』とでも言うべきかもしれないが、それだけでは、いま一つぴんとこない。『気だるげ』のもう少し高級な言葉が欲しい」
最初の日記
45x17x10
こんな日記を書く人類がいるか。毎日。人生が終わってしまう
《女医は《美しすぎる。さほど高くない。ほっそりと痩せぎすで、プロポーションが抜群にいい。目は山型で、鼻梁は細く鋭く、形のよい唇は笑う時、やさしく崩れる。先生の破調といえばこのやや軽く受け口の唇くらい看護師のわたしが見てもこうだから、男性たちが目を見張るのは無理もない。
先生ほどの美貌と教養があれば、近づいてくる男性は無数にいると思う。
たとえば、同じ科の副医長の井川先生、同期の千葉先生はいまでも眉子先生を愛しているという話だし、内科の助教授の飯村先生も、大変なご執心だという噂がある》
【精神科の副医長の井川先生、同期の千葉先生、内科助教授の飯村先生は『特定』出来る人が多いであろう】
眉子先生はプリマドンナ万里子の下肢を切断する。翌朝、眉子は爽快な気分に浸される。《それにしてもあの肢が切り離された瞬間、手に伝わってくる重みの感触は、なんと素敵なことか。鋸が骨の最後の一ミリを切り落とすと直ちに受けとる。その瞬間の、やさしくなつかしい重さをわすれられない。(?)あの快感は外科医にしか味わえない。わたしは切り落とされてくる肢の重さを知りたいために、外科医になったのか…》
【【すこし解説】下肢切断だから、外科医ではなく整形外科医であろう。】
人生の転換の動機がすべて性的トラウマであると作家は考えているのであろうか
《眉子は義父にレイプされた。《十六歳の時、義父は突然獣になった。あの時、金切り声をあげ、「娘だけは許して」と狂ったように叫びながら、義父の前に手をついた…あのとき、母はすでに、わたしが犯されていたことを知っていたはずである。義父の両腕に羽交締めにされて、奪われた、あの一瞬をわたしは忘れない。わたしの不感はあの時からはじまる。(中略)母と娘と二人が犯されて、なんの平和があるのか》
《わかっている。品子は所栓は逃げていく女だった。あれは真のレズビアンにはなりえない。なぜなら、愛するのより、愛されるのが好きな性質だから。》
《切らなくてもよかった肢を切断したとして、医療ミスとして追求される》
結局、眉子が検査報告書を悪性の報告書にすり替えて、切断手術を決定させた、らしいことを匂わせて話は終わる。
ここでも、「男にちやほやされる女に対する逆恨み」が書かれている。
ここは「白き手の復讐」とワンパターンである。
つまり、彼が整形外科教室で体験した医療ミスを組み合わせているにすぎない。
それは麗しき白骨で使った手段である。
《氷見子先生165,6センチ45キロぐらい。
とにかく先生の顔は小づくりで、お人形のように目鼻立ちが整っているうえに、明眸というか、眼元が涼しく爽やかである。初めて先生を見たとき、創造主はかくも美しいものをつくり給うのかと、驚き震えたものである》。
このコンプレックスは何に根ざしているのか。どんなトラウマか。
07 責任逃れ 
「奪って難癖を呟いて捨てる」これが渡辺作品にしばしば登場する「思考過程」である。
「何処へ」の雅子、「心臓移植」の絹子《処女どころかすでに何人かの男と経験があったと思われた。その中にあの外科の医者もいるかと彼は想像を巡らせた。そうした時、彼は絹子の体がうとましくなる》とレイプを和姦に葬り去る。
08視点のずれと「あいまいさ」
《純子と一人の男とのつながりの深さを知る度に、私はメスを揮う外科医のような緊張と、切られる患者の痛みを同時に覚えていたのである。恋することから自殺まで、純子はすべて計算のうえで、おこなったのではないか。それが自分にとって最も有効で、好ましいことを知っていたのではないか。》と文を理解できる読者はいるのか。この「阿寒に果つ」は解説者も《これはなにか。青春小説と呼ぶためには何かが不足している。あるいは何かが過剰であり過ぎる。希望のようなもの、友情のようなもの、連帯感のようなもの。そうじて未来に属するものが。彼女の顔は白というより、むしろ蒼ざめていて、眼が大きく、髪を赤毛に染め、美しさのなかに、少女特有の神秘さを漂わせていた。
自伝小説というからには「私」が主人公でなければならないはずだが、どう見ても主人公は純子である。自伝小説としては方法意識が勝ちすぎている》とその視点を見抜くことを放棄している。
主人公は高校生に過ぎず、医師のような言い方をしているところに、大混乱が見られる。
「白い宴」のところでも述べたように、「誰の目から話を書いているか」が決まらないままである。これは彼の作品でも、最も有名な「視点のズレ」を示すものである。
修子の場合も抄子の場合も(この様に並べると、似た発音の女性は同じ運命をたどる)
《作家の視点から【修子が遠野を知ったのはいまから四年前である。二十八から三十二歳までの、女が最も揺れるときに、愛を受け入れていたのだから嫌なわけはない。
修子の視点【「お願いですから・…」「駄目だ」「いやよ」叫んだ瞬間、修子は激しい平手打ちを頬にくらってよろめいた】
作家の視点【それからあとの行為は、正に獣そのものであった。
作家視点【初め修子はそれを憎み、必死で抵抗した。全身をばたつかせ、伸びた爪の先で彼の腕といわず顔といわず引っかいた】
修子の視点【ベッドに仰向けに倒されて両の胸を締めつけられたとき、修子はこのまま息絶えるかと思った。一時は首まで締め(本当は絞め)られて、意識が遠くなったような気もした。だが、その苦しさのなかでも、憎んでいた。
【作家の意見】
(中略)意識のなかでは、奪う遠野を憎んでいながら、体は徐々に男の動きに従っていく。【作家かな?
作家の視点【こんな反応を見て、男は女に自信を抱くのかもしれない】
【作家の経験か】とやかくいっても抱いてしまえばそれまでで、女は体の誘惑に負けて最後は大人しくなる。
【作家の体験】それは単なる男の想いがりでなく、女のある一面を表しているようである。
【作家の思い上がり】耳元で囁く「好きだぞ…」くすぐったさを交えて(以下略)
【作家の視点】その声はいましがた狼藉を働いた男の声とは思えぬほど、優しさに満ちている。
【生娘は膝っこぞうに五人力】
抄子の場合も難解な文学である。は《男の視点から【「馬鹿なことはよせ」「馬鹿なことじゃないわ」いつものひかえめな抄子からは想像もつかぬ強さで、ぶつかってくる。(中略))
作家の視点から【争いながら二人は胸をはだけ、息を弾ませながら、押し合い突き放す。(闘いの後の結ばれの絶賛…安芸が下になり、その上に抄子が重なり合っている) 
男の視点から【しかも深く結ばれるにつれて、抄子は徐々に上体を(中略)正直いって、安芸は何度か、このように結ばれることを夢見たことがあった。自分の上にいる抄子が満たされていく姿を下から見詰めるのが安芸の願望であった】作家の視点から【なにが原因かわからぬが、突然、二人のなかに凶暴な嵐が吹きすさび、煽られるままに思いがけない結ばれ方をして燃えていく】
また突然、医療制度に対する意見が登場する。《(幻視)とくに日本の精神病治療は、以前から入院期間が長すぎるといわれてきた。僕が本を読んで覚えているかぎりては、アメリカでは平均入院日数がほぼ七日であるのに対して、日本では三百三十日と異様に長く、これはドイツの二十七日に比べても圧倒的に長い。なぜ日本がこのように突出しているのか。その最大の理由は、もともと日本の精神医療は患者を治すというより、一般社会から切り隔離することに主眼がおかれていたからである》
朝刊の性愛小説に入ったこの辺の文章はなんなのか。
 次のように「肛門性交」に対する渡辺氏の憧れが挿入される。
《その火照る肌に触れながら、久木は改めて考える。
いったい、女性がアクメに達するときの快感はどの程度のものなのか。
女という性を体験したことがない男には、所詮、空想するだけだが、男よりはるかに強く、深いことはたしかなようである。
むろん、男も射精の瞬間にはかなり強烈な快感があるが、きわめて短く、いわゆる一瞬に近い。それにくらべたら数倍か、あるいは数十倍か。
一説には、射精の瞬間が延々と続くのと同じともいうが、それなら大変な快楽で、俗に何倍などともっともらしく数値でいうのは、その瞬間を時間的に継続するとして、計算したのであろうか。
それより具体的なものとして、肛門で体験するという方法がないわけではない。いわゆるオカマだが、これなら女性の性感と近い感覚を知ることができそうである。
このア○スの性交に一旦馴染むと、ほとんどの男達はその圧倒的な快楽に惹きつけられ、深入りするらしい。それこそ、挿入する性から受け入れる性への転換で、その魔力にとりこまれた男達は、もはや正常の性に戻ることはないともいわれている。上巻146ページ小満》
この後にも、私の人格を維持しながらの転記はできない「文」がダラダラと続く。
 視点のずれ」と共存するのが「あいまいさ」である。 
《安芸はそっと横たわっている抄子を盗み見る。顔だけ軽く伏せているが、腰から下は横向きにこちらを向いている。その無防備な姿を見るうちに、安芸の脳裏に一つの計画が浮かび上がる。
 抄子の大切な叢を除くことはできないものか・・・一度思うと、安芸はたちまち、その考えのとりこになる。
《男はときに少年になる。年齢や地位に関わりなく、他愛ない夢を抱きそれに熱中する。「お願いがあるんだ」「ここを、剃ってもいいかな」「ここを剃りたいんだ」中略
安芸は自分の願いが一人よがりであることを知っている。分別ある男なら、到底いえないような無茶な要求である。だが、いま安芸は少年に戻っている。虚飾を捨てて一人の率直なオスになって頼んでいる。
剃る…(中略)「これなら、誰が見てもわかるわ」たしかにこの姿では、抄子が家に帰っても夫に許すことはありえない。たとえ夫が強引に求めてきても、抄子は必死に逆らうに違いない。「ありがとう」安芸はそういいたい気持をこめて、抄子の秘所に頭を下げる
(中略)自分の浮気を忘れて、男は何故、女だけにこのような証しを求めたがるのか。
(中略)女の愛は深いが、それ故にいったん心が離れると、見事に変貌する。その裏切りは完全で鮮やかである。男の裏切りは常に刹那的で及び腰である》
この大切な部分が意味不明であるために、文の意味が理解できないことがある。
「まひるの間男 浮島」も意味不明である。《安原怜子…千秋の二つ下だが、モデルにしては小柄で、まだ首のあたりに初々しさがのこっている。千秋と一緒に宗形も何度か会っているが、…事実、怜子は、千秋と宗形のことを知っていながら、いまだに誰にも喋ってはいないらしい。
【【すこし解説】ここの文は簡単に理解できない】
モームがサミング・アップで述べている。
《「小説のあいまいさ」のひとつの理由は《書き手自身がなにを言いたいのか、はっきり分かっていないことである。自分が言いたい内容について漠然とは見当がついているのだが、知力が足りないか怠惰のために、頭の中できちんと論理的に整理できていないのだ。整理できていない考えでは正確な表現を見出せないのは当然である。
このような事態が生じるのは、多くの筆者が書き出す前でなく書きながら頭を使うからである。
この種の曖昧さは直ぐに故意による曖昧さに同化していく。明確に考えることをしない筆者の中には、自分の思想が一見したよりも立派な意味合いを持っていると考える傾向のある者もいる。自分の思想があまりにも深遠なたる凡人に理解できるように表現できないのだ》と。
つまり、無数の偉大な作品の特徴は「渡辺淳一」の表の顔と愛欲描写との不一致に、国民は混乱し、潜在的な性欲を刺激されて買ってしまう。
これを解決するには、主人公が渡辺淳一氏であること、つまり、「伸夫」を「私」と置き換えるべきである。
そうすれば、渡辺淳一氏の本質が見えてくる。
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新新・先輩渡辺淳一氏の解剖その25

2009-12-24 00:48:12 | Weblog
第7症例三樹子

《(無影燈)ついに、院長の娘に迫る。直江はゆっくりと立ち上がると、着物の襟元を直して、それから三樹子の横に座った。
「こっちを向いてごらん」「えっ…」振り向いた瞬間、直江の長い腕が三樹子の上体をとらえた。「あっ…」腕の中でいやいやする顔をとらえると上向きにして直江は小さく形のいい三樹子の唇に、酒の匂いのする自分の唇をおしつけた。  
しっかりと閉じた三樹子の目じりは小刻みに痙攣し、白い頬が直江に吸い込まれて落ち窪んだ。

女が諦めるのを待つように直江は長い間、その姿勢でいた。初めの弾むような抵抗は徐々に弱まり、やがて三樹子の体は柔らかく優しくなっていった。
直江はそれを待っていたように、接吻を続けたまま、ゆっ繰り返すと三樹子の細く軽い体を後ろのベッドに運びあげた。》
第8症例真由美
今度は院長の愛人真由美を襲う。
《「こい…」「いゃっ」真由美が叫んだのと、直江がとびついたのとが同時であった。突然、凶暴な獣と化した直江はその長い腕で真弓をかかえ、力のかぎり上体を引き締めた。
「あっ…」一瞬、真由美は息がつまり、声を失った。「いやっ、いや、いや」呼吸を戻して、真由美は滅茶苦茶に手足をふりあげ、叫び続けた。
だが腕の力は騒ぐのを待っていたように更に強まる。真由美は胸を引き締められ、緩められ、また引き締められ、それを数回くり返されたあと、横面を数回なぐられた。
ピタピタピタ、という音を聞いたまま真弓は意識が薄れた》
第9症例裕子
《「先生は昨夜、院長の娘さんをここへ引っぱり込んだのでしょう」「…」》

《「やはり失った肩書きは大きすぎたのではないか・・・」再び断られて、悠介はいささか狼狽した。
どうしてそんなに頑ななのか、なにか不快なことでもあったのか。「理由があるのなら、いってくれ」「そんなの、自分にきけばわかるでしょう」
やはり、思っていたとおり、雅子のことをいっているようである。
悠介はすぐわかったが、気付かないふりを装った。
「いったい、なんのことをいっているんだ。もっとわかり易くいってくれよ」「いつも、鏡台の上をいじらないで欲しいの」「・・・・」「私の下着や着物を、勝手に動かさないで欲しいの」「それが、どうしたというんだ」「どこが悪いんだ」「悪いと思わないのなら、それでいいわ」「馬鹿なことをいうな」
理でいくと勝ち目のないのは明白だから、せめて声だけでも高くして叫ぶ。悠介が叫べば叫ぶほど裕子は醒めていくようである。
それが腹立たしくて悠介はさらに叫ぶ。・・・・
いい終わるとともに悠介はいきなり裕子に挑みかかった。
なにがなんでもこの場合は裕子を抱き締めて求めなければならない。
勝手といわれようと暴力といわれようと、いまはまっしぐらにすすむだけである。前進以外に、この苦境をのりきる道はない。
「なにするのよ」
いきなり抵抗が消えた…「勝手にしたら…」
「休みましょう」といった裕子の言葉には、憎しみとは別に、ある親しみと器用患者負担が潜んでいるようである。
それを頼りに、二人だけで話し合えばまた以前の関係に戻れるはずである。(何処へ)》
第10症例霧子
《(化身・霧子)秋葉は医者でないので、女の躰のくわしいことはわからないが深夜、一緒の床にいる女に、男の有無を問いつめている。
女は逃げる場所も無く、布団の片隅で身を縮めて、泣きじゃくっている。
なにも言わぬ女に、妄想のかぎりを尽くして責めている。
だが、たとえ残酷といわれようと、ここで引き退がるわけにはいかない。
いま曖昧に見逃しては、疑心暗鬼のまま、また不快な日々を送ることになる。
考えてみると、霧子を知ってから、すでに四度目の誕生日を迎えている。二十三歳の霧子は二十七歳になった。

「わからん」呻き、頭を抱えこんでいるうちに、秋葉の脳裏に霧子の白い肌が甦ってくる。
二十七歳になったとはいえ、霧子の躰にはまだどこか稚さが残っている。
胸のふくらみは小ぶりで、抱くと背から腰の線がたよりない。
腋からウエストや、大腿の内側なぞは白いというよりむしろ蒼ざめている。
「これ以上、あなたを嫌いにさせないで」瞬間、秋葉は腕の力を抜いた。
いま激しく迫ったら、嫌いになる、といわれては辛い。
「ここは、わたしの家よ」「なにっ・・・」
秋葉のなかで再び怒りが燃えあがった。冗談ではない。
ここを借りているのは霧子でも、お金を出しているのは秋葉である。
この布団も、この部屋の家具ももとはといえば、みんな秋葉のものである。「今日は、許さないぞ」「いゃっ・・・」

正面から躍りかかる途端、霧子が悲鳴をあげる。いまや秋葉は、一匹の獣になっていた。何日も餌を与えられず、飢えきった獣の目前に、白い肉が投げ出されている。それを見て耐えろと、いうほうが間違っている。》
 
第11症例倫子
《(無影燈)「直江医師と倫子が、関係もあるらしいのよ」》
《倫子(のりこ)と直江との間に躰の関係ができたのは、初めて逢ったその日だった。喫茶店で逢い小料理屋へ行き、そのあとホテルへ連れて行かれた。
表面は直江に誘われ、犯された形を取っているが、直江が誘い、そうするように仕向けたのはむしろ倫子のほうだった。直江は倫子の敷いたレールに自分から求めたふりをして乗ってきたというのに過ぎない。》

誰の言葉か
 
このごろ、直江の求め方は以前と変わり、どこか唐突で荒々しかった。
倫子を困らせ、羞ずかしがらせて満足しているようなところがある。
愛するというより、なにか責め苛んでいる、という感じであった。
時たま、倫子は愛撫の途中で直江の視線を感じて、慌てる時がある。驚いてとび起きようとする。そういう時、直江は細い体からは考えられぬ異様な力で倫子をおさえつける。
直江のやり方には奪っていながら見きわめているような残忍なところがあった。倫子の側から言えば、抱かれながら見られているような怖さがあった。いやだと思いながら、この頃、倫子はそんなやり方にむしろ満足していた。
羞ずかしいと思いながら、そう思うことでさらに燃えていく。気付かぬうちに少しずつ直江のやり方に慣らされてきているのかもしれなかった。
いつものことだが、行為が済むと別の顔を見せる直江に、倫子は少し腹を立てていた。》
《ここまできたら、もはや男の軍門に降ったも同然である。このまま一気にスリップまで脱がせても逆らうことはないだろう。それなりの確信を得て、菊治は自らの下着を脱ぐ。【愛を描くはずではなかったか。レイプ方法を描く】
平常はひっそりと、さまざまな思いを秘めて静かに生きている。そんな女が思いがけない男の愛撫に乱れて、悶える。(中略)もっともっと、冬香を乱して狂わせたい。慎ましやかに、控えめに見える女だからこそ、思いきり、その仮面を剥ぎとりたい》
【エ・アロール et Alors それがどうしたの】
第12症例妙子
《「馬鹿なことはよせ」「馬鹿なことじゃないわ」いつものひかえめな抄子からは想像もつかぬ強さで、ぶつかってくる。中略)争いながら二人は胸をはだけ、息を弾ませながら、押し合い突き放す。(闘いの後の結ばれの絶賛!!)
安芸が下になり、その上に抄子が重なり合っている。しかも深く結ばれるにつれて、抄子は徐々に上体を(中略)正直いって、安芸は何度か、このように結ばれることを夢見たことがあった。自分の上にいる抄子が満たされていく姿を下から見詰めるのが安芸の願望であった
 「なにが原因かわからぬが、突然、二人のなかに凶暴な嵐が吹きすさび、煽られるままに思いがけない結ばれ方をして燃えていく」》
【これは誰の言葉か???】 (中略)
第13症例律子
《院長夫人律子は隣の部屋で化粧をしていた。48歳。痩せぎすで背が高く、夫の祐太郎と並んでもあまり変わらない。年齢の故で肌の張りは失われたが、眼は大きく、鼻筋も通り、若い時の美貌の面影は残っていた。彼女の顔は少し険があるので、眉を剃り、細く、やや尻下がりに描くようにしていた。

「小橋医師と婦人科看護師亜紀子関係がある」

小橋「それにしても、あんな程度の人まで入院させていたら、誰でも入院できるということになります」「そして大した効果があるとも思えない薬や注射をうって」「こんなこと大学の医局では羞ずかしくて言えません。あまりにもいい加減です」直江「大学はいい加減ではないかね」「えっ…」》

院長(55歳)には真弓(23歳)というホステスをしている情婦がいる。
 
「白き狩人」に書かれているらしい近親相姦図は大変マニヤックなもので、
どんな意味が込められているか理解できない。
美貌の女医の前に美貌の少女であったころの彼女をレイプした義父が死の床についている.
《「なんとか助けてくれ」義父の枯れた手が、わたしの腕をとらえて離さぬ。かって義父はそれと同じ仕草で、わたしを奥の部屋へ引っ張っていった。母の留守を狙って、私を犯した。
(中略)いまわたしは、岐阜の死の断末魔を(断末路?)を冷静に見てやる。無表情に無関心に、一片の肉親の情愛もなく。彼(義父)が一片の肉親の情感もなく、未経験なわたしを犯したように…悪魔は死ぬといい》美貌の女医とプリマドンナや看護師そしてその他の女性と同性愛相関図を描きながら、「白衣の下に隠された女医の底知れぬ狂気と背徳の匂い」を日記体で綴っているが、駄作である。
そもそも、『彼(義父)』と日記に書く訳がない。ポルノにもなっていない。全編が日記である作品であるが、多忙な職業の医者が、自分の狂気・背徳に包まれた人生を他人に説明する日記をつけていることはあり得ない。
しかし、渡辺氏は義父にレイプされた女性が生涯深い傷を負う主人公は円滑な「愛のスタート」と屈託がない。
《実際、セックスという行為にそんな違いはないわけで。女性の性器に男性の性器を挿入するというだけの行為だから。でも、同じと見える行為でも、ある人とは狂おしいほどの快感を感じ、別の人とは鳥肌立つほどの嫌悪を感じるというのも、考えてみると、非論理そのもので。
男女の愛ぐらい非論理のものはない。
普通の目では見えないけど、文学の目で見据えると見えるというところを小説に書く。
僕は悪女というより、一見、貞女の悪女変りというか、女がだんだん本性を現してきてね、こんなはずじゃなかったのに…と相手のエキセントリックな性格を発見していく過程が、感動なんだねえ》
(中略)
【この辺がマゾと言われたり、する謂われかもしれない。あるいは、女性蔑視が素直に現れているかもしれない。愛というより交尾に近い】
しかし、渡辺氏が常用する愛に発展させるためのレイプについては、明らかな犯罪で、強制わいせつ罪は「六カ月以上十年以下の懲役」の重罪である。
レイプについては、整形外科といえど十年間医療に携わってきた渡辺氏である。相手女性に与える精神的ダメージの大きさを知らなければならない。「義父にレイプされた美貌の女医」が成長し錯乱していく話で、金を稼いだくらいであるから。
彼は、コンドームを付けていたのであろうか。レイプによる妊娠や性感染症の恐れも心配される。渡辺文学には「付けて、と言われれば付けるつもりだった」という箇所が一つある。たぶんその他の場合は付けていなかったのではないか。 
 彼が立ち去った後に、どんなに多くの傷ついた女性が残されたか、反省すべきである。これらのことを承知の上で、彼は「薔薇連想」で「感染させられた女性が次々と男と性交渉を持ち、彼らにうつしていく話」で金を稼いだ。

レイプという犯罪を起こすのは、自分の欲情を制御できないということである。
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新新・先輩渡辺淳一氏の解剖その24

2009-12-13 23:39:10 | Weblog


第7症例三樹子

《(無影燈)ついに、院長の娘に迫る。直江はゆっくりと立ち上がると、着物の襟元を直して、それから三樹子の横に座った。「こっちを向いてごらん」「えっ…」振り向いた瞬間、直江の長い腕が三樹子の上体をとらえた。「あっ…」腕の中でいやいやする顔をとらえると上向きにして直江は小さく形のいい三樹子の唇に、酒の匂いのする自分の唇をおしつけた。しっかりと閉じた三樹子の目じりは小刻みに痙攣し、白い頬が直江に吸い込まれて落ち窪んだ。女が諦めるのを待つように直江は長い間、その姿勢でいた。初めの弾むような抵抗は徐々に弱まり、やがて三樹子の体は柔らかく優しくなっていった。直江はそれを待っていたように、接吻を続けたまま、ゆっ繰り返すと三樹子の細く軽い体を後ろのベッドに運びあげた。》

第8症例真由美

今度は院長の愛人真由美を襲う。《「こい…」「いゃっ」真由美が叫んだのと、直江がとびついたのとが同時であった。突然、凶暴な獣と化した直江はその長い腕で真弓をかかえ、力のかぎり上体を引き締めた。「あっ…」一瞬、真由美は息がつまり、声を失った。「いやっ、いや、いや」呼吸を戻して、真由美は滅茶苦茶に手足をふりあげ、叫び続けた。だが腕の力は騒ぐのを待っていたように更に強まる。真由美は胸を引き締められ、緩められ、また引き締められ、それを数回くり返されたあと、横面を数回なぐられた。ピタピタピタ、という音を聞いたまま真弓は意識が薄れた》

第9症例裕子

《「先生は昨夜、院長の娘さんをここへ引っぱり込んだのでしょう」「…」》
《「やはり失った肩書きは大きすぎたのではないか・・・」再び断られて、悠介はいささか狼狽した。どうしてそんなに頑ななのか、なにか不快なことでもあったのか。「理由があるのなら、いってくれ」「そんなの、自分にきけばわかるでしょう」やはり、思っていたとおり、雅子のことをいっているようである。悠介はすぐわかったが、気付かないふりを装った。「いったい、なんのことをいっているんだ。もっとわかり易くいってくれよ」「いつも、鏡台の上をいじらないで欲しいの」「・・・・」「私の下着や着物を、勝手に動かさないで欲しいの」「それが、どうしたというんだ」「どこが悪いんだ」「悪いと思わないのなら、それでいいわ」「馬鹿なことをいうな」理でいくと勝ち目のないのは明白だから、せめて声だけでも高くして叫ぶ。悠介が叫べば叫ぶほど裕子は醒めていくようである。それが腹立たしくて悠介はさらに叫ぶ。・・・・
いい終わるとともに悠介はいきなり裕子に挑みかかった。なにがなんでもこ
の場合は裕子を抱き締めて求めなければならない。勝手といわれようと暴力といわれようと、いまはまっしぐらにすすむだけである。前進以外に、この苦境をのりきる道はない。「なにするのよ」
いきなり抵抗が消えた…「勝手にしたら…」
「休みましょう」といった裕子の言葉には、憎しみとは別に、ある親しみと器用患者負担が潜んでいるようである。それを頼りに、二人だけで話し合えばまた以前の関係に戻れるはずである。(何処へ)》

第10症例霧子

《(化身・霧子)秋葉は医者でないので、女の躰のくわしいことはわからないが
深夜、一緒の床にいる女に、男の有無を問いつめている。女は逃げる場所も無く、布団の片隅で身を縮めて、泣きじゃくっている。なにも言わぬ女に、妄想のかぎりを尽くして責めている。だが、たとえ残酷といわれようと、ここで引き退がるわけにはいかない。いま曖昧に見逃しては、疑心暗鬼のまま、また不快な日々を送ることになる。
考えてみると、霧子を知ってから、すでに四度目の誕生日を迎えている。二十三歳の霧子は二十七歳になった。
「わからん」呻き、頭を抱えこんでいるうちに、秋葉の脳裏に霧子の白い肌が甦ってくる。二十七歳になったとはいえ、霧子の躰にはまだどこか稚さが残っている。胸のふくらみは小ぶりで、抱くと背から腰の線がたよりない。腋からウエストや、大腿の内側なぞは白いというよりむしろ蒼ざめている。
「これ以上、あなたを嫌いにさせないで」瞬間、秋葉は腕の力を抜いた。いま激しく迫ったら、嫌いになる、といわれては辛い。「ここは、わたしの家よ」「なにっ・・・」
秋葉のなかで再び怒りが燃えあがった。冗談ではない。ここを借りているのは霧子でも、お金を出しているのは秋葉である。この布団も、この部屋の家具ももとはといえば、みんな秋葉のものである。「今日は、許さないぞ」「いゃっ・・・」
正面から躍りかかる途端、霧子が悲鳴をあげる。いまや秋葉は、一匹の獣になっていた。何日も餌を与えられず、飢えきった獣の目前に、白い肉が投げ出されている。それを見て耐えろと、いうほうが間違っている。》
 《(無影燈)「直江医師と倫子が、関係もあるらしいのよ」

第11症例倫子

倫子(のりこ)と直江との間に躰の関係ができたのは、初めて逢ったその日だった。喫茶店で逢い小料理屋へ行き、そのあとホテルへ連れて行かれた。表面は直江に誘われ、犯された形を取っているが、直江が誘い、そうするように仕向けたのはむしろ倫子のほうだった。直江は倫子の敷いたレールに自分から求めたふりをして乗ってきたというのに過ぎない。誰の言葉か
 このごろ、直江の求め方は以前と変わり、どこか唐突で荒々しかった。倫子を困らせ、羞ずかしがらせて満足しているようなところがある。愛するというより、なにか責め苛んでいる、という感じであった。
時たま、倫子は愛撫の途中で直江の視線を感じて、慌てる時がある。驚いてとび起きようとする。そういう時、直江は細い体からは考えられぬ異様な力で倫子をおさえつける。
直江のやり方には奪っていながら見きわめているような残忍なところがあった。倫子の側から言えば、抱かれながら見られているような怖さがあった。いやだと思いながら、この頃、倫子はそんなやり方にむしろ満足していた。
羞ずかしいと思いながら、そう思うことでさらに燃えていく。気付かぬうちに少しずつ直江のやり方に慣らされてきているのかもしれなかった。
いつものことだが、行為が済むと別の顔を見せる直江に、倫子は少し腹を立てていた。》

《ここまできたら、もはや男の軍門に降ったも同然である。このまま一気にスリップまで脱がせても逆らうことはないだろう。それなりの確信を得て、菊治は自らの下着を脱ぐ。【愛を描くはずではなかったか。レイプ方法を描く】
平常はひっそりと、さまざまな思いを秘めて静かに生きている。そんな女が思いがけない男の愛撫に乱れて、悶える。(中略)もっともっと、冬香を乱して狂わせたい。慎ましやかに、控えめに見える女だからこそ、思いきり、その仮面を剥ぎとりたい》

【エ・アロール et Alors それがどうしたの】

第12症例妙子

「馬鹿なことはよせ」「馬鹿なことじゃないわ」いつものひかえめな抄子からは想像もつかぬ強さで、ぶつかってくる。中略)争いながら二人は胸をはだけ、息を弾ませながら、押し合い突き放す。(闘いの後の結ばれの絶賛!!)
安芸が下になり、その上に抄子が重なり合っている。しかも深く結ばれるにつれて、抄子は徐々に上体を(中略)正直いって、安芸は何度か、このように結ばれることを夢見たことがあった。自分の上にいる抄子が満たされていく姿を下から見詰めるのが安芸の願望であった
 「なにが原因かわからぬが、突然、二人のなかに凶暴な嵐が吹きすさび、煽られるままに思いがけない結ばれ方をして燃えていく」
【これは誰の言葉か???】 (中略)

第13症例律子

《院長夫人律子は隣の部屋で化粧をしていた。48歳。痩せぎすで背が高く、夫の祐太郎と並んでもあまり変わらない。年齢の故で肌の張りは失われたが、眼は大きく、鼻筋も通り、若い時の美貌の面影は残っていた。彼女の顔は少し険があるので、眉を剃り、細く、やや尻下がりに描くようにしていた。
「小橋医師と婦人科看護師亜紀子関係がある」
小橋「それにしても、あんな程度の人まで入院させていたら、誰でも入院できるということになります」「そして大した効果があるとも思えない薬や注射をうって」「こんなこと大学の医局では羞ずかしくて言えません。あまりにもいい加減です」直江「大学はいい加減ではないかね」「えっ…」
院長(55歳)には真弓(23歳)というホステスをしている情婦がいる。

 「白き狩人」では義父にレイプされた美貌の女医が《「なんとか助けてくれ」義父の枯れた手が、わたしの腕をとらえて離さぬ。かって義父はそれと同じ仕草で、わたしを奥の部屋へ引っ張っていった。母の留守を狙って、私を犯した。(中略)いまわたしは、岐阜の死の断末魔を(断末路?)を冷静に見てやる。無表情に無関心に、一片の肉親の情愛もなく。彼(義父)が一片の肉親の情感もなく、未経験なわたしを犯したように…悪魔は死ぬといい》

美貌の女医とプリマドンナや看護師そしてその他の女性と同性愛相関図を描きながら、「白衣の下に隠された女医の底知れぬ狂気と背徳の匂い」を日記体で綴っているが、駄作である。

そもそも、『彼(義父)』と日記に書く訳がない。ポルノにもなっていない。全編が日記である作品であるが、多忙な職業の医者が、自分の狂気・背徳に包まれた人生を他人に説明する日記をつけていることはあり得ない。

しかし、渡辺氏は義父にレイプされた女性が生涯深い傷を負う主人公は円滑な「愛のスタート」と屈託がない。

《実際、セックスという行為にそんな違いはないわけで。女性の性器に男性の性器を挿入するというだけの行為だから。でも、同じと見える行為でも、ある人とは狂おしいほどの快感を感じ、別の人とは鳥肌立つほどの嫌悪を感じるというのも、考えてみると、非論理そのもので。

男女の愛ぐらい非論理のものはない。

普通の目では見えないけど、文学の目で見据えると見えるというところを小説に書く。

僕は悪女というより、一見、貞女の悪女変りというか、女がだんだん本性を現してきてね、こんなはずじゃなかったのに…と相手のエキセントリックな性格を発見していく過程が、感動なんだねえ》
(中略)

【この辺がマゾと言われたり、する謂われかもしれない。あるいは、女性蔑視が素直に現れているかもしれない。愛というより交尾に近い】

しかし、渡辺氏が常用する愛に発展させるためのレイプについては、明らかな犯罪で、強制わいせつ罪は「六カ月以上十年以下の懲役」の重罪である。
レイプについては、整形外科といえど十年間医療に携わってきた渡辺氏である。相手女性に与える精神的ダメージの大きさを知らなければならない。「義父にレイプされた美貌の女医」が成長し錯乱していく話で、金を稼いだくらいであるから。
彼は、コンドームを付けていたのであろうか。レイプによる妊娠や性感染症の恐れも心配される。渡辺文学には「付けて、と言われれば付けるつもりだった」という箇所が一つある。たぶんその他の場合は付けていなかったのではないか。 

 彼が立ち去った後に、どんなに多くの傷ついた女性が残されたか、反省すべきである。これらのことを承知の上で、彼は「薔薇連想」で「感染させられた女性が次々と男と性交渉を持ち、彼らにうつしていく話」で金を稼いだ。(六十六ページ)レイプという犯罪を起こすのは、自分の欲情を制御できないということである。

 この渡辺作品ではおなじみの「レイプ」については16)にまとめてある。「むろん一部であるが」衝動制御障害とは
一般に、思い付いたことにブレーキがかからない状態を「衝動制御障害」というが、すでに19世紀に「男子色情症と女子色情症」として「強迫的性行動」が知られていた。これらの衝動制御障害の患者数は、米国の人口の3ないし15%(8百万から4千万人)と推計されていて、決して少なくない。
この衝動制御障害はある種の報酬—買うか盗むか勝ち取るかした品物やセックス経験―を求める衝動が引き起こす。(キム博士・文藝春秋)
多くの行動は衝動的に始まり、時間が経つにつれ強迫的になる。
衝動性のある行動は「衝動的」に見えるが、そのことに一日中とり憑かれていれば「強迫的」にも見えるだろう。
われわれが「衝動の障害」と表現するのは、その行動が、衝動によって突き動かされたものだからで、行動自体はたいていが自我親和的である。つまり、その行動は自分の意志と一致しているとみなされる。このことは、衝動制御障害の人たちがその行動に溺れたいと思っているという意味ではないし、行動によって問題が起こらないという意味でもない。しかしほとんどの場合、行動をしたいという強い欲求があり、実行したあとには、おそらくすぐに、自責の念や罪悪感、恥辱感が押し寄せてくる。
強迫行動はそうした思考から解放されたいがために行なわれる。たとえば、汚染の恐怖から解放されたくて、何度も手を洗う。だが、買い物依存症と強迫的性行動は、買い物や性行動をしたいという衝動を含むので、わたしたちは衝動制御障害だと考えている。

(愛の流刑地(93))

とやかくいっても、男は燃える女が好きだ。自分のしていることを受け入れ、ただちに反応する。その素直さが嬉しくて愛しい。》
【間男はてまえ勝手な意見する】
着物を脱がせるところから、しか描けないのであれば、表に出てはならない
着物がどうだとか、絵柄が、口金が、などで、何を言いたいのであろうか
表の作家はスタンドを消した後は書かないのである。
みんな同じ。わぁー、とか、へぇー、とか、あんな貴婦人があんな事をなんてー
なんてことはもう新しいことは一つも無い。
 団鬼六氏が、生涯をこの描写費やした。

05内容の繰り返し

 基本形を組み合わせて作る
その一 
売れない小説家
月収三四十万円、妻と別居。五十五歳
あーあ、これしかないわたしのアイディア
エ・アロール et Alors それがどうしたの
文学なんてものは「簡単なもの」である。
主題にヒントがあれば、性的行動に纏わる記憶という内部からの情報を書留めて、次に脳を常に性欲でいっぱいにしておけばよいのだ。
妄想というか「夢か現か幻か」という状態は、ネアンデルタール人以来人類(人類だけでなく生き物も)が経験しているものである。この無意識の世界には、過去に自身が経験した記憶の何万倍もの情報が蓄えられている。 
現実には存在しない、さまざまな「魑魅魍魎の幻覚世界」、持ち、自分が体験しない事柄を生き物は脳に蓄えている
八種類のロギスモイ
大食、高慢、欲情、貪欲、絶望、怒り、アケーディア(精神的怠慢)、虚栄
「白き狩人」と「幻覚」はワンパターン

「白き狩人」では女医眉子の底知れぬ狂気と背徳を描く。しかし、考えれば、このパターンは「幻覚」の絶世の女医が見せる「狂気と背徳」と同じだ。白き狩人
私は、この小説の「解説」で「狂気に垣間見える『生と死』の心理」と題し、渡辺淳一氏を「魂の残酷な救済者」と呼んだ香山リカが理解できない。

 支離滅裂なこの構成はなんだ

複雑な(本当は単純な)内容をすべて関係者の「日記」で表現できると考えた作家の頭はおかしい。
 また、それを指摘できなくて、一年間掲載させた「微笑」の編集者もおかしい。
 例えば村形万里子の日記「今日、わたしは先生と回診をしながら、つくづく先生の顔を見て、そのなにかが、おぼろげながらわかったように思った。それは…わたしはうまく言い表わせないが、少し気取って言えば、『アンニュイ』とでも言うべきものかもしれない。『アンニュイ』はフランス語だが、日本語でいえば、『倦怠』という意味にでもなるのであろうか。しかし日本語の『倦怠』という言葉は字面のせいか、あるいは発音のせいか、そのものずばりのは、倦いて怠ける、という意味から、怠慢とか怠惰という意味を連想してしまう。だが先生の表情には、そんなふしだらな連想を誘う言葉は似合わない。日本語で強いて言えば『気だるげ』とでも言うべきかもしれないが、それだけでは、いま一つぴんとこない。『気だるげ』のもう少し高級な言葉が欲しい」

最初の日記

45x17x10

こんな日記を書く人類がいるか。毎日。人生が終わってしまう

《女医は《美しすぎる。さほど高くない。ほっそりと痩せぎすで、プロポーションが抜群にいい。目は山型で、鼻梁は細く鋭く、形のよい唇は笑う時、やさしく崩れる。先生の破調といえばこのやや軽く受け口の唇くらい看護師のわたしが見てもこうだから、男性たちが目を見張るのは無理もない。
先生ほどの美貌と教養があれば、近づいてくる男性は無数にいると思う。
たとえば、同じ科の副医長の井川先生、同期の千葉先生はいまでも眉子先生を愛しているという話だし、内科の助教授の飯村先生も、大変なご執心だという噂がある》
【精神科の副医長の井川先生、同期の千葉先生、内科助教授の飯村先生は『特定』出来る人が多いであろう】
眉子先生はプリマドンナ万里子の下肢を切断する。翌朝、眉子は爽快な気分に浸される。《それにしてもあの肢が切り離された瞬間、手に伝わってくる重みの感触は、なんと素敵なことか。鋸が骨の最後の一ミリを切り落とすと直ちに受けとる。その瞬間の、やさしくなつかしい重さをわすれられない。(?)あの快感は外科医にしか味わえない。わたしは切り落とされてくる肢の重さを知りたいために、外科医になったのか…》
【【すこし解説】下肢切断だから、外科医ではなく整形外科医であろう。】
人生の転換の動機がすべて性的トラウマであると作家は考えているのであろうか
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新新・先輩渡辺淳一氏の解剖その途中

2009-12-13 23:36:29 | Weblog
角川も渡辺淳一氏の店仕舞いのモノを
売り始めた

が、広告費とトントンであろう。
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新新・先輩渡辺淳一氏の解剖その22

2009-12-12 22:23:07 | Weblog
08対象の例外

なかにし氏による具体的な指摘だけでなく、彼が「食べなかった人々」も少なくない。

「目の前にあらわれなかった」「自分が高名であることを知らなかった」「紹介されなかった」「語学ができなかった」「正体下心を見抜かれた」【うわきならいやさと下女はぬかしたり】」

顰蹙を買いたいと発言した作家が「今度の作品では、四十歳台の女性の愛をはじめて扱った」と発言しても「成立した『四十歳台との性行為』を述べる」と置き換えられる。

《家政婦富子は五十二歳の小肥りの女性だった。五十を過ぎて女であることをあきらめたふうな富子だがそれ以上、細かいことを頼むと、男と女のあいだだけに、妙なことにならないともかぎらない。もちろん、富子はそんなつもりはないだろうし…
 
この口を尖がらせて発音しなければならないTOMIKOという名前からすれば、深夜、耳元で複数回囁く分類には入っていない。にもかかわらず、セックスをしてもいいと解すことができる。
【ふぐならばなぜしたと下女がいい】》

読者が抗議してくるかもしれない。

「四十三歳で、才能豊かで二児の母親で、「介護すべきボケ始めた両親を抱えている美人」のササエさんを、しがない小説家が誘発させた「性的な興奮の目覚め」で自殺する理由がどこにあるのだ!」と。

作家は怒鳴る。「子供は居ないぞ、ボケ老人の介護なんかしてないぞ、大体、サザエさんとはなんだ。そんな囁けない
名前の女性は決して食べないぞ。もっと素敵な名前、愛に相応しい命名をしてある!」と。

 渡辺淳一氏が間男としている領域は、狭い。全く相手にされないことも多い。
 特に優れた技能を持つとも考えられないし、数回で終わる性交とすれば、相手にしないであろう。

 いくら、手錠をかけられた被疑者といったとしても、「あの有名な作家である自分」を無視したあの女検事は許せない。それで、主人公は(愛の流刑地)その報復として「夢の中のレイプ」をする。ここは異常な興奮で書いていることが伝わる。
 多分、法曹界の女性には法政大学の教授と同じくらいに、糞みそに軽蔑されたのか

夢を逮捕できないから、手の打ちようがなく、その性癖に驚くだけである。

《そして逆らう気力が充実したとき、必ず思い出すのは、綾部という女性検事のことである。どんな大学を卒て、どれほど頭が良くて、そして、どんな生活をしているのかわからない。ただ北岡弁護士の話では、まだ独身だということだが際き合っている男でもいるのだろうか。もしいるとしたら、どんなセックスを体験しているのか。日中の妄想はそこまでだが、夜、床に入ると、さらに妄想はふくらんでいく。

 とにかく、あの女が悦びを知らないことだけは間違いない。整った目鼻立ちだ、論告や求刑をするときは、尊大ぶって小憎らしかったが、色白で胸のふくらみもほどほどありそうである。あのきっかりとしたスーツを脱がして裸にしたら、想像以上に美しく艶めいているかもしれない。

 むろん、まともにできるわけもないから、どこかに誘いこみ、一気に襲う。「なにをするの」と驚き、「やめて」と首を振り、「訴えるわよ」と叫ぶかもしれない。
それを無言のまま、しゃにむに裸に剥いて犯す。腹立ちまぎれに、菊治の頭のなかに凶暴な欲情だけが目覚めてくる。そこで強引にセックスを重ね、性の悦びを教え込む。
 ああいう清ました女ほど、一度、悦びを知ったら狂ったように乱れだす。どうしても検事をしたいなら、そこまで性の悦びを知ったうえで、したほうがいい。そのほうが余程、人のためであり、国のためになる。菊治の妄想は復讐心に変わり、ひたすら淫らで卑しいほうへ走りだす。とにかく、あの顔にぶら下げている、法律で飾った仮面をひき剥がしてやりたい。考えるうちに菊治のものは怒り高ぶり、やがて果てる。いまの菊治には、悲しいけれど自慰(オナニー)することだけが尊大な法に逆らう唯一の手段である。》
あれだけ書いても、渡辺先輩は今のところ、お咎めナシなのに、新聞のうらのページには、植草元教授が、高校生のスカートの中を見るべく、手鏡を用意し、階段で、取り出そうとして、カランカランと音を立てて、落としたために、尾行していた警官に逮捕された。そして有罪になったとある。
どちらが猥褻か
渡辺先輩はなんでもあり
性に翻弄された人生
【はだかにてくわどうの症はおつかける】


*
書かでもの記む
身をせめて深く懺悔するといふにもあらず、唯臆面もなく身の恥とすべきことどもみだりに書きしるして、或時は思い出をつづるなんぞと称へて文を売り酒枯ふ道に馴れしより、われ既にわが身の上の事としいへば、古き日記のきれはしとともに、芍薬吹きける15,6のむかしより、近くは三味線けいこに築地へ通ひしことまでも、何のかのと歯の浮くような小理屈つけて物になしたるほどなれば、今となりてはほとほと書くべきことも尽き果てたり。然るをなおも古き机の抽斗の底、雨漏る押入の片隅に、もしや歓場20年の夢の跡、あちらこちらと遊び歩きし茶屋小屋の勘定書き、さてはいづれお目もじの上とかく売女が無心の手紙もあればと、反古さへ見れば鵜の目鷹の目。かくては紙屑拾もおそれをなすべし。

*バルザック
小説の第一条件は、読者に興味を起こさせることである。が、そのためには、読者に錯覚を起こさせ、作者が語って聞かせてくれていることは、実際にあったのだと、読者が思いこむように仕向けなければならない。
スタンダール わずかに自分のものにすることができたなけなしの金も、その頃にはすでに使い果たしてしまったし、著名な作家になろうというかっての野心に再び立ち返って、作品をいくつか公にしたものの、金銭も得られなければ名声も得られないでいた。スタンダール奇矯な男だった。人間誰しも矛盾が多いものだが、彼の場合、その性格は大抵の者よりなお一層矛盾が多く、同一人物の中に、よくもこれだけ多くの矛盾した性質が併存できたものだと、驚かないでいられない。それらの諸性質は、多少とも調和と認め得るようなものを、ぜんぜん形作っていないのだ。きわめて優れた長所を持っている一方、重大な欠陥も持っていた。感受性が鋭く、情に動かされやすく、内気で、有能で、仕事をしなければならない時には勤勉になることができ、危険に際しては冷静で勇敢で、友人として申し分なく、さらに非凡な独創力に恵まれもしていた。その偏見は馬鹿ばかしく、目的は取るに足らない。人を容易に信用せず(だから、かえってやすやすと人にだまされることにもなるのだが)狭量で、無慈悲で、一向に良心的でなく、たわいがないほど自惚れが強く、もっぱら官能的で慎みを知らず、情欲がない癖に好色だった。
スタンダールは職業作家ではなかった。それにもかかわらず、彼は多年にわたって日記をつけ、しかも、ほとんどつねに自分自身についてのみ書く。
 50代の自叙伝は自分を実際以上にえらそうに見せかけたり、やりもしなかったことをやったと言っているような場合が時にありはするものの、全体としは真実を語っている。スタンダールは自分をいささかも容赦しないので、(中略)無分別にもあからさまに自分をさらけ出す。
 小説家がそのようなことをした場合、嫉妬心とか悪意とか利己心とか卑劣さとか、人間性の邪悪な面を―事実、人間の善良な性質よりも下劣な性質をもっぱら暴露する結果になるのだが、それがまたいかにも真実らしく思えるものである。というのは、自分自身の中に憎むべき性質をいかに多く持ち合わせているか、完全な馬鹿者でもない限り、人間誰しも十分によく心得ているからである。
しかし、スタンダールの場合は、本人についてである。一方渡辺淳一氏の方は主人公である。しかし、主人公が渡辺淳一氏自身であることは証拠は(記述の正確さで定評のある「白夜」に載っている。 私小説であるから、それらの性格は渡辺淳一氏である。大抵の読者は混乱する。

*わたしの長篇小説はかくの如くして、遂に煙管の脂(やに)を拭う反古となるより外、何の用をもなさぬものとなった。

   対象範囲無制限化

五位業平が有名である。
【おこるへのこ久しからず腎虚なり】
渡辺淳一氏 これも顰蹙をかうかもしれないけれど、恋愛小説って、青年期から豊かな恋愛をしてない人は書かないというより、書けないと思うんです。
(中略)
誰にでもおなじことを言う

偉大な作家:僕の場合は正直にいって、女性が好きというか、色好みなもんだから。趣味と実益を兼ねているという人もいるけど。

 荷風は《小説たるも随筆たるも旨とする処は男女の仲のいきさつを写すなり。客と芸者の悶着を語るなり。亭主と女房の喧嘩犬も喰はぬ話をするなり。犬は喰はねど煩悩の何とやら血気の方々これを読みたまひてその人もし…》と記しているが、誰を相手にした通俗を展開するかが重要になってくる。

昔の我が国でも五位業平は関西を食べつくし、関東に食べにきた、と言われるほど忙しい人であった。駅弁の食べ比べでもあるまいが…
その業平についての川柳「なりひらのおしい事には地いろ也」についての下山悟氏の解説によれば《「地色」というのは素人女性のこと。業平の相手はみな素人で、いわば間男をしたり町娘をだましたりの類。これでは恋の達人といえない。本当の色男は遊女を惚れさせるものだ、というのが江戸っ子の認識》だそうだ。

渡辺氏が通俗文学を志すとしたら「自分のファンだった」とか「手が白かった」などという偶然がいくつも重なって、ベッドへ進んでいくのではなく、読者にも納得がいく必然性がなければならない。
形振り構わず(かなり無理、と映る)偶然を重ねていくのがエロ通俗といわれるものである。

結局、主人公(つまり、渡辺淳一氏)は「間男」である。そのため、いくら同時に何件かの間男をしていても、都合の悪いことを秘密にしているようでは、普遍の愛に高めることはできない。


川柳では色男とは「色男ぶった人間」を指すことが多い。
色男見えそうなものとふりかへり
色男という種族は「人が自分のことを注目するにちがいない」と自惚れる。
のぼっても峠をしらぬ欲の道
色の道
なりひらのおしい事には地いろ也
「地色」というのは素人女性のこと。業平の相手はみな素人で、いわば間男をしたり町娘をだましたりの類。これでは恋の達人といえない。本当の色男は遊女を惚れさせるものだ、というのが江戸っ子の認識。



     09別れ方「捨てる」と「捨てられる」

ラ・ロシュフコ-は箴言でいう。

《女の愛が冷めた時に気がつかないのは、愛している男のほうがほとんどきまって悪い。 我々の力が低下すると好みも低下する》
性力にて制する事ができるのは、3割であり、しかも、子供が元気な間に過ぎない。
それまで、小説なんか書いたことなかった女性でも、日本中が渡辺淳一氏を真似するようになった。金銭が絡んでいても、縁が切れると手記を書く。
捨てたか、捨てられたかは、渡辺氏の場合、相手が名乗り出ないので鑑別がつかない。しかし、捨てる女は「洵子」を例にとれば明らかであるが、偉大な作家が関係を持ち、その後捨てる女性は「発音するとき」に「ジュンコ」と口を尖がらかして発声しなければならない。
だから「ジュンコ・リツコ・サトコ」など出てくれば「あっ、捨てる女だ」と見当がつく。

10雅子、先生を捨てる《(何処へ)

先生。あんまり女の人を弄ぶものじゃありませんよ」突然、先生といわれて怯んだ瞬間…逃げられる。
女の一人くらいいなくなったといって、仕事をできなくてどうするか。女に逃げられた人と原稿を書くこととのあいだには、なんの関係もないではないか。だが、この考えは一見正しいようで、その実、間違っているようである》

《美しい別れ「どうせ別れるなら、きれいに別れましょう」そんな言葉に酔っていた。そこに無理があった。
暮れの、そのときのいい争いは、いまここでは思い出せない。情景はあざやかに思い出せるが、いまそれを書きたくない。多分、僕は彼女の我慢の足りなさをなじり、彼女は僕の身勝手さを責めたはずである。言い合っているうち、僕は、「そんなに結婚したいなら、誰とでもしろ」と叫び、彼女は「あなたは卑怯よ」と言い返した。(中略)

とことん相手を責め、非難した。最後に、僕は「もう、これで君と別れてせいせいする」と叫び、彼女の「わたしもよ」という声をきいて、外へとび出した。「あんな奴、苦労して、不幸になればいい」だが、それは、まさしく僕が彼女を愛している証拠でもあった。

別れの実態はそんな美しいものではなかった。お互いに傷つけ合い、罵り合い、弱点をあばきあった。とことん、相手がぐうの音もでないほど、いじめつけて、そして自分も傷ついた。

愛した人との別れは、美しいどころか、凄惨でさえあった。しかし、それはいいかえると、そうしなければ別れられなかった、ということでもある。そこまで追いつめなければ別れられないほど、二人は愛し、憎しみあっていた。
(中略)「僕は君に価しない」とくり返して、引下っていく。

男が女性と別れたいと思うとき、面と向かって、「君が嫌になった」といってはならないと小さいときから、教えられてきた。》

和子を捨てる《三年間、結婚を匂わせながら付き合っていた看護師を捨てる場面である。

《(白夜)(伸夫)結婚を決意した。
私には、それまで際き合っていた
土屋和子という女性がいた。彼女は看護師で三年前、整形外科にいるとき親しくなったが(中略)

デートを重ねながら、結婚を考えないわけではなかった。(中略)彼女と一緒に生活したら明るく楽しい家庭をつくれそうである。だがその都度、彼女が初めて整形外科に来た年の忘年会で、仲間たちとした余興を思い出す。
私がはっきり彼女に近づきたいと思ったのは、そのときからであった。だがいま改めて結婚ということを前提に考えてみると、そのときの大胆さが少しひっかかる。あんなところで大騒ぎして、少し派手すぎるのではないか…この危惧はよく考えてみると矛盾している。

宴会で派手に振舞ったから、私は彼女に惹かれ、近づきたいと思ったのである。そして現実に深い関係になったいま、そのきっかけになった行為を派手すぎるというのでは勝手すぎるではないか。

 有利な条件を持った結婚話が出たとたん、三年間付き合った看護師を、三年前のことで、捨てるのである。それは卑怯である。その考え方だけでなく、最後の「勝手すぎるではないか」は誰に向かっての言葉か。作家の視点はなく、単に「責任逃れ」にしか過ぎない。

彼が手氏(中国の言い方)から、(夢にまで見た)実際の女性に許可を貰ったのは大学生になってからと書いてある。別の作品では「親戚の知り合いの娘さん」となっていたが、「白夜」では「短大の栄養科」の学生美代子となっている。三年間続いたが、が

モームは責任逃れについて《自分の落ち度が他人の落ち度よりずっと許しやすいように思えるというのは、ちょっと見ると奇妙である。その理由を考えてみると、自分がまずいことをした場合には、そのときの事情など全てを知っているものだから、他人に許せぬことでも、どうにか大目に見られるということであろう》と述べているが、渡辺氏の場合は生涯続く無責任さであろう。

「ちょっと解説」どうしても、
この文を理解できない。自分を否定できないから、どうしても無理な考えになる。
いつも「男女の関係を文学の目を通して見る」としていた作家とはおもわれない。通俗文学は曝け出して、ナンボではないか。奥歯にモノが詰まったような表現では、素人に負けると言える。
コメント
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新新・先輩渡辺淳一氏の解剖その21

2009-12-11 20:00:32 | Weblog
「かりそめ」の最終章には、自殺した梓の葬儀所に現れた梓の娘に触手が動き始める場面が登場する。梓の娘である容子に舌なめずりをする。《「わたし、母に一度、おじさまに会わせて下さいって、頼んだことがあるのです」「そうしたら…」「初めは会わせてもいいようなことをいっていたのですけど、途中から急に、いけないといいだして」「どうして?」「あの人は浮気な人だから、容ちゃんのほうを好きになったら、困るからって…」久我はなにか、嬉しいような、むず痒いような気分になって、「本当に、お母さんが、そんなことをいったんですか?」(以下略)

亡くなった母の話をしながらも、容子は明るく屈託がない。
母がおじさまに惹かれていたのは、わかります。(以下略)》

《かって梓は情事のあと、その鏡に自らの軀を映しながら乱れた下着を整え、腰紐を締めていた。そのうしろ姿に久我は寄り添い、頂から肩口へ舌を這わせたこともあった。そんなことを思い出し、ふと横を見ると、容子の耳許と頂が久我のすぐ目の前にある。

いまここで、もし容子を抱き寄せたら…

そのまま容子は許すのか、それとも激しく逆らい、「嫌らしいおじさま」とでもいって罵るのか。(以下略)》

【しかし、この部分は、男ことばである。読者には渡辺氏が紙芝居のように左を向いて容子の声を出し、右を向いて男の声をだして、一人芝居(自慰とはいはなくても)に酔っているようにしか見えない。】
 次に、他の作家に負けないように近親相姦とか、同性愛そして異常欲情も登場させる。
ここで、渡辺氏が経験しなかった(?)分野とみえて、池上遼一氏や鶴永いくお氏の漫画に酷似したものになっていく。「幻視」の氷見子や「白き狩人」の眉子などであるが、父親に愛されたことが「第三者を巻き込む事件」に発展する必然性が書かれていない。
渡辺氏の場合は最初がレイプでも成功というか性交したものは恋愛に入れられている。その例としては《「馬鹿なことはよせ」「馬鹿なことじゃないわ」いつものひかえめな抄子からは想像もつかぬ強さで、ぶつかってくる。
中略)争いながら二人は胸をはだけ、息を弾ませながら、押し合い突き放す。(闘いの後の結ばれを絶賛!)

《安芸が下になり、その上に抄子が重なり合っている。しかも深く結ばれるにつれて、抄子は徐々に上体を(中略)正直いって、安芸は何度か、このように結ばれることを夢見たことがあった。自分の上にいる抄子が満たされていく姿を下から見詰めるのが安芸の願望であった》
 《なにが原因かわからぬが、突然、二人のなかに凶暴な嵐が吹きすさび、煽られるままに思いがけない結ばれ方をして燃えていく》

【解説】これは誰の言葉か????
【女房のつのはへのこでたたきをり】)

 同性愛についても、突然、文章は文学であることを放棄する。

《上巻小満)))それより具体的なものとして、肛門で体験するという方法がないわけではない。いわゆるオカマだが、これなら女性の性感と近い感覚を知ることができそうである。
このア○スの性交に一旦馴染むと、ほとんどの男達はその圧倒的な快楽に惹きつけられ、深入りするらしい。それこそ、挿入する性から受け入れる性への転換で、その魔力にとりこまれた男達は、もはや正常の性に戻ることはないともいわれている》

実は、これと同じ「極ありふれた内容」の文が末尾にも出てくる。そして、著作の様々な所に出てくる。医者でない読者は知らないと思っているように…

「薔薇連想」は男から梅毒をうつされた氷見子が、次々と男達と性交をして、彼らにうつしていく話である。そして、自分を捨てた伸吾にうつすことで伸吾の子供が梅毒を持って生まれることに喜びを覚える話である。

《宇月が私の病気を確かめた時、彼はどのような顔をしたのであろうか、征服感か、うつしていく喜びか、あるいは憐れみか、それとも私のように男へ拡げて復讐していく快感であろうか。男の腕の中で氷見子は地獄に堕ちた。「私の贈ったものはもっと奥深く体の中まで残っている」氷見子は冷えた頭で考えた。
(伸吾と寝るのだ)鏡の中のもう一人の自分に確かめた。

「あのままなら一緒になれたのだ」「いいのよ」氷見子は子供をあやすように伸吾の背を撫でた。悔いはなかった。氷見子のすべてが伸吾に移ることは分かっていた。しなやかな伸吾の体を通してそれが幼い新妻に達し、子へ繋がっていく。血が生きているかぎりそれは続く筈だった。私は黒い虫になって伸吾の中に入った。伸吾が生きているかぎり私は忘れ去られることはない。それを思うだけで氷見子の心は満ちた。

「伸吾の子供は本当に産れるだろうか」氷見子は少し考え、それから一人でうなずくと、薔薇の環のように見える明るい空の方角へ確かな足取りで歩き始めた。》
医師の資格を振り回す作家が書く話であろうか。


06対象の女性の名前の研究 

作者の前頭葉を刺激し、読者に「愛欲に陥る清純な成人女性を連想させるため名前に執念を注ぐ。

 長い実践と耳学問によって《(創作の現場)「I・イ」 という母音が入ると、「しとやかであるが、性に狂うと止まらない」引きかえ、「Aア」はよくない。」》という理論が完成する。しかし、わたしからすればWATANABEはAが三つも入っていて、性に狂っている、と感じる。

しかし、これは目クラマシで、実際のヒロインの名前は「耳元で囁くことができる」響きによる。

このことについて実際の作品から、少し、勉強しよう。

女性一覧絵梨子 ERIKA 北都物語美代子 MIYOKO 短大生冬香  FUYUKA享子 KYOUKO氷見子 HIMIKO 幻視   AZUSA かりそめ容子 YOUKO抄子 TAEKO  笙子  SHOUKO(しょうこ)玲子  REIK美代子 MIYOKO千秋  CHIAKI霞   KASUMI律子  RITUK千景 CJKAGEアキ子 AKIKO路代 MICHIYO看護師和子 KAZUK絹子 KINKO 杉野教授絹子  KINKO富塚の愛富子  TOMIKO元子 MOTOKO妻雅子 MASAK保坂祥子 SHOUKO 雪貴子 TAKAK  梓かりそめ そしてその娘 容子YOUK修子 SHUUKO幻視 氷見子先生 凛子 杉野教授の夫人 肉体関係 皆川千景 N 温泉の 怜子REIKO 矢部夫人
安原怜子 浮島

しかし、結論は「【エ・アロール・それがどうしたの】である。

07封印された女性たち

芸能人などとの性愛は醜聞とマスコミに狙われるが、なにせ「世間の顰蹙を買いたい」と開き直っている人なので、取り上げても今ひとつ迫力に欠ける。
村山由佳氏の場合は鴨川市という狭い地区での、六人の男女関係であるから、 男たちの名前を封印したくとも、噂は横へ横へ広がるから、多くの人がしることになるであろう。

それはさて置き、渡辺氏も「表面化すると醜聞になる女性、生涯心の奥に秘めて置きたい女性関係」もあるようだが、彼の頭が持つ話したくてうずうずする性格はそれを許さない。例えば、母親・父親・妻についても「奥歯にものが詰まっているけど、しゃべる、となる。

《ドアが開いて和風の女性が現われた。紺と白の琉球絣に朱色の帯を締め、髪を大きくうしろにふくらませていたが、それが小柄な体を頼りないものに見せて
いた。野津は漠然と活発な女性を想像していたが、眼前に見る夫人は、落ちついて、もの静かな感じだった。

伏目のせいか夫人の額は白く、広く見えたが、眉間に一センチにも満たない傷あとが合った。

野津はそれが最初の印象でどこか翳りのようなものを感じた理由であったかとぼんやり考えた。

「きれいな人だろう」『ああ…』『いくつだと思う』「わからんな」「二十八だ、ご主人の桐野さんとは十五違う」夫人は紺の道行に藤色のショールを(中略)水江の夫人への関心は、医者と患者の母という立場をこえて、もう一つ踏みこんでいるように見える》

《(雪舞)は今年二十四歳になる。野津とは受持ちの病室が同じなので、時に二人だけで食事や、飲みに行くことがある。小柄だがきびきびしていてよく仕事のできるところに

野津は好感を抱いていたが、看護師のなかには二人は恋愛関係にあるのだと思い込んでいる者もいるようだ。「やはり来てはいただけませんか」「無理だな…」「それじゃあきらめます」小さな溜息が受話器から洩れた「いま窓から雪が降っているのが見えるんです」「そうか…」「おやすみなさい」

自分はこのごろ祥子に少し冷ややかになっているかもしれないと思った。
【この部屋にひとり寝ますと気をもたたせ】》
(同業者の奥さんか)

夫人は今日は藍色の群上紬に朱と白の絣高模様の木綿上衣を着て、いつもより華やいで見えた
タイピンもカフスも、珊瑚で赤地にところどころ白地が浮いていた
ボケ珊瑚というのか、朱白に白が浮いているのが、時に艶めかしくさえみえる

七十六ページ「しかし私は傑作をつくる気はないのです。愚作で結構、皆さんにいろいろ文句をいっていただくのが楽しい」「自分で作られて、それを愚作だと思っているのですか」「そう、そのとおりです」「いいですか、僕の話をよく聞いて下さい……」と強引な横道に入る。【出会茶屋あやうい首が二つくる】

「対談」でなかにし氏も言っていたが、彼の登場人物はほとんどは、相手のことに配慮されwいないから、「関係者から見れば誰誰」と特定される。この二つは「かなり違和感がある」書き方である。特定されると、渡辺氏の立場が危うくなる関係かも知れない。

極めつけは、戦略的命名に長けた渡辺氏が(震えてか片思いか)「看護師F子」と名を伏せた異様なページである。

《二年遅れて一人前の医師になり、手術場に行ってみると彼女はすでに中堅の看護
師になって器械出しなどをやっていた。(中略)先輩の執刀者とF子も気が合っていた。
(中略)》F子のプロポーションのいい体が、ウエストを締めた術衣で一層引き締まってみえる。さらに手術のとき、看護師達は髪をかきあげてターバンを巻いている。大きなマスクをしたF子の横顔は美しく引き締まり、背伸びして術野を覗き込んだときターバンの下の細い襟足が艶めかしい。

伸夫は呼吸の合っている先輩医師とF子を、脚を持って見ながら軽い嫉妬をおぼえた。もしかして二人は親しい関係なのではないか、あんなに調子が合うのは愛し合っているからでないか、考えだすとますます気になる。そんなとき、「おい、脚をしっかり持て」などと怒鳴られるといっそうみじめになる。こんな新米医師ではF子に相手にされないのではないか」

(中略)器械の点検をしながら、伸夫は何度かF子を誘ってみようと思った。喫茶店や映画くらい一緒に行ってみたい。だが伸夫はいいだす自信がなかった。F子は手術場でも目立つ美人だったし、先輩の医師達の話題にもよくのぼっていた。まだ誰としたしてと、はっきりした噂はなかったが、彼女に目をつけている外科医は何人もいるようだ。》
【させろとハあんまりぞくなくどきよう】

祥子のいい方には、どこか角があった 「若い医者にうつつを抜かすから、あんな子供が生まれたのだ、といったらしい」「それはひどい」「そうだ、ひどすぎる」「成算がない手術はいくら外科医でも出来ない。儲け本位の医者ならべつだが…」いいながら野津は自分がまた卑怯なことをいいかけている、と思った。

夫人は軽く笑うと、フォークにサーモンをはさんだ。華奢な夫人の薬指には白いプラチナのリングがはめられていた

夫人の横顔には、いままでの柔らかさが消え、ぴたりと戸口をしめたような冷たさがあった。
「さっきのこと、お願いできますね」その声を野津は舞い降りる雪の声のようにきいた。
夫人の眼がまっすぐ野津を見ていた。黒く大きな瞳だった。いままでこんな大きな眼を野津は見たことがなかった。眼がしきりにものを言っていた。
大粒の雪を払いのけて、眼が真剣に訴えていた。眼は途中から懇願になり、哀願になっていた「さようなら」一瞬、夫人は顔を伏せると、くるりと向きを変え、光に映える雪の方へ小走りに駈けていった。
【遠くからくどくを見れば馬鹿なもの】

祥子と二人だけで逢ってからほぼ一カ月が経っている。そんなに逢わなかったことは珍しいと思いながら、野津はいつものように、祥子に優しく接する気持ちに慣れなかった。
「ご迷惑でしたらはっきりいって下さい。あたし帰ります」
祥子が自分にいろいろ気を配ってくれるのを、悪いと思いながら、どういうわけか野津は素直にそれに応える気になれなかった。
渡辺センセーは「捨てるときは」背中を向ける。
野津と水江はセンセー一人なのである
夫人と肉体関係にあるのだ。

「静かないいところですね」「よろしかったら寄っていきませんか」「いいえ、今日は失礼します 」


元医者のざんねんは地者なり
偉大な作家の頭の中
偉大な作家は「世の識者の顰蹙を買いたい」などと言い出し始める。わざわざ述べるのも、マスコミとタイアップした性愛小説家の賞味期限が過ぎていることのあせりであろう。なぜなら、そう発言にしては公共放送に出たり、週刊誌などで雑誌社に求められるままの記事を書いている。

12.10ここまで21
08対象の例外
なかにし氏による具体的な指摘だけでなく、彼が「食べなかった人々」も少なくない。
「目の前にあらわれなかった」「自分が高名であることを知らなかった」「紹介されなかった」「語学ができなかった」「正体下心を見抜かれた」【うわきならいやさと下女はぬかしたり】」
顰蹙を買いたいと発言した作家が「今度の作品では、四十歳台の女性の愛をはじめて扱った」と発言しても「成立した『四十歳台との性行為』を述べる」と置き換えられる。
《家政婦富子は五十二歳の小肥りの女性だった。五十を過ぎて女であることをあきらめたふうな富子だがそれ以上、細かいことを頼むと、男と女のあいだだけに、妙なことにならないともかぎらない。もちろん、富子はそんなつもりはないだろうし…
 この口を尖がらせて発音しなければならないTOMIKOという名前からすれば、深夜、耳元で複数回囁く分類には入っていない。にもかかわらず、セックスをしてもいいと解すことができる。
【ふぐならばなぜしたと下女がいい】》
読者が抗議してくるかもしれない。
「四十三歳で、才能豊かで二児の母親で、「介護すべきボケ始めた両親を抱えている美人」のササエさんを、しがない小説家が誘発させた「性的な興奮の目覚め」で自殺する理由がどこにあるのだ!」と。
作家は怒鳴る。「子供は居ないぞ、ボケ老人の介護なんかしてないぞ、大体、サザエさんとはなんだ。そんな囁けない
名前の女性は決して食べないぞ。もっと素敵な名前、愛に相応しい命名をしてある!」と。
 渡辺淳一氏が間男としている領域は、狭い。全く相手にされないことも多い。
 特に優れた技能を持つとも考えられないし、数回で終わる性交とすれば、相手にしないであろう。
 いくら、手錠をかけられた被疑者といったとしても、「あの有名な作家である自分」を無視したあの女検事は許せない。それで、主人公は(愛の流刑地)その報復として「夢の中のレイプ」をする。
夢を逮捕できないから、手の打ちようがなく、その性癖に驚くだけである。
《そして逆らう気力が充実したとき、必ず思い出すのは、綾部という女性検事のことである。どんな大学を卒て、どれほど頭が良くて、そして、どんな生活をしているのかわからない。ただ北岡弁護士の話では、まだ独身だということだが際き合っている男でもいるのだろうか。もしいるとしたら、どんなセックスを体験しているのか。日中の妄想はそこまでだが、夜、床に入ると、さらに妄想はふくらんでいく。とにかく、あの女が悦びを知らないことだけは間違いない。整った目鼻立ちだ、論告や求刑をするときは、尊大ぶって小憎らしかったが、色白で胸のふくらみもほどほどありそうである。あのきっかりとしたスーツを脱がして裸にしたら、想像以上に美しく艶めいているかもしれない。むろん、まともにできるわけもないから、どこかに誘いこみ、一気に襲う。「なにをするの」と驚き、「やめて」と首を振り、「訴えるわよ」と叫ぶかもしれない。それを無言のまま、しゃにむに裸に剥いて犯す。腹立ちまぎれに、菊治の頭のなかに凶暴な欲情だけが目覚めてくる。そこで強引にセックスを重ね、性の悦びを教え込む。ああいう清ました女ほど、一度、悦びを知ったら狂ったように乱れだす。どうしても検事をしたいなら、そこまで性の悦びを知ったうえで、したほうがいい。そのほうが余程、人のためであり、国のためになる。菊治の妄想は復讐心に変わり、ひたすら淫らで卑しいほうへ走りだす。とにかく、あの顔にぶら下げている、法律で飾った仮面をひき剥がしてやりたい。考えるうちに菊治のものは怒り高ぶり、やがて果てる。いまの菊治には、悲しいけれど自慰(オナニー)することだけが尊大な法に逆らう唯一の手段である。》
あれだけ書いても、渡辺先輩は今のところ、お咎めナシなのに、新聞のうらのページには、植草元教授が、高校生のスカートの中を見るべく、手鏡を用意し、階段で、取り出そうとして、カランカランと音を立てて、落としたために、尾行していた警官に逮捕された。そして有罪になった
とある。
どちらが猥褻か
渡辺先輩はなんでもあり
性に翻弄された人生
【はだかにてくわどうの症はおつかける】


*
書かでもの記む
身をせめて深く懺悔するといふにもあらず、唯臆面もなく身の恥とすべきことどもみだりに書きしるして、或時は思い出をつづるなんぞと称へて文を売り酒枯ふ道に馴れしより、われ既にわが身の上の事としいへば、古き日記のきれはしとともに、芍薬吹きける15,6のむかしより、近くは三味線けいこに築地へ通ひしことまでも、何のかのと歯の浮くような小理屈つけて物になしたるほどなれば、今となりてはほとほと書くべきことも尽き果てたり。然るをなおも古き机の抽斗の底、雨漏る押入の片隅に、もしや歓場20年の夢の跡、あちらこちらと遊び歩きし茶屋小屋の勘定書き、さてはいづれお目もじの上とかく売女が無心の手紙もあればと、反古さへ見れば鵜の目鷹の目。かくては紙屑拾もおそれをなすべし。

*バルザック
小説の第一条件は、読者に興味を起こさせることである。が、そのためには、読者に錯覚を起こさせ、作者が語って聞かせてくれていることは、実際にあったのだと、読者が思いこむように仕向けなければならない。
スタンダール わずかに自分のものにすることができたなけなしの金も、その頃にはすでに使い果たしてしまったし、著名な作家になろうというかっての野心に再び立ち返って、作品をいくつか公にしたものの、金銭も得られなければ名声も得られないでいた。スタンダール奇矯な男だった。人間誰しも矛盾が多いものだが、彼の場合、その性格は大抵の者よりなお一層矛盾が多く、同一人物の中に、よくもこれだけ多くの矛盾した性質が併存できたものだと、驚かないでいられない。それらの諸性質は、多少とも調和と認め得るようなものを、ぜんぜん形作っていないのだ。きわめて優れた長所を持っている一方、重大な欠陥も持っていた。感受性が鋭く、情に動かされやすく、内気で、有能で、仕事をしなければならない時には勤勉になることができ、危険に際しては冷静で勇敢で、友人として申し分なく、さらに非凡な独創力に恵まれもしていた。その偏見は馬鹿ばかしく、目的は取るに足らない。人を容易に信用せず(だから、かえってやすやすと人にだまされることにもなるのだが)狭量で、無慈悲で、一向に良心的でなく、たわいがないほど自惚れが強く、もっぱら官能的で慎みを知らず、情欲がない癖に好色だった。
スタンダールは職業作家ではなかった。それにもかかわらず、彼は多年にわたって日記をつけ、しかも、ほとんどつねに自分自身についてのみ書く。
 50代の自叙伝は自分を実際以上にえらそうに見せかけたり、やりもしなかったことをやったと言っているような場合が時にありはするものの、全体としは真実を語っている。スタンダールは自分をいささかも容赦しないので、(中略)無分別にもあからさまに自分をさらけ出す。
 小説家がそのようなことをした場合、嫉妬心とか悪意とか利己心とか卑劣さとか、人間性の邪悪な面を―事実、人間の善良な性質よりも下劣な性質をもっぱら暴露する結果になるのだが、それがまたいかにも真実らしく思えるものである。というのは、自分自身の中に憎むべき性質をいかに多く持ち合わせているか、完全な馬鹿者でもない限り、人間誰しも十分によく心得ているからである。
しかし、スタンダールの場合は、本人についてである。一方渡辺淳一氏の方は主人公である。しかし、主人公が渡辺淳一氏自身であることは証拠は(記述の正確さで定評のある「白夜」に載っている。 私小説であるから、それらの性格は渡辺淳一氏である。大抵の読者は混乱する。

*わたしの長篇小説はかくの如くして、遂に煙管の脂(やに)を拭う反古となるより外、何の用をもなさぬものとなった。
対象範囲無制限化

五位業平が有名である。
【おこるへのこ久しからず腎虚なり】
渡辺淳一氏 これも顰蹙をかうかもしれないけれど、恋愛小説って、青年期から豊かな恋愛をしてない人は書かないというより、書けないと思うんです。
(中略)
偉大な作家:僕の場合は正直にいって、女性が好きというか、色好みなもんだから。趣味と実益を兼ねているという人もいるけど。
荷風は《小説たるも随筆たるも旨とする処は男女の仲のいきさつを写すなり。客と芸者の悶着を語るなり。亭主と女房の喧嘩犬も喰はぬ話をするなり。犬は喰はねど煩悩の何とやら血気の方々これを読みたまひてその人もし…》と記しているが、誰を相手にした通俗を展開するかが重要になってくる。
昔の我が国でも五位業平は関西を食べつくし、関東に食べにきた、と言われるほど忙しい人であった。駅弁の食べ比べでもあるまいが…
その業平についての川柳「なりひらのおしい事には地いろ也」についての下山悟氏の解説によれば《「地色」というのは素人女性のこと。業平の相手はみな素人で、いわば間男をしたり町娘をだましたりの類。これでは恋の達人といえない。本当の色男は遊女を惚れさせるものだ、というのが江戸っ子の認識》だそうだ。渡辺氏が通俗文学を志すとしたら「自分のファンだった」とか「手が白かった」などという偶然がいくつも重なって、ベッドへ進んでいくのではなく、読者にも納得がいく必然性がなければならない。
形振り構わず(かなり無理、と映る)偶然を重ねていくのがエロ通俗といわれるものである。
結局、主人公(つまり、渡辺淳一氏)は「間男」である。そのため、いくら同時に何件かの間男をしていても、都合の悪いことを秘密にしているようでは、普遍の愛に高めることはできない。


川柳では色男とは「色男ぶった人間」を指すことが多い。
色男見えそうなものとふりかへり
色男という種族は「人が自分のことを注目するにちがいない」と自惚れる。
のぼっても峠をしらぬ欲の道
色の道
なりひらのおしい事には地いろ也
「地色」というのは素人女性のこと。業平の相手はみな素人で、いわば間男をしたり町娘をだましたりの類。これでは恋の達人といえない。本当の色男は遊女を惚れさせるものだ、というのが江戸っ子の認識。

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新新・先輩渡辺淳一氏の解剖その20

2009-12-11 19:26:25 | Weblog
新新・先輩渡辺淳一氏の解剖その20

03荷風の品格
荷風は、乞われるものが通俗小説であったが毅然とした人生を全うした。

《(書かでもの記 永井荷風 野口富士男編岩波文庫)身をせめて深く懺悔するといふにもあらず、唯臆面もなく身の耻とすべきことどもみだりに書きしるして、或時は閲歴を語ると号し、或時は思い出をつづるなんぞと称へて文を売り酒沽(か)ふ道に馴れしより、われ既にわが身の上の事としいえば、古き日記のきれはしと共に、尺八吹きける十六、七のむかしより、近くは三味線けいこに築地へ通ひしことまでも、何のかのと歯の浮くような小理屈つけて物になしたるほどなれば、今となりてはほとほと書くべきことも尽き果てたり。然るをなほも古き机の抽斗の底、雨漏る押入の片隅に、もしや歓場二十年の夢の跡、あちらこちらと遊び歩きし茶屋小屋の勘定書き、さてはいづれお目もじの上とかく売女が無心の手紙もあらばと、反古さへ見れば鵜の目鷹の目。かくては紙屑拾もおそれをなすべし。つらつらここにわが売文の由来を顧み尋るにわれ始めて小説の単行本といふもの出せしは…》

《(荷風語録)ああ、大正の世人既に姦淫双斃の事を説いて以て盛世の佳話となす。此の時に当って僕独り耳を掩うて鄙語聴くに堪へずとなすが如きは甚通俗の本旨に戻(もと)るものなり。
僕今藝者の長襦袢を購はんがため、わが生涯の醜事を叙し出して通俗小説に代へ売文の眥を貪らんとす。老臝なおかくの如くにして聊(いささか)時運に追従することを得たりとせんか、幸何ぞよくこれに若(し)くものあらんや》
第6部 渡辺作品主人公の性格

第1章作家の心が目指したもの

大学を放り出され『失楽園』にあった時、彼は闇の中に叫ぶ

01今メスをとって

《「いまメスを揮って一人をすくうより、小説を書いて人間の魂を救うほうが、はるかに大きな価値がある」などと、見果てぬ夢を追って一人で満足する》
この「魂を救う」という高言にもかかわらず、五流から彼自身を引き上げるとこが、できなかった。

最近、「あきらめるのはまだ早い」という「待望の画期的((朝日新聞の広告)」書を出版したが、「欲情の作法」を見ると、「もう遅い」と結論せざるを得ない。
しかし、新米医者の時、渡辺淳一氏が、昼間にメスを持ったためにどれだけ多くの人々が命を絶たれたことか!

失敗と性交
ねえ、杉井先生…先生はこれまでに人を何人殺しました?
そうだな…
抱いた女の数と同じよ
抱いた女と…?
ふ…数えきれぬという事よ
怨痕 池上正太郎作

三十五歳の彼が、叫んだ決意が、どうなったか。

若き女流性愛小説家村山某氏に「自分のいやらしい部分を書き続けることです」と文豪富豪への成功のコツを伝授する。

《私は医者なるがゆえに、たくさんの人々のなんの虚飾もない、生きざまと死にざまを見ることができた。人間が生に対してはことごとくエゴイストで、死が見事に他愛なく、無であることも知った。どんな人も業績も、死によって確実に風化されていく。

人間は死んではいけない。だが死は避けられない。死は掌に残った一握りの灰に過ぎないが、それゆえに生きているかぎりは精一杯生きなければならない。それも本当は無だなことではあるけれど、いっとき死のあとの果てしない虚しさから、目をそらしてくれるほどのこうかはある。

やっぱりうまくいえないが、私が小説を書こうと思いはじめたのは、そのあたりのことからである。」と》
「殺してはいけない」とすべきは既に読者には理解できたであろう。

サンデー毎日の増田氏が、開けたパンドラの箱は、日本を五流に落としただでなく、日本の文学を殺した。
 公器としての出版社は明るい作家を開拓すべきである。

「人間の患部」ではなくて「彼自身の患部というべき性情」であり、「自身のいやらしさをマスコミに売り渡さなければならない宿命」であろう。
一般的に言って、川柳、特に末摘花でピッタリの評価をされた人物そして作品は低評価であると断言して良い。また、

【エ・アロール et Alors それがどうしたの】で片づけられるとしたら、それは駄作である。そういう意味でわが渡辺淳一氏の人物の品格そして作品として品格は低い点数しか与えられない。

 しかし、渡辺淳一氏はそういう作家であるから、彼自身には何の罪もない。
 それを陳列した出版社が悪いに過ぎない。

それは、深夜、公園で露出されたペニス自身には罪がなく、陳列した人が罪に問われると同じである。
ここまで、わが国を騒乱させたのであるから、作家渡辺淳一氏の性格に迫る価値はありそうである。

02昼の顔は穏やか

一般的にいうと、穏やかな顔で、テレビでしっかりした話をし、小説の舞台描写、会話(いずれも意味がなくとも)をほどほどにしている人間が、話を性器へ性器へと進めていくとは信じられない。
しかし、あの人がなぜあんな事を!」という話世の常である。
特に性本能がからんだ話は無数である。

《実際、セックスという行為にそんな違いはないわけで。女性の性器に男性の性器を挿入するというだけの行為だから。でも、同じと見える行為でも、ある人とは狂おしいほどの快感を感じ、別の人とは鳥肌立つほどの嫌悪を感じるというのも、考えてみると、非論理そのもので。男女の愛ぐらい非論理のものはない。
【受精のための行動であるから、改良型子孫が期待できない場合しかも、強制された場合は『鳥肌が立つのが当然』元臨床医なのに分っていない。】
【ひる見れば夜這い律儀な男也カット】

国民は「時々登場する、和服で、モンブランらしき万年筆を右手に持って、机に向かっている姿の紳士」と「下着を取り去り、ほぼ素っ裸になって、秘密口を延々とサービスしたり、観察したり、『想像と同じだとか、これが愛だ』とか感激する人物」とを結び付ける事は不可能であろう。

ひょっとしたら、現代の光源氏と考えているのかもしれない。

《大ぶりで、ゆたかな、陰影に富んだ人間。幼い日の母への思慕、青年期の恋のはなやかさの半面、人間としての人知れぬあやまち。悩み、挫折を通して自分をみがきあげ、やがて一門の主として成長していく姿》これは光源氏の一生・池田弥一郎著講談社現代新書の記述である
【また裸この人にしてこの病い】

第2章 渡辺作品主人公の品格と弱点 

一般的に、作家の品格は作品の品格と等しいと言われる。
人間の品格は、その躰を支配するDNAによって規定されているからだ。
その故、書かれたものと作家の姿が極端に食い違うことはあまりなかった。
渡辺氏研究で混乱するのは「頭、顔、手、下半身」がバラバラであることだ。
真実は「買い込んだ本」にあると信じることだ。

《平成の巨人渡辺淳一氏の自伝小説の最もめざましい特性は、その体験がすべて具体的なものを透して表現されていることである。物といって不正確なら、事実といいかえてもよい。
読者は安心してその世界に身を浸すことができる》
《僕の場合は正直にいって、女性が好きというか、色好みなものだから。趣味と実益を兼ねているという人もいるけど》
この二つを素直に受け入れることである。
【ききわけの無イものおえたへのこな也】

品格というものは本質的なものであると、すれば渡辺氏の二面性が理解できる。
《将来を嘱望されている青年医学部講師が、女性から「最低な男!」と罵倒され、罵られる面があることなど想像できないが、真実として受け入れなければならない。
「女性が自分に発した言葉」を忘れないように、トイレに入って、書き留める姿も。

また、穏やかな顔の作家が実は、作家の中では下着脱着回数(生涯を通算すれば)が群を抜いていることも。
すべて真実であり、あの渡辺淳一氏である。
実は、日常の顔と夜の顔が大きく違って見えることはざらにあることである。ジキルとハイドのパターンと考えると良い。

ペンが硬く、インクが充満している時と、人前の時の落差の大きさが、新聞社、出版社そして日航などが開催する(目的不明な)講演会の会場を紳士淑女で満員にさせる。

先輩のジキルとハイドを確認するために。

それなのに、自分は性状と持っている異常性愛を、新聞朝刊に連載し、他のものに、持論を押しつけようとするから、彼自身の真の姿が見えてくる。
「無影燈」の異常な性癖の医者から一歩も進歩しなかったと言える。
【間男も昼間見れば律儀也】


男女に対して「日本はおおらかであるが、キリスト教は非常に厳しい。」とはどんな裏付けがあるのだろうか」
江戸時代、不義密通は死罪である。作家のような間男は命がいくつあっても足りなかった。
「…あらゆる悪徳がその頂点に達した。後世は今日の風俗に何一つ新しくつけ加えることはできないであろう」とローマの詩人ユウェナリスは予言している。「ローマの平和」によって平和が保たれていた世界帝国の中心、ローマは、紀元一世紀には「世界の罪業の淵であった。」

《『失楽園』を書いたときには、不倫を超えて、圧倒的に好きな人を追うのが何で悪いの?
という自分なりのモラルがあった。もう愛がさめているのに、なお夫婦関係をつなげていることより、不倫でも、より愛している人を追うことがどうして悪いのか。好きな人を追うのは永遠の真実じゃないか。(中略)しかし現実には倫理に反して、とんでもない話だってことになる。個々のモラルを持てといっても、一般の人はそれを持つだけの勇気がない》

世間では、作家が主人公にさせている行為は明らかに犯罪である。

《教え子二九人に乱暴、未遂を含めると計九十五件のわいせつ行為を繰り返した元小学校教諭に懲役三十年》という記事を見ると「要求に応じないと勉強を教えないと言うなど、女児の未成熟な心理に付け込み、神聖な学校教育の現場で鬼畜にも劣るあさましい蛮行を繰り返した」「ゆがんだ性欲を満たすため教諭の立場を最大限に利用した醜悪な犯行で、現行法上の最高刑が相当」弁護側は「再犯の可能性は乏しい」と寛大な刑を求めていた。
つまり、この教師の弁明によれば「その瞬間、その瞬間はその教え子が好きで、愛していて『身も心も好きだった』」

病院でいえば医者が教師に、教え子が若い看護師などコメディカルに相当する
渡辺淳一氏においては
歪んだ性欲と
それを公然と陳列し
しかもマスコミと結託し巨額な金を巻き上げる。

01主人公の欲情
【若医者は昼しかって夜拝み】

愛欲文学において絶対的必要条件は、飯の種である「女性」の表現が優れていることである。この点に、岩波文庫の選考に洩れている点が有る。
《思わず舌打ちをして、改めて自分が強く、梓を求めていることを知る。
「要するに、梓が欲しいのだ」つぶやくうちに、自ずと「邪念」という言葉が浮かんでくる。
去年も今年も、変わらず梓を愛しているが、その底にはあきらかに邪念がある。だが次の瞬間、久我はその邪念こそ、男の生きざまそのものだと思う。
なにやら開き直っているようだが、邪念があるからこそ、人は前向きに力強く生きていけるものかもしれない。邪念というと邪しまな印象が強いが、広く考えたら、それこそ生きとし生けるものが共通に抱く煩悩である。そして、その煩悩こそが、愛の原動力であり、梓への滾る思いの原点である。邪念が悪いわけでない。
「去年今年変わらぬはそれ邪念のみ」
この句は、偽らぬ自らの姿である》

渡辺氏の自己倫理は《「すべての男性の」最終目的はあくまで「好きな女性を抱き、セックスすることです」これに反して、女性はそれほどの性的欲望をもっていません。それよりまず優しく声をかけられたり、大切に守ってくれる、いわゆる精神的な愛のほうを求めます。でも、それでは妊娠し、子供を産むところまではすすみません。ここで必要になるのが、男の異常なまでの女性への性的欲望である。これにより、女性は強引に性に目覚めさせられ、ひきずられ、さらにセックスを重ねるうちに悦びを覚え、自らも性に加担していきます。

いずれにせよ、男と女の原点に立ち返って考えてみると、女性を見て興奮し、欲情するのは、決してわるいことではないのです。むろんだからといって、犯罪になるようなことは許されません》

《白一色の下着が清楚で男たちが好むことは、大奥に住む女性たちすべてがわかっていて、それに従っていたのです。

男が清楚を好むことは昔も今も変わらぬ永遠の嗜好です。それを見締めるか否かはともかく、「男は清楚な女性を好む」という一点だけは忘れず、頭の片隅に入れておいて欲しいものです》などなんの指南かわからない、
当然ながら、彼が書きたかったのは「不倫指南」であろう。さすが出版社も「不倫」では過激すぎるので「恋愛指南教書」に題を変えようとしたであろう。しかし、「恋愛指南」はローマの名著である。

悩み抜いて「欲情の作法」という意味不明の題になったと考えられる。

ローマ時代から、この手のものは無数に書かれている。そしてすべては、ローマの詩人オウイデイウスの「恋愛指南」に行き着く。(恋愛指南オウイデイウス著沓掛良彦訳岩波文庫)沓掛氏の解説によれば《オウイデイウスは「愛の師匠」として『子孫維持のための愛のない結婚に飽きて、享楽を求める男たちや、れっきとした人妻(マトロナ)でありながらアヴァンテュールを求める女たち、そして夫たちの警戒にもかかわらず、それに応えるべく人妻を虎視眈々と狙っている若い男たち』など『愛の戦いに売って出ようというローマの男女に色恋の範例を示し、教訓を垂れつつその奥義を伝授しようとした。全編『諧謔と皮肉にあふれた』不朽の名著といわれる。
これに比し我がほうの作品は「作家の邪心と妄想を拾い上げただけの陳腐な自慰的活字の塊」に終わっている。

本来なら「欲情の制御」を書いて欲しかった。

これを「絶賛する有名人」の責任は(頼まれたとはいえ)はどうなるか。
「欲情の指南」騒ぎで判明したことは、

1) 渡辺淳一氏の閉店セール。もう彼ではボロい金儲けは不可能になった事実。

2)性愛愛欲小説の終末

どの作家もマスコミと手を組めば、少しの期間は(営利的な)成功を見ることができる。しかし、このことが、作家の半生を崩壊させる。
それについて、モームは《作家を襲う最大の危機は成功である》と警告する。  

《この危険に注意しなければならない作家は、残念ながらごく少数である。だが、この危険は逃れるのは大変困難である。長い苦難の努力の末ようやく成功を得た作家は、成功が自分を捉えて破滅させる罠を仕掛けるのに気付く。そま危険を回避する決意を持つ作家はほとんどいない。よほど慎重に対処しなくてはならない。(中略)成功は、内部に破滅の種を蔵していることが多い。成功の根拠となっていた素材から作家を切り離すことが充分にありうるからである。

成功によって新しい世界に入る。持て囃される。名士たちの注目を浴びても平静であり、美女に囲まれても無表情であるとしたら、普通の人間ではないに違いない。
彼は次第に以前より贅沢な暮らしに慣れ、以前付き合っていた人より上品な人に接する、新しく付き合う人々は、知性豊かであり、気の利いた洒落た話術が魅力的である。以前親しんでいて、作品の題材を提供していた仲間たちと再び仲良く付き合うのは、とても難しい。

(中略)成功によって新たに入った世界は彼の想像力を刺激し、その世界を書くことになる。しかし、彼に可能なのは外部から眺めることだけであって、奥まで入り込み、自分もその一部になるのは不可能である》とマスコミ出版社とタイアップした作家の末路を示す。
02主人公の欲情の対象
 
なかにし氏との対談「官能に限りなし」で《これも顰蹙をかうかもしれないけど、恋愛小説って、青年期から豊かな恋愛をしていない人は書かないというより、書けないと思うんです。》

《女性を書く場合、女の焦点は絞っておかないといけない。主人公の女性の顔から、身長、仕草、嗜好から雰囲気まで、かなり絞っておかないと、雑誌に連載しているうちに人物像がブレる(笑)なかにし氏「そういえば、渡辺さんの新しいエッセイには、男女小説のモデルになった女性たちとの関係を具体的に書いてますよね。これを読んでいると、渡辺さんは二重奏、三重奏(笑)。同じ時期に複数の女性と狂おしいほどの恋愛をしている。」「それは、わからないように書いたはずだけど(笑)」》

(笑)が三回も入るレベルの「作家の男女恋愛話」はスケベ話である。

作家は、「行為を強いる」から入った男女関係もすべて「恋愛」に編入する。
数は多いとしても渡辺淳一氏らは所詮「間男」に近い。同時進行している間男諸氏でも、秘密にしているようでは、高がしれている。
しかも、このお二人はいうなれば蜘蛛に近い。つまり、張った網の中に、かかったものを全部食べてしまう。「冗談じゃないわよ」と拒絶しても暴力に近いことに訴えても食べちゃう。この「レイプ」まがいの食べ方は多すぎるので別項を設けている。

同僚の看護師たちに襲い掛かるケースは無数である。

芸能界の女優たちとの噂も多数である。つまり、出版業界やマスコミ業界の女性はかなり危険であったと言える。

愛人の娘に触手を伸ばすことは彼にとってありふれたことであろうが、バレせば、社会的な制裁を受けることは必至である。

「かりそめ」には、網の中で自殺した梓の葬儀に現れた、梓の娘に触手が動く。「かりそめ」の最終章は、自殺した梓の葬儀所における行動がえがかれている。梓の娘である容子に舌なめずりをする。《「わたし、母に一度、おじさまに会わせて下さいって、頼んだことがあるのです」「そうしたら…」「初めは会わせてもいいようなことをいっていたのですけど、途中から急に、いけないといいだして」「どうして?」「あの人は浮気な人だから、容ちゃんのほうを好きになったら、困るからって…」久我はなにか、嬉しいような、むず痒いような気分になって、「本当に、お母さんが、そんなことをいったんですか?」(以下略)
亡くなった母の話をしながらも、容子は明るく屈託がない。
母がおじさまに惹かれていたのは、わかります。(以下略)

かって梓は情事のあと、その鏡に自らの軀を映しながら乱れた下着を整え、腰紐を締めていた。そのうしろ姿に久我は寄り添い、頂から肩口へ舌を這わせたこともあった。そんなことを思い出し、ふと横を見ると、容子の耳許と頂が久我のすぐ目の前にある。

いまここで、もし容子を抱き寄せたら…

そのまま容子は許すのか、それとも激しく逆らい、「嫌らしいおじさま」とでもいって罵るのか。(以下略)》
 マンネリの噂が耳に入るころより、彼の作品は次第に、作家がそれまで隠していたた性情に踏み入る。「梓と容子」のような人妻とその娘、そして「幻視における父と主人公美貌女医」とかの近親相姦であり、最も複雑怪奇なものとしては「白き狩人の『主人公美貌女医と義父、義兄、その娘などとの家庭内相姦・サドマゾ、同性愛」と進んでいく。

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新新・先輩渡辺淳一氏の解剖その19

2009-12-10 23:23:40 | Weblog

05世紀末の性行動

歴史は「改良型子孫を残せ」という遺伝子の指令に忠実である人間の行動の積み重ねともいえる。渡辺氏のが出現が世紀末だからといって、特別、風紀が乱れるというわけでもない。

フィックスの大著「風俗の歴史」にも「世紀末の風俗」という巻があるにしても、風俗の乱れはいつの世にもある。

しかし「世紀末」という言葉は「何があっても不思議がない」という雰囲気が
ある。事実、十九世紀の末期には、《大きな混乱が生じ、ブルジョワの妻は徐々に性に目覚めて、性的な存在と化していき、一方、多くの娼婦たちは立派な奥方たちと見分けがつかなくなる。

取り締まる警察官たち自身にも、何が何だかわけが分らなくなってゆく。
純粋な姦通と金銭ずくの姦通との境界が、警官たちには理解できなくなるのだ》とある。
06性交の快感
紀元前三千年のメソポタミアには「自由な」愛の行いをさまたげるどのような禁止も抑圧もなかった。
そこでは、男と女のほんらいの使命、嘗ての言葉で言う「さだめ」とは、神々の根源的な意志と照らしあわせて、結婚であるとされていた。そこで、つぎのような人物は、力のない不幸な生存を運命づけられたはずれ者、とみなされていた。つまり「妻もめとらぬ、子もはぐくまぬ(…)独り身のままの未熟な男。そして処女を破られることもなく、子をはらんだこともない未熟な女、夫によって服の留めをはずされ、だきしめられるために服をぬがされたこともなく、両の乳房が乳でゆたかにふくらみ母親になるまで夫に歓びを味わわせる経験ももたぬ未熟な女」と書かれている。

シュメール語では「男が愛人をまちがいなく絶頂にまでいたらせることができる能力」を「ニシュ・リッビ(心臓がもちあがる)」といった。
このころの石版には多くの「祈り」が刻まれている。そこでは「愛する女は燃えあがり、いささか狂おしくいましめを解かれ、わけのわからぬことを口走って、欲望と快楽にほえたてる」姿が記録されている。

 第一の祈りは「わたしをうばって。こわがっちゃだめ。おそれずに経たせて。イシュタル(愛の女神)とシャマシュ、エア、アサッリュイの命により。このやり方はわたしが考えたのではない。まさに愛の女神イシュタルのやり方なのだ(以下略)」「サアふるいたつのよ。ふるいたって。もりあがれ。もりあがれ。(中略)野羊みたいに六回も。牡鹿みたいに七回も。雄うずらみたいに十二回も。さあやってちょうだい。(以下略)」

 渡辺淳一氏が発見したと錯覚している「性愛はエクスタシー」によってのみ完成する」についても、遥か四千年もの昔、メソポタミアの人びとは人の心の秘密をすでに歌っていた。
「やさしさから激情へ、甘い快楽から肉欲へと向かうイナンナとドゥムジの愛の詩」を通して。大恋愛の結末はいつも悪いに決まっていることを。
(愛とセクシュアリティの歴史・福井憲彦ら訳・新曜社)
07性行為の危険性
このように、快感は、生殖行為に対するご褒美であるから、目的を逸脱した快感だけを目的とした性行為過多が安全であるわけでない。
我が国の川柳では腎虚と表現される。
【よそでへりますと内儀ハいしやへいひ】
【新世帯ひとのおもった程はせず】
と、亭主の枕元で女房が泣き崩れるように、原因は「外の女」である。
「女房だけで腎虚に陥る」ことも稀にはある。
【腎虚をばかたっくるしいやつが病み】
【胸倉を取った方から涙ぐみ】

なかにし氏との対談も《そういうものを、男はセックスの度に実感する。だから男が愛を書くと、どこかに死の影や虚無が滲んでくる。そして虚しいけど、また挑むという、大げさに言えば男の恋愛という行為のなかには、なにか哲学的な思考をせざるをえないようなところがある。このあたりが女性の生理には、ないところかもしれない》と。

この「すべての動物は交わりの後悲しい」は《Omne animali post coitum trste》として有名な語句である。彼が言い出したわけでない。
だから「すべての動物はまじわりのあとで悲しい」と、昔から言われていますね、とすべきである。

最初に性行為の危険性を憂慮する文書を発表したひとりである十八世紀医学界の第一人者S・A・Dティッソは《人類の増殖のためにはある程度精液を放出することはやむえないが、これ以外は注意深く精液を節約し、ぜったいに生殖という建設的な目的だけに使うように男性に忠告した。男性の行為の中でもっとも危険なもののひとつは、『マスターベーション』と呼ぶ、生殖を目的としない行為で精液を失うことだ。この行為で精液を失えば「思考力がにぶり、気が狂うことさえある。体力が衰える結果、せき、発熱、体力消耗(すなわち結核)激しい頭痛、リウマチの痛み、痛みを伴うしびれ。顔に吹き出物、鼻、胸、ももに化膿性の水泡ができ、痛がゆい。性的不能、早漏、淋病、有痛性の持続性勃起症、膀胱腫瘍などにより生殖力が低下する。腸の失不調、便秘、痔など」が起こる。「脳や神経の病気、麻痺状態、痴愚状態が突然起きる」》という人もいる。

ラルマンは《精子を失いすぎると最後には狂気につながる。親たる者はたえず目を光らせて、若者がエロ本を読んだり、淫らな想像にふけったり、自慰(オナニー)をしないように注意しなければならないとした。》

【すこし解説】渡辺淳一氏は、大変な肯定派であつて「幻視」ではくどいほどその必要性(?)を説いている。妻を貰うと「自分の波長に即したマスターベーション」ができなくなるのが一つの難点だ、と述べる。

自慰の危険性についてはヘルマン・ブールハーフェも述べている。
《精液の無分別な消費は倦怠感、体力の低下、動作の鈍化、ひきつけ、体力消耗、乾燥、発熱、脳膜の痛み、痴呆その他の害をもたらす。》
彼を引き継いだ学者はセクシュアリティのある側面を病気と同一視する理論を展開した。《病気には過度な興奮からおきるものと興奮不足から起きるものの二種類がある。キスとか親密な接触といった、男女の性的なふれあいは神経を興奮させるが、性交でも度を越さなければしばしのやすらぎを得ることができる。ただ、あまりに頻繁にオーガズムを感じるとエネルギーを放出しすぎるおそれがあるし、また、精液をあまり多量に失うことも避けるべきである。これまでにも小説家や詩人、宗教家などはしばしば、放埓な女性と性交渉をもつと、視力の低下、骨髄の消耗、知力の衰えを招くなど》と言っている。

第4章 小説家の品格
01 きちんとした作家
スティヴンソンが述べているが
《(旅は驢馬をつれて・吉田健一訳岩波文庫)どのような本でも、本質的には、それを書くものの友達に宛てた廻状である。彼等のみが著者の真意を理解し、どの頁にも個人的な音信や、友情の證しや、感謝の言葉を見出す。この場合に一般の読者は郵送料を出してくれる、親切な後援者である。我々は我々の友達以外に、何を誇りとすることが出来ようか》
荷風もまずは自費で数十部つくり友達に贈呈することが多かった。
 今は創始者の志を忘れ、営利を目的とする出版社と結託した小説が世に溢れている。マスコミに踊る「大好評十四万部突破、反響続々六十一万部突破、二百五十万部突破」などの活字で「読まなければ遅れる!」と煽り立てる。読む途中で、無駄な金を使ったと分かり、初めて「消費者」という単語が「せっかく稼いだ金銭を浪費する」という意味と悟る。
 つまり、作家が「読者である自分を友達として考えている」ことが伝わるか否かに、すべてが掛かる。
しかも、届けられた文は面白く愉快でなければならない。
 バルザックは《小説の第一条件は、読者に興味を起こさせることである。が、そのためには、読者に錯覚を起こさせ、作者が語って聞かせてくれていることは、実際にあったのだと、読者が思いこむように仕向けなければならない》と述べている。
多くの小説の主題は人間性の種々相を取扱い、友人たる私に至福感をもたらすためには、作家は《視野の広さ、余裕のある人生観照の態度、精神の健康さが備わってなければならない》
 《メスを捨て、多くの人々の魂を救おう》と決心し、この言葉を読者に約束した限り、貫くか、黙るしかない。
マルクス・アウレーウス
これ以上さまよい歩くな
終局の目的に向かっていそげ

「生き残るために すべてを書き出す」
昔から《自分ひとりで一場を支え、客を楽しませる芸を見せ得るとおもうほど思い上がった自惚れをいだく者がございましたら、彼らが、己のみが阿呆として描かれていると考える幸せに巡り逢わんことを、望むばかりでございます》

《医者で文学者をかねた作家といえば、わが国の文豪、森鴎外、ロシアのチェーホフ、そしてドイツのハンス・カロッサなどが想起される》とあるが、特にこの業界に医者が多いわけではない。
渡辺氏の作品に見られる「業界専門用語羅列による目くらまし」が使用できるという特徴がある。
 渡辺淳一氏はカフカを勉強したらしいが、目指した作家としてはカロッサというより、やはり、クローニンであろう。
02クローニンの品格
《鴎外やカロッサが純文学的にもきびしい態度をとり、チェーホフが苦渋に満ちたユーモアをもって創作にあたったのに対して、クローニンはもっと平俗的な、もっと身近な、いわば世間話をするような気易い調子で、医者と患者、もしくは医者対社会の問題を、逸話風に叙述することによって、読者に直接あたたかいヒューマニズムと正義感を訴えようとしているといってよく、したがってつねに、いい意味での大衆作家的観点に立って、社会および社会のなかに生きる人間の喜怒哀楽を描きつくそうとする作風といえるでしょう。
医学というものの本質をみきわめ、あるいは医学的体験を生命の根源にまでさかのぼって反省し定着する――いわば魂の実権を通じて主体的なものを探り、そこから濾過されたものだけを描くといったカロッサの手法とは、これは次元も世界もちがって、あくまでも人道主義的な観点から、社会の悪を悪として描くのがクローニンの創作態度である。
したがって読者はそこに自分たち自身と同じ次元、同じ世界に住む人間を読みとって、そこから直接的な強い共感をうるに至る》
渡辺淳一氏にはハンス・カロッサはあまりに遠すぎた。
カロッサの「若い医者の日」は「幼年時代」「青春変転」「美しき惑ひの年」に続く作品で自叙伝的物語の最後を飾っている。しかし、渡辺淳一氏は六十歳以上になって大成功を収めるとは想像もしなかったであろうから、「どんな目的で書くか」「その内容がどんな意味があるか」などを考えなかったであろう。
 若いころの志が変化していく悲しさをクローニンが述べている。高名になるにつれ、初心を忘れていくのが世の常である。
クローニンは自分の人生を振り返り、ある時、妻が言った言葉を常に忘れない。 《彼女はまっすぐ、私の眉間を見すえた。「あたしは、あの鋲底靴をはいていたころのあなたのほうが好きだったようよ。あのころは、あなたも患者のことをよけいに考えて、お金のことなんか、あんまりかんがえなかったんですもの」
私は髪の根本まで真赤になった。私は彼女を客間からたたきだしたい気持ちだった――「なんだって?お前は満足ということを知らんのか」と―しかし、われながら驚いたことに、私は沈黙をまもっていた。やがて長い沈黙のあとで、私は口の中で言った。「たぶん、お前のいうとおりだろう・・・あのころのことは、いつまでも忘れてはいけないんだ・・・おぼえておくだけの値打ちのある時代だったな」》
我々も、こう言われて体中が真っ赤になった経験があるであろう。
 渡辺淳一氏は「メスで患者の命を救うことを諦め、文を書いて人々の魂を救おう」と決意したはずであるから、ある瞬間までは、こうした人々のようになりたいと望んだであろう。
愛欲描写の厚い黒雲が途切れた時に「人の魂を救いたい」などという言葉がでてくる。純粋な美文と女体への執着描写が入り混じる。
「愛の流刑地」の十七の章節は(邂逅、密会、黒髪、蓬莱、風花、淡雪、春昼、短夜、青嵐、梅雨、花火、風死す、病葉、夜長、野分、秋思、雪女)では「エロ作家ではないぞ」という分断された叫びが聞こえる。「幻覚」では「墓地の桜、カウンセリング、昏睡状態、強迫性障害、ラブホテル、適応障害、不能治療、異常人格、過剰投与、突然死、証拠保全、スキャンダル、人格崩壊、朧月夜」と進行していく。
これらには医学博士は精通しているが一般的ないため、それぞれの場で、男性看護師が「私は医者でないけれど」とか「本を読んだ知識であるが」とか、彼の作品では稀でない言葉の後に、詳細な説明がある。
本の目次であり、決して渡辺淳一氏の生涯を自分でまとめたものではない事はいうまでもない。
 しかし、これらの単語から「友達に、どんな話をしよう」という事が全く伝わらない。
クローニンは《事実をそのままに叙述した従来の自叙伝とは、かなりおもむきのちがう、著者独自の人生記録を展開しているといっていいと思う》と解説されているが、その「人生の途上にて」の目次と比べてみる。《(竹内道之助訳三笠書房)臨床講義・精神病院にて・貧民街の白薔薇・インド洋上の聖者・最初の手術・しょう紅熱事件・咳止めの薬・真紅の奇跡・誤診挿話・タムさんと後家さんの話・国民性の一典型・ミス・マルカム・運命の賽の目・老医師の死・新婚初夜・白衣の天使・星からの電話・動脈瘤の歴史・三十八の棺・開業医となる・虚栄の市・尼院長と夜の女・大司教と下僕・遺伝の悲劇・ある自殺未遂・不貞の妻・結婚と家庭・才能とアルコール・医業をなげうつ・処女作誕生・田舎医者・宗教・ヴェローナの二紳士・山上の教会・貧者の一燈・霊の都・廃墟に芽ぐむもの・ツグミの歌・アメリカとアメリカ人・神とその存在・わが信条》である。
そして、「医師および作家の自叙伝」と副題が付けられている。
そして、この作品の書き出しは《その四月の阿蘇、屋根裏の寝室で目を覚ますと、ゆうべおそくまで勉強していたので、頭がまだぼんやりしていたが、私はいやでも自分の経済状態を考えてみずにはいられなかった》であり、我々を友達と迎え入れてくれている心が伝わる。
そうした(みんなが目指す)文学とはどういうものか。少し長い引用になるが、このページ以降続く汚い引用の前に、清らかな空気を味わっておきたい。
《(試験)この運命的な書付の脅威を目の前にして、私が最初の試験官としてあたらなければならないのは、モーリス・ギャズビー博士という、ポーモントが不安そうに話していた人だったので、私はすっかり怖気づいていた。
やがて、ものぐさそうな冷淡な態度で、私を次の試験官に引きついだ。それは国王の侍医、ドウソン卿であった。
私は立ち上がって、顔色も蒼ざめ、心臓をはげしく波打たせながら、部屋を出て行った。今週のはじめに感じていた疲労や、無気力などは消えてしまっていた。合格したいという願望は、ほとんど必死にちかいものだった。しかし、ギャズビーが不合格にするにちがいない。と私は信じた。目をあげて見ると、ドウソン卿が、親しそうな、ちょっとユーモラスな微笑をうかべて、私を見ていた。「どうしたんだね」と彼は思いがけない質問をした。「なんでもありません、先生」と、私はどもりながら言った。「ギャズビー博士のほうの成績が、あまりよくなかったらしいのです―それだけのことです」「そんなことは心配せんでもいい。ここにある標本をごらん。そして思ったとおりなんでも言って見たまえ」(中略)
ちょっと沈黙がつづいた。私はこの国王の侍医から、やわらかな皮肉をいわれるものと覚悟して、目をあげた。彼は妙な表情をうかべたまま、しばらくの間、黙って私をみつめていた。
「きみ」と彼はついに言った。「この試験場で、独創的なこと、真実なこと、わたしの知らんことを言ったのは、きみがはじめてだ。わしはきみにお祝いを述べよう」私はまた真赤になった。「もうひとこと答えてくれたまえ―これはわし一個人の好奇心によることなんだが。きみはだいたいの主義として、どんなことを考えているのかね。―つまり、きみが自分の職業を実際にもちいる場合、抱いている基礎的な観念だね」
私が必死になって考えている間、沈黙がつづいた。やがてついに、いままで自分がつくりだした好結果も、これでみんなぶちこわしだと思いながら、私はだしぬけに言った。「ぼくは―ぼくは、どんなことでも、既定の事実として考えないようにと、たえず自分に言いきかせているつもりです」「ありがとう―いや、たいへんありがとう」しばらくの後、私はほかの受験生とともに階下へ行った。 
ついにそれも終わった。午後四時、私は疲れきった憂鬱な気持ちで、外套をひっかけながら、クローク・ルームから出てきた。すると、広間の大きな暖炉の前に、ドウソン卿が立っているのに気づいた。わたしは何気なく通りすぎようとした。ところが、ドウソンは仔細ありげに手を差し出し、ほほえみながら話しかけ、私がついに―ついに、英国医学会の会員となったことを知らせてくれた。ああ、合格したのだ!合格したのだ!私はたちまち元気を快復した。頭痛もけしとび、疲労なんか忘れてしまって、輝くばかりにいきいきとしてきた。
(中略)その瞬間、人生がいかにいいものに思えたことであろう。この喜びを、深く愛するものと共にすることは、なんと素晴らしいものだったろう。最初、私たちはお互いに口もきけなかった。(以下略)
人生に役立たなければ文学ではない。
少しでも役に立つことを願いながら書かれるものであろう。私小説でも通俗小説でもそうだ。
反対に性的刺激を目的としたものは、うわべがどんなに華麗な文章でも性愛行動へ向かったものはエロ小説である。
特に斜陽になってきた月刊・週刊雑誌は猥褻領域で活路を見出そうと計画して、前に述べたように、編集長は若い無名作家たちを採用することの条件として、「二度、濡れ場の挿入」を要求した。
弱い立場の作家が反抗できるわけがない。異常な場でのレイプや性行動を指示された若い作家の末路は、誰もが推測する通りとなる。
つまり、使い捨てられるのである。
金銭や名前の大書に拘らない作家はスタンドを消した後は書かない。なぜなら、みんな同じだからである。「わぁー、とか、へぇー」とか、「あんな貴婦人があんな事を」なんてーことは五千年前に出尽くしている。
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新新・先輩渡辺淳一氏の解剖その18

2009-12-10 23:20:49 | Weblog

02歴史からの性行動

我が国では光源氏よりも業平が回数に於いては有名である。【男でなれひらほどにしたものはなし】
 
少し前の映画俳優諸氏たちは、渡辺氏も及ばぬ相関図を構築していた。

しかし、それらは所詮、相手にした人数と回数にすぎない。
なぜなら、人間の歴史も五千年にも及ぶと、生き方においても我々が新しいものを加えることはまずない。
性行為分野にも未発見のものは無い。
有名無名の無数の先輩たちがしてきたことを、我々はほんの短い人生で、体験するにほかならない。

「いや違う、俺だけは独創的な一生を送った」と息巻く人もいるかも知れないが、先輩たちの体験を組み合わせただけである。  
ある統計では人間は一生涯に2千回、性行為をするとされている。

昔の我が国でも五位業平は関西を食べつくし、関東に食べにきた、と言われるほど忙しい人であった。駅弁と勘違いか。

03キリスト教世界の結婚の問題 

渡辺氏は、いろいろな場で、「西欧はキリスト教徒として道徳でがんじがらめであった」と極めつけているが、何の根拠もない。
フックスの見解で「アンシアン・レジーム時代」について、研究してみよう。

《結婚のもたら問題は、いつでも、一夫一婦制における相互の貞操である。
ところが、一つの時代における結婚に対する歴史的に正しい評価は、貞操の差測定法に反する数よりも、むしろその時代の世論における姦通の評価にひじょうに左右される。
このばあい、第一に、姦通は男の保護された特権であるか、第二に、妻のたびたびの不貞は、妻の人格意識の向上の現われであるか、第三に、夫婦相互の不貞は、秘密なら許されて、大ぴらなら非難されるか、第四に、夫婦相互の不貞は、公の習慣として、正式に礼儀にかなうかが、問題となる》

《姦通はアンシアン・レジームの支配階級では、ありふれたことであったこと、姦通は結婚前の性関係とまったく同じに、たしかに大衆減少として現われたこと、姦通は夫におけると同じに、かなり盛んに妻の側にもあらわれたこと》
《ある貴婦人は、「恋愛で楽しいのは、はじめだけであります。ですから、なんどもはじめからやりなおすのは、それだけたくさんの楽しみを与えてく」》
《どんなに純潔な妻でも、じぶんの征服者にめぐり合う。妻が純潔なのは、征服者にめぐり合わないからだけだ》

《たいていのばあい、若い令嬢はその時代のいちばん魅力のある青年、つまり、一寸のすきもなく、上品に磨きこんだ、りっぱな青年にぶちあたったが、そういう青年には品性や堅実さはどこにもなく、薄っぺらで、移り気で、いわば世紀の軽薄な気風にみたされ、遊蕩のドン底で遊びまわる、つまらない人物であった。(風俗の歴史フックス安田徳太郎訳角川文庫)》
「妻を看護師」に「青年を新米医師」に「世紀を医学部」にすると分かりやすい。

《自分の放縦な性欲を、人類のもういっそう高い観念のために抑制することだけがすばらしかった》
自らに制限を設けない間男の存在こそが、問題である。
渡辺氏や対談相手のなかにし氏は自慢したくなるほどの性交経験者らしいが、世間には想像を絶する人たちがいる。  

実例をあげても、性交過多で名高い人びとも多いが、過剰な量の異性関係で高名な人物としてはジャコモ・カサノバがあげられる。

彼は生涯を性欲の犠牲にしたといっても良い男といわれる。

あの回想録の内容は、徹頭徹尾性欲で、恋愛などに紛らわしい処はない。
アンリー四世が知られている。16世紀にブルボン王朝の基礎を築き、アンリー大王と呼ばれたが、色事の発展家としても有名で、確実なだけで五十六人以上の情婦があった。しかし、遂にパリでこれが原因で刺殺された。
16世紀のフランソワ一世もフランスきっての色好みの英雄として有名で、シャトオブリャン夫人、デタンプ夫人などご寵愛の女性は数多い。ついには性病で没した。
コシモ一世(1519-74)の娘イザベラ(1542-76)は世にも稀な美貌で、父とも明らかな近親相姦があった。最後は夫に絞殺された。

【後の親を親ともせず芋でんがく】
【芋畑親と娘を刺すむごいこと】

一生を並外れた「性欲」を持ち続けた人も無数である。

ピカソも有名で、《彼は数多くの女性を手玉に取り、また女性をモチーフにした作
品のその暴力的な描写により「絵画のヘンリー八世」と非難されてもいるほどだ。ピカソは主要な女性だけで七人と深く交際した。亡くなるまでレオナルド・ダビンチの「恋心を抱かせるような美人たちに会うことを欲する画家が、それらを生み出す能力を備えている創造主である」という言葉に忠実に倣い、生涯女性を愛し続けたまた男女の愛欲を表現した版画作品では、「婚約者がいても結婚せず節度を越えた情事に耽って37歳の若さで死んでいったルネッサンスの巨匠ラワァエロ」の性に焦点を当てている(風俗の歴史フックス安田徳太郎訳角川文庫)》《ルイ十四世はあらゆる人間の権利を平気で共有した。。

04フランス事情

侯爵夫人エリーザベト・シャルロッテは、七十歳のルイ十四世について「あのお方は信心深くあります。しかし、信心深くても、あのお方は非常な女たらしであります。あのお方は女なしには生きてゆけないのです。そのために、じぶんのすべての妻をひじょうにおかわいがりになります。善良な国王は、寝台の中でお抱きになります女だけには、値打ちというものを見分けることをご存じないのです。女なら、どんな女でもごじぶんには結構なのでございます」
 男は例外なくひとりまたは数人の社交婦人をめかけにしたし、たいていの貴婦人は、数年間にわたって、いろいろの男の妾であった。リュクサンブール公夫妻とブフレール公夫妻は、仲良く四角関係の生活をしていた。しかし、四角関係だけでなく、五角関係、六角関係も流行した。ある男は母親と娘の二人を同時にめかけにしたし、ある貴婦人は父親と息子の二人を愛人にもったということは、ありふれた例である。この時代の人々は、時代の特徴として、男たちはひたすらに女の奉仕に身をすりきらしただけでなく、女のほうから直接男を追いまわしたために、男たちもいままでになすいほどたやすく楽しみを持った》
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