シルバーピアニスト、で

検索すれば、60歳から始めたピアノで「ラ・クンパルシーター」など20曲がきけます。

実は、ここだけの話しですが、霞ヶ浦が上野の美術館に出現

2016年04月12日 04時30分05秒 | 老いのくりごと

芸大の卒業作品の展覧会に出品された霞ヶ浦の彫刻

近く上野公園に展示されるとか。

こどものころ70年近くも前ですが夏は朝から晩まで六尺褌一本で泳いでいたかすみがうらが、上野公園に展示されるとは、人生長生きするもんですね。昔は霞ヶ浦の、みつまた沖の水でお茶をいれると美味しいと言われたほど水が綺麗でした。

漏れ聞くところによると、この霞ヶ浦の彫刻、東京都知事賞を戴いたとか。

 

蛇足 角度としては、もしかしてカシマサッカースタジアムの上空からの眺めかも?


山のロザリア / ロシア民謡 cover : takashi

2016年03月06日 02時37分41秒 | 老いのくりごと

山のロザリア / ロシア民謡 cover : takashi

 

以前演奏したこの曲に「takash」i様がカラオケとして歌をアップされたのを見つけましたので、アップしました。

下手くそピアノでも一緒に歌っていただき、本当に嬉しいです。

今年は初めての「山の日」の祝日が8月11日にありますので其の時のコンサートでこの曲を演奏しようかと思っています。


宵待草

2016年01月15日 15時17分01秒 | 老いのくりごと

作詞:竹久夢二、補作:西條八十
作曲:多 忠亮、唄:高峰三枝子 他

 

1 待てど暮らせど 来ぬひとを
  宵待草の やるせなさ
  今宵は月も 出ぬそうな

2 暮れて河原に 星一つ
  宵待草の 花の露
  更けては風も 泣くそうな

《蛇足》 竹久夢二は、数多くの叙情的な美人画とともに、約180篇の詩、約430首の短歌のほか、150あまりの小唄などを作っています。

 『宵待草』は明治45年(1912)に作った小唄で、大正2年(1913)発行の彼の処女詩集『どんたく』(実業之日本社)に掲載されました。
 大正7年
(1918)、東京音楽学校(現・東京芸大音楽学部)でバイオリンを学んでいた多忠亮(おおのただすけ)が、この詩に感動して曲をつけました。その楽譜が出版されると、『宵待草』はまたたく間に全国に広がり、多くの人々に愛唱されるようになりました

 

宵待草のページはことのほかアクセスが多いので

(管理人:二木紘三)様の「うた物語り」のブログから解説を拝借しました。

 

 


山のけむり

2015年10月30日 11時01分36秒 | 老いのくりごと

映像は北陸新幹線の車窓から撮影

北陸新幹線と言えば行き着く先は、この紋所が見えないかと言う具合の、この写真。

現地での説明によると、琴柱灯篭の手前にあるのが渡り石にあらず、お琴だそうな、そういわれてみればなるほど

80歳になるまで気がつかなかった。なんとうかつな人生であった。

蛇足 新幹線のお蔭か兼六園は銀座の歩行者天国並みの混みよう。

 


赤い靴のタンゴ

2015年08月16日 04時28分17秒 | 老いのくりごと

昔もう20年近くも前に、先ににアップした曲「ショパンのノクターン遺作を、先生について習ったとき、いつまでたってもまともに弾けるようにならず、とうとう先生に、こやのさん、そんな音ではショパンさんが可哀想でしょ、と言われて、はいそれまでよ、もう、ショパンはよした、ショパンなんちゅうものは、年寄りが弾くものではなくて、聴くものだと自覚して、ならば弾ける曲を弾けばいいんだと悟った次第であります。

 

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青葉の笛 Ⅱ

2015年06月29日 02時04分26秒 | 老いのくりごと

笛の名手であり、祖父平忠盛鳥羽院より賜った『小枝』(または『青葉』)[1]という笛を譲り受ける。

平家一門として17歳[2]一ノ谷の戦いに参加。源氏側の奇襲を受け、平氏側が劣勢になると、騎馬で海上の船に逃げようとした敦盛を、敵将を探していた熊谷直実が「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。敦盛が取って返すと、直実は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうと甲を上げると、我が子直家と同じ年頃の美しい若者の顔を見て躊躇する。直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答え、直実は涙ながらに敦盛の首を切った[3]。この事から、直実の出家の志が一段と強くなったという発心譚が語られる。「延慶本」や「鎌倉本」では、直実が敦盛の笛(または篳篥)を屋島にいる敦盛の父経盛の元に送り、直実の書状と経盛の返状が交わされる場面が描かれている。 ウィキペディアより拝借

摂津国東成郡毛馬村(けまむら)(大阪市都島区毛馬町)に生まれた。だがそれ以上の詳しいことはわかっていない。

20歳の頃、江戸に下り、早野巴人(はやの はじん〔夜半亭宋阿(やはんてい そうあ)〕)に師事し俳諧を学ぶ。日本橋石町「時の鐘」辺の師の寓居に住まいした。このときは宰鳥と号していた。俳諧の祖・松永貞徳から始まり、俳句を作ることへの強い憧れを見る。しかし江戸の俳壇は低俗化していた。

寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、敬い慕う松尾芭蕉の行脚生活に憧れてその足跡を辿り、僧の姿に身を変えて東北地方を周遊した。絵を宿代の代わりに置いて旅をする。それは、40歳を超えて花開く蕪村の修行時代だった。その際の手記で寛保4年(1744年)に雁宕の娘婿で下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)の佐藤露鳩(さとう ろきゅう)宅に居寓した際に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。

ウィキペディアより拝借

画像は、たしか2011年1月 神戸市須磨寺にて撮影

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青葉の笛

2015年06月25日 14時02分51秒 | 老いのくりごと

平家物語の中でこのお方が、笛の名手で、愛用されていた笛が、神戸のお寺にあるのをみてきました。

そのときパチリ、すてきな若武者、今で言うイケメンでしょうか?

この写真は青葉の笛の楽譜と歌詞が書いてあり青葉の笛の曲も聞くことが出来ました。