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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ナルシスティック(行為者)-窃視症(見る者)的二元論の克服

2008年02月25日 | 『ジャド』(5)レイナー
以下はダンス研究者ラムゼイ・バート『ジャドソン・ダンス・シアター パフォーマティヴな足跡』第3章の部分訳と注釈です。これで、今回個人的に予定していた範囲は、訳し終わりました。ここから研究ノートの書き込みをさらにしていきます。それと、これをどうにかより立体的に理解し、味わい、ダンスを感じ考えるネタに出来るよう、さらなる工夫を考え中です。

後に言及されるように、70年代にレイナーはダンス作家から映像作家へと転身します。
例えば、Film About A Woman Who...(1974)

ところでYvonne Rainer: The Mind is a Muscleなる本が昨年末に出版されていたんですね。この辺りの研究というのは、近年、非常に熱気が高まってきている、という気がしますね。



(5)私の身体は永続する現実に留まっている

 「スペクタクルにノーを」で始まる1965年の声明の冒頭に、レイナーは次のような但し書きをつけた。つまり、自分は多くの演劇の形式を楽しんでいるけれども、その一方で、自分の声明はそれより厳密にただ「自分自身の芸術的な瞬間瞬間のゲームのルールや境界」(Rainer 1974: 51)の輪郭をくっきりとつけようとする、という但し書きである。ジャッドと比べると、レイナーの規則や境界は、年月を経て変化してきた。「擬似的概説」に自明なことに、これらのルールや境界はミニマル・アートに関連していた。1976年の『カメラ・オブスクーラ』誌の編集者とのインタビューで、レイナーは自分の映画はフェミニスト的ではないと主張したが、その後、ノエル・キャロルに対して、自分は「変化を手助けしてくれた『カメラ・オブスクーラ』に感謝している。自分がもっている道具を使い果たしていなかった点を指摘してくれたことで、彼らは私に自分の作品について考えるための特別な道具を与えてくれた」(Rainer 1999: 179)ということを認めている。1981年の論考「Looking Myself in the Mouth」(ibid.: 85-97)で、彼女は、バルト、フーコー、クリステヴァ、ヘイデン・ホワイトを引用しポスト構造主義を参照しながらジョン・ケージ批判を展開した。1985年の映画『女たちを妬んだ男』は、フーコーとのインタビューの抜粋とオーストラリアのフェミニストであるミーガン・モリスによる論考の抜粋を含んでいた。レイナーがひねくれて考えたように、彼女が楽しんだのは「オーストラリア人の声が、強い訛りのフランス女性であり映画作家であるジャッキー・レイナルによって彼女自身の権利において英語で主張されたフランスのフェミニズムを間接的に参照していた」ことだった。「それは、フェミニストの理論それ自体について問題化がなされた声だった」(Jayamanne et al. 1987: 44)。フェミニストの精神分析学的映画理論を論考「デ・ローラエディプス・マルヴェイと遊ぶ間、あるいは彼が私生活を過ごすだろう間の、エディプスコンプレックス的な罠(いらだたしさ)に対する映画的な逸話をめぐるある反芻、しかし……」(Rainer 1999: 214-23)←著述家としても名高いレイナー。彼女が書く論文は、ともかくタイトルが長い!あと、難しい単語をよく使うんです。のなかで議論するときに、レイナーは同様に、破壊分子的なスタンスをとった。

 かくしてレイナーは、異なった複数の理論的ポジションの連なりを媒介にして、自身の著作において、また自身の作品そのものにおいて活動した。自身の芸術的なゲームについてのルールについて話したり、考えるための道具立てについて話す際に、レイナーはそれ以前の世代----抽象表現主義の画家やモダンダンスのダンサーたちの世代----がそこにおいて自分たちの個人的で、内的な経験の唯一性について認めてもらおうとするような、公的な芸術的制作物の性格に迫り続けた。この文脈においてこそ、ジャスパー・ジョーンズや幾人かのミニマル・アーティストが言語についてのヴィトゲンシュタインの考えに興味を持つようになっていったのである。J. O. ウルムソンが提唱するように、後期の考察において、ヴィトゲンシュタインは完全な科学言語という考えを廃棄して、その代わり言語を「それぞれが異なった種類の目的に奉仕する社会的な活動の無限定な連なり」(Urmson 1989: 329)として理解し、それ故に、言語ゲームや言語ツールについての議論を展開していった。ヴィトゲンシュタインにとって問題が生じるのは、個々人が言語を言語以上のものにしようと望む場合である。『哲学探究』の23パラグラフでヴィトゲンシュタインはこう提案した。「言語におけるツールの多様性、また言語が用いられる仕方の多様性、語と文といった類の多様性を論理学者が言語の構造について行ってきたことと比較するのは興味深い」(Wittgenstein 1963: 12)。有名な例で、ヴィトゲンシュタインが指摘しているのは、痛いと感じると誰かが発言したときにその誰かが意味づけた事柄を知っていると我々は考えるかも知れないけれども、その発言を聞いた者が話者の指し示している事柄と同じ痛みの感じだと思い描く経験を論理的に確証することは、不可能である(ibid.: 89 passim)。サイモン・クリッチレイが指摘しているのは、ヴィトゲンシュタインにとって「哲学は、言語をその形而上学的な使用から日常的な使用へと導く実践である」(Critchley 1997: 118)。ヴィトゲンシュタインは『哲学探究』(1953年英訳1963年)のなかで「「言語ゲーム」ということばは、ここでは、言語を話すということが、一つの活動ないし生活様式の一部であることを、はっきりさせるのでなくてはならない」(23)と言っています。言語をゲームとみなすことは、話者をゲームのプレイヤーとみなすことでしょう。同様な仕方で、ミニマル・ダンスは、正しく、運動の形而上学的な使用を消滅させたのである。ロザリンド・クラウスは、なぜあるミニマルリズムのアーティストたちはヴィトゲンシュタインの考えに魅了されていたのかをこう説明した。

[ヴィトゲンシュタインにおける]言語と意味のこうした問いは、類比によって、我々がミニマリズムの努力の積極的な側面を理解する手助けをしてくれる。なぜなら、芸術作品にイリュージョニスティックな中心あるいは内部を与えるのを拒もうとして、ミニマリズムのアーティストは、審美的な客体に対する意味づけを否定するのではなく、意味の個別的なソースの論理をただ再評価するからである。意味は----言語との類比を続けながら----、個人的な空間よりも公的な空間から生じるものとして理解されるべきだと、彼らは問いかけるのである。(Krauss 1977: 262, emphasis in the original)

クラウスに従えば、レイナーのダンスまた彼女の仲間たちのダンスのミニマリズムとは、従って、この公的な空間において意味の豊かなダンスのヴォキャブラリーを見出すために、確証不可能な個人的な連想というダンスの実践を暴露しようとする熱望であると理解することが出来る。

↑このあたりで、バートが盛んにヴィトゲンシュタインを参照するのは、アメリカ『オクトーバー』系の美術批評家ロザリンド・クラウスのミニマリズム的なダンスについての見解を意識してのことだと思う。例えば、このエントリーのなかで、ロバート・モリスも含めたジャドソン系のタスクな運動を論じる際に、ウィトゲンシュタインが出てくることとか。

 この点を考えることで、私は、この章のはじめに据えた問い、つまり『心は筋肉』とテレビでヴェトナム狙撃死体を見たときの恐怖や不信との間の関係を議論する際に「私の身体は永続する現実に留まっている」(Rainer 1974: 71)と結論づけたレイナーは一体何を言わんとしていたのかについて、答えることが出来る。クラウスに従って、私が強く主張したいのは、レイナーの視点において、名人芸的バレエテクニックによって伝達される形而上学的理想と主流のモダンダンスの表現的なヴォキャブラリーによって伝達される心理学的経験の固有性はどちらも、イリュージョニスティックな中心あるいは内面性を据え置いてしまう、ということなのである。ヴィトゲンシュタインの用語では、そのような内面性の存在は形式論理学によって確証されえないのである。ただレイナーの踊る身体がもつ「現実の重さ、マッス、増進されていない肉体性」(ibid.)は、論理的に確証可能であり、それ故に、公的空間において意味をもちうる永続する現実に留まっているのである。レイナーがこの結論へといたったことの重要性は、1968年の公演パンフレットを1974年と1999年の論集であらためて取り上げた事実に明らかである。

↑ここでは、ヴェトナムの悲しい死体を映すテレビのイリュージョン、そしてそれを受け取り、何かとして解釈して分かった気になる内面性が、自分の身体のリアルな感覚と対照されています。イリュージョニズムに反対してマテリアルの次元を、そのリアリティ守ろうとするレイナー。しかし、その身体というものが「私の」身体であるという事実が、今度は、問題になってきます。↓

 レイナーは、こう認めてきた。「私にはいつも、公的な市民を私的な個人と統合したいという清教徒的な傾向があったし、一種のユートピア的な緊張があった。」(Goodeve 1997: 60)。これは、1968年の公演パンフレットのなかでの清教徒的道徳化への擁護と響きあう。1968年の公演パンフレットで、彼女が述べていたのは「ただイデオロギー的な諸問題が作品の本性に関係をもたず、また、近年の政治的で社会的な条件についての性格がいかなる実効性ももたなくなる」(Rainer 1974: 71)ということだった。言い換えれば、『心は筋肉』は芸術作品であり、政治的なプロパガンダの作品ではないということである。ドナルド・ジャッドは、非常に似た発言をしている。「芸術は、何か他のもののためのメディアではなく、教えることも出来ない。道徳的な事柄でもなく、倫理的な事柄でもなく、それは学問的な事柄でもない。それは芸術である」(cited in Raskin 2004: 93)。【中略】 

 従って、イデオロギー的な事項は、レイナーのダンス作品の本性あるいは実際と関係してこなかったかもしれない。しかし、テレビでヴェトナム人の狙撃死体を見たときの恐怖の感情は、ヴェトナム戦争への抵抗運動の正当性を確証した。さらに言えば、同じ感情がミニマリズム的な踊る身体の実際の重さ、マッス、そして促進されていない肉体的性格に価値を与える作品を作り上演する正当性を確証したのである。

 もしレイナーの公演パンフレットが、どのようにして芸術と社会的また政治的なものの領域とが互いに関係するのかという問題を明快に述べていたとしても、ダンスから映画へと自身の活動の中心を5年以内に移したことを鑑みれば、彼女が1968年に至った結論は、ただ彼女に暫定的な解決を与えたに過ぎなかったように思われる。ナン・ピエヌという『アート・イン・アメリカ』に寄稿していた批評家に向けて彼女が話した、ダンスを放棄したことについての説明は、1968年の公演パンフレットの言葉とこだまする。自分の身体が永続する現実に留まっているという事実は、疑いなく、レイナーにとって充分ではなくなった。目下彼女がダンスについて間違っていると感じていることは、有意義な公的な活動として見た場合のダンスの限界であった。なぜなら「私の身体と動作に固有な性質は、個人的な声明を作る」(Rainer 1974: 238)からであり、さらに言えば「事実としてダンスは「私の」についてのものである」(ibid., emphasis in original)。ダンスはただ「私」についてのものであり、「私の身体と動作に固有の性質」であるので、ダンスはレイナーが探究したいと望んでいる類の感情の経験を扱うことが出来ない。多くのことが明らかになるように、彼女はこの経験を公的な領域で存在する何かであると定義し、こう述べている「この感情の領域は、私たちの両方に必然的なほどに直接的necessarily directlyに関わるのでなければならない」(ibid.)。彼女が考えるに、これはダンスが探究する資格のない何かであり、というのも「いわゆる身体感覚的観者の応答にもかかわらず、それはただめったに行為者と見る者との間のナルシスティック-窃視症的な二元論を乗り越えない」(ibid.)からである。私がこの章で説明してきたように、ブラウン、パクストン、そしてレイナーが1960年代をかけて制作してきた作品は、このナルシスティック-窃視症的二元論を乗り越える試みであり、それらはときにそれに成功したのである。私は、次章で、ブラウンとパクストンがダンスを通してこのことを探究し続けてきたことを説明するつもりである。彼らのダンスはこの章で議論した作品をその起源とするような運動の研究へのラディカルなアプローチを鼓舞した。ふり返るに、後続のダンサーたちが受け継いだ彼らの遺産は、このナルシスティック-窃視症的二元論を超越するための模範となる作品と理論の実質bodyだった。しかし、私が本書のこの後の3つの章で示すように、ラディカルで実験的な劇場系のダンスの連なりは、1968年の落胆から喚起されるひとつの理解によって整えられた。それは、踊る身体が公的な領域にあることの意義が、その身体の社会的でイデオロギー的な構築によって境界画定されている、という落胆であった。

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