それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

メッセージの発信と記録

2017-06-12 23:21:33 | 教育

 雲仙・普賢岳にある溶岩ドームは、国の天然記念物だそうであるが、その溶岩に落書きがあり、消すに消せない状態になっている.しかも、その数は十カ所を超えるという。こういう落書きには、内容の乏しいものが多い(立派なことを考えている人間は、落書きなんぞしないであろうから当然のことではある。愚かなことに、自分の名前や友達の名前恋人の名前などの個人情報の断片を書き留めて平然としている輩もいる。
 かつて、ギリシャだかイタリアの古代遺跡に、日本人大学生が落書きをしたことが発覚し、大騒ぎになったことがある。しかし、週刊誌に掲載された写真を見ると、落書きは世界各地からやってきた観光客多数によるもので、その中に日本人のものもあったというのが事実のようであった。
 ここで、私は、日本人の落書きの免責を主張しているわけではない。国や民族が異なっても、人間は、文字や記号によって何かを残しておきたい、記録しておきたいという欲求を持つものらしいということを言いたいだけである。
 このところ国会では、加計学園の獣医学部新設にかかる問題で、もめにもめている.前文部科学次官が、存在しないはずの文書が存在することを明らかにし、官邸は弱っている。総理も官房長官も、与党議員の数を頼みに、あるものもないことにするという横柄な態度を通している。優秀な日本の官僚が、人類共通の欲求である「記録」を残していないはずはない。目の前に提示されても、「ない」というのは、もはや論理ではない。民主主の最も悪しき面が露出したのであろう。数に勝る政党は、下手をすると一党独裁の社会主義国と同じような状況を招く.私たちは、民主的な投票が可能な間に、自分の一票の意味を自覚しなくてはならない。民主党を政権与党に押し上げた苦い経験に学ばなくてはならない。
 話が逸れた。
 人間にとって、「記録」意思の「表明・表現」が本能とも言える行為であることを考えると、私たち言葉を教える者にとって、学習の意欲喚起は必要ないように思うが、教室における言葉の学習指導は、さほど楽な仕事ではない。本当に表現したいことにちがいがあるということになるのだろうか。落書きのように、意見をきちんと書くことはできないのであろうか。
 表現は、人間の本能と言ったが、動物も意思表現はする。一番分かりやすいのは、犬のマーキングであろう。縄張りの主張の激しさは、一度でも散歩に付き合えば、いやになるほど印象深いものとなる。あちこちににおいを付けて、これは自分の領分であることを主張している。これも切実な記録と主張である。
 こう考えて見ると、人間にとって記録と主張にはいろいろなレベルがあり、最底辺には動物のマーキングと同じレベルの行為もありうるということになるのであろうか.確かに
観光地での落書きは、マーキングに近い行為である。
 観光地でのマナーについては、
 「取っていいのは写真だけ、残していいのは足跡だけ」というしゃれた言葉がある。これが分かるのが人間、分からないのが動物ということになるのだろうか。
 私たちが言葉を持っていることには大きな意味がある。上記のマナーに関する言葉の意味が分かり、行動を規制するのは言葉の力である。他者にも伝えることもできる。また、言葉は、私たちの思考・認識の内容と方法を対象化し、意味を考え、反省・批評することも可能にする。激しく、切実な記録・表現本能を、人間だけが持つ本質的な意味での言葉につなぎ、質の向上を図るというシステムを構築することができるなら、もう少しまともな言語行動の主体が生まれるのではなかろうか。


6月例会の内容-2

2017-06-12 14:09:12 | 教育

  (画像拡大のためには、画像にカーソルを合わせ、クリックして下さい。)

 例会での報告の二番目は、「生き物は円柱形」(本川達雄)に関するものであった。
 この教材には、かねてより違和感があった。第一段落は、以下の通りである。
 ①「地球には、たくさんの、さまざまな生き物がいる。生き物の、最も生き物らしいと ころは、多様だということだろう。しかし、よく見ると、その中に共通性がある。形の うえでの分かりやすい共通性は、『生き物は円柱形だ』という点だ。」
 多様性が最も生き物らしい特徴だと言いながら、たった一つの共通性を持ち出すというアクロバティックな出だしである。たった一つの共通性で説明ができる程度のものなら多様であったり、複雑であったりはすまい。
 最終段落⑪も、①に似ている。
 ⑪「生き物は実に多様である。長い進化の時間をかけて、それぞれが独自の多様な生き 方をするようになり、多様な大きさや形をかくとくしてきた。そのことを思うと、あら ゆる生き物に対して、おそれ、うやまう気持ちすらいだかずにはいられない。……その 多様性を知ることはとてもおもしろい。それと同時に、多様なものの中から共通性を見 いだし、なぜ同じなのかを考えることも、実におもしろい。」
 多様性と共通性の関係が、依然として分かりにくい。「実におもしろい」などは、無理をしている自分を鼓舞する表現のようで苦笑する。

 さて、この教材の通読段階で、児童の中には、怒りを抑えきれない者が出てきて、怒鳴り、叫ぶことがあるという。筆者に対する抗議である。最初の怒りは、第二段落に対してのようである。
 ②「君の指をみてごらん。丸くてまっすぐにのびた形だろう。ごつごつしていたり、で こぼこがあったりしていても、それをここでは円柱形と見なすことにしよう。」
  先日、S官房長官は、文科省の文書の存在にかかる調査の実施の意向の有無についての記者の質問(「もし、すでに告発しているMさんの他に、Aさんが存在すると言ったら、存在の有無を調査するのか?」に対して、「仮定の問いには答えない」と交わして、その姿勢が反発を買ったが、この場合、仮定の内容そのものに無理はない。しかし、教材の中の仮定には、その内容に無理がある。
 読者の中には、本気で分かろうとして読んでいる者がある.児童の多くはそうであろう。教師にとっての教材と児童にとっての教材は、意味が異なることが多い。何度も何度も読んだ教材と、出会いが一回限りのものでは、受け止め方が異なるのである。
 読みながら感動したり、怒ったりするような反応をする児童が存在することに感動する。読みとは、読者とはこうあって欲しいと願う。
 かつてスポーツ選手の手になる説明的文章(初歩的な論説文とでも言おうか)について、児童が、「この人は走るのが速いので尊敬していたが、文章は下手だね。(書かなければよかったのに…)」とつぶやいているのを指導者が耳にしたという話を聞いて、こういう読み手が育っていること、またこういう読み手に育てたことの意味を噛みしめたことがある。
 本川氏は、チョウチョまで、羽をむしり取って「円柱形」であると言う。本気で筆者と付き合おうとしている児童の怒りを買うのは無理もない。教材の大部分は、この共通性の説明で占められる。それは、教材のタイトルが「生き物は円柱形」であるから当然ではある。しかし、本文の前後では、「多様性こそが生き物の最大の特徴だ」と言う。額縁の部分と絵の関係に無理があるとしか言いようがない。多様性が特徴ということと、一つの共通性という関係そのものが非論理的だから、はじめから無理があったのであろう。
 
  この教材では、多くの実践者が陥りがちな問題を指摘しやすいので、ことのついでに、それに触れておこう。
 この文章のまとめは、どの段落か、ということについてである。
 多くの指導者は、最終段落というのであろう。筆者の意見、主張が色濃く表現されているからである。しかし、論理的な文章のまとめは、単なる叫びや主張そのものであってはならない。論理的帰結でなくてはならない。その意味では、論理的であれば、静かで抑制的でよい。多くの説得力のある言説は、穏やかで、抑制的であり、非論理的なそれは、逆に、扇動的、感情的であることを想起したい。
 この教材の論理的なまとめは、短い⑩段落である。筆者の基本的な考えが混乱しているので、⑩段落の表現は貧弱になっている。しかし、論理的には、これをまとめとせざるを得ないのである。⑪はなにか? 私は、常々、こういう性格の(お説教じみた、勝手に論理を飛躍させた、いかにも教科書的な)段落を「おまけ」(グリコのおまけ)と呼ぶことにしている。論理的なまとめでなく、論理による説得力がないからである。
  児童は、どこに「まとめ」があるのかについて、悩み苦しみ、しかし、妥当な箇所を言い当てていることが、その反応一覧から判明する。児童の力はすごいと改めて感動した次第である。
 例えば、以下のような児童による、感想、意見は、重要な手がかりになる。

 ・⑪は、⑩のまとめっぽいのとは全然真反対のまとめ。

 ・最後の文は、①のまとめから進化している。

 ・ここまで円柱形ということを書いてきたのに、⑪で「円柱形」という言葉が少ないのはなぜか。

 
  私の興味と不安は、指導者の読みについてである。指導者は、この教材をどう読み、どのような読みに向かって指導を進めているのであろうか。書いてあるがままに理解して終わるというような無意味な行為に陥っていないだろうか、児童の読みの仕組みとレベルを理解し、受け入れる授業になっているだろうかというそのことを心配している。
 世の中にはいろいろな情報がある。情報の仕組みや質を理解して受け入れたり排除したりすることが、生活上の必須の行為、能力であることは言うを俟たない。児童には、その準備ができている。学校や指導者に、その用意と能力が備わっているのかどうか、それが心配である。