老い烏

様々な事どもを、しつこく探求したい

4 “to be or not to be”の解釈

2011-08-24 22:14:47 | ハムレット

 “to be or not to be”の解釈

第2幕最終場で父王の亡霊を「悪魔かもしれない」と疑ったハムレットは、亡霊の言を確証する劇中劇を計画する。劇中劇の行われる当日(第3幕第一場)、彼は城中をいつものようにさまよい歩きながら、“to be or not to be”と第4独白を語る。

 原文でしめす。

To be, or not to be, that is the question:
Whether 'tis nobler in the mind to suffer
The slings and arrows of outrageous fortune(65)
Or to take arms against a sea of troubles,
And by opposing end them. To die, to sleep—
No more—and by a sleep to say we end
The heartache, and the thousand natural shocks
That flesh is heir to. 'tis a consummation(70)
Devoutly to be wish'd. To die, to sleep—
To sleep—perchance to dream. Ay, there's the rub!
For in that sleep of death what dreams may come,
When we have shuffled off this mortal coil,
Must give us pause—there's the respect(75)
That makes calamity of so long life.
 

  生きるか、死ぬか、それが問題だ。 

  どちらが立派な生き方か、

  気まぐれな運命が放つ矢弾にじっと耐え忍ぶのと、

  怒濤のように打ち寄せる苦難に刃向かい、勇敢に戦うのと。

死ぬとは------眠ること、それだけだ。

そう、眠れば終わる、心の痛みも、

  この肉体が受けねばならぬ定めの数々の苦しみも。

  死んで眠る、ただそれだけの事なら、

  これほどの幸せはありえない。

  眠れば、たぶん夢を見る、そう、そこが厄介だ。

  人の命をこの世に繋ぐ縄目を解いて、

  死の眠りについたとしても、それからどんな夢が立ち現われるか、

  それを思うと躊躇わずにはいられない

                          野島訳

 

 解釈は大きく二つに分かれる。

一つはD.ウイルソンらの「生きるべきか、死ぬべきか」と、ハムレットは自殺を念頭においているとの解釈。他方は18世紀のジョンソン博士以来の「為すべきか、為さざるべきか」と、復讐に伴う「死の危険性」を問題にしているとする解釈だ。この二つは人間ハムレットの理解で差を生じ、劇ハムレットを全く異なった劇とする。

  註) 野島訳はこの問題を避けている。「生か死か」の一般的なことではない。かれはどう行動する「べき」かを悩んでい

     る。「べき」を抜いてはならない。

前者であれば、躁鬱症気味の自殺願望の「哲学者」ハムレットになるし、後者であれば復讐を命じられ悩むハムレットとなる。本稿はハムレットを「哲学の問題」でなく、復讐と王位簒奪という「客観的」事実の中で格闘する人間ハムレットを念頭においている。

「生るべきか、死すべきか」とする主張は、67行から始まる”to die,to sleep”からの科白が、死ぬ=眠るの等式だから、自殺を念頭においているとする。死ぬは眠ること。死=眠りの問題は夢を見るにある、と彼はこの後の科白で長々と具体例を述べる。生きている苦しみに人が耐えているのは、死後にみる夢を恐れるからだ。夢を見ぬのが死であれば「眠れば終わる、心の痛み」もだが、死後の夢への恐怖が「死ぬ」のを妨げるという。

 「もし死後に何かを恐れていないなら、・・・・・いっそ慣れたこの世の煩いに耐えるのがましと考える、・・・こうして,思い惑う意識が我々すべてを臆病者にしてしまう」

科白の長さに惑わされてはならない。「夢の考察」は面白い文章だが、論理から全く外れている。「死ぬ」は「眠る」と同じで

はない。死後に人は夢を見ない。死後に夢を見るか否かは誰も知らぬ。眠りと異なり人は死から絶対に覚めない。死後の夢はありえない。死は”no more”だが、眠りは“no more”ではない。

 彼の言、彼の論理は一応受けとめよう。彼が「死」について悩んでいるのは事実なのだから。しかし彼の眠りや夢の考察を「真理」だとか、「天才の考察だ」とか考える必要は毛頭ない。彼は「どんな苦しみ、煩いがあろうとも、人は死を望まぬものだ」と、しごく当たり前の事を言っているに過ぎない。

「死にたくない」と思う意識が人を臆病者にしてしまう、と言う。「夢の考察」は彼の「躊躇いの口実」だ。無理に自分を「納得」させようとする人間は、何処かにその正当性の根拠、口実を求める。彼は正直に死にたくない、と言っているに過ぎない。

第一幕二場で、ハムレットは自殺について独白している(第1独白)

  ああ、神が自殺を禁じる掟など定めなければ良かったものを。

  ああ、神よ!神よ!

ここでは母妃ガートル―ドの結婚(と父の死、さらに叔父の王位簒奪)で受けたショックから、彼は明らかに自殺を考えている。「自殺したい」。しかし自殺は神が禁じているので死ねないという。自殺は神が禁じる掟だ。

To be or not to be”は上記の自殺願望を述べた後、2ヶ月経てから発せられている。この間に父王暗殺の「真実」と「復讐せよ、ハムレット!」との亡霊王の命令を彼は聞いている(第一幕第3場)

第3幕第一場まででは、未だキリスト教の禁令を破る客観的な状況・事実も、彼自身の心境の変化も示されていない。ハムレットの自殺に対する考え、自殺=「神の掟を破る」が否定されたとする根拠は何処にも記されていない。彼にとって自殺は相変らず「神の禁忌」だ。「神の掟を破る」必然性を見出していないハムレットが、「生か死か」と自殺で悩む必要性はない。

自殺は叔父王の犯罪を劇中劇で明らかにし、復讐を果たした後に考えればよい。外的状況を無視して「生きるか、死ぬか」の「自殺念慮」としては、ハムレットの具体的苦悩は不問となり、精神病理学の問題となってしまう。よって“To be or not to be”は「生るべきか、死ぬべきか」の意味にはならない。ハムレットは悩む。彼は言う

    in the mind to suffer The slings and arrows of outrageous fortune(65)

  take arms against a sea of troubles, And by opposing end them.

「怒濤のように打ち寄せる苦難に刃向かい、勇敢に戦(take arms)」えば結果はどうなるだろう。最終幕が示すように殺される可能性が高くなる。屈辱に「耐えれば(suffer)」ドラマにはならないが、彼の生きる可能性は高くなる。

「為すべきか。為さざるべきか。」については、次ぎのように論じられる。

亡霊が命じた復讐は、彼に死の危険性のある行動を迫っている(take arms against a sea of troubles, And by opposing end them.)。「行動するか、行動しないか」から、「生きるか、死ぬか」の問題が発生あるいは派生する。王クローディアスを殺害し復讐を達成しても、謀反者として自らも死ぬ危険性があるのが「行動」だ。他方、目を瞑り黙って行動(復讐)しなければ(in the mind to suffer The slings and arrows of outrageous fortune)、卑怯だが生きていけば、王位継承者として王位につく可能性すらある。

 忠臣蔵の由良之助らは、復讐の成就は自分たちの切腹と知っていた。死を覚悟して復讐するから観客の涙を誘う。死のリスク 

 のない復讐であれば観客の同感も緊張感もない。

復讐の実行は自らの死を意味する可能性がある。亡き父王は自分に死ね、と命じているのか?この前の独白で、ハムレットは亡霊王の「復讐命令」を「地獄に堕とす悪魔」の誘いと疑い、その疑惑を晴らす為に、劇中劇で叔父の父王殺害を確かめようとしている。もし亡霊王が真の父であれば命に服さねばならない。悪魔の「地獄への誘い」であれば復讐は中止となる。

「行動するか、しないか」は、劇中劇で「真実」を知ることに関わっている。明らかになる「真実」は、彼に困難で危険な道、「死」を選ばせる可能性がある。彼にとって良い道とは何か?迷わない者はいないだろう。「真実」は都合の良いだけではない。知らないで、あるいは知らない振りをしていた方が良い場合が多々あるのも人生だ。

「真実」を知る(「父王は叔父に殺された」)、それに基づいて「行動(復讐)」する、それによって「反逆者として死」が齎されるとしたら、誰が「知る」のを単純に望もうか?それが卑怯としたら、それに悩まない青年がいるだろうか?理想と現実、真実と虚構、これに悩まない青年がハムレットだとでも言うのか?

今、彼は劇中劇で「真実」を知る直前にいる。知った「真実」に基づいて行動(復讐か、その中止か)しなければならない。「生るべきか、死ぬべきか」などと自殺を「哲学的」に考えている場合ではない。

 註)小田島氏の師、中野好夫は「シェイクスピアの面白さ」(新潮選書。昭和42年)の中で、上記と同じ事を述べている。しかし訳としては「生きるか、死ぬか」を選ぶと記している。理由は不明だ。

 

      「懺悔の場」

 復讐劇なら見せ場は、第3幕第3場、王クローディアスの「懺悔の場」になる。劇中劇で兄王の暗殺を目の前で再現され、ショックを受け

王は、祭壇にぬかずき懺悔する。その場に通り合わせたハムレットは、祈りで無防備なクローディアスを見つけ、背部から殺そうと剣を振

り上げる(ローレンス・オリヴィエ監督・主演の映画ハムレット)。しかし彼は王殺害をやめる。このシーンは最も緊張したものの一つで、観客

も読者も固唾を飲んで見守る。われわれは誰でもハムレットの復讐成就を願っている。 ところが彼は復讐を取りやめる。叔父王が祈りをし

てからと。父王は煉獄で苦しんでいる、祈りをしている叔父を殺害すれば、彼は「天国」へ行くだろう。それでは復讐にはならない、として。

     奴が魂を清め、あの世への旅の支度が万端調っている今、 

      この時殺したところで?・・・ならぬ、断じて。

 ハムレットは劇中劇で、亡霊の言どおりの殺害法で父王が暗殺され、それを見た叔父王が狼狽するのを見てきたばかりだ。煉獄から来た父の亡霊の言を信じざるを得ない。煉獄で父王は苦しんでいるのは事実、と受け取っている。祈りするクローディアス王を見て、「悪党が父を殺した」述べている。しかし祈っている彼を「今を殺しては『天国』へ行ってしまう」と振りかざした剣を鞘に収めて立ち去ってしまう。千載一遇の好機は、彼の手からスルリと抜け落ちる。観客は歯噛みをして悔しがる。見せ場の一つだ。しかしハムレットの理由付けは妥当だろうか?殺人を犯しても、祈れば天国に行けるのか?「汝殺す無かれ」との戒律を犯した罪は、祈りで解消できるのだろうか?できはしない。叔父王の死後は地獄しかない。王クローディアスは「懺悔の場」の独白で、いくら懺悔をしてもその祈りは天には届かない、地獄に落ちるのは確実といっている。他方ハムレットは祈っている叔父王の後ろで、今殺しても叔父は天国に行くと復讐を止める。ハムレットを殺すしかない、というクローディアスの決意も知らずに。 論理的な王は甥ハムレットを殺す決心をする。王クローディアスがマクベスの兄弟であるのをやめ、リチャード三世の兄弟となるのはこれ以後だ。20世紀初頭の演劇の達人G・バーカーは「この劇的な対比を見よ!祈りを信じるものと懺悔を信じない者、ハムレットとクローディアスの現実を受け止める差の大きさが、王の命を救った」と記している。正確にいえば、祈りは全てを解決するものではないのを王は理解していても、ハムレットは理解していない。「懺悔の場」は、劇ハムレットでは絶対に必要だが、他のどこの場所でも、この劇的効果はなくなってしまう。早くてもいけない。遅くても効果は薄れる。二人だけで会うのはこの場しかない。ここでしか王クローディアスと王子ハムレットは二人だけで会ってはならない。

ハムレットの志す大義回復――父王の仇討ちと王権の奪還――の機会は永遠に失われる。

      

            「その時までは俺のもの」

 Q2のハムレットでは、彼は英国に行かず海賊に囚われ、再びデンマークに帰国する。ハムレットの佯狂を見破ったクローディアスの宮廷

に戻るのは、毒蛇の巣に飛び込むに等しい。いかに王がハムレット暗殺を直ちに行えないとしても。劇中劇とそれに続くポローニアスの刺

殺によって、ハムレットの意図、佯狂は叔父王に既に知られている。ハムレットは、暗殺される為に英国へ送られたのだから、帰国は復讐が

より困難になるだけでなく、自らが殺される可能性も増大している。英国王宛のクローディアスの国書を盗み読んだハムレットは、王の殺意

を十分に承知している。であれば帰国後の彼にとって、佯狂は身の保全策にはならない。叔父の虎口を逃れる方便として、佯狂が用いられ

たのであれば、それはもう隠れ蓑としては使えない。従って、デンマークに帰ってきた彼は、狂気を投げ捨てている。ハムレット自身がレア

ティーズとの試合前に、自分は「今」は狂ってはいないと宣言している(第5幕第2場)。 肝心の復讐に関しては次の言葉があるだけで、具

体的な復讐計画ついて一切言及はない。

  ハムレット   父なる先王を殺し、母を汚し、横から手を出して王位を奪い、俺の望みを絶ったのみか、この命まで姦計をもって

           落としいれようとした男――そう言う奴を、この腕で片付けるのに、毛を吹くまでも良心がうずくものか

 ホレイショ    この事の結末は、いずれイギリスから、国王に知らせが届くでしょう

 ハムレット    間もなく届くだろう。その時までは俺のもの。人間の一生は“ひとつ”と数える暇もないのだ。           

                                野島訳

 王の殺意を知っていながら、「その時までは俺のもの」の科白は現実感を欠く。一刻一瞬すら早い復讐を行わねば毒牙が彼の命を奪う。す

でに王とレアティーズは、ハムレット暗殺のシナリオを作っているではないか。「その時」までに復讐を、というハムレットは、真に復讐を狙っ

ているのだろうか?復讐を誓う人間から出るとは思えない科白だ。彼は自分を父と妹の仇と公言するレアティ―ズと、王の殺意を知りなが

ら、王の命令で剣術試合を行う。ここにも王とレアティーズを警戒するハムレットはいない。叔父王の殺害を意図しているはずの彼は、復讐

の機会として剣術試合を考えてはいない。復讐の意図は、試合前はおろか試合中・試合後にもない。なんとナイーヴなことか!

  

 王を刺殺し復讐を果たすのは、母ガートルードが“毒酒”――王がハムレットに与えようとした—に殺されたと告げて死に、なおかつレア

ティーズが王の企みを明かしてからの偶然の出来事だ。

       「悪魔の悪戯」の物語?  

 王クローディアスの刺殺で達成された「亡霊の願う」復讐は、「ハムレット王の願う」復讐であったか?先にのべたように、愛する妻と息子の死、さらに憎いとはいえ実の弟も死ぬ。この結末に亡きハムレット王は満足しただろうか?この悲惨な結末に王が何を感じたかは、王は煉獄から「天国」へ行ってしまった(?)のかは(科白がなくて)明らかではない。ただし息子に己の復讐(私讐)を命令する「娑婆っ気」の多い亡霊は、決して天国に行けないだろう。従って我々は推定する。復讐の結果に最も失望したのは王ハムレットの亡霊ではなかったか、と。もしかしたら、彼は息子ハムレットに復讐を命じなければ良かったと、「煉獄」で後悔しているかもしれない。無意味で危険な復讐を「最愛の息子」に求めた亡霊は、本当の亡霊であったのか?ハムレットが疑ったように、悪魔であったか、という疑問が生じても不思議ではない。

  探偵小説の鉄則、「犯罪で最も利益を得る者を疑え」を、劇ハムレットに適用してみる。ハムレット家の断絶、ノルウェー王子フォ―ティンブラスがデンマーク王になる結末で、最も利益を得たのは、先王ハムレットに殺されて領地を奪われ、王位は弟に、息子は3000クラウンの年金生活者に落しこめられたノルウェーの先王フォーテンブラスだ。しかし煉獄がない以上、彼も意思を持った亡霊になれない。とするとハムレットが疑ったように、ハムレット王の亡霊は悪魔であった可能性がある。その当時、悪魔はカソリックもプロテスタントも、共に信じていた邪悪で具体的な「存在」だからだ。

   ハムレットの復讐物語は、実際には「悪魔の悪戯」の物語かもしれない。

 

 

  

 

  

 

 

 

 



コメントを投稿