今月の「碁ワールド」で我が意を得たりという記事があった。
世界と日本の碁の違いをテーマにしたリュウ・シクン先生の談話の一節。
「私が院生の時に、『…先生がこう仰っていた』という言葉が頻繁に利かれたのは違和感があった。
立派な先生の言葉とはいえ、何故そのまま鵜呑みにするのだろうか」というような文だった。
私も「碁ワールド」や呉清源先生の講座や、「囲碁」の藤沢秀行先生の講座を読んでいて似たようなことを感じる。
紙面の都合もあり、実際の研究会では活発な意見がかわされているのだろうと思うのだが、紙面では「そうですね」や「気づきませんでした」が毎回のように飛び交い、少々気持ちが悪い。
先人を敬う風潮は素晴らしいとは思いますけどね。
呉清源先生も藤沢秀行先生も大棋士である。
囲碁界の巨人である。
しかしそれでも引退した方。
盛りのはずの現役の棋士がそれをただ唯々諾々と聞いているのは、ちょっと様にならない。
もう一つ思い出すのは、女流最強棋士ルイ・ナイウェイ先生のエピソード。
ルイ先生は来日したおり、呉清源先生に弟子入りし、毎回棋譜をみてもらっていたそうである。
呉先生もルイ先生に期待をかけ、かなり厳しく指導したらしいが、ある時ルイ先生は呉先生の指導に対し、
「それでも私はこう打つのは嫌!」
と反発したらしい。
碁に強くなりたい一心だけで苦労して海をわたってきただけでも驚嘆に値するが、囲碁界の巨人を前にしてこの自己を失わない姿勢。
凄まじいの一言。
やはりこの人は女流最強になるべくしてなったのだと感じさせられる。
はたして日本の女流棋士でこういう強靱なハートの持ち主はいるのだろうか?
万波先生が呉先生(彼女も呉先生の研究会で勉強しているらしい)に
「私はこう打ちたいの!」
と反発!
うーん、見てみたい気がする。
世界と日本の碁の違いをテーマにしたリュウ・シクン先生の談話の一節。
「私が院生の時に、『…先生がこう仰っていた』という言葉が頻繁に利かれたのは違和感があった。
立派な先生の言葉とはいえ、何故そのまま鵜呑みにするのだろうか」というような文だった。
私も「碁ワールド」や呉清源先生の講座や、「囲碁」の藤沢秀行先生の講座を読んでいて似たようなことを感じる。
紙面の都合もあり、実際の研究会では活発な意見がかわされているのだろうと思うのだが、紙面では「そうですね」や「気づきませんでした」が毎回のように飛び交い、少々気持ちが悪い。
先人を敬う風潮は素晴らしいとは思いますけどね。
呉清源先生も藤沢秀行先生も大棋士である。
囲碁界の巨人である。
しかしそれでも引退した方。
盛りのはずの現役の棋士がそれをただ唯々諾々と聞いているのは、ちょっと様にならない。
もう一つ思い出すのは、女流最強棋士ルイ・ナイウェイ先生のエピソード。
ルイ先生は来日したおり、呉清源先生に弟子入りし、毎回棋譜をみてもらっていたそうである。
呉先生もルイ先生に期待をかけ、かなり厳しく指導したらしいが、ある時ルイ先生は呉先生の指導に対し、
「それでも私はこう打つのは嫌!」
と反発したらしい。
碁に強くなりたい一心だけで苦労して海をわたってきただけでも驚嘆に値するが、囲碁界の巨人を前にしてこの自己を失わない姿勢。
凄まじいの一言。
やはりこの人は女流最強になるべくしてなったのだと感じさせられる。
はたして日本の女流棋士でこういう強靱なハートの持ち主はいるのだろうか?
万波先生が呉先生(彼女も呉先生の研究会で勉強しているらしい)に
「私はこう打ちたいの!」
と反発!
うーん、見てみたい気がする。
中澤彩子さんも、秀行先生とは意見が合わないので研究会をやめた、と何かに書いてた記憶があります。
要は自分の碁を持って、先人の碁を上手く吸収して欲しいという意味で、「反発心」のタイトルは不適だったかもしれません。
?さんとは文字化けでしょうか?
林檎ユーザーには?としか読めませぬ(汗)。
中沢先生も確か女流のタイトルホルダーでしたね。
最近のでは鈴木歩先生と最強戦を争っていたと記憶しています。
囲碁も呉さんや秀行さんが絶対正しいと決まってるわけではないので、別の道を歩むことにしても、おかしくないと思います。
OS9ですから?