欧州雑派

欧州に関する気になった情報の備忘録

■「素粒子」  読書メモ<4> ~「素粒子」書評~

2015-02-08 | ウエルベック

「素粒子」書評 

(ネタバレがあります。未読の方はご注意を!でも、心配ありません。ストーリーを知ったとしても楽しめます!が、責任は持ちません(*'▽'))

小説「素粒子」は2つの物語から成立している。一つが異父兄弟の「愛と官能の物語」で、もう一つが「ハブゼジャックの物語」である。エピローグがやや難解だから、適当に読んでしまうと、異父兄弟の「愛と官能の物語」だけのように読んでしまう。

素粒子 (ちくま文庫)
Michel Houellebecq,野崎 歓
筑摩書房

構成

  プロローグ

    第一部 失われた王国 (1~15)

    第二部 奇妙な瞬間   (1~22)

    第三部 感情の無限 (1~ 7)

  エピローグ


ウエルベックはプロローグでSF的アプローチを用いている。次のように書いている。

  われわれが光のなかで生きる今、・・・・・・・・・われわれの身体を取り囲む光に触れることさえできるようになった今、・・・・

  ・・・・・今日、われわれは初めて、旧体制の終わりをたどりなおすことができる。

第一部~第三部までが、異父兄弟の「愛と官能の物語」だ。この「愛と官能の物語」だけを切り取ったものが、映画「素粒子」である。その映画評については、読書メモ<3>に書いた。

素粒子 [DVD]
モーリッツ・ブライプトロイ,フランカ・ポテンテ,マルティナ・ゲディック,クリスティアン・ウルメン
ジェネオン エンタテインメント

エピローグにおいて、第二の物語、ハブゼジャックの物語が始まる。ハブゼジャックも科学者であり、ミシェル(=ジェルジンスキ)理論の継承者・実行者である。未来からの視座で、人類が変容する契機となったミシェルの理論を伝播するハブゼジャックの姿を描き出す。

この小説ではプロローグとエピローグが未来からの視座であり、過去・現在からなる三部構成の物語を挟んでいる。それは、以下のように簡略化できる。

 プロローグ⇒三部構成の物語⇒エピローグ
      ↓
 未来からの視座⇒異父兄弟の現在と過去の物語⇒未来からの俯瞰
      ↓
 未来⇒現在・過去・現在⇒未来

つまり、未来という両枠で現在と過去を囲っている。この「大きな枠」が存在していることで、読了後の印象を変容させる。異父兄弟の「愛と官能の物語」が全く次元の違うの物語へと変転させられるのである。

それはどう言うことか、と言えば、、、つまり、異父兄弟の「愛と官能の物語」は、実は「人類の昔ばなし」だった、というオチである。

人類とはどのような種別だったのか、そのサンプルとして、異父兄弟に関する「愛と官能の物語」が編集されたのである。

エピローグにおいて、その経緯が晒される。新しい種族が、この「愛と官能の物語」と「ハブゼジャックの物語」を読んでいるという想定下にある。人類はほぼ消滅しているのだから、人類のことを彼らは知りたいのである。

 

人類のことを考える場合、過去も現在も未来においても、人間と神との問題、即ち、宗教問題へ帰結していく。或いは、宗教問題が起因となる。

では、「人類の昔ばなし」において言及される対象とは何か?その対象となるのは、神と人間とのかかわり方についてであり、「人類の昔ばなし」とは、その対象に関する考察である。

そこで、ウエルベックは頻繁に「形而上学的変異」という言葉を用いて、その考察を行っていく。この「形而上学的変異」がキーワードとなる。では、「形而上学的変異」とは何か?

「形而上学的変異」とは、すなわち大多数の人間に受け入れられている世界観の根本的、全般的な変化のことだ、と、ウエルベックは定義している。(p10) 

ウエルベックは、第一次「形而上学的変異」とは、キリスト教の登場と認識される、、と書いている。

更に、第二次「形而上学的変異」については、(ウエルベックの思索を僕なりにまとめると)科学と唯物主義の進歩によってあらゆる伝統的宗教が根源から覆されてしまったこと、或いはその時期・・現代社会のこと・・である。この「形而上学的変異」が、個人主義、虚栄心、憎悪、欲望を齎し、肥大化する様相までも内在している。特に欲望こそが、快楽の対極にあり、苦しみ、憎悪、つまり不幸の源泉だとする。しかも、現代社会が機能し、持続可能社会として繁栄を維持していくには、欲望が増大して、人々の暮らしを食い荒らす必要がある、、と、そのように(ウエルベックは)鋭い分析を行っている。

 

そして、その具体例が、異父兄弟の「愛と官能の物語」の全編で語られている快楽主義的な兄ブリュノの姿である。彼こそが物質主義時代の象徴なのである。更に、その時代の世相の変遷に関しては、例えば、ヒッピーたちやミックジャガーが、その象徴として語られている。


ウエルベックは、ミックジャガーを悪の象徴として担ぎ上げている。 更に、サドについても書いていく。

最初に書いたように、「大きな枠」の存在により、異父兄弟の「愛と官能の物語」として読んでいたものが、ここで反転し、科学と唯物主義の進歩によってあらゆる伝統的宗教が根源から覆されてしまった事例として、輝きだす。

そして、特に重要なことは、異父兄弟の「愛と官能の物語」の中で、彼らが「すばらしい新世界」について語りあう場面だ。
 
すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)
Aldous Huxley,黒原 敏行
光文社

「すばらしい新世界」とは(ウエルベックが言うところの)第三次「形而上学的変異」をハクスリーが目指していたということかもしれない。でも、ハクスリーのアプローチでは緩い!と、ミシェル(実はウエルベック)は見なすのである。そうでありながら、神と人間のかかわり方は、遺伝子学的物理学的なアプローチこそが有効であると見抜いたハクスリーの思索をミシェル(≒ウエルベック)は追求していくのである。

おそらく、ウエルベックが小説「素粒子」を書こうとした動機は、オルダス・ハクスリーの描く人類の未来図とは根源的に異なるものを提示したい、、という想いに駆られたからだと僕は考えている。

そこで、この問題を解決させるために、ウエルベックはミシェルを創造し、第三次「形而上学的変異」を提示する方策として、ミシェルの苦悩を描きながら、その推進者としての役割を与えたのである。

ミシェルのこの苦悩は、異父兄弟の「愛と官能の物語」で語られる別の側面として語られている。ミシェルは、超一流の生物学者であり、ノーベル賞の有力候補と位置付けられていく。ミシェルが「ハイゼンベルグならどうしていただろう」(p308)と熟考する場面がある。この場面でミシェルの能力は十分に担保されたのだ。手の込んだ構成は実に見事である。

部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話 (1974年)
山崎 和夫
みすず書房  

エピローグで語られる「ハブゼジャックの物語」は、第三次「形而上学的変異」のために奔走したミシェルの継承者の物語であるが、同時に、第三次形而上学的異変の完成までの解説書でもある。

でも、僕にはどうにも消化できない内容だった。

・・・・・実は、僕はここ数日、ウエルベックの視座で「すばらしい新世界」を読み直していた。だからブログの更新が遅れてしまった。新たに認識したことは、「すばらしい新世界」の描く全体主義の不気味さが現代社会にも適用されつつあるということである。これについては、後日、書いてみたい。・・・・・・

ウエルベックが言うように、ハクスリーは個人主義の問題を軽く見ていたかもしれない。でも、これには解決策などない、、と僕は思っている。しかし、そこをウエルベックは強引にSF的に解決をはかってしまう。これがこの小説の最大の欠点である。

 

性別を持たない不死の種族が新人類となり、「人類が乗り越えられないエゴイズムや残酷さや怒りの支配をわれわれが脱することができたのは確かである」と未来人に吐露させる。これを僕は理解できない。

現実味が皆無だから、、ということではない。「エゴイズムや残酷さや怒りの支配」を乗り越えるというか、そのような情動が発動しないために人類が人類の手により自らを消滅させることで、神と人間の関係を完璧なものにできると言うのだろうか?遺伝子的な処理により、人は神のようなもの、即ち、素粒子になり、光り輝く??という荒唐無稽はSFっぽい発想自体は否定しないけど、人間が神のようなものになるしかないというロジックを理解できない。

昔の神話では神も怒るのである。しかし、現実の世界では、神は人の心にだけ存在する訳で、神を内在している人間が行動を起こさなければ、何も起きない。怒りを抑えることができれば、戦いは起こらいということになる。であれば、神に近い存在になるということは、神を心に持たない、、ということになる。であれば、新しい種族の心とは何か?それをウエルベックは説明できていない。

性別を持たない不死の種族にも、科学と芸術は存在している。でも、「真」と「美」の追求は個人的な虚栄心に依存しているから、以前ほど緊急な目的ではなくなった、と(ウエルベックは)書く。旧人類からみれば、それが楽園だそうだ。と言うことは、新しい種族は人間のような心を持っていない、ということか。

科学と芸術が「真」と「美」の追求しなかったら、何のために新しい種族の心は存在しているのだろうか。「真」と「美」の追求は個人的な虚栄心に依存している、、とも書いている。であれば、現人類毎日虚栄心のために生きている、、ということになる。虚しい人生だ。つまり、僕ら人類は虚しい生物だ、というのがウエルベックの視座である。馬鹿げた視座だ。


もうウンザリするほどのロジックを盾にして、第三次形而上学的異変を妄想するウエルベックだが、、、、だが、しかし、この小説「素粒子」は実に刺激的で楽しめた。とても面白かったのである。ウエルベックが重視しているのは、たぶん、エピローグの「ハブゼジャックの物語」だと思えるのだが、面白さは、俄然、異父兄弟の「愛と官能の物語」の方に軍配があがる。だから、大きな枠を無視した映画「素粒子」の表現方法は大正解だったのだ。

読み方によっては、ペダンチック(pedantic)な感じがするウエルベックだが、過去のカルチャーの変遷を分析していく過程で、ミックジャガーや多くの映画作品や文学作品などを登場させ、、カルチャーの変遷を語る手法はとても面白かった。そのような意味においては、小説「素粒子」は抜群に面白い小説であると僕は高く評価している。

評価:☆☆☆☆☆


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ■「素粒子」  読書メモ <... | トップ | ■ハクスリーの「知覚の扉」 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ウエルベック」カテゴリの最新記事