経堂緑岡教会  説教ブログ

松本牧師説教、その他の牧師の説教、松本牧師の説教以外のもの。

信仰的な思慮深さ

2014年10月17日 | ルカによる福音書(2)

ルカ福音書による説教(76)

箴言4章4~9節

ルカによる福音書14章25~35節

        2014年6月29日         牧師 松本 敏之

 

(1)青年月間、青年期

 6月、私たちは青年月間として過ごしてきましたが、その最後の日曜日である今日は、江口晴さんが青年らしい証をしてくれました。自分が洗礼を受けた時のこと、その後の1年間のこと、彼女は自分のやりたいことを目指して努力し、そしてそれを見事に達成しました。「今振り返ると、この一連の私の突き動かされるような衝動は全て神様のお導きだったのだな、と感じます。」という言葉も印象的でした。青年らしいひたむきな思いと勢いを感じました。それだけではなく、自分が恵まれた環境にあったことを素直に認め、自分のようなチャレンジをしたくてもできない人が大勢いる世界の現実を見据えながら、そこで自分にできることを何かしたいという証もすばらしいと思いました。今後も、ぜひ信仰的な成長をしていただきたいと思います。

 青年期というのは、自分がこれからどういう人生を送っていくのかということを真剣に考え、悩み、それを克服していく時期でしょう。その時に、聖書の教えを知っていること、イエス・キリストを知っていることは、とても大きな意味があると思います。それと向き合いながら、自分はどう生きるのかを考えることになります。イエス・キリストを知っているということは、同時にその招きを知っているということでもあるでしょう。それがつながらない段階は、まだ生きたイエス様と出会っていないのかもしれません。その招きに、自分はどう応えて生きるのか。

ただその出会い方は、さまざまです。自分のほうから積極的に、「ぜひ弟子入りさせてください」という場合もあります。逆に「あまり弟子にはなりたくない」という感じで、逃げ回っていながら、最後には捕まってしまったという場合もあります。

私は、洗礼を受けたのは高校1年生の時でしたが、その時は、前者のような感じで、素直に洗礼を受けたいと思いました。当時の姫路教会の牧師が、「松本君も高校生になったのだし、そろそろ洗礼を受けたらどうかね」と言ってくれたので、それに素直に聞き従いました。

ただ牧師になる決心は、そう素直には行きませんでした。大学(立教)で、専門としてキリスト教の勉強をしながら、牧師に(だけ)はなるまいと思っていたようなところがあります。往生際が悪いですね。何となく、自分の将来を狭めてしまうような気がしましたし、牧師は経済的にも大変なようだからあまり選びたくないという思いが先だったかもしれません。その後、必ずしもそういう気持ちを乗り越えたわけでもありませんが、あることをきっかけに吹っ切れたような感じになりました。

 

(2)主に従うとは

 さて、私たちはルカによる福音書を断続的にではありますが、続けて読んでいます。今日の箇所は14章25~35節です。ここでのテーマは、「イエス・キリストに従うとはどういうことか」ということですから、青年月間に読むのは意義深いと思います。

これは、ガリラヤからエルサレムへ向かう途上での話です。「大勢の群衆が一緒について来た」(25節)とあります。その中には、真剣な人もあったでしょうが、自分勝手な思いでついて来た人も多かったようです。少なくとも、この旅が十字架へと向かう旅であることには、誰も気づいていませんでした。

 真剣な人の中には、ある種の対決の予感はあったかもしれません。彼らはガリラヤの人々です。主イエスは、ガリラヤの田舎からエルサレムへ出て、何かなさろうとしている。エルサレムの祭司たちとの対決か、あるいは逆にローマの権力との対決か。何かわからないけれども、漠然とした興奮はあったかもしれません。そこで、「そうだ。自分たちの存在を見せつけてやろう」と意気込んだかもしれません。しかしそうであったとしても、主イエスの思いとは随分かけ離れています。そこにあるのは自分中心の思いです。

 

(3)キリストとの関係が第一

イエス・キリストは振り向いて、「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(26節)と語られました。随分厳しい言葉です。しかもわかりにくい。いや言っていることは、わかるのですが、他の場所でのイエス・キリストの言葉と随分、トーンが違いますし、極端な言葉のように思えます。

ここに挙げられている、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹」というのはすべての家族ということです。夫が欠けていますが、それは男性中心に書かれているからでしょう。結婚している女性からすれば、真っ先に夫が入ってくるでしょう。

主イエスが「憎む」と言われたのは、どういうことでしょうか。他の箇所では、「敵さえも憎んではいけない。敵を愛せ」(マタイ5:44参照)と言われました。そうした教えと矛盾するように聞こえかねません。

ここでの「憎む」というのは、セム語的(ヘブライ語、アラム語など)な表現だそうです。(ちなみに新約聖書はギリシア語で書かれていますが、その背景にはヘブライ語やアラム語の影響があります。なぜならば、イエス様が話されたのは、アラム語でしたし、旧約聖書の主だった部分はヘブライ語で書かれているからです。)ヘブライ語やアラム語では、比較級を対立概念で示し、「より少なく愛する」ということを「憎む」と表すそうです。それならば、わかる気がします。背を向ける、身を引き離すということでしょうか。

そうでなければ、この言葉は、聖書の他の教え、例えば「自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています」(一テモテ5:8)という言葉と矛盾することになるでしょうし、そもそも「あなたの父母を敬え」という十戒にも反することになるでしょう。

さらに「自分自身の命を憎む」ということは、自己嫌悪するというような意味ではありません。すべてのことに先だって、キリストとの関係を第一のものとする覚悟ができているかということです。

 さらに、こう言われます。「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(27節)。これも強い言葉です。しかし拒否されたわけではありません。その覚悟が問われたのです。大勢の群衆がぞろぞろと、ついて来ている。これから先、どういうことが起こるのかもよくわきまえていない人たちです。事実、最後には、すべての人が逃げてしまうか、逆に十字架につけろと叫ぶ側にまわってしまいました。

 

(4)二つのたとえ

 主イエスは、ここで二つのたとえを語られます。

「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう」(28~30節)。

高い塔や大邸宅を建てる時には、それなりにきちんとした計画を建ててから始めるものだということです。

二つ目のたとえはこうです。

「また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう」(31~32節)。

これもなかなか興味深いたとえです。大軍と戦う時に、勝ち目があるかどうかを見越す。ここで、相手は二万、こちらは一万と規定していることは面白いですね。信仰の戦いとはそういう面がある。ただそこで、一万だから勝てないとは言っていません。一万でも勝てる見込みがあれば、それでよい。

この二つのたとえに通じることは、イエスに従っていくとは、自分のすべてをかけて取り組むような事柄、知恵も力も全部出し切るような事柄であり、大きな決心がいる、ということでしょう。

ただしそれは、信仰の歩みは人間の計算によって決められるということではありません。洗礼を受けて新しい人生の歩みをしようとする時、果たしてこれが自分の人生にとって得か損か、成功のきっかけになるかどうかを考えなさい、ということではありません。むしろ自分との関係で言えば、「自分の命であろうと、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と語られていたとおりです。

さらにまた、このたとえは、途中で挫折するくらいなら、初めからやらないほうがよいということでもないでしょう。そうではなく、真実に、誠実に、主に従っていく道を、よく吟味しながら求めていくということです。それは人間的に計算高く生きることではありません。しかし無鉄砲でもない。熟慮が求められるのです。その姿勢について考えながら、生きていく。そういう姿を思い起こしながら、今日の説教題を「信仰的な思慮深さ」としました。

 

(5)知恵をふところに抱け

今日お読みいただいた箴言に、こういう言葉がありました。

「知恵を捨てるな

彼女はあなたを見守ってくれる。

分別を愛せよ

彼女はあなたを守ってくれる。

知恵の初めとして

  知恵を獲得せよ。

これまでに得たものすべてに代えても 

  分別を獲得せよ。

  知恵をふところに抱け

  彼女はあなたを高めてくれる。」

(箴言4章5~8節)

 

(6)信仰生活の戦い

信仰生活というのは、ある意味で戦いの連続であります。ひとつは不信仰との闘いです。自分の中で、それは絶えず、頭をもたげてきます。「こんなことをやっていて、一体何になるのか。教会で過ごしている時間や奉仕の時間は、無駄な時間ではないか。もっと別のことに有効に使ったほうがよいのではないか。そもそも信仰とは単なる思いこみではないか。」

あるいは逆に、信仰と言いながら、自分は信仰を利用しているのではないかという思いにとらわれることがあります。自分は不純な動機で、主に従っているのではないか。牧師であってもそうです。いや牧師であればこそ、自分は信仰を仕事のために利用しているのではないかと考えてしまうことがあります。

確かに信仰とは、そういうものではないでしょう。家族よりも、自分よりも、イエス・キリストを優先する。そして自分の十字架を負って従わなければならない。しかし、なかなかそうはなれないものです。それも現実です。そこで挫折して去るのでもなく、逆に開き直るのでもない。自分の中には、自己中心的な思いがあるのをわきまえながら、知恵をあおぎ、分別を求めて従っていくことが長続きする姿勢ではないかと思います。

「これでもうマスターした」ということではなく、絶えず自己吟味していく思慮です。時には、間違っていると思ったら引き返す勇気と判断をもつ。あるいは自分を絶対化せず、絶えず相対化しつつイエス様の弟子として生きていく。そういうことを吟味して思慮深く、しかも自分の限界をわきまえながら従っていくのです。

信仰とは一時(いっとき)のことではなく、一生の問題です。いや生と死を超えた問題でさえあります。でも信仰の道は、重くつらいものではありません。時々、確かにそういうこともありますが、少なくともそれだけではない。そこには、突き抜けた明るさと自由さがあります。解放があります。それは喜ばしい道です。

 

(7)塩気のなくなった塩

最後に「塩気のなくなった塩」のたとえが記されています。唐突な感じもしますが、ルカはこのたとえを、「主イエスに従う道」という流れの中で、ここに置いたのでしょう。「塩気のなくなった塩」は、もはや塩とは呼べないでしょう。「塩気のなくなった食べ物」であれば、塩をかければすむでしょうが、塩に塩気がなくなれば、意味がない。イエス・キリストは、この自己矛盾のようなたとえを用いながら、真実にイエス・キリストに従っていない者は、まさに「塩気のなくなった塩」のようなものだと指摘されるのです。クリスチャンとして生きることは、この世の中で塩のような働きをすることでしょう。「あなたがたは地の塩である」(マタイ5:13)と言われたとおりです。しかし私たちは、そこで本来の塩の役目を果たしているでしょうか。そうでなければ、もはや捨てられるだけということになります。

ここには随分厳しいことが書かれていますが、そこで戸惑っていても、あまり意味はないでしょう。そういう戸惑いの気持ちも含めて、すべてをイエス様に委ねて従っていく決心をする。その中で生きる道、本当に大切なことが示されるのではないでしょうか。

 

 

  

 

 

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今日も明日も、その次の日も

2014年05月09日 | ルカによる福音書(2)

ルカ福音書による説教(73)

申命記32章10~11節

ルカによる福音書13章31~35節

       2014年3月9日

       牧師 松本 敏之

 

(1)ファリサイ派の人々

先週の水曜日から受難節に入りました。今日が受難節第一主日です。厳密に言えば、日曜日は受難節にあっても復活を記念する日、ということになりますが、伝統的な受難節という呼び方にしたいと思います。

ルカ福音書を続けて読んでいますが、私たちは14章を先に読みました。13章のこの箇所は、受難節に読みたいと思ったからです。

「ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。『ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています』」(31節)。

聖書では、ファリサイ派の人々というと、いつも悪者の役回りが多いのですが、もちろんファリサイ派の人々すべてがそうであったわけではありません。特にルカの文書では、そうではないファリサイ派の人が登場します。このすぐ後のところで、イエスを食事に招待したファリサイ派の人々も、特に悪意があったわけではなさそうです。またルカ文書の第二部とも言える使徒言行録では、良心的なファリサイ派の人々も登場します(5章34節)。ユダヤの議会が原始キリスト教会について討論した際に、極端に走らないように穏健な発言をしました。その人はガマリエルと言って、パウロの律法の先生でもありました。

このところでもそういう良心的なファリサイ派の人々が、殺されないようにと、イエスに逃げるよう促したのでしょう。

 

(2)領主ヘロデ

「ヘロデがあなたを殺そうとしています」とありましたが、ここに登場する「ヘロデ」は、悪名高きヘロデ王の息子で、ヘロデ・アンティパスと呼ばれる人です。ガリラヤの領主でした。この言葉から、ルカ福音書の二つの記事を思い起こします。それはこの話よりも前と後ろにあるものです。

ひとつは9章の記事です。

「ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、『ヨハネが死者の中から生き返ったのだ』と言う人もあれば、『エリヤが現われたのだ』と言う人もいて、更に、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいたからである。しかし、ヘロデは言った。『ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。』そして、イエスに会ってみたいと思った」(ルカ9:7~9)。

その後もうわさを聞きながら、「会ってみたい。会ったときには、殺してしまおう」と考えるようになったのでしょう。

もうひとつは、最後の裁判の場面です。ルカは、他の福音書には記されていない興味深い一こまを記しています。

「これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである」(ルカ23:6~12)。

このとき、ヘロデは、「もう自分が殺すまでもないだろう。この男は、すでにピラトの手にある」という思いになっていたかもしれません。そして自分の地位を誇示し、確認するかのごとく、侮辱して、ピラトのもとに送り返すのです。イエス・キリストは、奇妙な形で、ヘロデとピラトの仲直りに、一役買うことになりました。

 

(3)ヘロデへの伝言

そういう二つの記事に挟まれているのが、今日の記事です。イエス・キリストは、「ここを立ち去ってください」という勧めに対して、「わかった。逃げよう」とは言われませんでした。ヘロデを「あの狐」と呼んで、彼に自分の言葉を伝えるように言います。

「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべて終える』とわたしが言ったと伝えなさい」(32節)。

ここで語られたことは、かつて洗礼者ヨハネの使いの者に語った次の言葉とよく似ています。

「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(ルカ7:22)。

今日の伝言も、基本的には同じ内容です。そこには、どんな相手であっても、たとえそれが自分の命をねらっている相手であっても、自分のしていることを伝える、という強い意志が感じられます。ただしそれを繰り返し語りながら、「それを三日で終える」という不思議な言葉を付け加えられました。

これは直接的には、主イエスの業が、限られた短い時間の中で完成されることを予告しているのでしょう。

それと同時に間接的には、神の大きな目的の中にあって、死と復活のことを指し示しているようでもあります。そしてそれらがエルサレムで完成されなければならないということを伝えるのです。

 

(4)今日も明日も

「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」(33節)。

これは、エルサレムへ向かって行かれる主イエスの姿勢を示していますが、同時に、この言葉もまた直接的な意味を超えて、現代に生きる私たちに向かっても語られているのではないでしょうか。今は、イエス・キリストが私たちと同じ肉体をもって過ごされた時から、二千年が過ぎているわけですが、同じように私たちのために、自分の道を進んで行っておられるのです。受難節に、それを心に留めることは意義深いことであります。それは主の配慮がどういうものであるかをよく示す言葉であると思います。いつも変わることがありません。先ほど歌いました讃美歌の中にも、そういう言葉がありました。

「われらの主イエス・キリストは

きのうも今日もあしたも、

永遠に変わらない方。

サレナム、サレナム、サレナム」

(『讃美歌21』508、3節)

またこの後歌います讃美歌にも、以下のような言葉があります。

「きのうもきょうも、かわりなく

血しおしたたる み手をのべ

『友よかえれ』と まねきつつ

待てるはたれぞ、主ならずや」

(『讃美歌21』197、4節)

 

(5)めん鳥が雛を集めるように

さて今日の箇所は、エルサレムというキーワードを用いて、前半と後半をつなぎながら、警告と嘆きが切り離せない形で語られます。

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」(34節)。

 これは、イエス・キリストの言葉として記されていますが、むしろ旧約聖書以来の神の姿をよく現しています。美しい表現です。

雛は親鳥の保護なしには生きることができません。そのことは、親鳥のほうが雛よりもよく知っています。ですから一生懸命雛を守ろうとします。雛はまだそのことをよくわからないものですから、ひょこひょこと出て行ってしまいます。親鳥はその雛を何度も何度も自分の羽の下に集めようとするのです。

 先ほどお読みいただきました申命記には、こう記されています。

「主は荒れ野で彼を見いだし

獣のほえる不毛の地でこれを見つけ

これを囲い、いたわり

御自分のひとみのように守られた。

鷲が巣を揺り動かし

雛の上を飛びかけり

羽を広げて捕らえ

翼に乗せて運ぶように。」

(申命記32:10~11)

話は広がりますが、この「飛びかけり」と訳された言葉は、旧約聖書で2回だけ出てくる言葉だそうです。あとの一つは、創世記1章2節、「神の霊が水の面を動いていた」の「動いていた」という言葉です。神様が天地を創造されたときの情景は、鷲が雛鳥の巣の上を飛びかけるように、神の霊が混沌とした闇、深淵、水の上を動いていたというイメージと言えるでしょう。そしてそれがさらに、イエス・キリストの働きへと、神様の業を示すイメージがつながっていくのではないでしょうか。美しい言葉であります。

イザヤ書には、こういう言葉があります。

「翼を広げた鳥のように

万軍の主はエルサレムの上にあって

守られる。

これを守り、助け、かばって救われる。」

(イザヤ書31:5)

これも美しい言葉です。旧約聖書では、救いとは、まさに神のこのみ翼のかげに入れられること、その大きな守りのうちに入れられることであると考えられていました。

さらに詩編91編にもこういう言葉があります。

「神はあなたを救い出してくださる

仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。

神は羽をもってあなたを覆い

翼の下にかばってくださる。

神のまことは大盾、小盾。」

(詩編91:3~4)

神様の真実が私たちを守る盾である。神様はその羽の下に、羽の中に私たちを覆って、かばってくださる。神様の思いやり、人を救おうとする思いが、こうした言葉によく表れているのではないでしょうか。

 

(6)人間の背き

しかし人間は鳥の雛のように素直ではありません。神の民も神の招きに応えず、自分のわがままを貫いて生きようとしました。その結果、人は滅んでいくより仕方がないものになってしまいました。

「だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる」(34~35節)という言葉は、そのような人間の行く末を示しています。

 しかし、神様の計画、神様のドラマはそれで終わってしまうのではありません。主イエスは、「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない」(35節)と言われました。

この言葉の解釈をめぐっては、幾つかの説があるのですが、素直な読み方としては、受難の始まり、エルサレム入場を指していると言えるかと思います。

「イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。

『主の名によって来られる方、王に、

祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光』」(ルカ19:37~38)。

 

(7)神のひとみ

もしもこの時を指しているとすれば、イエス・キリストは、すでにご自分が十字架にかけられて死ぬということを見据えておられたのであろうと思います。

 イエス・キリストが、最後に死んでいきながらお見せになった姿は、鳥が翼を広げてその下に雛を集めるように、両手を大きく広げて、私たち罪びとを守ろうとする姿ではなかったでしょうか。一番無防備な、手を広げたままの姿です。そのような姿で、私たちをかばうために祈られます。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。

 私たちは、イエス・キリストが大きく両手を広げておられるこの十字架のもとへ帰っていきたいと思います。私たちの構えも、気取りも、見せかけもすべて引っさげて、この十字架のもとに立つ。人によく見てもらいたいという思いも、どうしても素直になれないという悩みも、人に自分の悪い思いを悟られたらどうしようという恐れや不安も、何で自分はこうなのだろうかという自己嫌悪も、すべて引っさげて、この十字架のもとに立ちたいと思います。

 先ほどの申命記32章10節には、「主は荒れ野で彼を見いだし……これを囲い、いたわり、御自分のひとみのように守られた」とありました。この神のひとみは、イエス・キリストのひとみ、まなざしへと受け継がれています。そのお方は、昨日も今日も変わりなく、私たちを守られるお方です。

東日本大震災から3年経とうとしています。まさにこの主の配慮が直接被災された方々の上にあり、そして間接的に大きな被害、影響を受けられた方々の上にあり、同時に日本全体、世界全体を包んでくださるようにと祈りたいと思います。

 

 

 

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風変わりな宴会

2014年04月03日 | ルカによる福音書(2)

ルカ福音書による説教(75)

イザヤ書35章5~6節

ルカによる福音書14章12~24節

       2014年2月23日  

       牧師 松本 敏之

 

(1)おもてなし

 前回の7~11節には、宴会に招かれる側の注意が述べられていましたが、それに続く12~14節で、逆に宴会に人々を招く側、主催者側の注意について語られます。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである」。

私たちは、パーティーに招かれる時には、それなりのプレゼントやご祝儀を持っていくのが礼儀だと考えます。ですからこういう言葉を読むと、「自分たちの習慣はまちがっているのだろうか」と戸惑うかもしれません。この世界の習慣は、それはそれとして、理にかなったことでしょう。ただしそれは「持ちつ持たれつ」、「お互いさま」ということで、特に信仰とは関係がないことでしょう。ここで主イエスは別次元のことを語っておられるのです。それは非常識なことではなく、常識を超えたこと(超常識)です。

国際オリンピック委員会で、滝川クリステルさんが行ったスピーチの中の「おもてなし」という言葉が、昨年の流行語になりました。「お・も・て・な・し、おもてなし」

滝川さんの説明によれば、「おもてなし」とは、「歓待、気前のよさ、無私無欲の深い意味合いをもった言葉」ということです。彼女は、こう続けます。「それは私たちの祖先から受け継がれ、現代の日本の超近代的な文化までしっかり根付いているものです。このおもてなしの精神は、日本人が互いに思いやり、またお客様たちにも同じように、その思いやりの精神で接しているのかを説明するものです。その例をお話ししましょう。もしみなさんが何かをなくしたとしましょう。それはほとんど皆さんのお手元にかえります。現金でさえもです」。

確かにあたっている面もあります。日本は世界一治安のよいところだと言われますが、私もそういうことを実感します。しかしそれは「無私無欲」というよりは、「人のものに勝手に手をつけてはいけない」とか、「うそをつかない」という日本人の特性の一つかと思います。それはそれで誇るべきものでしょう。

私は、ブラジルに住み始めてまだ不慣れな頃から、よくブラジル人から道を聞かれました。「なぜわざわざ外国人(日本人)の私に、聞くのだろうか」と思いましたが、それはブラジル日系人たちが、「日系人は誠実でうそをつかない」という評価を作っていたからのようでした。「道を聞くなら日本人に聞け」。それは、日本人は知らなければ「知らない」と言うからです。ブラジル人は、相手をがっかりさせたくないと思うのか、知らなくても、「あっちだと思う」など何か答えようとするのです。それがブラジル人としての「おもてなし」なのかもしれません。ただそれを信用して、そちらに行くと、見当はずれで、とんでもないことになりかねません。ですから、私は私で、「道を聞くなら3人に聞け」ということを学びました。3人が同じことを言えば、まあ信用してもいいだろうということです。

ただそういうことと、主イエスがここで語られた「お返しができない人を招く」ということとは、少し違う気がします。

 

(2)計算しない

昨年の流行語で「倍返し」というのもありました。でもこれは復讐の話、「やられたらやり返せ!倍返しだ」ということです。この「倍返し」は、聖書にもあります。「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」(創世記4章24節)。「七十七倍返しだ!」

主イエスは、それとは逆に、「七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18章22節)とおっしゃいました。これは、490回というカウントの仕方と、77回という説の両方があるのですが、いずれにせよ、何回赦すかという回数の問題ではなく、「数えてはいけない。徹底的に赦し続けよ」ということ、計算するなということです。

私たちはいつも裏を考えてしまいます。もてなしていても、もてなされていても、計算しながらバランスを考えるのです。自分の立場はどのあたりか。本音と建前のようなこともあります。聖書は、そうした計算づくの世界から、私たちを解放しようとしているのです。イエス・キリストは、そうしたことを超えた、まことの無私無欲のおもてなしについて語られるのです。

 

(3)お返しのできない人を招く

イエス・キリストは、こう語られます。「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(13~14節)。

「報い」ということでは、イエス・キリストは、「あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている」(マタイ6:2)と言われました。「既に報いを受けている」というのは、「もう勘定が終わっている」という意味の言葉です。どんなによいことをしても、それは報いを受けているならば、おもてなしとは言えないのではないかということです。

「イエス・キリストは、お返しのできない人をこそ招きなさい」と言われましたが、その根拠が、意外な形で、次のたとえで示されると言えるかもしれません。それは神が招かれる宴会です。そこでは、私たちの誰もがお返しできません。だからイエスのおもてなしに、無償で招かれるのです。

今日は半沢直樹と滝川クリステルの決めゼリフを紹介しましたが、松本敏之の決めゼリフも紹介しておきましょう。

 

おもてなし イエスによれば 裏もなし

 

 「信徒の友」が4月号から川柳欄を設けるようですから、出してみたいと思います。

 

(4)招きを断る

普通の宴会では見かけないような貧しい人たちもたくさん招かれている。これは一種、風変わりな宴会です。しかしそれを聞いていた参加者の一人が、こう言いました。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」(15節)。この言葉は率直な応答であったと思います。裏があったとは思いません。しかし、彼はこう語ったとき、自分が「神の国の食事」の場にいるということを、全く疑っていなかったのではないでしょうか。

イエス・キリストの次のたとえは、この応答に促されたものでした。

「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。」(17節)。

この当時の宴会への正式な招待というのは二段ステップでなされたようです。あらかじめ招待状を送り、出席の返事をした人に対しては、その時間が来たら、使いを送って迎えに行くのです。そうした習慣がこのたとえの前提になっています。

ここまでは主人の計画通りです。ところが、どうでしょう。

「すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った」(18~20節)。

今でいうドタキャンです。招かれているのに、来ようとはしない人が大勢いる。それが一つのポイントです。

ここに挙げられている理由は、すべて筋が通った理由です。今日でも許される理由ではないでしょうか。最初の二人は経済的な問題です。この時を逃すと、だめになってしまう、替えることができない急な仕事が入ったということでしょう。結婚については、古代のイスラエルでは、結婚したばかりの男子は兵役も免除されたとあります(申命記20:7参照)。

問題は、その理由が許容される理由かどうかということよりも、「ここで招かれた人たちは、その招きの重要さをわかっていない、その招きを軽く見ている」ということであります。ここで病気を理由に断った人はいないのも興味深いことです。病気は断る理由にはならない。来られないかもしれませんが、病気の時こそ、イエス・キリストの招きを感謝するものでしょう。

 

(5)このたとえをどう理解するか

このイエス・キリストのたとえは、神の救いの歴史のダイジェストのように解釈することも可能でしょう。神様は、最初、アブラハムを選び、イスラエルの民を神の民として立てました。それが最初に招かれた人たちです。ところが彼らはそれに誠実に応えなかった。そこで神様は救いの対象をぐっと広げ、異邦人にまでその招きは及ぶようになったという理解です。そこで断ったのはユダヤ人であって、イエス・キリストを受け入れたクリスチャンが招かれるようになった。こうして救いが異邦人にまで広がった。めでたし、めでたし。

それはひとつの解釈でありうると思います。しかし気を付けなければならないことは、聖書の世界は、いつも「後の者が先になり、先の者が後になる」ということです。

この「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った人自身が、感激して、そう言ったときに、そこに自分はいないかもしれないということを全く想定していなかったように、私たちも、クリスチャンとして、自分はそこにいることを確信したままで、この話を聞くならば、この話を理解したことにならないのではないでしょうか。問われているのは、私たち自身です。聖書は、いつも自分に向かって語られた言葉として読むときに、意味をもってきます。

 

(6)私自身が問われている

この話はこう続きます。

「僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない』(21~24節)。

厳しい言葉です。ここから聞きとりたい第一のことは、神さまの人間を求める情熱の大きさということです。熱情と言ってもよいです。モーセの十戒の第二戒の説明文の中に「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」(出20:5)という言葉があります。以前の口語訳聖書では「ねたむ神」と訳されていましたが、私は「熱情の神」のほうがよい訳だと思います。この神のことを、ユダヤ教のアブラハム・ヘシェルという思想家は「人間を探し求める神」と言って、そういう題名の本を書きました。どこまでも追いかけてきます。その神の姿を、ルカは、こういう表現であらわしたのです。その神の熱情は、やがて15章で、より克明に記されることになります。

その神の熱情に比べて、私たち人間は、いかに冷えているか。その神の熱情を理解していない。そしてなんとちっぽけなことを理由に生きているかと思います。

神様の招きは、私たちの想定の範囲を超えて、どこまでも延びていく。広がっていく。私たちがむしろついていけない。そこで招かれた人は、「え、自分のようなものでも行ってよいのでしょうか」と思ったことでしょう。しかし実は、これがキーワードです。天国というのは、「え、自分のような者でもいてよいのでしょうか」という人ばかりが集まっているところと言えるでしょう。「自分はここにいる資格はあるけれども、なんであんな人がいるのか」と思う人はいません。これも逆説的です。ですから「なんであんな人がいるのか」ということを時々考える人は要注意かもしれません。

 

(7)私も路地にいるひとり

最後に、イエス・キリストは、厳しいまとめをされましたが、実は、「私もその資格がなく、私も路地や通りにいる一人なのだ」と気づくことこそ意味があると思います。だからその意味で拒否されている人は、一人もいないのです。

さらにこの扉は今も開いており、私たちは今も招かれ続けているということです。まだ時を逸していない。「今でしょ」ということです(昨年の流行語三つ目!)。

ここに書かれているのは、神の国の宴会のことですが、それは「あの世」のことではなく、私たちの世界のことを語っているということも忘れてはならないでしょう。この話を比喩的に理解することによって、現実と切り離して考えてはならないと思うのです。この世界における私たちの生き方が問われている。まさにこの世界において、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」ということなのです。

イエス・キリストが裏のない真実な招きをしてくださっていることを知り、その招きに応えようとする時に、私たちもまことのおもてなしの精神に生きることができるようになるのではないでしょうか。

  

 

 

 

 

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新しい価値観

2014年03月21日 | ルカによる福音書(2)

ルカ福音書による説教(74)

箴言25章6~7節b

ルカによる福音書14章1~11節

       2014年2月2日

       牧師 松本 敏之

 

(1)食事の席、水腫の人

 ルカ福音書の14章には、食事・食卓に関する話が、4つ出てきます。今日はそのうちの最初の2つの話です。これら4つは別々の独立したテーマをもつものですが、ゆるやかに関連しています。

最初の話には、「安息日に水腫の人をいやす」という標題が付けられています。

「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。『安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか』」(1~3節)。

 水腫(すいしゅ edema)というのは、皆さんはご存知でしょうか。インターネットで調べてみると、「細胞間組織内または体腔(たいくう)内に異常に大量の組織液が貯留された状態」だそうです。ルカがいう水腫がこれと同じかどうかはよくわかりませんが、一般的な病気として理解してよいかと思います。細かい病名を記すあたり、医者であったと言われるルカらしい記述と言えるかもしれません。いずれにしろ、水腫を患っている人がファリサイ派の議員の食卓に招かれることは、普通は考えられないことでした。

 

(2)なぜ水腫の人がここにいたのか

 だとすれば、なぜ彼がここにいたのでしょう。いくつかの理由が考えられます。

一つ目は、そういうことにこだわらない新しい価値観のファリサイ派の議員であったのか。文脈からして、どうもそれは考えにくいように思います。

二つ目は、イエス・キリストが、通りでその人を見かけて、「あなたも私と一緒にいらっしゃい」と言って、連れて来たのか。その後の話(ルカ14:13~14、21~23)からすれば、その可能性は否定できないかもしれません。

三つ目は、この人が勝手に紛れ込んだのか。ブラジルでは、呼ばれていない人もパーティーに紛れ込んで一緒に食事をすることは時々あります。ここではもしそうだとすれば、通常は追い出されたでしょう。ガードマンに追い出されそうになっているのを、主人が、「いや、入れてやれ。イエスがどう対応するか見てやろう」と言ったのかもしれません。

四つ目は、いや、もともとそういう目的で主人に招かれたのではないかということです。どうもこの三つ目と四つ目の可能性が高いかと思います。

 

(3)神聖なものを、人を試す道具に

 イエス・キリストは、13章10~17節のところでも、安息日に腰の曲がった婦人をいやされたことが記されていました。「反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ」(ルカ13:17)と結ばれていました。

 あのときは、会堂で教えておられるときでしたが、ここでは食卓、食事の席です。ファリサイ派の人々は、この前の安息日のいやしで、自分たちが恥じ入らせられたことを苦々しく思い、何とか陥れようと思ったのかもしれません。

 一方、イエス・キリストのほうは、彼らからの食事の招きをお断りになりませんでした。イエス・キリストは、徴税人や娼婦たちと同じ食卓に着かれましたが、同時に彼らの食事にも連ねられたということは興味深いことです。

ファリサイ派の人たちは、イエス・キリストに対して挑発的です。

先週、創世記34章を、皆さんとご一緒に読みました。異教徒に割礼を受けさせて、その傷で苦しんでいるすきに皆殺しにしてしまったという残忍な話でした。そのとき、私は神聖なものを、自分の利害のために用いてはならない。あるいは争いの道具にしてはならない、それは神が最も忌み嫌われることであろうと申し上げました。ユダヤ教徒にとって、それは割礼であるとすれば、私たちにとっては、洗礼・聖餐と考えると、わかりやすいかもしれません。

ここでは皆殺しの道具とまでは言えませんが、やはり「安息日規定」という神聖なもの、神が人に安息を与えるために定められた特別な律法を、人を裁くため、陥れるために用いている。その意味で、すでに律法の精神に反している、と言えるのではないでしょうか。

 

(4)弱い者を犠牲にしない

イエス・キリストは、彼らの挑発を察知して、「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」と問われます。彼らは沈黙していました。

律法上の正解を申し上げますと、命にかかわること、緊急のことのみ許されるということになるでしょうか。この水腫がそれにあたるかどうかは微妙です。どちらかと言えば、あたっていないでしょう。「明日にでもできることは明日にする」というのが正解でしょう。しかしイエス・キリストは、あえてそれを知りつつ、この人の手を取って、いやしてあげました。

「すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった」(4節)。

この人はちゃんとご飯を食べさせてもらったのかな、と少し気になりましたが、いずれにしろ、この人の一番の悩みである病気は、いやされました。

そして「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(5節)とお答えになりました。彼らは何も答えることができませんでした。

この世は、弱い者が犠牲になり、強い者が得をする、そういう世界です。ですから、私たちも強い側になろう。勝ち組になろうとしてあくせくするのではないでしょうか。弱い者が犠牲を強いられているときには振り返ってもらうことはできない。それが規則(律法)に合致している場合はなおさらです。強い者の場合には規則をねじ曲げてでも、それを援助するか、媚びる人が出てくるものです。

イエス・キリストは、その価値観をひっくり返されるのです。

同じルカが記したマリアの賛歌の中に、こういう言葉があります。

「主はその腕で力を振るい、

思い上がる者を打ち散らし、

権力ある者をその座から引き降ろし、

身分の低い者を高く上げ、

飢えた人を良い物で満たし、

富める者を空腹のまま追い返されます。」(ルカ1:51~53)

 

(5)処世術としての「謙遜」

そこでイエス・キリストは、次の話を始められました。

「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された」(7節)とあります。

「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる」(8~10節)。

これは面白いたとえです。しかし誤解されやすいたとえでもあります。処世術として受け取られかねないからです。

私たち、特に日本人は前へ進みたがりません。礼拝の席においてもそうです。いくら前の席を勧めても、うしろの席のほうが、人気がある。前の席に座ると、自分のような者が偉そうにしていると思われるのではないかということが気になります。

誰かに勧められても、最初は断る。2回勧められたら、初めて出て行くのです。

京都のほうでは、3回勧められたら、初めて、「そうですか。ではそうさせていただきます」と答えると聞いたことがあります。2回目で、その言葉を真に受けると、「何と厚かましい人!」となりかねない。

恐らく、それは極端な話だろうと思いますが、前に出ることを避けたがる。どうしてそういうことが言われるのか。出る杭は打たれるからです。そして本音と建前が違うからです。本音を探るために、後ろに座ってみる。本音を知るために、2回は断ってみるということでしょう。処世術です。

そのところでも、人を見ながら、どちらが上か、自分はどのあたりかというふうに、自分を位置づけようとすることがあるのではないでしょうか。

いつであったか、社会的地位の高い人の葬儀の時に、「一般席では、どうぞ前から座ってください」と言っているのに、「いやここは社長で、その次が副社長で」というふうにおっしゃって、絶対に前に出ようとされないで、困ったことがありました。

そういうふうに自分の位置づけをする。後ろを選ぶのだけれども、心のどこかで、「あなたはそこではなく、もっと前ですよ」と言ってくれるのを待っている。そこで誰かが順番を取り違えたり、そこで呼ばれなかったりすると、腹を立てます。「何であの人が前で、私が呼ばれないの。」しかもたちの悪いことに、自分が前に出る資格があるとは言わないで「何々さんは、何々先生を差し置いて、自分が出しゃばって」というふうに、誰か別の人を引き合いに出してその人を非難したりします。

私たちは、この世の価値観の中で、自分を値踏みしているのかもしれません。

 

(6)まことの謙遜

果たして主イエスは、そういうレベルの話をなさっているのでしょうか。私は、そうではないと思います。先ほど、申し上げましたように、これは神の国のたとえです。そしてここでたとえられているのは、神の国の価値観のことです。そしてこの主人とは神様のことに他ならないでしょう。神様の前でどうあるべきか、ということが問われているのです。

人と比べてどうこう、という位置づけから自由にされて、新しい神の国の価値観の中に生きるということが求められているのだと思います。私たちが知っていることについて語っているのではなくて、常識を超えること、まことの謙遜について語っているのです。

へりくだっている者は、自分がへりくだっているという自覚すらない、ということを聞いたことがあります。逆に傲慢な者は、自分が傲慢であるという自覚がないと言えるかもしれません。

イエス様は、ちょっと例外かもしれません。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタイ11:29)と、おっしゃいました。自分で自分は謙遜な者というのは矛盾していると思うかもしれませんが、これは、むしろそういうイエス・キリストの姿、本質をとらえているマタイ福音書記者が、それをイエス・キリスト自身の言葉として、ここに入れたのではないかと思われます。

イエス・キリストは、この話を「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)とまとめられました。

私たちは、神様の前に出る資格がない者だけれども、神様が私たちを受け入れてくださっているというところで、私たちが新しい価値観に生きることへと促されているのです。

 

(7)パウロの新しい価値観

パウロも、こういうことを述べています。パウロは、この世的に、みんながうらやましがるようなものを持っていました。

「わたしは生まれて8日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関しては、ファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(フィリピ3:5~6)。

まだこだわっているなあという気がしないでもありませんが、こう続けます。

「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失としています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(フィリピ3:7~8)。

この世的に価値あるものが何であるかを承知しつつ、でもそれは塵あくたなのだ、と言う。そして新しい価値観に生きようとする。そこにあった喜びも本物であったと思います。パウロはそういうことの中に生きようとした真実の人でありました。

謙遜ということすらも処世術になりかねない。成功のための道具になりかねない。成功のために、こういうことをしなさいというふうになりかねない。私は、そういう中に生きているからこそ、イエス・キリストの教えがあるのではないかと思います。真実な意味でへりくだることの中に、本当の自由、そして新しくなるための道筋が備えられているのではないでしょうか。

私たちは、これから聖餐にあずかろうとしていますが、この聖餐においても、それにあずかる資格は何なのか、それはまことの謙遜、自分はそれを受けるにふさわしくない者であるという自覚の中にこそ、逆説的に、私たちがそこに招かれる資格があるのだと思います。

 

 

 

 

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狭い戸口

2014年03月14日 | ルカによる福音書(2)

ルカ福音書による説教(72)

詩編107編1~3節 

ルカによる福音書13章18~30節

       2013年11月17日

           牧師 松本 敏之

 

(1)イエスと共なる旅

今日は、「『からし種』と『パン種』のたとえ」という段落と「狭い戸口」という段落の二つを読んでいただきました。後ろのほうから見ていきましょう。

 「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」(22節)。

 ルカは、マタイと違って、福音書の多くの部分をエルサレム途上の物語として記しています。マタイでは19章と20章の二つの章がエルサレム途上という舞台設定になっていますが、ルカでは、まだ前半である9章51節からエルサレムへ向かうことになっています。

実際には、9章以降にも、まだガリラヤ周辺での出来事と思われることも出てくるのですが、ルカはイエス・キリストの福音全体を、旅の途上の物語として想定しているのでしょう。それは、このイエスと弟子たちの一行がエルサレムへ向かう旅であると同時に、読む私たちを、その旅へと誘いこんでいるように思えます。

 教会とは何なのか。どういうところなのか。それは、ある方向へ向かって共に旅をする共同体のようなものと言えるかもしれません。その旅は壮大な旅であり、2000年の間ずっと続いている旅のようにも思えます。私たちは、その旅の一部を、ある人たちと共に歩んでいるのです。しかしそこにはいつも、イエス・キリストが共におられましたし、これからもおられることでしょう。

 

(2)救われる者は少ないのでしょうか

 このイエス・キリストの一行がエルサレムへ向かう旅の途中で、ある人がこう尋ねました。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(23節)。彼らは、「この旅の先に救いがある」ということを前提にして、「この旅を最後まで続けられる人は少ないのでしょうか」という意味をこめて尋ねたのではないかと思います。脱落者も多くいたのでしょう。エルサレムでは、そのまま喜びが待っていると単純に考えていた節もあります。「そこに救いがある。」確かに、救いはそこから始まるという意味ではあたっていないわけではありませんが、彼らが思い描いていた結末と、イエス・キリストが悟っておられたことは全く違ったものでありました。彼らは、まさかイエス・キリストが十字架にかかって死ぬことになるとは予想もしていなかったでしょう。

その旅を最後まで共にした者は一人もいませんでした。一番弟子のペトロでさえも、最後には、イエス・キリストを否定し、「そんな人は知らない」と言ってしまうのです。

それでも、このイエス・キリストと共にある旅は、その断絶を越えて続いていきます。いやペンテコステの後、新たな形で再開したというほうが適切かもしれません。

カトリック教会の信仰には、「巡礼」というものがあります。現代では、スペインのサンチアゴ・デ・コンポステーラに行く旅というのがあり、神学生の八重樫さん夫妻や桃井和馬さんが、最近、その巡礼の旅を経験されました。

ポルトガル語では、巡礼のことを「ロマリア」と言いますが、それは「ローマへ行く道」という意味から来ている言葉です。ブラジル国内にも、いくつか聖地があります。そこへ向かう旅をしながら、イエス・キリストの旅を追体験するというのはそれなりに意味のあることであろうと思います。

そういう実際の旅ではなくても、教会生活とは終わりの日を目指して共に歩んでいく旅のようなものであると思います。

先に召されるという形で旅から離れる人もありますが、残念ながら教会を去っていく人もあります。果たして最後の日まで、信仰生活を全うできる人はどれくらいいるのだろうか。それは「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という問いかけにも通じるものがあるかと思います。

 

(3)教会全体懇談会

 来週の11月24日には、教会全体懇談会が開かれます。今回のテーマは、「いま、および中長期的に経堂緑岡教会および教会員に求められること」という長いものです。来週の3人の方の発題レジュメを付した案内状ができています。3人の発題ともとても興味深いものでした。それぞれに全く違う視点から、教会の今後のあるべき姿、ありたいと願う姿が示されています。

 石川浩さんは、冒頭で「教会に中長期的な課題設定は必要なのか」という挑戦的な問いかけをしておられます。私は、この言葉にとても啓発され、良い意味で考えさせられました。

 ひとつは教会という共同体の特殊性です。そもそも人間の側から、課題設定ということが可能かということです。可能とも言えるし、不可能とも言える。あるところでは可能であり、あるところでは不可能という言い方もあるでしょう。ですから皆さんに大いに話し合っていただきたいと思います。そしてそれを機に、信仰を深めていただきたいと思います。

私なりに考えたことは、そもそも教会は、会社などと違い、そもそも人間の側(だけ)で課題設定することはできないということです。課題設定が成り立つとすれば、それは神様から与えられるヴィジョンに対する応答として初めて成り立つものかと思います。このヴィジョンすらも、神様から、あるいは聖書を通して与えられるものであり、自分たちが考える理想の教会というのと、同じではないかもしれません。

 もうひとつ、刺激を受けたのは「中長期的」というのはどのくらいの期間なのか、ということです。教会は2000年の歩みをしている。私たちはその一部を歩んでいるのだという意識をもち、位置づけをしておくことは必要でしょう。

 

(4)「八重の桜」の新島襄と勝海舟

 今NHKの大河ドラマで「八重の桜」という新島八重(同志社を設立した新島襄の妻)の生涯を描く番組が放映されています。皆さんの中でも大勢の人が見ておられるのではないでしょうか。数週間前のヒトこまで、新島襄が、私立大学設立のために勝海舟に援助をお願いに行く場面がありました。新島は、「この国を変えていくためには、官立大学だけではだめだ。政府にきちんとノーを言える私立大学が必要だ」と訴えます。それを聞いた勝海舟は、新島に「そんな夢みたいなことを言っているけれども、この国を変えるのに、一体どのくらいの年数が必要だと思っているのだ」と問います。新島はそれに対して、「200年、いや300年かかるかもしれない。しかしそのためには今始めなければならない」と訴えました。勝海舟は、その答えを聞いて、新島を信用するのです。「私は、あなたがもしも10年というようなことを言おうものなら、信用しなかった」と。「あなたを試したのだ。あなたが本気であることがわかった。援助しましょう」というふうに乗ってきます。

 私は、この新島が語ったことはとても大事だと思います。それはひとつには、200年、300年スパンでものを考えるということ、もうひとつは「しかしそのために、いつ始めるのか」、「今でしょ」ということです。教会においてもそういう視点が必要かと思います。とても一代の牧師でできることではありません。

 教会は、この2000年間、変わらずに持ち続けてきたことと少しずつ変わってきたことがあります。少しずつというよりは、ここ50年の間に大きく変わってきました。そうした視点については、山口里子さんの発題の中に触れられていますので、来週のお話を聞いてみんなで考えていきたいと思います。澤橋献造さんの発題は、とても身近な視点から、青年の長老として率直な、わかりやすい、課題共有しやすいことを述べておられます。ぜひ多くの方の参加を期待しています。

 

(5)問われているのは私たち自身

 さて、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という問いに対して、主イエスは「多い」とか「少ない」とか、直接的な答えはしておられません。それはこの問いが取るに足りないものであるからというわけではありません。これを問う人の姿勢が逆に問い返されているように思います。「多い」と言われると、では自分も大丈夫かと思ってしまうし、「少ない」と言われると、「自分も危ない。うかうかしていられない」と思うかもしれません。

 救いというのは、大学入試のような定員制ではありません。何人まで、ということではありません。たとえて言うならば、むしろひとりひとりの資格試験のようなものでしょうか。もしかすると、この人たちは「自分自身は救われる」ということを前提にして問うたのかもしれません。イエス・キリストは、その問いを、実存的な問いに変えて、答えられるのです。

「今まで神の国について聞いてきたあなたがた、あなた自身は、この神の国と救いについて、どのように受けとめ、どのように自分の生き方を決めているのか」という問いです。

そしてまず「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われます。

 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」(24節)。

 この「狭い戸口」というのは、マタイでは、「狭い門」という表現で、「広い門」との対比で語られていますが、ルカでは「狭い戸口」という点に集中しています。戸口が狭いということよりも、たとえ狭い戸口であっても、そこから神の国に入ろうと努めなさいという行為に重きがあります。

その後の25節で語られることは、戸は狭いだけではなく、「いつ閉まるかわからない。今入らなければ、後になってからでは遅い」ということです。いつ決断するのか。「皆さん、答えは?」「今でしょ!」。

「家の主人が戸を閉めてしまってから」というのは、この場合、最後の審判の時、と読むことができるかもしれませんが、もっと広く、「今」という時と取るのがよいかと思います。もちろんこれは絶対的な「時」、固定的な「時」という意味ではなく、その人その人によって、それは違うものであると思います。神が定められる時、というものがあるのです。(コヘレトの言葉3:11)

26~28節でも、随分、厳しい言葉が語られます。ここで、「自分は救われる側にいる」と思いこんで質問してきた人たち自身が、足元から揺さぶられたということもできます。価値観のひっくり返しが起こるというのです。

 

(6)別の戸口があいている?

 ただ面白いのは、その後です。

「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」(29~30節)。

これはどういうことでしょうか。「戸口は狭い」だけではなく、「あいている時がある」だけでもなく、思いもつかない「別の戸口」があったということではないでしょうか。常識では思いつかないようなところ、そこから人が出入りしている。裏門があいていたとも言えます。

 ただしこれも、私たちが拒否されているということではないと思います。むしろ、そのように「東から西から、また南から北から来る人たちを、あなたは共に旅する仲間として受け入れ、その人たちと一緒に歩むことができるか」、と問われているように思いました。

 

(7)「からし種」「パン種」のたとえ

さて、ルカは、この「狭い戸口」の話の前に、「神の国」のたとえとして、「からし種」と「パン種」の話をしています。この二つのたとえの共通点は、とても小さなものが大きなものとなるということです。

からし種は、きわめて小さいものです。それは種の中でも、一番小さいものです。しかし成長すると、2~3メートル、時には4メートルくらいになります。さらにルカは、マタイと違って、「成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る」(19節)と述べます。それは、先に申し上げた、東から西から、南から北から人々が集ってくることとイメージが重なってきます。

もうひとつは、パン種のたとえです。ユダヤ人たちは影響が大きいことをあらわす比喩に、パン種を使いました(主に悪いこととして)。イエス・キリストも「ファリサイ派の人たちのパン種に気をつけなさい」と言われましたが、それもよい意味ではありません。しかしここでは、よい意味で、神の国のたとえに用いられています。

一つ目は神の国は小さなものから始まるということ、二つ目は神の国は見えないところで進展するということです。三つ目は、神の国は内側から働く。内側から働いて新しい人間を造っていくということでしょう。四つ目は、内側から働くのだけれども、外のものとして、つまり自分とは異質なものとして働くということです。私たちは練り粉であり、自分自身のうちに変革する力をもっていないのです。

私たちが教会において何をなすべきかを考えますと、自分には何も力もないように思えるかもしれませんし、いつも同じことをやっているようにも見えるかもしれません。しかしそうした中、短いスパンではなく、200年、300年、あるいはもっと長い視野の中で、私たちはその一部を歩んでいるという位置づけをしながら、小さなものでも、やがて大きな力をもつようになるという信仰をもって、神様の召しに応えていく教会でありたいと思います。

 

 

 

 

 

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いやしの主

2014年01月24日 | ルカによる福音書(2)

ルカ福音書による説教(71)

申命記5章12~15節

ルカによる福音書13章10~17節

       2013年9月15日  

       牧師 松本 敏之

 

(1)四苦八苦

今日は、この後、教会で敬老の祝いをすることになっています。お年寄りの方には、申し訳ないような台風の朝となってしまいました。先ほどは、久しぶりに讃美歌第一編522番を歌いました。

「うれいの雨は 夜のまにはれて、

つきせぬ喜び 朝日と輝かん」

今日の天気はそれと逆に、「うれいの雨は、夜のまに晴れるどころか、朝起きたら、大嵐となっていた」という感じですが、まあそういう日もあるでしょう。大雨の中、ようこそおいでくださいました。

今日、私たちに与えられたテキストは、イエス・キリストによる病のいやしの物語です。 年を重ねられてつらいことのひとつは、病が多くなることではないかとお察しします。

仏教には、生老病死(しょうろうびょうし)という言葉があります。 生老病死をインターネットで検索すると、「人としてまぬがれられない四つの苦しみのこと。すなわち生まれること、年をとること、病気をすること、死ぬこと。四苦」とありました。ただしこの場合の「苦」とはただ「苦しみ」ということではなく、「自分の思い通りにならないこと」だそうです。根本的な「四苦」の中に、どうして「生」が入っているのか、「生」がどうして「苦」なのかと思いましたが、そういうふうに考えれば、なるほどと思います。「生まれること」は、人間が最も自分の思い通りにならないことですが(気が付いたら、そこに存在していたわけですから)、「生きること」も思い通りにならないことでありましょう。

ちなみに「四苦八苦」という熟語もありますが、これもやはり「自分の思い通りにならないこと」を意味する言葉です。「四苦八苦」とは、根本的な「四苦」に、次の四つを加えたものです。その四つとは、まず「愛別離苦」(あいべつりく)、愛する者と別離することです。二つ目は「怨憎会苦」(おんぞうえく)、怨み憎んでいる者に会うことです。三つ目は「求不得苦」(ぐふとくく)、これは 求める物が得られないことです。そして四つ目は「五蘊盛苦」(ごうんじょうく)、これは五蘊(人間の肉体と精神)が思うようにならないことです。なかなか奥深いものがあります。

「四苦八苦」というのは、合計で八つであり、合計で12ではありません。「愛する人と別れること」が「苦」であるというのはわかりますが、「憎んでいる人(会いたくない人)と会う」のも「苦」だというのは面白いと思いました。一つ目と裏表です。

カール・バルトが語ったと言われる天国の小話の一つにこういうのがあります。

「ある人がカール・バルトに尋ねました。『バルト先生、天国では愛する人と再会できるというのは、本当でしょうか。』バルトは、答えました。『本当です。でもそうではない人(会いたくない人)とも再会します』」。

仏教のことはよく知りませんが、仏教では、これらの「四苦八苦」、「自分の思い通りにはならないもの」をどうしたら乗り越えられるのかということが説かれているそうです。

 

(2)生老病死も祝福

キリスト教も、人間の根本的な悩み苦しみをきちんと見据えています。「四苦八苦」も、確かにその通りであると思います。

キリスト教的に言えば、それを解決するためにイエス・キリストはこの世界に来られたということがメッセージであろうかと思います。そして、そのように「自分の思うようにならないこと」も「神様の思うようにならないことはない。自分の生老病死は、その神の意志のもとに置かれている」ということなのです。それを知ることが救いであると言えるかもしれません。しかしそれを乗り越えられなくても よいのです。つまり心が穏やかにならなくても、やはり神の意志のもとに置かれていることには変わりはありません。むしろそれこそが根本的なことです。

日本では、心の平安を得るために宗教が存在すると考えられることがありますが、それは主客転倒だと思います。確かに信仰によって平安(心の平和)というプレゼントがしばしば与えられますが、そうならないこともあるでしょう。だから悩み続けてよいのです。その悩み続けている自分をそのままで受け止めてくださっている方がいる、という事実のほうがより重要です。

さらに「生老病死」は自分の思い通りにならないものですが、それを「苦」ととらえるのではなく、「祝福」ととらえることも、キリスト教の積極的なメッセージであると思います。「生老病死」、それも神様が与えられた祝福である。なぜならば、そこには神の意志が働いており、その神はよきお方だからです。病が与えられるならば、その病を通して、神様が私たちと出会ってくださる機会となるでしょう。そしてその「生老病死」の節々に、神様が私たちと出会ってくださることを確認するのです。

 

(3)解放をもたらすイエス

さて今日のテキストはこう始まります。

「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった」(10~11節)。

イエス・キリストは、この会堂へ、教えるために(説教するために)来られました。いやしをすることが目的ではありませんでした。特に安息日です。この女性も、ただイエス・キリストの説教を聞くために来たのでしょう。しかしイエス・キリストは、彼女の姿を見て、ご自分のほうへ呼び寄せられました。イエス・キリストは、悲惨な状況を見ながら、それを放置されず、招き寄せられるのです。

神と人との出会いは、神のほうから備えられているのです。私たちが求めて出会う場合もありますが、その場合でさえも深いところでは、やはり神様が 備えてくださっているのです。

彼女が腰をまっすぐにしていただいた後、最初にしたことは、「神を賛美すること」でありました(13節)。神の愛といつくしみに出会ったことに感謝したのです。

 

(4)苦しんでいる人を思いやれない

「ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。『働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない』」(14節)。

会堂長は、腹を立てた。なぜでしょうか。この会堂長というのは、いわばこの礼拝の責任者、それを全部仕切っている人です。それが自分の思い通りにいかない。しかも話をしているイエス・キリスト自身がそれを乱すようなことをした。「今日は安息日である。こんなことを放置しておいたら、他の人が何を言うかわからない、ということもあったでしょう。体面を気にする。制度最優先。形式優先。融通がきかない。

ここで同時に、今まで18年間も続いていた女性の苦しみに気付かない。彼の考えの中には、実際に苦しんでいる人が不在です。そういうことは、私たちの世界でも、しばしばあることです。

日本で言えば、福島で起きた原発事故にどう対応していくかということは大問題です。しかし政府の姿勢を見ていますと、実際に苦しんでいる人のことよりは、体面、自己保身を優先して対応するということがあるのではないでしょうか。

あるいはシリア政府軍が民衆に化学兵器を使ったということに対して、アメリカ合衆国を中心に、「どうしても懲らしめなければならない。放置しておくことはできない」として、攻撃しようとしました。しかし実際にそこで攻撃すれば何が起こるかということへの想像力が欠如している。苦しむ人に目が行かない。

面倒なことを避けたい、問題をいやがるという場合もあるでしょう。ここには、律法学者、ファリサイ派の人々は不在ですが、彼らがいたら、自分はしかられるかもしれないと思ったかもしれません。そして律法を持ち出して、「間違っている」と言ったのです。

 

(5)安息日律法の例外規定

イエス・キリストは、それに対して、「偽善者たちよ」と言われました。

「あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか」(15節)。

安息日律法にも、例外規定というのがありました。緊急のときは働いてもよい。特に人の命や動物の命がかかっているときには、そうです。明日にできないこと、今にしかできないことは、今やってもよいという規定があったのです。しかしこの会堂長にしてみれば、「これは明日でもできることだ。それをどうしてわざわざ今日やるのだ」ということであったのでしょう。

しかもこの会堂長は、イエス・キリストを批判する言葉を、直接本人に言うのではなく、群衆に向かって言いました。

たとえば、私がここで説教中にまずいことを言ったとして、そのことについて誰かが礼拝の報告の時に、みんなに向かって言うような感じでしょうか。まっすぐに相手を見ない。みんなに正しいことを言っているかのようにして、誰かを攻撃するのです。イエス・キリストは、その偽善を見抜いて言われました。

「この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(16節)。

安息日律法とは、そもそも何のためにあるのかということから説得しようとしておられます。

 

(6)安息日律法の根本精神

今日は、ルカ福音書と共に、申命記の中にある十戒の言葉から読んでいただきました。安息日は何のために設けられたのでしょうか。

「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」(申命記5:12~14a)。

ここまでであれば、会堂長の言うことのほうが正しいと思えるかもしれません。しかしこう続きます。

「そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」(申命記5:14b)。

つまり安息日律法は、休ませるためにあるのです。それが安息日律法の心です。さらにこう続きます。

「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」(申命記5:15)。

モーセの十戒が記されているところは、2箇所あります。一つは出エジプト記の20章であり、もうひとつがこの申命記5章です。よく読んでみると、安息日律法の根拠が少し違っています。出エジプト記のほうは、神様が天地を六日間で造り、七日目に休まれたから、神様は安息日を祝福して、それを聖別されたと言います。一方、申命記のほうは、(天地創造ではなく)出エジプトの出来事を思い起こして、あなたたちは奴隷の身分から神様によって解放されたのだから、それを思い起こして、あなたも休み、あなたのところにいる者も休ませなさい、というのです。

その安息日律法の精神からすれば、形式的には会堂長の言っていることのほうが正しいように見えますが、内容的には、解放が目的であり、その人に本当の平安、安息を与えることのほうが、安息日律法に則しているということができるでしょう。イエス・キリストは、その根本を見ておられるのです。

 

(7)会堂長も解放を必要としている

「こう言われると、反対者は皆恥じ入」りました(17節)。私は、この反対者の中には、会堂長も含まれていたと思います。「恥じ入った」ということは、少なくとも言うことはわかった、ということです。これはよい兆候であると思います。ここで怒って、イエスを殺す決心をしたというのではないのです。よく考えてみれば、この会堂長も、いろいろな力に束縛されていたことでしょう。この人も、束縛から解かれることを必要としていたのではないでしょうか。律法というものにがんじがらめになっている。そしてこの会堂を守らなければならないという思いに圧迫されている。この礼拝を乱してどうしてくれるのだ、という思いにとらわれている。そういうところから、もうひとつ広い地平へと、この人自身が解放されることが必要であったのではないのではないでしょうか。

ですから、イエス・キリストはこの女性の味方をし、会堂長を叱ったというだけではなく、「あなたも招かれている。あなたも解放される。私はそのために来た」ということを告げようとしておられるのだと思います。私たちもさまざまな束縛のもとにいます。「四苦八苦」に悩まされている。しかしそういうことをすべてご存じのイエス様が、私たちをみ手の中においておられる。そのことに私たちが生きる道を見いだしていきましょう。

 

 

 

 

  

 

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悔い改めの呼びかけ

2013年12月21日 | ルカによる福音書(2)

ルカ福音書による説教(70)

エレミヤ書4章1~2節

ルカによる福音書13章1~9節

       2013年9月1日

            牧師 松本 敏之

 

(1)秋の信仰生活

9月を迎えました。猛暑が去り、秋の気配を感じます。秋の深まりと共に、私たちの信仰生活も深められ、アドベント、クリスマスを迎えられればと思います。そのはじめとして、9月には二つの特別行事を計画しています。そのチラシもできあがってまいりました。

9月22日は教会全体修養会。今年度の年間標語「分かちあおう神の愛―主イエスはきずな」を念頭に置き、講師として仙台北教会牧師であり、東北教区議長の小西望牧師を迎えます。小西牧師は、今年5月に東北教区議長に就任されましたが、それまでの2年間、すなわち東日本大震災直後から「東北教区東日本大震災教会救援復興委員会」委員長として、被災諸教会をまわり、必要性を聞き、援助のパイプ役として現場の最前線で働いてこられました。午後の講演では「主から与えられている課題と召し―震災発生2年半を歩む東北から」という題をいただいています。

9月29日は、ソプラノ歌手である菅英三子さんとピアノ伴奏の奥千歌子さんを迎えての賛美礼拝とミニコンサートです。菅さんは、世界的に活躍されるソプラノ歌手ですが、仙台北教会の役員も務めておられます。信仰の面でも、心のこもった歌を聞かせてくださることと思います。みなさんご自身もお楽しみいただくと同時に、この貴重な機会、ぜひ多くのご友人をお招きくださいますよう、お願いいたします。

 

(2)当時のホット・ニュース

 さて、本日、私たちに与えられたテキストは、ルカによる福音書13章1~9節であります。二つの段落に分かれており、前半は、当時起こった二つの事件、事故を取り上げています。そのことを信仰者としてどのように考えたらよいのか。それは今日に生きる私たちにも通じる問いかけであろうと思います。

 一つ目の事件は、ガリラヤからの巡礼団の何人かが、エルサレムの神殿内でピラトの兵隊たちによって殺され、その血が彼らの献げようとしていた犠牲の動物の血に混ぜられたということです(1節)。それが具体的に、どのような歴史的事件を背景にしているのかは明らかではありません。ユダヤ史家ヨセフスによれば、ゲリジムの神殿に行こうとしていたサマリア人がピラトによって虐殺されたことが記されています。ただしこれは、イエスの死後のことであり合致しません。しかも場所も別です。エルサレムでなされたユダヤ人たちのデモが、ピラトに激しく弾圧されたといった記述がありますが、それと一致させるのも無理があるようです。いずれにしろ、この類の事件は、ローマ統治下ではしばしば生じたであろうと想像されます。彼らにしてみれば、なんでこういうひどい事件が起こるのだろうか、という思いであったのでしょう。

私たちのホット・ニュースで言えば、シリアにおける化学兵器による虐殺と重ねられるかもしれません。為政者の勝手で弱い人が犠牲になっている。アフリカにおいては、さらに深刻な、大量虐殺が今も起きているということを聞きます。それは、一体誰のせいなのか。神様なのか人間なのか。神様がおられるならば、そしてその神様がよきお方であり、しかも全知全能の神であるならば、そういうことは起きないはずではないか。素朴な思いです。

 これに対するイエス・キリストの応答が続くのですが、先に、もう一つの事例があげられていますので、それをあわせて見てみましょう。

「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人」(4節)とあります。こちらは災害というか突発性の事故です。もちろん違法建築のために、それが倒れてということであれば、人災と言えるかもしれません。他にも無数の事故、自然災害があったことでしょう。そこに神様はかかわっておられるのか、おられないのか。それは、当時の人々にとっても、そして私たちにとっても大きな問い、謎であります。

 

(3)苦難は、神の罰なのか

当時の人々は、因果応報の考え方の中に生きていました。そして神様はすべてのことにかかわっておられる、つまり神様の知らないところで起こる事柄はないということも信じていました。そこからすれば、誰かの犠牲であれ、自然災害の犠牲であれ、ひどい仕打ちを受ける人は、それ相応の何か悪いことをしたからだ、そうでなければ神がそんなひどい目に遭わせるはずがないということになるでしょう。それを受け入れない場合は、信仰を捨てることになりかねません。つまり神はいないか。いるとしても全知全能の神ではない、小さな、自分勝手な神であるか。そのどちらかしかありませんでした。これは、私たちにも、東日本大震災の時に、これまでにないほど鋭い形で突きつけられた問いでありました。

このことについてのイエス・キリストの答えはどうであったでしょうか。

3節と5節で「決してそうではない」と、強い言葉での否定が繰り返して語られます。その人たちに災難がふりかかったのは、その人たちが他の人たちよりも悪かったわけではないということを、まず聞くべきでしょう。

当時の考え方からすれば、不幸がふりかかっていないということは、神に認められていること、義とされていることのしるしでした。言いかえれば、悔い改める必要もさほど感じない。少なくとも、今、災害や犠牲になっている人よりはましだと思っていたでしょう。そしてその人たちを裁きの目で見ていました。

聖書の中にもそういう考えはないわけではありません。しかしそれは、当時の一般的な考え方を聖書でさえも映し出していると言ったほうがよいでしょう。聖書はそういう因果応報の考えの残滓を残しながら、それを超える新しい思想を展開し始めるのです。聖書の中で、その二つが葛藤しているのです。そこで私たちは、そのどちらが聖書ならではのオリジナルな思想であり、どちらが一般的な時代の産物なのかということ、どちらが将来を指し示すものであるかということを見抜かなければなりません。

 

(4)ヨブ記

ヨブ記の背景にも、「罪を犯した者は必ずそれ相当の処罰を受ける。反対に、義である者には必ず報償がある」という平均的な考え方がありました。ヨブのもとに3人の友人たちがやってきて、ヨブに上から目線で説教します。「お前は何か悪いことをしたから、こういう目に遭っているのだ。悔い改めなさい」というのです。それは当時の一般的な考え方を代弁しています。しかしヨブは、「いや自分は悪いことはしていない」と言い張ります。すると友人は、「そういう態度こそが傲慢なのだ」と言う。すれ違いです。

最後に神様が登場します(ヨブ記38~40章)。神は、「お前はいったい何者なのか。わたしが天地をつくった時に、お前はどこにいたというのか。お前は何を知っているというのか」と、たたみかけるようにしてヨブに迫ります。ヨブは、何も反論することができません。しかしヨブは、神が登場してくれたということで、自分で解決を見出していきます。「お前が正しい」と言われたわけでも、自分の主張が認められたわけでもありません。しかしヨブにとっては、神はすべてを見ておられる、ということ、神が直接自分と対話してくださったということで、十分であったのでしょう。

 

(5)イエス・キリストはどうか

イエス・キリストは、どう語っておられるでしょうか。イエスの弟子たちは、あるとき、主イエスに「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(ヨハネ9:2)と問いました。この問いは、苦しみを受けることと罪とが関係があるということを前提にしています。それは、誰の罪のせいなのか。関係がないはずないと思ったのです。

それに対して、イエス・キリストは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9:3)と語られました。その原因を問うていた弟子たちに対して、むしろこれから起こること、目的を示されたのでした。それは当時の因果応報の考えを突き破るものでした。

イエス・キリストは、貧しい人や障がいのある人、目の不自由な人、足の不自由な人に対する神の恵みを述べておられます。そのこと自体が従来の考え方を打ち破るものでした。そうでなければ、イエス様は、その人たちと共にいることはなかったでしょう。

そもそもイエス・キリストご自身が誰よりも大きな苦しみを受けて十字架にかかって死なれるということ自体が、苦しみを受ける人は何か悪いことをしたからだという考えを否定している上に成り立っています。イエス・キリストは悪いことをしたために十字架にかかられたからではないからです。それは、まさに、そこに神の業が現れるためでありました。

イエス・キリストは、「決してそうではない」という言葉に続いて、こう語られます。

「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(3、5節)。 

これは、すべての人を悔い改めに導く言葉であります。世の終わりの神の罰はそれどころではない。それは皆等しくふりかかるのだと言おうとしているのでしょう。

 

(6)実のならないいちじくの木

ただし今日の聖書の箇所が、そこで終わっているとすれば、非常に厳しく重い言葉ということで終わりかねません。その続きに、「実のならないいちじくの木」のたとえがあります。

今日の箇所は、ルカ独自資料と言われます。マルコにもマタイにも出てこない。しかしこれのもとになったと思われる話は出てきます。それは、葉ばかり茂って実のならないいちじくを、イエス・キリストが枯らせてしまったという厳しい話です。しかも「いちじくの季節ではなかったからである」というのですから、かわいそうな、理不尽な話です(マルコ11:12~14)。

今日のルカの話は、これがもとになっているのではないかと言われますが、ルカは、このモチーフをそこで終わらせずに、悔い改めに導くものとして展開しました。

そこに「園丁」が登場します。言うまでもなく、そこでたとえられているのはイエス・キリストです。ルカでは、実がなるかもしれないという可能性に対して開かれた終わりになっています。

この話は、ぶどう園での話ですので、いちじくの木は脇役です(ぶどう園の主役はぶどうの木でしょう)。いちじくの木はじゃまもの扱いされていたのでしょう。しかし園丁の「もう少し待ってください」という執り成しを、主人は聞いてくれたというのです。このいちじくの木がその後、どうなったのかということは書いてありません。開いているのです。それが、このたとえの、大事な点であると思います。「私たちは、まだ将来に対して、開かれたところに置かれている」ということを、ルカは言おうとしているのではないでしょうか。

 

(7)執り成しの結果、どうなるか

預言者、あるいは預言者に相当する人物によって、神様の裁きが先に延ばされるという話は、旧約聖書の中にもたくさん出てきます。

最も有名なもののひとつは、ソドムのためになしたアブラハムの執り成しでしょう(創世記18:16~33)。

神様が悔い改めを認めて裁きを控えるという話も出てきます(ヨナ書)。

新約聖書でも、神様は、より多くの人々に悔い改めの機会を与えて、最後の恐ろしい状況を回避するために、主の日を遅らせておられるのであると記されているところがあります(Ⅱペトロ3:8~9)。

誰かの執り成しによって、神様が裁きを延期しておられる、留保しておられるというのは、今日のルカの言葉に通じるものであると思います。先ほど申し上げましたように、この中のキーパーソンである園丁はイエス・キリストです。イエス・キリストは十字架の上で、罪人のために祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。両手を広げて、そのように父なる神に向かって祈られる。その祈りがどういう効果をもたらすのか。その答えも書いていないのです。

今日のいちじくの木のたとえと同じです。私は、これが開かれたまま終わっているというのは大事であると思います。

イエス・キリストがそのように祈り、執り成しをし、命を捨てられた。だからすべての人は救われる、と言い切ることもできません。限りなくそちらを指し示しているように思いますが、それを私たちが言うのは傲慢です。それは悔い改めの思いを鈍らせることになるでしょう。

しかし逆に、イエス・キリストの執り成しにも限界がある、と言い切ることもまた不信仰であり、傲慢であると、私は思います。そこで開かれたまま終わっている。私たちは、そこで勝手に結論を出すのではなく、その一歩手前で謙虚に留まらなければなりません。そして、「まことの神の前に悔い改めをし、新しく生きるものとなれ」という呼びかけに従って、生きる者となりたいと思います。

 

  

 

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時を見分けてなすべきこと

2013年11月15日 | ルカによる福音書(2)

ルカ福音書による説教(69)

マラキ書3章19~24節  

ルカによる福音書12章54~59節

  2013年7月14日

  牧師 松本 敏之(1)「死ぬまでにしたい10のこと」

「死ぬまでにしたい10のこと」という映画があります。2003年のカナダ・スペインの合作映画です。英語の映画で、原題は、My Life Without Me.

カナダのバンクーバーが舞台。幼い娘二人と失業中の夫と共に暮らすアンは、ある日腹痛のために病院に運ばれ、検査を受けます。その結果、癌であることが分かり、23歳にして、余命2か月の宣告を受けてしまいました。アンは、癌であることを誰にも告げないことを決め、夫と母には貧血だと説明します。そして夜更けのコーヒーショップで今までの人生を振り返りつつ、死ぬまでにしたいこと、10項目のリストを作り、さっそくそれを実行していこうとするのです。

死ぬまでにしておく10のこと、皆さんなら何を挙げるでしょうか。アンが挙げたのは以下の10項目でした。

1.娘たちに愛していると一日に何度か言う

2.ドン(夫)に、子どもたちも気に入るような新しい奥さんをみつけてあげる

3.娘たちが18歳になるまで誕生日に毎年贈るメッセージを録音する

4.ホエール湾ビーチに行って、ピクニックをする

5.好きなだけお酒を飲んでタバコを吸う

6.思っていることを言う

7.他の男の人とつきあって、どんな感じかためしてみる

8.誰かを私に夢中にさせる

9.刑務所にいる父に会いに行く

10.ネイルアートをして、髪型を変える

とても大事なことと何でもないことを、さりげなく混ぜているところが面白いと思います。

 コインランドリーで、コーヒーショップにいた男の人リーが声をかけてきます。帰宅し、洗濯物の袋を開けてみると本が1冊入っており、電話番号を書いた紙が挟まれていました。恋人と別れたばかりというリーの家を訪ねたアンは、彼と恋に落ちます。

 優しい夫のドンには、隣の家に越してきた自分と同じ名前のアンという女性が、新しいパートナーになってくれるよう密かに願ってセッティングします。そして、10年も刑務所にいる父と面会をします。したいことを一通り実行したアンは、母やドンやリーに最後のメッセージをテープに録音して亡くなる、という映画です。

 主演はサラ・ポーリー(主人公アン)。監督と脚本は、イザベル・コヘット(コイシュ)というスペイン人女性(1962年生)。彼女の才能に魅了されたスペイン人のペドロ・アルモドバル監督が製作を買って出たことでも有名になりました。

 イザベル・コヘット監督とサラ・ポーリーは、その後さらに、「あなたになら言える秘密のこと」(2005年)というすばらしい映画を作りました。

 この映画の見どころは、主人公アンが死を目前にしながらも、決して動揺せず、自暴自棄にもならず、何をどうしたいのかを冷静に考えているということでしょう。

 残された貴重な時間、後悔のないように、何を優先して何を実行するのか。それをリスト化し、一つ一つ実行することによって、死の恐怖をやわらげ、最後まで前向きに生きる姿を貫くのです。彼女は、まず自分よりも(自分と同時に?)、自分が愛する大事な人のことを考えています。彼らが動揺しないように。そして将来を見据えています。原題の、My Life Without Me (私がいない私の人生)というのも、それを示していると思います。

 

(2)何を優先してなすべきか

 さて、この映画は、私たちの人生が残りわずかであれば、何を優先すべきか、あなたならどうするかということを問いかけています。

 私たちは、普段はあまり死を意識して過ごしていないかもしれません。若い方であればなおさらでしょう。しかし、私たちに残された時間は、誰でも同じように刻一刻と少なくなっているのです。私も先週11日に、55歳の誕生日を迎えました。ひとつの区切りの年を迎えて、これからどうすべきか、特にこれから10年、何をなすべきかということを考えなければならないと思いました。ただ「忙しい」と嘆きつつ、日々の仕事をこなすだけでは、あっという間に10年も過ぎてしまうでしょう。

皆さんは、いかがでしょうか。それぞれ与えられた時間は違いますが、例えば、仮にあと1年だとすれば、何を優先して過ごすべきか。それぞれお考えになったらよいのではないでしょうか。

 

(3)終わりを見据えて

 さて、今日私たちに与えられたテキストは、ルカ福音書の12章54~59節です。ここには小さな段落が二つあり、最初のほうは「時を見分ける」、後半は「訴える人と仲直りする」というタイトルが付けられています。この二つを合わせて、説教題は「時を見分けてなすべきこと」といたしました。(「死ぬまでにしたい10のこと」「あなたになら言える秘密のこと」という映画の題名にそろえたわけではありません。)

「時を見分ける」というのは大事なことです。ある状況では、妥当する事柄も、別の状況では的外れになる、ということが起こります。ルカは、特に「終わり」を見据えたときに、何をなすべきかを語っています。ここでは、「世の終わり」(終末)ということですが、それと同時に、私たちは人生の終わり、死ということも見据えておくべきでしょう。

 

(4)この世に向かって語る

この箇所は、「イエスはまた群集にも言われた」(54節)という言葉で始まります。ちなみに、その前の部分は弟子たちに語られた言葉でした。群衆に向かって語られた言葉と、弟子たちに向かって語られた言葉が交互に出てくるというのが、この12章のスタイルです。

 あまり厳密に区別しても意味がないかもしれませんが、弟子たちに語られた言葉とは信仰をもつ者に語られた言葉、群衆に語られた言葉とはすべての人に語られた言葉であるとすれば、この群衆に語られた言葉は、(教会が)この世に向かって語るべきことと言えるかもしれません。

 今がどういう時であるかを見分け、教会はそのことを、この世に向かって告げる必要があるということが問われているように思います。

私は、今、日本の国がどういう方向に向かって歩むのか、岐路に立っているように思います。特に、3・11の東日本大震災を経験した私たちは、教訓として、そこから何を学んだのかが大きく問われている時です。先ほどの祈りにもありましたように、来週の日曜日は参議院選挙です。その選挙を前にして、アンケート調査など事前の動向を聞いていて、私は非常に危機感を覚えています。

あの大震災で、私たちは結局、何も学ばなかったのではないか。最後は、それぞれに判断していただくことになりますが、どうも人の命よりも、経済のほうを優先して進もうとしているように見える。しかし経済優先ということも、実は非常に短いスパンのことでしかない。長く見てもせいぜい10年か20年のことです。原発の引き起こす問題や、そこで出て来る廃棄物の処理のことまで視野に入れれば、決して経済優先の道とも言えない。逆に、非常に高くつく道、しかも超危険な道を、国民は選ぼうとしているように思えてなりません。この選挙に際しても、私たちはそういうことをよく考えて、投票しなければならないのではないでしょうか。

 

(5)なぜ「偽善者よ」と言われたのか

イエス・キリストは、こう言われます。

「あなたがたは、雲が西に出るのを見ると、すぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる」(54節)。

イスラエルにおいては、西は地中海の方向です。そこから発生する雲は、水分をより多く含み、降水量がきわめて少ないイスラエルにおいて雨を発生させる確率が高い。イスラエルに住んでいる人にとっては、常識的なことであったようです。

「また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる」(55節)。

イスラエルでは、南に向かえば向かうほど乾燥が進む傾向にあります。南から来る風は、1年の多くの期間において温度の高い風であり、それが吹くことは暑くなることを意味します。これも雲と同様に、イスラエルでは容易に身につく知識だそうです。

そこから批判が始まります。「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」(56節)。

なぜここで、「偽善者よ」と呼ばれるのか、少し不思議に思いました。本当にそのことをわきまえないのであれば、「愚か者よ」と言ったほうがよさそうです。ここであえて「偽善者よ」と呼ばれたのは、「今がどういう時か本当は知っているはずであるのに、知らないふりをしているのか」と言おうとされたのかもしれません。

まさに今の日本の政治家は、そのように見えます。実は彼らも、それが将来的に危険である道であることを知っていながら、あえてそのことに触れず、知らないふりをしているのではないか。それで目先の利益だけを見せて比べている。そうだとすれば、私たちはそれにだまされないようにすることを学ばなければならないと思います。

 

(6)自分で判断する

イエス・キリストの話はそこから後半に入っていきます。

「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」(57節)。

まさに自分で判断することが、ここで求められます。そして最も大切なこと、「時を見分けてなすべきこと」が語られます。それは、イエス・キリストによれば、和解、仲直り、ということでありました。

「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。言っておくが、最後の1レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない」(58~59節)。

これまた極端な話です。ある意味で無茶苦茶な話です。こちらにもこちらの言い分があるでしょう。しかしそれを聞いてすらもらえない。どういうことでしょうか。ちなみに、1レプトンとは、新共同訳聖書巻末の度量衡の表によれば、1デナリオンの128分の1とあります。1デナリオンは、労働者の1日の給料ですので、それを仮に5000円とすれば、約40円です。

ルカは、ここで裁きの場に行くこと(最後の審判)と、怒っている兄弟姉妹と仲直りすることとを結び付けています。興味深いことです。兄弟姉妹と仲たがいしている状態を、神様はよしとなさらない。むしろ「そういう状態」を裁かれるということではないでしょうか。人との仲たがいの裁判ということであれば、一番の争点はどちらが正しいか、どちらに軍配が上がるかということかと思います。しかしこれは、どこまで行っても相対的な問題であることをわきまえておく必要があります。

私たちが考える正しさというのは、果たして神様の前で、どれほど誇れるものでしょうか。どちらも五十歩百歩です。語弊を恐れずに言えば、それは、神様にとっては、究極的にはどちらでもよいことでしょう。

 

(7)和解、仲直り

要は、そのことを通して、私たちは相手のことを思っているか、その相手とどういうふうにしてよい関係を保つのか。修復しようとしているか。この世的に見れば、どうしようもない人がいたとして、それでもなお、その人とよい関係をもとうとしているか。そのことを神様は見られるということではないでしょうか。「あんな奴は放っておけ」ということはできないのです。なぜならば、イエス・キリストご自身が、そのようにしてどうしようもない人間を放り出されなかったからです。私たちはそのところから、何が正しいかを判断する必要があると言われているのではないでしょうか。

この話の冒頭にある「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」というのは、「どちらが正しいのか」というレベルのことではなく、「神様が何をよしとなさるか」ということです。

私たちに残されている時間が限られているとすれば、優先してなすべきことは、まさにそのあたりにあるのではないかと思います。仲直り、和解ということです。

先の映画「死ぬまでにしたい10のこと」の中心は、愛する人を悲しませないこと、愛しているというメッセージを発し続けるということでした。その終わりのほうに、「刑務所にいる父に会いに行く」というのがありました。彼女は刑務所にいる父、父親としての義務を果たさなかった父を、それまで赦すことができなかったのでしょう。しかし死ぬまでに、どうしてもこの父に会っておかなければならないと思ったのです。そして和解をし、その父に対しても、「愛している」ということを告げなければならないと思ったのです。まさに和解のメッセージです。

私は、私たちが最初にして最後になすべきことは、赦しあうこと、和解することではないかと思います。それが、時を見分けて、私たちがなすべきことでもあります。

 

 

 

 

 

 

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分裂か平和か

2013年07月26日 | ルカによる福音書(2)

ルカ福音書による説教(68)

ミカ書7章1~7節

ルカによる福音書12章49~53節

  2013年6月16日

  牧師 松本 敏之

 

(1)父の日

今日は父の日であります。父の日は母の日と比べて、影が薄いですね。今日の朝日新聞の朝刊には、父の日のことは全く出ていませんでした。関連の広告も入っていません。(もっとも広告は当日では間に合わないので、数日前に入るのですが。)

 ちなみに父の日の由来を調べてみると、6月第3日曜日が父の日というのは、やはりアメリカ合衆国から始まったようです。(ブラジルでは8月第2日曜日でした)。

1909年にアメリカ・ワシントン州スポケーンのソノラ・スマート・ドッド(Sonora Smart Dodd)という女性が、男手一つで自分を育ててくれた父を讃えて、教会の牧師にお願いして父の誕生月である6月に礼拝をしてもらったことがきっかけと言われています。彼女が幼い頃南北戦争が勃発し、お父さんのウィリアムが召集され、彼女を含む子ども6人は母親が育てることになるのですが、母親は過労がもとで、ウィリアムの復員後まもなく亡くなったそうです。以来男手一つで育てられましたが、ウィリアムも子どもたちが皆成人した後、亡くなりました。

最初の父の日の祝典は、その翌年の1910年6月19日にスポケーンで行われたとのこと。当時すでに母の日が始まっていたため、彼女は父の日もあるべきだと考え、「母の日のように父に感謝する日を」と、牧師協会へ嘆願して始まったそうです。ですから、父の日も、やはり教会が起源ということになるでしょう。1916年、アメリカ合衆国第28代大統領ウッドロー・ウィルソンは、スポケーンを訪れて父の日の演説を行い、これにより父の日が認知されるようになったとのことでありました(ウィキペディア参照)。

 日本の父の日は、日程としてはこれにならっているのでしょうが、教会は関係なく、むしろデパートなどのコマーシャリズムの中で広がっていったようです。

 

(2)私の家族

 さて本日、与えられた聖書箇所の中に、こういう言葉があります。

「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。・・・むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。

父は子と、子は父と、

母は娘と、娘は母と、

しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、

対立して分かれる。」

(ルカ12:51~53)。

 なかなか厳しい言葉です。

私の場合にも、この言葉で思い起こすことがありました。それは分裂ということでは全くありませんが、父の日にちなんで、私も少し父の話をしたいと思います。そして青年月間でありますので、あわせて私の青年時代の話もいたします。

わが家は103歳近くまで生きた曾祖母が亡くなった後は、両親と姉と兄と私の5人家族でありました。私は、高校1年生の時に洗礼を受けたのですが、私が洗礼を受ける前に、母と姉がすでに洗礼を受けていて、父と兄と私がまだ洗礼を受けていない、という状況でした。つまり5人家族の中でクリスチャンの比率が「2対3」であったのですが、私が洗礼を受けた時、比率が逆転いたしまして、「3対2」になりました。私は、父に内緒で洗礼を受けまして、あとで父が「お前、洗礼受けたんか。これでわしの味方は家の中で、お前の兄貴だけになってしもた」と嘆いていました。先ほどの聖書の言葉の通りです。

 父は苦労人で、日曜日も家で仕事をしており、「お前らは、日曜日になったら聖人みたいな顔をして教会へ行きやがって。わしは家中の罪を背負うて、家で留守番をしてる」と言っていました。でもそういう冗談が言えるほどですから、それほど悪い関係ではありませんでした。

 私が二浪をして、その結果、キリスト教の勉強がしたいと思うようになり、立教大学のキリスト教学科へ行くことにした時は、かなりショックであったようです。入学金を納めた後はショックで一晩寝込みました。父は父なりに私に期待するところがあったのでしょう。翌朝、「こんなことのために二浪させたのかと思うと、情けないわ。わしが今までずっと言ってきたことは無駄やったんやなあ。早いうちから自分の道を狭めるようなことをするなと言ってきたんやけどなあ」と言われました。私は、「お父さん、そんなことないよ。お父さんのアドバイスもよく聞いて決めたんやから」と父に言いました。全然、慰めになっていないのですが。

確かに、最初からそういう志望であれば、二浪もする必要はなかったかもしれませんが、私としては、二浪してみてはじめて、自分が本当は何をやりたいのかということが見えてきた気がしました。二浪していると、大学へ行く前に、成人式を迎えてしまいます。それはかなりプレッシャーでした。自分はこれから何を学ぼうとしているのか。それまでも文学部や外国語学部志望でしたが、必ずしも文学や語学をやりたいと思っていたわけではなく、漠然と哲学か美学かなと思っていました。音楽評論などに興味がありましたので。でも本当にやりがいのあること、自分ならではのことは何かと考え始めると、「そうだ、キリスト教だ」と思ったのですね。子どもの頃から、教会へは熱心に通っていましたから。父はがっかりしたようですが、勘当されたわけではなく、学費も下宿代も全部出してくれました。親不幸な息子であったと思います。いざ自分が父親の立場になると、父の気持ちもよくわかります。

 

(3)家族の中の波紋

 さて私の場合は、まだ笑い話程度ですが、クリスチャン・ファミリーではない家で、誰かがクリスチャンになると、多かれ少なかれ波紋が起こるのではないでしょうか。日曜日になると、妻が家のことを放って教会へ行ってしまう。残されたほうにすれば、せっかくの休みにどうしていなくなってしまうのか。そういう話はよく聞きます。

 ちょっと模範にならないようなことをすると、「それでもクリスチャンか」と言われる。でもそう言ってもらえるならば、「クリスチャンはよい行いをするものだ」と思われているわけですから、まだいいのかもしれません。一昔前であれば、勘当されることもしばしばあったようです。

 イエス・キリストを受け入れることは、家の中でもそのような波紋を起こす並々ならぬこと、そう簡単なことではないのだと思わされます。

 

 さて今日の聖書の言葉は、三つの部分から成り立っていますが、全体としても厳しいことを語っています。イエス・キリストは、燃えたぎっていた思いを注ぎだしながら、まず火について、次に洗礼について、最後に分裂について語られました。

 

(4)裁きの火、清めの火

 最初は、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」(49節)という言葉です。聖書には、火のモチーフが何度も出てきます。聖書に出て来る火は何を意味するのでしょうか。

一つには、裁きという意味があるでしょう。たとえば、アモス書1章3節以下では、次のように述べられます。

「主はこう言われる。

ダマスコの三つの罪、四つの罪のゆえに…

わたしはハザルの宮殿に火を放つ。

火はベン・ハダドの城郭をなめ尽くす。」

また罪の町ソドムとゴモラでは、「天から、主のもとから」降って来た硫黄の火で滅ぼされるという話が出てきます(創世記19:24~29)。

新約聖書でも、イエス・キリストは、ぶどうの幹につながれていないので実を結ばない枝は「集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」と述べられました(ヨハネ15:6)。

 二つ目は、清めという意味です。精錬と言ってもよいでしょう。金属を精錬するために用いられるので、ものを清める力をもつと言われます。ゼカリア書の13章9節では、「この三分の一をわたしは火に入れ/銀を精錬するように精錬し/金を試すように試す」とあります。

同じような考えは、新約聖書のペトロの手紙の中にもあります。

「信仰は試練によって本物と証明され(る)」が、それは「火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりもはるかに尊(い)」とされます(ペトロの手紙一1:7参照)。つまり、信仰は試練という火で、精錬されるということでしょう。

 

(5)神の現臨のしるし、愛の火

 しかしもっと大事なことは、火そのものは神の世界に属するものであるとし、火そのもののうちに、神が現臨すると考えられていたことです。火が投じられるということは、神がその中におられるということでしょう。そしてそこには、裁きの火、清めの火ということだけではなく、愛の火という面があると思います。

愛の火を灯すためにイエス・キリストは来られた。だからこそ、イエス・キリストは、「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と言われたのです。それが消えかけているので、それをもう一度燃え立たせるために、私は来たのだと言おうとされたのではないでしょうか。

その愛の火というのは、あのペンテコステのモチーフの中に現れています。

「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒言行録2:3)。聖霊の火をもう一度灯すということが、神様の計画の中にあった。それをなすために、イエス・キリストは来られたということであると思います。

 

(6)「受けねばならない洗礼」とは

さらに、こういうふうに続きます。

「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」(50節)

(ちなみに、この「洗礼」という部分に、「バプテスマ」というルビが振ってありますが、これはどちらで読んでもよいということです。私は大体、洗礼と呼びますが、バプテスト教会など「洗礼」という言葉を使わない教派もありますので、「新共同訳聖書」は、超教派の聖書〈エキュメニカル・バイブル〉として配慮しているのです。ちなみに、バプテスト教会では、もしも日本語に訳すならば、「洗礼」ではなく「浸礼」という言葉を用います。)

 さてイエス・キリストは、水による実際の洗礼は、すでに受けておられます。マタイ福音書でははっきりと洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたとあります(マタイ3:16)。ルカ福音書では、「洗礼者ヨハネから」とは書いてありませんが、洗礼をお受けになったことは記されています(ルカ3:21)。

 水による洗礼は受けておられるのに、どうしてここで、「わたしには受けねばならない洗礼がある」(50節)とおっしゃったのか。これは、この後起こる苦難、十字架と死を指しているのであろうと思われます。「火を投ずる」ためであります。先ほど申し上げたように、それは「裁きの火」であり、「清めの火」であると同時に、「愛の火」でありました。私たちを本当に内側から生かす神様の存在そのものを示す「愛の火」、それがイエス・キリストの十字架と死によって示されるということを、この時、予言されたのではないでしょうか。

 

(7)平和は冒険である

そしてこう言われます。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」(51節)。

これは、私たちの心をざわめかせないでしょうか。イエス・キリストは平和をもたらすために来られたのではなかったのか。私は、確かにその通り、イエス・キリストは、平和をもたらすために来られたのだと思います。しかしイエス・キリストがもたらす平和というのは、ただ単に現状維持的な平和ではない、私たちの内側で何も起こらず、これまで通りの生活の延長線上にあるような平和ではない、ということでありましょう。それは一時、分裂をもたらさざるを得ないようなこともある。それを通してのまことの平和です。

ボンヘッファーは、ファネーというところで行った「教会と世界の諸民族」という講演(1934年)の中で、「平和と安全は混同されてはならない。取り違えられてはならない、それはむしろ逆のことだ」と述べ、次のように続けます。「安全の道を通って<平和>に至る道は存在しない。なぜなら、平和は敢えてなされねばならないことであり、それは一つの偉大な冒険であるからだ。それは決して安全保障の道ではない。平和は安全保障の反対である」(『告白教会と世界教会』123頁)。

イエス・キリストも、深いところでは、やはり平和の王であり、平和をもたらすために来られた方であります。しかしその平和は、私たちを内側から、神の愛に基づいて生きる人として平和を実現する存在へと作りかえていくものである、それは非常に厳しいものであると言おうとなさったのではないでしょうか。このイエス・キリストの厳しい言葉の真意を汲み取って、まことの平和の道へと進んで行きたいと思います。

 

 

 

 

 

 

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僕として生きる

2013年06月21日 | ルカによる福音書(2)

ルカ福音書による説教(67)

箴言10章6~12節

ルカによる福音書12章35~48節

       2013年6月2日

  牧師 松本 敏之

 

(1)シモベかボクか

 本日の説教題を「僕(シモベ)として生きる」としました。「ボクとして生きる」ではありません。説教看板を見た教会員から「どちらでしょうか」と尋ねられました。青年月間だから、若者言葉で、「ボクとして生きる」なのかと思われたのかもしれません。「誰が何と言おうと、ボクはボクとして生きる」ということで、意味が通じないことはないですが、その場合は「自分らしく生きる」とかにするでしょう。「シモベとして生きる」です。

数年前、ある大学の礼拝に招かれて説教をしました。聖書箇所はマタイ25章の「タラントンのたとえ」だったのですが、プログラムに印刷された聖書には、振り仮名がありませんでした。聖書朗読は学生が担当しましたが、こう読んだのです。

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、ボクたちを呼んで、自分の財産を預けた……。」「さて、かなり日がたってから、ボクたちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。」この「彼らと」というあたりで気づいて欲しいと思いましたが、そのまま進みました。もしかして「忠実な良いボクだ」「怠け者の悪いボクだ」となるかなと心配しましたが、ここは、「忠実な良いシモベだ」「怠け者の悪いシモベだ」と大丈夫でした。

 ちなみに、最近の若者言葉に、「ボク的には……」というのがあります(「ボク的には、何々です、など」)。それを聞いた時、私は「就職試験で、『あなたはこの会社で何をやりたいのですか』と聞かれて、『ボク的には……』と答えていたら、落ちるよ」と言いました。日本語としては「ボクとしては」が正しいでしょうし、それよりも「私としては」のほうが正式でしょう。

 先週5月24日、サラリーマン川柳ベスト10というのが発表されましたが、その中の第二位は、こういうものでした。

「電話口 『何様ですか?』と 聞く新人」(吟華)。

これを聞いて、一体何がおかしいのかわからないという青年は、重症です。第一位がどういう川柳であったか知りたいですか。

「いい夫婦 今じゃどうでも いい夫婦」(マッチ売りの老女)。

ただしこれは青年月間とはあまり関係がありません。どちらかと言えば、9月頃のほうがよいでしょう。

 

(2)主を畏れることは知恵の初め

 さて先ほど申し上げましたように、経堂緑岡教会では、6月を青年月間としております。若い人たちがこれからの長い人生を歩んでいくにあたって、「僕として生きる」ということ、つまり「自分の人生には主人がおられる」ということを自覚するのは大事なことではないでしょうか。

 今日は、箴言1章1~7節をお読みいただきました。その最後に、こういう言葉があります。「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」(7節)。

 この「知恵」の「知」は、単に「知識」というレベルではなく、もっともっと深いこと、英語で言うと、knowledge(知識) ではなく、もちろん information (情報)でもなく、 wisdom (知恵)として知るということです。自分の人生の真ん中に主を迎えて、その方を畏れて生きる。

コヘレトの言葉12章1節には、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」とあります。口語訳聖書では、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」という訳でした。「創造主を心に留めること」が生きる上で根本的に大事なことなのです。

それを知らないと、私たち人間は、つい自分が自分の人生の主人だと思い込んでしまう。あるいは人間がこの世界の主人だと思い込んでしまう。私たちは、自分については自分が一番よく知っているように思っていますが、案外よく知らないものです。(他人は知っているのに、自分だけが知らないということさえあるでしょう。)自分以上に、自分のことを知っている方がおられるということは一つには恐ろしいことですが、そこに身をゆだねて、それを前提に生きるのは大いなる安心感のあることであります。私たちは自分の体についてもよく知らないし、自分の命、寿命についてもよく知らない。特に命の終わりがいつ来るのかということはわかりません。

 このたとえは、世の終わりを想定して書かれていますが、それだけではなく、私たちの人生の終わりについても同じことが言えるでしょう。

 

(3)二つのイメージ、帯とともし火

 この部分は大きく二つの部分から成り立っています。前半35~40節は、弟子たち全員(すべての人)に向けられた言葉です。後半の41~48節は、弟子たちの指導者への言葉ですが、少し広げて、上に立つ人に向けて語られた言葉として読むこともできようかと思います。

 主イエスと弟子たちは、今、エルサレムへ向かう途上にあります。彼らが今、その途上にあるということと、主がやがて戻ってくるということの両方、言い換えれば、これから十字架に向かうということと、やがて終わりの日が来るということ、この二つの視点が、イエス・キリストの教えに厳粛さと緊張感を与えています。

 前半のほうは、二つのイメージと二つのたとえが中心になっています。二つのイメージとは、腰に締める帯と、燃えているともし火です。

 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい」(35~36節)。

昔はゆったりとした服を着ていたので、外出する時や仕事をする時は帯を締めました。そしてともし火をともし続ける。

この二つのイメージは、いつ主人が帰って来てもいいように、僕たちに準備ができているということのしるしでありました。

 

(4)給仕をする主人、夜中に来る泥棒

 そのイメージを用いて、二つのたとえのうち一つ目は、帯をめぐるものです(37節)。主人自身が帯をして、あたかも僕であるかのように給仕をしてくれる。普通はありえないことでしょうが、イエス・キリストのことを考えるとよくわかります。本当は私たちの主人であるのに、私たちに仕えるために来てくださった。主人が僕のように給仕し、出迎えてくれるということです。

 二つ目は「夜中に来る泥棒」のたとえです(38~40節)。泥棒はいつ来るかわからない。主人ですらもわからない。その家の管理を任せられている者は、泥棒がいつ来ても不意打ちにならないようにぬかりなく備えをします。泥棒のほうは何時頃が一番手薄かを調べてやって来ます。その時の警備を強くすれば、またその裏をかいてくるかもしれません。そうするとずっと起きていなければならないのでしょうか。そんなことは無理です。人間だれしも眠らなければ体がもちません。眠らないでずっと起きているということではなく、準備をして休む。きちんと準備をしているならば、安心して眠ることができます。

 

(5)上に立つ人

 もうひとつ後半の言葉(41~48節)は、指導者たちに向けられています。これは、シモン・ペトロの「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」(41節)という質問に促されて語られたものです。

人の上に立つのは、大変なことです。やりがいのあることでしょうが、誘惑も多いものです。つい自分が主人であるかのように錯覚してしまいます。

指導者というのは、実は一番上ではなくて、その上には本当の主人、つまり神様がおられて、その本当の主人から、一時的に大事なものを預かって管理する存在であることを忘れてはならないでしょう。

それを知っていながら、無視したり、あえてそれがないかのようにふるまったりすれば、その地位にいない人よりも責任を重く問われるのです。

「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」(47~48節)。

厳しい言葉です。そうすると、私たちは、裁かれないために、上に立つことを避けるほうが賢明ということになるのでしょうか。

 

(6)奉仕の場が広がること

阿佐ヶ谷教会の牧師であった大宮溥先生の『マルコ福音書講解説教』(上・下二巻)が、最近出版されました。私は、大宮牧師のもとで、3年間、伝道師、副牧師として働いた関係で、今その下巻の書評を書いているところです。その本の中にこういう言葉がありました。

「かつて阿佐ヶ谷教会の青年会の仲間の間で、会社に入って昇進することを願うのはエゴイズムであって、キリスト者には禁じられているのではないかという議論がされました。彼らがその当時阿佐ヶ谷教会の信徒総代であったN氏にそれを尋ねたとき、その答えは、昇進するということは自分の奉仕の場が広がることであるから、そのために努力することは間違っていないということでした。この人は、自分の地位を『奉仕の場』として受けとめていたのです」(『十字架と復活への道』36頁)。

「職場の中で自分の地位がだんだん上がっていく。それは信仰をもって生きることと矛盾するのではないか。」特に人生をまじめに、信仰をもって生き抜こうとする青年たちにとって、それは大きな問いであったようです。うしろめたい思いもあったかもしれません。しかしN氏によれば、昇進するのは奉仕の場が広がることだ、というのです。裏返して言えば、それを奉仕の機会とするのではなく、自分のためにその地位を利用するならば、その重い責任を問われることになるのでしょう。

私も実は、阿佐ヶ谷教会時代、この話を、後に日銀総裁になられた速水優さんから聞いたことがあります。この質問をされたのは若き速水さん自身であったかもしれません。私が速水さんから聞いた話は、少し言葉が違っていました。私が聞いたのは、「地位が上がることは、ディシジョン・メイキング(決断)の幅が広がることだ。それを恐れてはいけない」ということでした。その人の決断によって、影響を受ける人が多くなる、その人がより多くの人を守ることができるようになる、その人々の生活向上に役立つことができるようになる、時には命を救うことができるようになる、ということです。なかなか含蓄のある教えだと思いました。しかし逆に言えば、それができる地位にありながら、自分の身を賭してするのでなければ、一体何のための地位かということになるでしょう。それをしなかった場合には、その責任を重く問われるのです。

私が今日、特に青年たちへのメッセージとして伝えたいことは、どんなにこの世の中で上に立つ存在になったとしても、自分の上には本当の主人がおられて、その方のもとで、その方が何を望んでおられるかを探り、その意思を実現するために、私たちは召されているのだということです。それを心に留めていただきたいと思います。

 

(7)終わりの日を見据えて

今日のルカ福音書の箇所は、第一義的には、まさに「終わりの日の備えをせよ」ということですが、そこには二重の意味があります。ひとつはこの世の終わり、終末ということ、もうひとつは私たちの人生の終わりということであります。

当時のキリスト者たちは、「世の終わりがさほど遠くない時に来る」と信じていました。ですからいつその日が来てもいいように備えをするように勧められていました。

聖書の中では、時代の古いものほど、終わりの日が近いという危機感が強い感じがします。たとえばパウロの手紙などには、「定められた時は迫っています」として、「人は現状にとどまっているのがよいのです」と語ります(Ⅰコリント7:26)。しかし時がくだるに連れて、「世の終わりはそう早くは来ないかもしれない」ということになり、例えば、牧会書簡と呼ばれるテモテへの手紙、テトスへの手紙などでは、長期戦に備えて、教会の組織を整えることが大切な課題となっていきます。私は、この両面とも大切であると思います。

ここでは、「いつも目を覚まして用意をしていなさい」とありますが、マタイによる福音書にある「十人のおとめ」のたとえ(マタイ25:1~13)では、5人のおとめは油を用意しないまま眠り、賢いおとめは油を用意して眠っていました。つまり両方とも眠ったのです。先ほど申し上げたように、私たちは眠らないと体がもちません。がんばって徹夜していると、一番肝心の時に、睡魔に襲われて眠ってしまうかもしれません。ですから、終わりの日の備えにしても、「いつ終わりの日が来てもいいように」ということは、「明日、終わりの日が来てもいいように」ということと同時に、「明日、終わりの日が来なくてもいいように」ということでもあるでしょう。長期戦も視野に入れて疲れすぎないように、ということです。

ルターは、「たとえ明日世の終わりが来ようとも、リンゴの木を植える」と語ったと言われますが、そのような冷静な姿勢をもたなければならないと思います。

 

  

 

 

 

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