老い烏

様々な事どもを、しつこく探求したい

52 翻訳された諸ハムレット

2011-09-09 18:54:15 | ハムレット

    福田ハムレット

福田訳はD.ウイルソンの稿本を基としている。したがって、実際に上演を意識した訳である。とは言えかなり長い。公演では約3時間半かかったという。福田は次のように書いている。

  「(私の)翻訳を評して舞台の上演を主眼としたもので・・・・・暗にその偏している事を諷した英文学者があり、また・・・・意訳に過ぎるかのような当てつけを書いた翻訳者がいる。いずれも誤っている。・・・・。シェイクスピア自身、舞台の上演を主眼として・・・・全ての作品を書いたのである。上演に不適当な翻訳はシェイクスピアの翻訳ではない。・・・・・直訳こそ意訳という原理の洞察がまず必要である」

 これは一面では正しい指摘だ。それを前提としたい。

 福田ハムレットで、主役を演じた芥川比呂志は、次のように述懐したという(大場建治、「シェイクスピアを見る」。岩波新書)

  あんなに速いテンポの芝居をしたことは、またそれに苦しんだことは、それまでになかったし、その後も一度もない

 それでも台本の5分の2はカットされたという。この台本の長さはほぼQ1と等しくなるが、どのようなカットがされたのは不明だ。上演には3時間10分かかったという。

 福田訳を他の訳と比較して、一番に気付くのは、科白の長さだ。原本では戯曲の長さは行数で示され、先に記したようにQ2では3800行ある。日本語の翻訳は漢字が用いられるので、行数でも字数でも戯曲の長さを測ることはできない。日本語訳では音数(かな文字数)で長さを比較してみる。

全ては不可能なので「尼寺の場」の“to be or not to be”で始まる、最も有名な独白を比較してみる。福田訳では840音、野島訳では770音で、もっとも短いのは小田島訳で700音である。上演を主眼(前提)として訳された福田訳が最も長い。

 始めから終わりまで、全ての音数を勘定して比較したのではないので、福田訳が最も長い訳とは結論できない。ただ福田訳は他訳に比して小説的・説明的だ。福田の主張にも拘らず、戯曲としてはむしろ不適当と思える。悪く言えば冗長の感すらある。 

長い科白は観客の集中力を散漫にさせ、役者の演技にも悪い影響を与える。また役者が「科白に苦しん」では、科白以外の要素による人間描写(演技)が希薄になる恐れもある。

 近年の劇の科白は、通常用いられる日本語とは思えない速さだ。役者はこのために科白をどなるように「喋る」ので、日本語を話していることにならなくなる。きんきん声で絶叫しては、日本語の美しさはどこかへ消えて無くなってしまう。科白は陰影ある生きた言葉でなく、単なる科白となる。役者は演出家の道具となり、役者が演じるのは生きた人間でなくなる。役者に求められるのは、心理・性格などを表現するトータルな演技ではなく、演出家の道具・素材としての肉体的・物理的存在に堕落してしまう。

心理を持たない人間はいないのだから、演劇が人間を描く芸術であるなら、演技はある状況に置かれた人間の心理・考えを表現しなければならない。それを観客に伝えるのが演技というものだ。であれば現代的リアリズムは必須となる。

それを否定したのが福田ではないだろうか。それまで日本の演劇の主流であった劇団民芸などの(左翼)リアリズムを軽蔑し、演劇の面白さを面白さとして主張した福田が、(くそ)リアリズムを否定する余り、リアリズムそのものを否定してしまったのではないか、と思える。

シェイクスピアはハムレットに言わせている。

Speak the part, I beg you, as I read it to you, lightly on your tongue”。

福田訳「分かったな。今の科白は教えたとおり、ごく自然の調子でさりげなく言うこと」と。「ごく自然の調子でさりげなく」は、意訳としても行き過ぎていると思える。ただ福田の科白に対する考えとすれば、それはそれでよい。

小田島訳は「いいな、台詞は、さっきおれがきかせたように、自然な口調ですらすらとやってくれ。」。これではハムレットはかなり品の無い王子となる。品の無い王子ではハムレットの美しさはどこかへ飛んでいってしまう。野島はlightly on your tongueを「舌を軽やかにそよがせて自然な調子で」。どの日本語訳も「自然」に喋れといっている。

福田が嫌う直訳で記せば、「お願いだ、僕が読んだように、舌の上に軽く科白をおいて、しゃべってくれ」となる。短くすれば「お願いだ、今読んだように、さりげなくしゃべってくれ」でよいだろう。味気無いだろうか?しかし福田はシェイクスピアの演技論に学ぶ必要があると思える。

 福田の功罪を示している原点が、福田ハムレットであると思えるのだが。

 

   小田島ハムレット

軽快感あるのは小田島訳であるが、それが十分に意味を捉えて翻訳しているかは、Q2と比較参考しても、英語の専門家でない筆者にはわからない。

さらに次の事も付け加える必要がある。

小田島は第一幕第一場の、バーナードとフランシスコとの会話を次のように訳している。

   B:  だれだ?

   F:  お前こそ誰だ?動くな、名を名のれ。

   B:  国王陛下万歳!

   F:  バーナードですね?

   B:  そうだ。

   F:  よくきてくださいました。時間どうりに。

   B:  今12時をうったところだ。休むがいい、フランシスコ。

   F:  助かります。なにしろひどい寒さで。それにどうも胸がしめつけられるようで。

   B:  異常はなかったかな?

   F:  ネズミ一匹現われませんでした。

 この会話は二人の兵士の上下関係を示している。バーナードはフランシスコの上官であるかのよう語り、フランシスコはその部下であるように丁寧語を用いている。福田も野島も三神も、そしてQ2も現代英語でも、シェイクスピアは、二人の兵士に上下関係の無い会話をさせている。何故小田島が上下関係を二人の兵士につけたのか?小田島はその理由を、どこにも記してはいない。小田島の頭の中に、兵士には上下関係がなければならない、という考えが無いかぎり、このような翻訳はできない。

 小田島ハムレットの読者と、福田ハムレットの読者では、おなじ劇ハムレットを読んでも、内容は異なったものを読んでいる可能性が大となる。 

上記は翻訳の問題点として取り上げた。誤訳/正訳の問題ではない。しかし読者は、この理由を小田島に聞く権利を有していると思う。また小田島も答える義務を負っているはずだ。

 小田島ハムレットについては別章で取り上げる。

 

 

野島ハムレット

 野島訳は福田と小田島の中間で、訳も註も丁寧である。野島が記しているように、第一に通読し、その後に註を読みながら再読することで,ハムレットへの理解が深まる,とは正しい指摘だ。彼は解説の中で、18世紀のジョンソン博士の文章を引用している。

「最初の場から最後の場まで、注釈などまったく無視して読み通すがよろしい。・・・・・・どんどん読み進んで、自分なりの科白の理解、物語への興味を大事にするがいい。・・・・そして目新しさの喜びがやんだら、その時は正確さを期して注釈を読むがいい」。

野島は、劇ハムレットは重層する科白の意味内容、文体から比類無く複雑・難解であるから、ジョンソンすら「注釈はしばしば必要である」とし、さらに「いわんや翻訳おいておいておや!」と記している。

そのとおり。逆に言えば注のないハムレットは(福田訳も小田島訳も)翻訳として不十分である。

シェイクスピアのもちいた単語には、しばしば複数の意味がある。この場合でも翻訳では一つの日本語にしか変換されない。この変換された日本語が、原語の意味を正確に伝えている保証はどこにもない。別言すれば、原語の複数の意味は、訳者によって選択され、選択された翻訳者の解釈・理解が,日本語になって読者に押し付けられる。

この意味で、註・解説は勿論、出典すら明らかにしていない小田島訳は、福田とは異なった意味で、自己解釈の劇ハムレットを読者に押し付けている。翻訳者として無責任と言わざるをえない。 

 野島で過りと思えるのは、”you” “ thou”の訳し方である。第1幕第2場の宮廷の場で、クローディアス王はレアティーズに呼びかける時、最初は”you”を用い、ついで“ thou”を用いている。脚注で「改まった言い方の”you”から、親密な呼び方“ thou”に変わっている」としている。これはD.ウイルソンの注を書いているだけで、後記のように不十分な解説である。英語の専門家として読者に不親切である。誤った理解を強制している。脚注では「D.ウイルソンはこう記している」としなければならない。

    

大場ハムレット

 訳として大場ハムレットには難が少ないと思われる。意訳は福田のように極端ではない。ただ大場が意図しているようには言葉に勢いがない。文学的ではない。読んで面白みを感じる事が少ない。他訳よりも漢字文化から離れているためと思われる。日本語の流れ、リズムには漢字の影響が極めて大だ。漢字を少なくすると表現が平板になってしまう。セリフに魅力がない。

  

どの訳が良いか 

 どの訳が良いかといえば野島訳がよい。脚注も解説も丁寧であり、劇ハムレットを理解するには必読書といえる,他訳を読んでいても一度は読んでおくべきだ。ハムレット理解が深るだろう。

ついで福田訳はあまりに福田の個性に支配され、解釈には反対だが、日本語の美しさは一番であろう。小田島訳は注も訳者の解説もなく、不親切かつ日本語が汚い、ために筆者は評価しない。

 大場訳ハムレット3900円と高すぎる。脚註は言語学的に傾いて「学問的」であっても、それが戯曲の楽しみを阻害している。また註や解説も野島訳に比して不十分である。劇ハムレットを理解する助けにはあまりならない。



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