ルカ福音書による説教(76)
箴言4章4~9節
ルカによる福音書14章25~35節
2014年6月29日 牧師 松本 敏之
(1)青年月間、青年期
6月、私たちは青年月間として過ごしてきましたが、その最後の日曜日である今日は、江口晴さんが青年らしい証をしてくれました。自分が洗礼を受けた時のこと、その後の1年間のこと、彼女は自分のやりたいことを目指して努力し、そしてそれを見事に達成しました。「今振り返ると、この一連の私の突き動かされるような衝動は全て神様のお導きだったのだな、と感じます。」という言葉も印象的でした。青年らしいひたむきな思いと勢いを感じました。それだけではなく、自分が恵まれた環境にあったことを素直に認め、自分のようなチャレンジをしたくてもできない人が大勢いる世界の現実を見据えながら、そこで自分にできることを何かしたいという証もすばらしいと思いました。今後も、ぜひ信仰的な成長をしていただきたいと思います。
青年期というのは、自分がこれからどういう人生を送っていくのかということを真剣に考え、悩み、それを克服していく時期でしょう。その時に、聖書の教えを知っていること、イエス・キリストを知っていることは、とても大きな意味があると思います。それと向き合いながら、自分はどう生きるのかを考えることになります。イエス・キリストを知っているということは、同時にその招きを知っているということでもあるでしょう。それがつながらない段階は、まだ生きたイエス様と出会っていないのかもしれません。その招きに、自分はどう応えて生きるのか。
ただその出会い方は、さまざまです。自分のほうから積極的に、「ぜひ弟子入りさせてください」という場合もあります。逆に「あまり弟子にはなりたくない」という感じで、逃げ回っていながら、最後には捕まってしまったという場合もあります。
私は、洗礼を受けたのは高校1年生の時でしたが、その時は、前者のような感じで、素直に洗礼を受けたいと思いました。当時の姫路教会の牧師が、「松本君も高校生になったのだし、そろそろ洗礼を受けたらどうかね」と言ってくれたので、それに素直に聞き従いました。
ただ牧師になる決心は、そう素直には行きませんでした。大学(立教)で、専門としてキリスト教の勉強をしながら、牧師に(だけ)はなるまいと思っていたようなところがあります。往生際が悪いですね。何となく、自分の将来を狭めてしまうような気がしましたし、牧師は経済的にも大変なようだからあまり選びたくないという思いが先だったかもしれません。その後、必ずしもそういう気持ちを乗り越えたわけでもありませんが、あることをきっかけに吹っ切れたような感じになりました。
(2)主に従うとは
さて、私たちはルカによる福音書を断続的にではありますが、続けて読んでいます。今日の箇所は14章25~35節です。ここでのテーマは、「イエス・キリストに従うとはどういうことか」ということですから、青年月間に読むのは意義深いと思います。
これは、ガリラヤからエルサレムへ向かう途上での話です。「大勢の群衆が一緒について来た」(25節)とあります。その中には、真剣な人もあったでしょうが、自分勝手な思いでついて来た人も多かったようです。少なくとも、この旅が十字架へと向かう旅であることには、誰も気づいていませんでした。
真剣な人の中には、ある種の対決の予感はあったかもしれません。彼らはガリラヤの人々です。主イエスは、ガリラヤの田舎からエルサレムへ出て、何かなさろうとしている。エルサレムの祭司たちとの対決か、あるいは逆にローマの権力との対決か。何かわからないけれども、漠然とした興奮はあったかもしれません。そこで、「そうだ。自分たちの存在を見せつけてやろう」と意気込んだかもしれません。しかしそうであったとしても、主イエスの思いとは随分かけ離れています。そこにあるのは自分中心の思いです。
(3)キリストとの関係が第一
イエス・キリストは振り向いて、「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(26節)と語られました。随分厳しい言葉です。しかもわかりにくい。いや言っていることは、わかるのですが、他の場所でのイエス・キリストの言葉と随分、トーンが違いますし、極端な言葉のように思えます。
ここに挙げられている、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹」というのはすべての家族ということです。夫が欠けていますが、それは男性中心に書かれているからでしょう。結婚している女性からすれば、真っ先に夫が入ってくるでしょう。
主イエスが「憎む」と言われたのは、どういうことでしょうか。他の箇所では、「敵さえも憎んではいけない。敵を愛せ」(マタイ5:44参照)と言われました。そうした教えと矛盾するように聞こえかねません。
ここでの「憎む」というのは、セム語的(ヘブライ語、アラム語など)な表現だそうです。(ちなみに新約聖書はギリシア語で書かれていますが、その背景にはヘブライ語やアラム語の影響があります。なぜならば、イエス様が話されたのは、アラム語でしたし、旧約聖書の主だった部分はヘブライ語で書かれているからです。)ヘブライ語やアラム語では、比較級を対立概念で示し、「より少なく愛する」ということを「憎む」と表すそうです。それならば、わかる気がします。背を向ける、身を引き離すということでしょうか。
そうでなければ、この言葉は、聖書の他の教え、例えば「自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています」(一テモテ5:8)という言葉と矛盾することになるでしょうし、そもそも「あなたの父母を敬え」という十戒にも反することになるでしょう。
さらに「自分自身の命を憎む」ということは、自己嫌悪するというような意味ではありません。すべてのことに先だって、キリストとの関係を第一のものとする覚悟ができているかということです。
さらに、こう言われます。「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(27節)。これも強い言葉です。しかし拒否されたわけではありません。その覚悟が問われたのです。大勢の群衆がぞろぞろと、ついて来ている。これから先、どういうことが起こるのかもよくわきまえていない人たちです。事実、最後には、すべての人が逃げてしまうか、逆に十字架につけろと叫ぶ側にまわってしまいました。
(4)二つのたとえ
主イエスは、ここで二つのたとえを語られます。
「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう」(28~30節)。
高い塔や大邸宅を建てる時には、それなりにきちんとした計画を建ててから始めるものだということです。
二つ目のたとえはこうです。
「また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう」(31~32節)。
これもなかなか興味深いたとえです。大軍と戦う時に、勝ち目があるかどうかを見越す。ここで、相手は二万、こちらは一万と規定していることは面白いですね。信仰の戦いとはそういう面がある。ただそこで、一万だから勝てないとは言っていません。一万でも勝てる見込みがあれば、それでよい。
この二つのたとえに通じることは、イエスに従っていくとは、自分のすべてをかけて取り組むような事柄、知恵も力も全部出し切るような事柄であり、大きな決心がいる、ということでしょう。
ただしそれは、信仰の歩みは人間の計算によって決められるということではありません。洗礼を受けて新しい人生の歩みをしようとする時、果たしてこれが自分の人生にとって得か損か、成功のきっかけになるかどうかを考えなさい、ということではありません。むしろ自分との関係で言えば、「自分の命であろうと、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と語られていたとおりです。
さらにまた、このたとえは、途中で挫折するくらいなら、初めからやらないほうがよいということでもないでしょう。そうではなく、真実に、誠実に、主に従っていく道を、よく吟味しながら求めていくということです。それは人間的に計算高く生きることではありません。しかし無鉄砲でもない。熟慮が求められるのです。その姿勢について考えながら、生きていく。そういう姿を思い起こしながら、今日の説教題を「信仰的な思慮深さ」としました。
(5)知恵をふところに抱け
今日お読みいただいた箴言に、こういう言葉がありました。
「知恵を捨てるな
彼女はあなたを見守ってくれる。
分別を愛せよ
彼女はあなたを守ってくれる。
知恵の初めとして
知恵を獲得せよ。
これまでに得たものすべてに代えても
分別を獲得せよ。
知恵をふところに抱け
彼女はあなたを高めてくれる。」
(箴言4章5~8節)
(6)信仰生活の戦い
信仰生活というのは、ある意味で戦いの連続であります。ひとつは不信仰との闘いです。自分の中で、それは絶えず、頭をもたげてきます。「こんなことをやっていて、一体何になるのか。教会で過ごしている時間や奉仕の時間は、無駄な時間ではないか。もっと別のことに有効に使ったほうがよいのではないか。そもそも信仰とは単なる思いこみではないか。」
あるいは逆に、信仰と言いながら、自分は信仰を利用しているのではないかという思いにとらわれることがあります。自分は不純な動機で、主に従っているのではないか。牧師であってもそうです。いや牧師であればこそ、自分は信仰を仕事のために利用しているのではないかと考えてしまうことがあります。
確かに信仰とは、そういうものではないでしょう。家族よりも、自分よりも、イエス・キリストを優先する。そして自分の十字架を負って従わなければならない。しかし、なかなかそうはなれないものです。それも現実です。そこで挫折して去るのでもなく、逆に開き直るのでもない。自分の中には、自己中心的な思いがあるのをわきまえながら、知恵をあおぎ、分別を求めて従っていくことが長続きする姿勢ではないかと思います。
「これでもうマスターした」ということではなく、絶えず自己吟味していく思慮です。時には、間違っていると思ったら引き返す勇気と判断をもつ。あるいは自分を絶対化せず、絶えず相対化しつつイエス様の弟子として生きていく。そういうことを吟味して思慮深く、しかも自分の限界をわきまえながら従っていくのです。
信仰とは一時(いっとき)のことではなく、一生の問題です。いや生と死を超えた問題でさえあります。でも信仰の道は、重くつらいものではありません。時々、確かにそういうこともありますが、少なくともそれだけではない。そこには、突き抜けた明るさと自由さがあります。解放があります。それは喜ばしい道です。
(7)塩気のなくなった塩
最後に「塩気のなくなった塩」のたとえが記されています。唐突な感じもしますが、ルカはこのたとえを、「主イエスに従う道」という流れの中で、ここに置いたのでしょう。「塩気のなくなった塩」は、もはや塩とは呼べないでしょう。「塩気のなくなった食べ物」であれば、塩をかければすむでしょうが、塩に塩気がなくなれば、意味がない。イエス・キリストは、この自己矛盾のようなたとえを用いながら、真実にイエス・キリストに従っていない者は、まさに「塩気のなくなった塩」のようなものだと指摘されるのです。クリスチャンとして生きることは、この世の中で塩のような働きをすることでしょう。「あなたがたは地の塩である」(マタイ5:13)と言われたとおりです。しかし私たちは、そこで本来の塩の役目を果たしているでしょうか。そうでなければ、もはや捨てられるだけということになります。
ここには随分厳しいことが書かれていますが、そこで戸惑っていても、あまり意味はないでしょう。そういう戸惑いの気持ちも含めて、すべてをイエス様に委ねて従っていく決心をする。その中で生きる道、本当に大切なことが示されるのではないでしょうか。
日本キリスト教団 経堂緑岡教会 〒156-0052 世田谷区経堂1-30-21 Tel:03-3428-4067 Fax:03-3428-3377 (その他の説教もご覧になれます) |