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新堀川を保全せよ② 長宗我部築造説!(史跡認定を目指して)

2010年01月29日 | 新堀川

新堀川は長宗我部時代に造られた城下町築造工事の資材運搬水路であり、高知城下町に残る最後の運河である。

 

新堀川は、1580年代に長宗我部元親によって着工された高知城下町の築造工事において資材運搬水路として造られた古い運河で、以後400年の長きに亘り、高知城下町のインフラとして土佐国人に広い用途で利用されてきた。他の堀割・運河が次々と埋め立てられたことから、新堀川は最後に残った歴史的建造物となった。

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国内に目を向けても県都に現存する運河としては日本最古である(類似するものが唯一熊本市にある=県文化財課説明。)。史跡・文化財としての価値は十分ある。保存活動を継続し、その希少性を訴え続けなければならない。

 

新堀川を残し、その界隈を風情漂う街並みにすれば、観光客・地元住民が共に喜ぶだろう。広島県福山市の「鞆の浦埋立差止め訴訟」では、埋め立てに反対する住民側が1審で勝訴し、広島県が控訴した。。。 闘わなければ何も起きない。裁判で道路工事を止めなければならない。

 

=== 新堀川の史跡価値の確認が必要 ===

 

新堀川西岸の新堀小学校付近、江戸時代の高知城下町(郭中)東側の「下街」は、次の①②③④の順番で造られた。とすれば、新堀川の西岸は長宗我部時代の初期工事で築造されたと考えなければならない(東岸は江戸時代初期に山内家によって築造された)。

 

①新市町、山田町は長宗我部時代に出来た町である。

材木町はもと片町だったのを、町人が自力で町のなかに掘川を通して両側町にしたので、二代藩主忠義より材木の専売権を与えられ、同じころ朝倉町の納屋堀も、城下に集まる塩魚類の専売権を与えられている。(下の絵の引用元)

つまり、南北の新堀川が当初からあって、材木町と朝倉町の東西の堀が後から造られた。

③下部の参考資料から分かるように、山内氏は、1601年に大高坂山の地に築城し、城下町づくりを始めた最も早い時期に、唐人町、掛川町、弘岡町、種崎町、浦戸町、蓮池町、朝倉町の七カ町を設けた。

④新堀川東岸(現在の桜井町付近)にあたる田淵町、南新町、中新町、北新町、鉄砲町は、1630年頃に造られている。 

 

以上の内容を築土構木(土木工学)のセオリーに当て嵌め工事の順序を考えれば、新堀川は、長宗我部元親が城下町築造工事に着手した1580年代に工事用資材運搬水路として確保され(掘削形成され)、その西岸に宅地造成するため石積み護岸が造られた。その後1630年頃までに、新堀川東岸が同様に築造された。と考えざるを得ないのである。

 

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参考資料 ― 高知市広報 「明るい町」 2008年11月号より

土佐史研究家 広谷喜十郎氏の「高知城下町と春野(一)」を次のように整理した

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  1. 山内氏は、1601年に大高坂山の地に築城し、城下町づくりを始めた。それに伴い、藩内に点在していた中世的な城下町や市場町を可能な限り吸収して形成されたのが新城下町である。
  2. 『皆山集』の「土佐国名数(とさのくにめいすい)」の高知廿五町の条によると、唐人町、掛川町、弘岡町、種崎町、浦戸町、蓮池町、朝倉町の七カ町をほかの十八カ町と区別している。これらは築城と並行して最も早い時期に設けられた町々である。 
  3. 『南路志』に「根元吾川郡弘岡村より引来ル」とある弘岡町(現南はりまや町付近)は、町の繁栄を祈願するための恵美須堂を設けている。当初は、大工、左官、大鋸挽(おがひき)(製材者)など職人の多い町で、これらの職人たちは、城下町づくりの工事に携わった。 
  4. 万治二(一六五九)年になると、八百屋町で魚商いをしていた魚棚が、「先年八百屋丁北へ続有之処東西堀御普請ニ付」(『南路志』)という工事のために、弘岡町の西側へ移転してきている。
  5. さらに、近辺には魚市場のある雑喉場(ざこば)や林産物を扱う納屋堀(なやぼり)があったことからも、この辺りが城下町の台所として大きな役割を果たすようになったことがうかがえる。
  6. 寛永二(一六二五)年、下知方面に外堤を築造し、堤内の耕作に藩の御手先農民を募集して耕作させた。その農民に長屋を貸与し住まわせたところが農人町になったといわれている。また、農民に年給九石ずつ与えたので、一名九石町とも呼ばれている。
  7. 寛永八(一六三一)年に吾川郡芳原村(旧春野町芳原)住人・島崎藤右衛門が、昔は御小人潮田といわれた場所に来住して土地の開発を行い、同十三年には田淵、南新町、中新町、北新町、鉄砲町の五カ町ができ、これらを総称して新町と名付けている。城下町周辺における新田開発と関連して町がつくられたが、これらは農村的性格を帯びた集落が発展して町場化した傾向がみられ、当初に形成された城下町の性格とは、やや異なるところがあった。そのため、農人町や新町はほかの町々が無年貢であったのに対して、地子銭を負担しなければならなかった。
  8. 高知城下町と春野(二)-高知市広報「あかるいまち」200812月号より-
    寛永年代(一六二四~四三)に入ると、江ノ口川などの河川改修に伴い、高知城下町周辺の比島、大津、布師田、介良、潮江方面でも新田開発が進んだ。『南路志』には、下知方面での「寛永中弥右衛門開之者縱五町横十三町」という弥右衛門新田、「寛永中金田源右衛門開之縱三町横五町」という金田新田、「寛永中入江甚太夫開之縱四町横三十町」という入江新田、上知寄新田、下知寄新田、小腹喰新田が見られ、注目される。

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