渡辺氏は「自分は常に正しく、万能であるという姿勢」や「男が与える行為で、女性は恍惚に導かれる展開」そして「女性は無限、男は有限との主張」を逆説的に書いているのであろう。
何かが、欠けていることに気づかない元講師ではないから。
それは自分の姿を隠しているからであろう。渡辺淳一氏が攻撃されたり、パンツを脱がされたりあるいは愛撫されることに触れられていない。
愛撫されて、のた打ち回る渡辺氏の姿を想像されるのを拒否している。
村山さんは、自慰のシーンをくどく書いているが、渡辺氏は「自慰をした。少したってまた自慰をした」としか具体的な方法には触れない。
読者は、「何のために、そしてどんな方法で高名な作家は自慰をするのか」を知ることができない。
09攻撃に弱い性質
官能女流作家は自分が引き揚げたようなものだから、たとえば「村山由佳さんとの一流官能雑誌・小説すばるでの対談『作家たるもの肉食系であれ』」では、彼女たちは「ハイハイ」と聞いている。
しかし、なかにし礼との対談では、そうはいかなかった。始めはおとなしくしていたが、なかにし礼氏が渡辺淳一氏の意見を否定しはじめた。《なかにし礼:先生(先生というと、心を許す弱点が医師にはある)はサディスティクに自分を追い詰めてマゾスティックに書くという姿勢を、哲学として貫いているからね。
渡辺淳一:あなたの場合も少なくともセックスは正常だと思うんだ。
(な)ぼくが?
(渡)うん、基本的に。
(な)正常かなあ・・・
(渡)いや、そうじゃなくて、谷崎的なものがないと言う意味だよ。
(な)いやいや、それはね、渡辺さんは僕のこと、わかってないかもしれない。
(渡)そうかあ。まあ、そういう異常なところがあるのなら、さらにいいけれど。
(な)でもね、はっきり言って、僕は全然ノーマルじゃない。渡辺さんに宣言しても、しょうがないんだけど。僕は完璧にアブノーマルですよ。日常の恋愛経験において。
(な)だって、セックスって平凡なものですよ。他者との差別化がなかったら書く必要はないじゃないですか
(渡)そう言い切ると、アブノーマルづくしになってしまうけど。とにかく正常なセックスを情熱かけて非常に難しいね。そこから正常をこえた、異常で本質的なものまであげていくのはね。》
渡辺淳一氏の思考回路が止まり、パニックに陥っていることがわかる。
なかにし礼はこのあたりで、渡辺淳一氏が「己の身の丈で世間を推し量っている」人間に過ぎないと看破したのであろう。
彼の作品は常に「女性に対して能動的である。彼が「女性に性的な愛撫をされて、恍惚となる場面はひとつもない」つまり、口では相思相愛と叫んでいるが、
所詮、作家の話を意味深くさせようとしているに過ぎない。
この「ひとりよがり」は自慰(オナニー)だけでなく、あらゆる場面に出てくる。「男というものは・・・」「僕は医師だからわかるが・・・」「僕は医者ではないから・・・」
渡辺劇場はマリオネットだから、劇は右手と左手だけで展開されるから、異論とか反抗はない。
このため、突然、予期せぬ攻撃にあうと「逆切れ」するか「オロオロ」としてしまう。
10小説ではなくマリオネット
マリオネット劇であることはどこでも証明できる
《どのような事情があるのかわからぬが、これほど待っているのに、どうして電話の一本もよこさないのか。なにやら彼女がもったいぶっているような気がしてきて、文句の一つもいってやりたくなる。
「勝手にしろ・…」久我は思わず舌打ちをして、改めて自分が強く、梓を求めていることを知る。
「要するに、梓が欲しいのだ」つぶやくうちに、自ずと「邪念」という言葉が浮かんでくる。
去年も今年も、変わらず梓を愛しているが、その底にはあきらかに邪念がある。だが次の瞬間、久我はその邪念こそ、男の生きざまそのものだと思う。
なにやら開き直っているようだが、邪念があるからこそ、人は前向きに力強く生きていけるものかもしれない。邪念というと邪しまな印象が強いが、広く考えたら、それこそ生きとし生けるものが共通に抱く煩悩である。そして、その煩悩こそが、愛の原動力であり、梓への滾る思いの原点である。邪念が悪いわけでない。
「去年今年変わらぬはそれ邪念のみ」
この句は、偽らぬ自らの姿である》
11男も渡辺氏、女も渡辺氏
例えば、「メトレス」で修子をレイプする場面である。《修子が遠野を知ったのはいまから四年前である。二十八から三十二歳までの、女が最も揺れるときに、愛を受け入れていたのだから嫌なわけはない。
「お願いですから・…」「駄目だ」「いやよ」叫んだ瞬間、修子は激しい平手打ちを頬にくらってよろめいた。
それからあとの行為は、正に獣そのものであった。初め修子はそれを憎み、必死で抵抗した。全身をばたつかせ、伸びた爪の先で彼の腕といわず顔といわず引っかいた。べッドに仰向けに倒されて両の胸を締めつけられたとき、修子はこのまま息絶えるかと思った。一時は首まで締め(本当は絞め)られて、意識が遠くなったような気もした。だが、その苦しさのなかでも、憎んでいた。
(中略)
意識のなかでは、奪う遠野を憎んでいながら、体は徐々に男の動きに従っていく。こんな反応を見て、男は女に自信を抱くのかもしれない。とやかくいっても抱いてしまえばそれまでで、女は体の誘惑に負けて最後は大人しくなる。それは単なる男の想いあがりでなく、女のある一面を表しているようである。
耳元で囁く「好きだぞ…」くすぐったさを交えて、その声はいましがた狼藉を働いた男の声とは思えぬほど、優しさに満ちている。
【解説】この部の後半は第三者の視点である。それゆえ、渡辺淳一氏の話は「マリオネット」劇であると言う所以である。
しかも、ステージで人形が行動しているのに、渡辺淳一氏が現れて、いろいろと注釈をつける「マリオネット劇」である。
化身でも霧子をレイプするとき、主人公の視点と作家の視点が交互に出てくる。(参考・レイプの章)
口では相思相愛と叫んでいるが、渡辺淳一氏がひとりで、男になったり女になったりしているだけである。
独りでマリオネットをしていると考えればよい。
《「行きたくないんだが・・・」「いいのよ、おじさま」
すると突然、絵利子がいう。「おじさま、本当にありがとう」
「おじさまのおかげで、とっても楽しかったわ」
「君になにかプレゼントしたいんだが、なんでもいいから、いってくれ」
「あたし、もらってるからいいわ」
「いいわ、なにをいただかなくても、あたしがちゃんと覚えているから」「覚えている?」「あたし、妊娠までしたんだから、おじさまのこと忘れることはないわ」塔野はものもいえず目を伏せた》
12万能感と挫折感の落差
作家の性格の弱点はこの落差が大きいことで、野望が達成したときと失敗したときであるから、私のような「鬱と躁」とも少し違う。
詩人と言われると至福になる教授の引き立てで講師となった。(中略)
《いまや伸夫は順風満帆で外科医の道を突っ走り、若い後輩のなかには、伸夫を、一種羨望の眼差しで見つめる者もいる。(中略)伸夫への憧憬は若い医師だけでなく看護師から付添いのおばさん、はては患者達まで、若くして講師になった医師として、一目おいてくれる。それらを思うとわれながら自分の幸運に感謝したい気持になる。
【薬箱初にもたせてふりかへり】
(やつと朋をとった医者、晴れがましくも、大得意でふりかえりながら)
若くして講師となるが、いろいろと野望の障害になる周辺のことが見えてくる。《(白夜)当初こそ、つとまるものか、心配でまわりの目を気にしたが、一年経つと自身もついてきて落着いてきた。
(だがその至福の頂点にいながら、ときにその幸せが不気味に思えることがある。
(中略)いまはたしかに恵まれているが、こんな状態がいつまでも続くわけがない。これはいっときで、やがて暗いときがくる。そんな醒めた重いが、ふと心の奥で芽生える。
(中略)「若いのに…」という一点において、伸夫の至福は成り立っている。(中略)大学に残る以上、教授にならなれば意味はないが(中略)伸夫の上には、優勝な助教授もいる。彼は五歳上だが、伸夫のいまの実力では適わないし、単純に考えた場合、伸夫より助教授が教授になる確率が高い。少し落着いて見廻すと、伸夫の前途はかなり多難のようである》
【この部分も「伸夫」を「わたし」に置き換えると、渡辺淳一氏の心の動きが明確になってくる。なぜなら、渡辺淳一氏の成長を理解しようとする読者には伸夫という男が、このように「ぐちゃぐちゃ」というか解らないから】》
その彼が心臓移植の渦中に自ら飛び込み折角の講師という位地から追放される。
《(何処へ)とくに悠介の場合、十年間勤めてきた大学病院の医師という職業を捨てなければならなかった。
それも三十五歳で講師という比較的恵まれた地位についていただけに未練もあった。
昭和四十三年悠介の大学で日本で最初の心臓移植がおこなわれた。悠介は同じ学内にいる者として調べた結果、好ましくない手術と断じて、批判的な文章を発表したが、それ以来、一部の医師達の反撥を招き、気まずい雰囲気になっていた。むろん学内にも今回の手術に対して批判的な人はいたが、陰口として批判するのと、文章で公に発表するのとでは大分事情が異なるようである。そのあたりを見抜けなかった悠介の若さは問題だが、それにしても、大学というところは住み難いところである。
このまま謝って大人しくすればいられないわけではないが》
【認識の甘さに笑ってしまう】
しかも、彼は辞めた理由をあのところでは白状し、別のところでは美化する。
《「ついに、開業医に勤めることになってしまった・・・」医師の場合、勤め先によってある漠然としたランクがあって、最も権威があるのが大学病院、最低が開業医ということになる》
十年間勤めてきた大学病院の医師という職業を捨てなければならなかった。
《それも三十五歳で講師という比較的恵まれた地位についていただけに未練もあった》
また《「やはり失った肩書きは大きすぎたのではないか…」とか名作「無影燈」でも見習看護師に《「あの先生、素晴らしく優秀で、三十二歳で講師になって、そのままいれば教授になる方だったんですって?」「恋愛問題が原因だとか、大学の教授と喧嘩をしたとか、いろいろ聞いたんですけれど、どれが本当でしょうか」》など言わせていて、未練タラタラである。
この最大の転機について、もう少し平易に述べていれば、渡辺淳一氏ファンも共に怒ることができたろう。
《「いまメスを揮って一人をすくうより、小説を書いて人間の魂を救うほうが、はるかに大きな価値がある」》と、見果てぬ夢を追って一人で満足する。
「ついに、開業医に勤めることになってしまった・・・」
以下は「幻視」にでてくる「絶世の女医にセックスをさせてもらう」シーンであるが、この異常な「ヘリ下り」ようは「よほどに有名な女性」に許してもらった「与えられた」記憶であろう。
《だって考えてみるがいい、僕は先生が経営されている精神病院に勤める一介の看護師にすぎず、年齢も先生より五歳も年下の三十一歳である。
そんな僕が突然、医師仲間でも有名な美貌の先生と、二人だけで食事をする機会に恵まれたのである。僕にとっては容易に近づき難い、まさに高嶺の花の先生から直接、声をかけられ、誘われたのである。
氷見子先生165,6センチ45キロぐらい。
とにかく先生の顔は小づくりで、お人形のように目鼻立ちが整っているうえに、明眸というか、眼元が涼しく爽やかである。初めて先生を見たとき、創造主はかくも美しいものをつくり給うのかと、驚き震えたものである。(8,21頁)
あれは僕だけが見たヒミツのシーンである。そう思いながら、その夜、僕は壁に飾ってある先生の写真と昼間見た白い脚を重ね合わせながら、自慰(オナニー)をしてしまった。
いや、正直言うと、以前から写真を見ながらしてはいたのだが、そのときから、僕の頭の中で先生の肌のイメージが一段と鮮やかになり、さらに激しく果てるのが癖になったのである。(わざわざ、段落行飛ばし)
【あてこすられてせがれはなみだぐみ】
(下山弘氏注:想う人の面影を頭に描きながらこするのを、あてこすりという)
切断の醍醐味と陶酔感
《眉子先生はプリマドンナ万里子の下肢を切断する。翌朝、眉子は爽快な気分に浸される。『それにしてもあの肢が切り離された瞬間、手に伝わってくる重みの感触は、なんと素敵なことか。鋸が骨の最後の一ミリを切り落とすと直ちに受けとる。その瞬間の、やさしくなつかしい重さをわすれられない。(?)あの快感は外科医でしか味わえない。わたしは切り落とされてくる肢の重さを知りたいために、外科医になったのか…』》
【【すこし解説】下肢切断だから、外科医ではなく整形外科医であろうが。しかし、実はこれは、完全な犯罪であった】
何かが、欠けていることに気づかない元講師ではないから。
それは自分の姿を隠しているからであろう。渡辺淳一氏が攻撃されたり、パンツを脱がされたりあるいは愛撫されることに触れられていない。
愛撫されて、のた打ち回る渡辺氏の姿を想像されるのを拒否している。
村山さんは、自慰のシーンをくどく書いているが、渡辺氏は「自慰をした。少したってまた自慰をした」としか具体的な方法には触れない。
読者は、「何のために、そしてどんな方法で高名な作家は自慰をするのか」を知ることができない。
09攻撃に弱い性質
官能女流作家は自分が引き揚げたようなものだから、たとえば「村山由佳さんとの一流官能雑誌・小説すばるでの対談『作家たるもの肉食系であれ』」では、彼女たちは「ハイハイ」と聞いている。
しかし、なかにし礼との対談では、そうはいかなかった。始めはおとなしくしていたが、なかにし礼氏が渡辺淳一氏の意見を否定しはじめた。《なかにし礼:先生(先生というと、心を許す弱点が医師にはある)はサディスティクに自分を追い詰めてマゾスティックに書くという姿勢を、哲学として貫いているからね。
渡辺淳一:あなたの場合も少なくともセックスは正常だと思うんだ。
(な)ぼくが?
(渡)うん、基本的に。
(な)正常かなあ・・・
(渡)いや、そうじゃなくて、谷崎的なものがないと言う意味だよ。
(な)いやいや、それはね、渡辺さんは僕のこと、わかってないかもしれない。
(渡)そうかあ。まあ、そういう異常なところがあるのなら、さらにいいけれど。
(な)でもね、はっきり言って、僕は全然ノーマルじゃない。渡辺さんに宣言しても、しょうがないんだけど。僕は完璧にアブノーマルですよ。日常の恋愛経験において。
(な)だって、セックスって平凡なものですよ。他者との差別化がなかったら書く必要はないじゃないですか
(渡)そう言い切ると、アブノーマルづくしになってしまうけど。とにかく正常なセックスを情熱かけて非常に難しいね。そこから正常をこえた、異常で本質的なものまであげていくのはね。》
渡辺淳一氏の思考回路が止まり、パニックに陥っていることがわかる。
なかにし礼はこのあたりで、渡辺淳一氏が「己の身の丈で世間を推し量っている」人間に過ぎないと看破したのであろう。
彼の作品は常に「女性に対して能動的である。彼が「女性に性的な愛撫をされて、恍惚となる場面はひとつもない」つまり、口では相思相愛と叫んでいるが、
所詮、作家の話を意味深くさせようとしているに過ぎない。
この「ひとりよがり」は自慰(オナニー)だけでなく、あらゆる場面に出てくる。「男というものは・・・」「僕は医師だからわかるが・・・」「僕は医者ではないから・・・」
渡辺劇場はマリオネットだから、劇は右手と左手だけで展開されるから、異論とか反抗はない。
このため、突然、予期せぬ攻撃にあうと「逆切れ」するか「オロオロ」としてしまう。
10小説ではなくマリオネット
マリオネット劇であることはどこでも証明できる
《どのような事情があるのかわからぬが、これほど待っているのに、どうして電話の一本もよこさないのか。なにやら彼女がもったいぶっているような気がしてきて、文句の一つもいってやりたくなる。
「勝手にしろ・…」久我は思わず舌打ちをして、改めて自分が強く、梓を求めていることを知る。
「要するに、梓が欲しいのだ」つぶやくうちに、自ずと「邪念」という言葉が浮かんでくる。
去年も今年も、変わらず梓を愛しているが、その底にはあきらかに邪念がある。だが次の瞬間、久我はその邪念こそ、男の生きざまそのものだと思う。
なにやら開き直っているようだが、邪念があるからこそ、人は前向きに力強く生きていけるものかもしれない。邪念というと邪しまな印象が強いが、広く考えたら、それこそ生きとし生けるものが共通に抱く煩悩である。そして、その煩悩こそが、愛の原動力であり、梓への滾る思いの原点である。邪念が悪いわけでない。
「去年今年変わらぬはそれ邪念のみ」
この句は、偽らぬ自らの姿である》
11男も渡辺氏、女も渡辺氏
例えば、「メトレス」で修子をレイプする場面である。《修子が遠野を知ったのはいまから四年前である。二十八から三十二歳までの、女が最も揺れるときに、愛を受け入れていたのだから嫌なわけはない。
「お願いですから・…」「駄目だ」「いやよ」叫んだ瞬間、修子は激しい平手打ちを頬にくらってよろめいた。
それからあとの行為は、正に獣そのものであった。初め修子はそれを憎み、必死で抵抗した。全身をばたつかせ、伸びた爪の先で彼の腕といわず顔といわず引っかいた。べッドに仰向けに倒されて両の胸を締めつけられたとき、修子はこのまま息絶えるかと思った。一時は首まで締め(本当は絞め)られて、意識が遠くなったような気もした。だが、その苦しさのなかでも、憎んでいた。
(中略)
意識のなかでは、奪う遠野を憎んでいながら、体は徐々に男の動きに従っていく。こんな反応を見て、男は女に自信を抱くのかもしれない。とやかくいっても抱いてしまえばそれまでで、女は体の誘惑に負けて最後は大人しくなる。それは単なる男の想いあがりでなく、女のある一面を表しているようである。
耳元で囁く「好きだぞ…」くすぐったさを交えて、その声はいましがた狼藉を働いた男の声とは思えぬほど、優しさに満ちている。
【解説】この部の後半は第三者の視点である。それゆえ、渡辺淳一氏の話は「マリオネット」劇であると言う所以である。
しかも、ステージで人形が行動しているのに、渡辺淳一氏が現れて、いろいろと注釈をつける「マリオネット劇」である。
化身でも霧子をレイプするとき、主人公の視点と作家の視点が交互に出てくる。(参考・レイプの章)
口では相思相愛と叫んでいるが、渡辺淳一氏がひとりで、男になったり女になったりしているだけである。
独りでマリオネットをしていると考えればよい。
《「行きたくないんだが・・・」「いいのよ、おじさま」
すると突然、絵利子がいう。「おじさま、本当にありがとう」
「おじさまのおかげで、とっても楽しかったわ」
「君になにかプレゼントしたいんだが、なんでもいいから、いってくれ」
「あたし、もらってるからいいわ」
「いいわ、なにをいただかなくても、あたしがちゃんと覚えているから」「覚えている?」「あたし、妊娠までしたんだから、おじさまのこと忘れることはないわ」塔野はものもいえず目を伏せた》
12万能感と挫折感の落差
作家の性格の弱点はこの落差が大きいことで、野望が達成したときと失敗したときであるから、私のような「鬱と躁」とも少し違う。
詩人と言われると至福になる教授の引き立てで講師となった。(中略)
《いまや伸夫は順風満帆で外科医の道を突っ走り、若い後輩のなかには、伸夫を、一種羨望の眼差しで見つめる者もいる。(中略)伸夫への憧憬は若い医師だけでなく看護師から付添いのおばさん、はては患者達まで、若くして講師になった医師として、一目おいてくれる。それらを思うとわれながら自分の幸運に感謝したい気持になる。
【薬箱初にもたせてふりかへり】
(やつと朋をとった医者、晴れがましくも、大得意でふりかえりながら)
若くして講師となるが、いろいろと野望の障害になる周辺のことが見えてくる。《(白夜)当初こそ、つとまるものか、心配でまわりの目を気にしたが、一年経つと自身もついてきて落着いてきた。
(だがその至福の頂点にいながら、ときにその幸せが不気味に思えることがある。
(中略)いまはたしかに恵まれているが、こんな状態がいつまでも続くわけがない。これはいっときで、やがて暗いときがくる。そんな醒めた重いが、ふと心の奥で芽生える。
(中略)「若いのに…」という一点において、伸夫の至福は成り立っている。(中略)大学に残る以上、教授にならなれば意味はないが(中略)伸夫の上には、優勝な助教授もいる。彼は五歳上だが、伸夫のいまの実力では適わないし、単純に考えた場合、伸夫より助教授が教授になる確率が高い。少し落着いて見廻すと、伸夫の前途はかなり多難のようである》
【この部分も「伸夫」を「わたし」に置き換えると、渡辺淳一氏の心の動きが明確になってくる。なぜなら、渡辺淳一氏の成長を理解しようとする読者には伸夫という男が、このように「ぐちゃぐちゃ」というか解らないから】》
その彼が心臓移植の渦中に自ら飛び込み折角の講師という位地から追放される。
《(何処へ)とくに悠介の場合、十年間勤めてきた大学病院の医師という職業を捨てなければならなかった。
それも三十五歳で講師という比較的恵まれた地位についていただけに未練もあった。
昭和四十三年悠介の大学で日本で最初の心臓移植がおこなわれた。悠介は同じ学内にいる者として調べた結果、好ましくない手術と断じて、批判的な文章を発表したが、それ以来、一部の医師達の反撥を招き、気まずい雰囲気になっていた。むろん学内にも今回の手術に対して批判的な人はいたが、陰口として批判するのと、文章で公に発表するのとでは大分事情が異なるようである。そのあたりを見抜けなかった悠介の若さは問題だが、それにしても、大学というところは住み難いところである。
このまま謝って大人しくすればいられないわけではないが》
【認識の甘さに笑ってしまう】
しかも、彼は辞めた理由をあのところでは白状し、別のところでは美化する。
《「ついに、開業医に勤めることになってしまった・・・」医師の場合、勤め先によってある漠然としたランクがあって、最も権威があるのが大学病院、最低が開業医ということになる》
十年間勤めてきた大学病院の医師という職業を捨てなければならなかった。
《それも三十五歳で講師という比較的恵まれた地位についていただけに未練もあった》
また《「やはり失った肩書きは大きすぎたのではないか…」とか名作「無影燈」でも見習看護師に《「あの先生、素晴らしく優秀で、三十二歳で講師になって、そのままいれば教授になる方だったんですって?」「恋愛問題が原因だとか、大学の教授と喧嘩をしたとか、いろいろ聞いたんですけれど、どれが本当でしょうか」》など言わせていて、未練タラタラである。
この最大の転機について、もう少し平易に述べていれば、渡辺淳一氏ファンも共に怒ることができたろう。
《「いまメスを揮って一人をすくうより、小説を書いて人間の魂を救うほうが、はるかに大きな価値がある」》と、見果てぬ夢を追って一人で満足する。
「ついに、開業医に勤めることになってしまった・・・」
以下は「幻視」にでてくる「絶世の女医にセックスをさせてもらう」シーンであるが、この異常な「ヘリ下り」ようは「よほどに有名な女性」に許してもらった「与えられた」記憶であろう。
《だって考えてみるがいい、僕は先生が経営されている精神病院に勤める一介の看護師にすぎず、年齢も先生より五歳も年下の三十一歳である。
そんな僕が突然、医師仲間でも有名な美貌の先生と、二人だけで食事をする機会に恵まれたのである。僕にとっては容易に近づき難い、まさに高嶺の花の先生から直接、声をかけられ、誘われたのである。
氷見子先生165,6センチ45キロぐらい。
とにかく先生の顔は小づくりで、お人形のように目鼻立ちが整っているうえに、明眸というか、眼元が涼しく爽やかである。初めて先生を見たとき、創造主はかくも美しいものをつくり給うのかと、驚き震えたものである。(8,21頁)
あれは僕だけが見たヒミツのシーンである。そう思いながら、その夜、僕は壁に飾ってある先生の写真と昼間見た白い脚を重ね合わせながら、自慰(オナニー)をしてしまった。
いや、正直言うと、以前から写真を見ながらしてはいたのだが、そのときから、僕の頭の中で先生の肌のイメージが一段と鮮やかになり、さらに激しく果てるのが癖になったのである。(わざわざ、段落行飛ばし)
【あてこすられてせがれはなみだぐみ】
(下山弘氏注:想う人の面影を頭に描きながらこするのを、あてこすりという)
切断の醍醐味と陶酔感
《眉子先生はプリマドンナ万里子の下肢を切断する。翌朝、眉子は爽快な気分に浸される。『それにしてもあの肢が切り離された瞬間、手に伝わってくる重みの感触は、なんと素敵なことか。鋸が骨の最後の一ミリを切り落とすと直ちに受けとる。その瞬間の、やさしくなつかしい重さをわすれられない。(?)あの快感は外科医でしか味わえない。わたしは切り落とされてくる肢の重さを知りたいために、外科医になったのか…』》
【【すこし解説】下肢切断だから、外科医ではなく整形外科医であろうが。しかし、実はこれは、完全な犯罪であった】
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