マルテの庭
愛欲に駆られたファウストはメフィストと共にマルテの庭でグレートヒェンに会い、若い二人は逢瀬を楽しむ。別れしなに、ファウストは聞く。
ファウスト ゆっくりとお前の懐に寄りすがって
胸と胸、心と心を触れ会わせたい。
グレートヒェン 一人で眠られるんだったら、
今夜、掛け金を外すんだけど
母さんは眠りが浅いの。
見つけられたら、その場で死んじゃうわ。
ファウスト 簡単なことだ。
この小壜から3滴、母さんの飲物にお垂らし。
ぐっすりとお眠りなさるよ
グレートヒェン 貴方の為なら、私、何だってしてよ。
でも、母さんの毒にはならなの?
ファウスト 毒を勧めやしないよ。
グレートヒェン 私、貴方のお顔を見ていると、
何故だか、何でもしたくなってしまうの。
此れまでも、色々したけど、
もう、何もないような気がするわ。 (U)
グレートヒェンは、ファウストの欲望に答えるかのように、「自ら」部屋の掛け金を外す約束をする。この言葉は彼女の性衝動(愛)が言わせるもので、この恋への彼女の「積極性」を物語る。しかも、彼の与える睡眠薬が「毒」であると疑ってさえいる。それでも彼女は己の中なる「愛欲」に従ってしまう。彼女は彼ファウストの願望を「受身で」聞き入れたのではない。彼女自身の声に従って「積極的」に彼を部屋に、自らに向かえ入れた。
恋人たちと悪魔メフィストが望んでいた夜となる。おそらく二人の逢瀬は幾夜も続いたであろう。そうした夜には、グレートヒェンは、こっそりと母親の飲み物のなかに「3滴」の睡眠薬を落としたことだろう。そんな幸せなある日、彼女は「井戸のほとり」で友人のリ-プヒェンに会う。リープヒェンの言葉に自らを重ね、彼女は不安のうちにつぶやく
Und segnet’ mich und that so groß,
Und bin nun selbst der Sünde bloß!
Doch – alles was dazu mich trieb,
Gott! war so gut! ach war so lieb!
自分は高みの見物で、偉そうな顔をしてたんだわ
ところが今は、自分がその罪にさらされている。
けれども――こうなるまでの道筋は
なんて良かったんだろう、なんて嬉しかったんだろう。
ここに読者を不安に落とし入れ、更にグレートヒェンと読者を一体化させる強烈なメッセージがある。
ここで、柴田翔氏は奇妙な解釈をする。ファウストが彼女に与えた「眠り薬」はメフィストが「準備」した、と書く。母親の「毒殺責任」はファウストでなく悪魔に帰せられる。そうかもしれない。そうでないかもしれない。詩劇ファウストには毒薬を「誰が調合したか」について、何も書かれてはいない。
詩からすれば、彼の欲望がこの眠り薬を調合したと考えるべきだろう。母親を殺したのは「薬」ではなく、「逢瀬」に邪魔な母親を排除しようというファウストの愛欲だ。あるいはファウストとグレートヒェンの二人の愛欲なのだ。彼の与える薬が「毒かもしれない」と疑いながら、彼を欲するグレートヒェンの「愛」する心の高まりは、その疑いをも抑圧する。「貴方の為なら、私、何だってしてよ」と。
グレートヒェン、お前は何と自に素直な乙女であることか!だが、彼女の心は評者や翻訳者の考える「清純な」心だろうか?確かに、彼女は愛に「純真」であった。しかし、それは決して評者や翻訳者が「希望する」純真ではない。
拙稿「ハムレット論」で、オフィーリアは彼との間に性交渉を経験してはいても、「清純」であるとした。同じ意味でグレートヒェンは、母親に「眠り薬」を与え、部屋の「掛け金を外して」ファウストを己の中に迎え入れても、「清純」な乙女だ。
その夜、若い二人は「目的」を達する。彼女の悲劇は以後避けようもなく進行する。
グレートヒェンは、次の「井戸のほとり」の場面で、リースヒェンから友達バルバラの噂話を聞かされる。バルバラと同じ立場になったグレートヒェンは、「かわいそうな人」や「でも、男の人、きっとお嫁さんにするわ」とバルバラを弁護する。女友達バルバラの運命は、今や彼女にとって他人事ではない。バルバラの結婚は彼女の希望でもあった。「彼女が結婚できるのなら、きっと私も結婚できるわ(捨てられるなんてことないわ、きっと。アぁ、神様)」。だから、家への帰途の独白で「よその娘の間違い」を、かっては「勇敢」にこきおろし、人の「罪を責める」には「いくらいっても言い足りない気持ち」で、人のした事が「黒い」と思えると「いっそう黒く塗」り、高みの見物で「偉そうな」顔をしていたが、と独語し、さらに「今は自分がその罪に晒されている」と言う。 (U)
この段階での彼女の「罪」意識は何なのだろう。リースヒェン(の台詞)は、バルバラは男と性的関係を持った事実のみを言っている。結果としてのバラバルの妊娠は、リースヒェンの希望的「推察」に過ぎない(「飲み食いするのも今では二人分なんだってさ」)。グレートヒェンはバルバラと同じ「愛」の陥穽に落ち込み、世間の噂になる恐怖を「罪」と意識している。最後の二句「まあ、なんてよかったのだろう。なんて嬉しかったのだろう」は、彼女のファウストへの愛を直截に物語っている。彼女自身の愛(性愛)の満足に、この時、彼女は疑問を抱いてはいない。
ゲーテは「罪」という言葉をグレートヒェンに言わせているが、その内実は今日的・「日本的な意味」、「道徳的」、「刑法上」、「宗教上」の罪ではない。庶民階級の乙女達に世間が強制する表面的な「道徳」からの「罪」に過ぎない。花輪や藁を撒かれるなどの「いじめ」を含む、「世間的汚名」からの「罪」を問題にし、それに彼女は恐怖を感じている。
ここではグレートヒェンはファウストと性関係を持ってはいるが(バラバルと同じに)、彼から「捨てられ」てはいない。しかし、彼から「結婚の約束」を取り付けてもいない。彼女の不安はファウストが「お嫁さんにする」と言ってくれぬ事だ。彼女には確信が持てない。バルバラの結婚は彼女の希望でもある。バルバラが結婚できるなら、私も結婚できるだろう。彼女はファウストとの結婚の希望と共に、それ以上に恋人の態度に不安を持っている。リースヒェンの言うように、彼に捨てられ「世間から辱めを受けるのではないか?」という不安。しかし、その不安を押しのける現在の「性愛への歓び」!
彼女の言う「罪」を「道徳的」な罪(私通)を犯した、としては、ゲーテの考えを無視し、ファウストの読み誤りになるだろう。
星野慎一氏は「ゲーテ」(清水書院、1981)で次のように記す。彼女は「過ちを犯したが、彼女を罪に陥れたのは彼女の官能であって、その魂までがそれを肯定した訳ではない」と。彼女の官能に責任があり、魂はそれに「独立」した存在であるという。日本の独文学者は20世紀の後半になっても、官能=悪、魂=善という二項対立の単純な善悪意識から自由にはなっていない。官能は魂の一部であり、官能を離れて人間は存在しないのだ、という単純な事実を見失っている。
小塩節氏は書く。
「グレートヒェンには愛だけがある。彼女は愛を通してだけ生きる事が出きる。・・・・美しいはずの恋が、社会の枠を乗り越えようとした二人の『わがまま』の為に、壊れていったからである」
「愛だけ」の人間など存在しない。グレートヒェン(人間)は愛「だけ」では「生きてはいけない」し、「愛を通してだけ生きる」のは不可能と知るべきだった。「愛だけ」で生きようとしたから「嬰児殺し」が生じたのだ。生きる為には、嬰児殺しを避ける為には、「愛」だけでは不十分なのが人生だ。
小塩氏のいう二人の「わがまま」、「社会の枠」とは何か。「美しいはずの恋」とは「社会の枠にとどまって」いる恋、つまり性を排除した愛を言うのか?そうであれば、このゲーテ研究者の思考は、「井戸のほとり」のリースヒェンや、ズザンナを斬首した18世紀フランクフルト市の考えそのものではないか?
グレートヒェン悲劇に感動的するのは、彼女の「愛の危うさ」、愛する者なら誰でもが経験する「社会の枠」との葛藤、愛の「陥穽」を意識するからだろう。
「井戸」から「市壁の内側に沿うた小路」に場面は展開する。この場でのグレートヒェンは次のように悲しみと苦しみ、悩みを「受苦のマリア像」に祈る。
私の骨身にとおる苦しみを
他の誰が感じてくれましょう。
一人になります毎に/
私は泣いて、泣いて、泣きとおし
胸も張り裂けるようでございます
お助けくださいまし、恥と死からお救い下さいまし。
苦しみ多い聖母様
私の悩みに対し、お恵み深く
お顔をお向け下さいまし (U)
何故彼女は「一人になります毎に/私は泣いて、泣いて、泣きとおし」、「恥と死」を予感して、聖母マリアに救いを求めるのか?この直ぐ前の場で、彼女は自らの性愛を「なんてすばらしかったのだろう」と肯定していたというのに。
柴田翔氏はこのグレートヘンの苦しみ、悲しみをファウストとの恋ゆえとする。愛の不安からの叫びだとする。これまた「阿保」な解釈だ。恋の不安、愛の苦しみであれば「死」を彼女は感じる必要性はない。又、この時、ファウストは彼女を「捨て」ていない。
この段階では未だ、グレートヒェンは恋人からもらった「睡眠薬」で母親を殺してはいないし、ファウストは恋人の兄ヴァレンタインをメフィストの助力(企み)で殺してもいない。ましてや「胸の下でムクムク蠢くもの(胎児)」を感じてはいない。彼女の不安はファウストから「結婚の約束」を貰えていないこと、バルバラと同様に、愛している男から「捨てられる恐怖」しかないはずだ。彼女の「恥」と「死」の恐怖は、未だ存在していない筈だ。これが意識されるのは、次の「夜」から「寺院」の場で彼女に明らかになる。
ゲーテは語る「場」の順序を誤っている。以下の理由による。
次の「夜」での、彼女の兄、善良なヴァレンタインは、愛する妹がよそ者に弄ばれ、その為に彼の誇りであった妹が、「あるまじき道」を歩んでいるとして、兄として怒っているに過ぎない。母親の死を意味する文言は一つもない。兄の頭の中には母親の死は存在していない。ではグレートヒェンの母親は未だ生きていたのか?
母親はその「朝」に、グレートヒェンから与えられた薬で眠ったまま死んだ、と考えられる。母親の死を未だヴァレンタインは知ってはいない。妹グレートヒェンは兵舎に住む兵士の兄に、母の死を知らせていない。この段階「夜」では、自らがグレートヒェンに与えた薬で、母親を殺したとの認識はファウストにもない。だから、彼は殺人者の「罪意識」でなく、恋人を裏切る「罪意識」を持ちながら、愛欲に駆られて恋人の家の窓の下に、悪魔と共にやってくる。勿論メフィストは全てを知っている。だから、悪魔には事態は楽しくてしょうがない。
「夜」の時点で、グレートヒェンは母親の死を知っていた。この「夜」の朝には、母親は恋人から渡された薬の「たった3滴」を飲んで、「永遠の眠り」から覚めなかったからだ。彼女はどうして良いのかわからず、錯乱の内に恋人ファウストが来る「夜」をひたすら待っていただろう。
彼女は恋人から与えられた「眠り薬」が、毒薬かもしれないと疑った事がある。母親が眠りから覚めないのが、その「薬」の為だとも知っていた。ただ彼女は母親の死をどうしてよいか分からず、恋人の訪れる「夜」を待つしかなかった。
母親の死について何も知らぬファウストが、恋人の元へ行った「夜」、ファウストは彼女の兄ヴァレンタインを殺害する。ファウストとメフィストが逃げ去った後、瀕死のヴァレンタインの周りに集まる人々の中には、生きていれば当然いなければならない、彼とグレートヒェンの母親の姿はない。この時には既に母親は殺されていた。ヴァレンタイン殺害を犯したファウストは、その「夜」から彼女を訪れる事は出来ない。殺害犯としてお尋ね者になっているからだ。
彼は逃避行として、メフィストと共に、「ヴァルプルギスの夜」にブロッケン山へと出かけてしまう。グレートヒェンは完全に彼から「捨てられる」。彼女には相談すべき母親も兄も、この世の人では亡くなっていた。彼女はまったくの孤独の内にある。
グレートヒェンの母親と兄の死、これは悪魔メフィストの直接行った犯罪でなく、彼ファウストと彼女グレートヒェンが、「愛」の名の下に行った犯罪だ。だから、余計に嬰児殺しの罪による彼女の死が、悲劇的・普遍性を持つ。何故なら、こうした運命は彼女が「最初でもなければ、最後でもない」からだ。「愛」の名による、何時でも誰にでも起きうる人生の罠、陥穽だ。
「夜」の場の次の「寺院」では、「葬儀。オルガンと歌声」となっている。この合唱の歌詞はモーツアルトやヴェルディの作品で知られる「レクイエム(死者の為のミサ曲)」である。鴎外はラテン語で記している。他の訳はこの事に触れてもいない。
この葬儀は兄ヴァレンタインと母親の葬儀だ。彼女は、母と兄の死に直接・間接に自らが関係している事を知っている。だから、背後の「呵責の霊」が彼女を責め続ける。この「呵責の霊」をメフィストと考える人がいる。誤りであろう。霊は彼女の心から出たから「呵責」になる。彼女は己の犯した罪を知っている。
「呵責の霊」は囁く。
お前の胸には、何たる悪業が宿ってるのだ。
長い業苦へ、落ち込んだ母の魂に祈るのか。
お前の家の敷居には、誰の血が流されたのだ。
霊は続ける
お前の胸の下には、はやムクムクと動くものが、
将来の不安を宿した現在の姿で
お前を悩ませているではないか (U)
「将来の不安」はムクムクと彼女のお腹で動きだした胎児だ。ファウストに見捨てられ、妊娠を胎児から告げられたグレートヒェンは苦しみもがく、
心の中を往き来して、私を責め立てる、
この思いから逃れられたら
彼女は母親を誤って殺し、恋人に兄を殺され(恋人ハムレットに父を殺されたオフェリアを思い出そう)、しかも愛し頼りにしていた恋人に「捨てられ」、さらに胎児の動きを自らの内に感じていた。何という恐ろしい状態に彼女は陥っていることか!
彼女はこの時点で、最も深い悲しみと苦しみ、そして不安を味わっている。だから、「寺院」後にこそ「市壁」のシーン、聖母マリアへの祈り、悲しみの祈りとなるべきだ。
森鴎外の訳でも、Urfaustでも、「市壁」のシーンは「井戸の場」にすぐ続いている。ゲーテ自身もこの順序で良いと考えていたのだろう。しかし、聖母マリアによる救済が第二部で予定されているとしたら、ここでのグレートヒェンの悲しみ苦しみは、己の犯した罪、(親殺しの)罪は己の(性)愛にある、と自覚した後でなければならない。
私の骨身にとおる苦しみを
他の誰が感じてくれましょう。
一人になります毎に/
私は泣いて、泣いて、泣きとおし
胸も張り裂けるようでございます
お助けくださいまし、恥と死からお救い下さいまし。
苦しみ多い聖母様
私の悩みに対し、お恵み深く
お顔をお向け下さいまし
全くの孤独の内で、彼女は恐怖の中で胎内に成長するファウストとの子供を感じ、そして出産し嬰児と共に彷徨よい、終には水の中に嬰児を投じる。
「嬰児殺しのテーマ」を、ゲーテは他の小説でも取り上げている。1809年刊の「親和力」で、女主人公オッテーリエは、恋人の田舎貴族エドワルドと彼の妻シャルロッテの子供、自分の「目」を持ち、シャルレッテの恋人(の大尉)の面差しを持って生まれたオットーを、「誤って」ボートから湖水に落とし死なせている。
湖畔で密かにオッテリエと会ったエドワルドは、自分と妻の間に生まれた子供を恋人から見せられる。友人の大尉(少佐)に余りに似ている子供に、彼は妻の不貞を疑う。しかし開けられた子供の眼は、彼の恋人オッテエーリエのものだった。彼は叫ぶ。「二重の不貞で生まれた子供だ!」。
別れ際に二人は固く抱き合う。彼女は
「自分の胸を例えようもない優しさで、しっかりと彼の胸に押し当てた。希望が流星のように彼らの頭上をかすめて飛んだ。二人は互いに、自分は相手のものだと幻想して信じ、初めて決定的な、こだわりのない口づけを交わし合い、自らに強いて別れた」。
彼女は対岸の離れ家へ、近道として湖水をボートで渡ろうとする。
「彼女の心は対岸に飛び、子供を連れて水上に出る危うさへの心配は、はやる気持ちの内に消え去った。・・・胸が高鳴り、足がよろめき、気も遠くなりそうになっていることを、彼女はもはや気がつかない。」
「左腕に子供を抱え、左手に本、右手に櫂を持ったオッテリエは、船の揺れに重心を失って小舟の中に倒れた。櫂が手を離れて流れ、体を支えようとするうちに、子供と本も、体の傍をすり抜け、すべては皆一緒になって水に落ちる。・・・」
「漸く起き直って、子供を水から引き離すが、その目は閉じられ、息はなかった」
柴田訳「親和力」、講談社文芸文庫、P368以下。
子供の死は彼女の「過失致死」であったのか?父親エドワルドも母親シャルロッテも彼女を責める事は無い。また訳者は次のように書く。
「子供を受け取るのは、幸せな恋の高揚のうちに復元が決定された太古の湖である」
小説は如何様に書ける。が、解釈は如何様にも書いてならない。そもそも湖は「太古」などとゲーテはどこにも書いていない。かってに修飾語を乱用しないでほしい。
「子供の死」に罪を感じたオッテーリエは、食を絶って自死を遂げる。訳者柴田氏は「子供の死の責任を、何故、行為者である二人でなくオッテ-リエが・・・・引き受けなければならないのか?」と書く。
この芥川賞受賞歴のある文学者にして大学教授は、何を訳しているのかに全く自覚がないようだ。ゲーテは上記のように、オッテーリエの犯した罪、一種の不貞(抱き合いキスまですれば、十分にそう言える)による幼子「殺害」をちゃんと書いているではないか。その上で彼女に自死という責任(処罰)を与えている。それが分からぬままで翻訳するとは!!
グレートヒェンはファウストに見捨てられ、「恥と死」の不安と恐怖を感じていた。この時、グレートヒェンにはファウストは勿論、母親もいなかった(「市壁の場」・・・筆者解釈による)。母親は既にファウストの与えた睡眠薬で永遠の「眠り」に落ち、兄ヴァレンタインの殺人犯ファウストはお尋ね者となり、グレートヒェンには合えない状態になっていた。彼女は全くの「孤独」の中で出産する。
ファウストがメフィストと共に過している間(「ヴァルプルギスの夜」など)、彼女は子供を抱えて放浪し、ついには嬰児を池に投じ、逮捕され牢に繋がれる。裁判では「嬰児殺」犯人として、公開斬首刑の判決を受ける。処刑の前日となる。
処刑前日の「曇れる日」、野原でメフィストを呪ってファウストは言う。
悲惨な目にあって、絶望に沈んでいるのだな。
長い間、惨めな思いをして、世の中を彷徨ったあげく、
今は囚われの身になっている。あの可愛い因果な娘が、
罪人として牢獄に繋がれて、恐ろしい憂き目をみているとは。
役立たずの裏切り霊め――しかも貴様はそれを俺に隠していたのだ。
・・・・
あれの苦悩をひた隠しに隠して、頼るものも無い破滅に陥れたのだ。
メフィストは冷然として答える。
なにもあの女が初めてと言う訳でもありませんや
「幾千人の運命を、平気でせせら笑う」と非難するファウストに、悪魔は答える。
どこまでもやり遂げる力が無いのに、
何故こちとらと、縁を結ぶ気になったんです。
空は飛びたいが、目眩は怖い、というところかね。
一体、私の方から押しかけたんですか、
貴方の方から持ちかけたんですかね? (U)
全てはメフィストの掌の内にあったのだろう。しかし、メフィストが言うように、グレートヒェンの過酷な運命を最終的に選んだのはファウストであり、またグレートヒェン自身であったと言わねばならないだろう。
最後「牢屋」で、グレートヘェンを牢から、公開斬首刑から救おうと駆けつけたファウストへの彼女の言葉は悲痛である。次のようなセリフだ。
グレートヘェン 私には何の望みもないの。
逃げたってどうにもならない。待ち構えているの。
乞食をして、その上良心の呵責まで引きずって。惨めよ!
知らない土地を流離い歩く。嗚呼、なんて惨めなの。
それでも私を捕まえるのだわ。
ファウスト 私が側についているよ。
グレートヘェンはファウストを信用しない。代わりに溺死した嬰児を救ってくれと頼む。
グレートヘェン すぐに捕まえて!
浮き上がろうと、まだ、もがいているわ。
助けてよ!助けて!
・ ・・・・・・・・
貴方が私と夜を過ごしたなんて、誰にもいわないで。
・ ・・・・・・・・
ファウスト ああ、俺は生まれなけりゃ、良かったんだ。 (U)
ファウストの「生まれてこなけりゃ良かったんだ」について、山下肇は「解説」で、太宰治の「グッドバイ」の文章、「生まれてきてごめんなさい」を説明なしに引く。訳者の解説であれば、この文言は第一部「天上の序曲」を受けて、ゲーテは書いている、と記すべきだ。何故なら「序曲は」旧約のヨブ記を下敷きとしている。
ヨブは全てを奪われ、更に激しい苦痛を伴う病苦に犯され、自らの「生」を呪う(主を呪うのでなく)。「俺を産んだ胎よ、呪われろ」と。ファウストの「愛」の苦痛(「ああ、俺は生まれなけりゃ、良かったんだ」)は、ヨブの「生命」への呪いに近い。
ファウストの自らの生への呪い、グレートヒェンの愛を裏切った自らへの呪いを述べて、ファウスト第一部の完結へと向かう。
従来、ファウストの救済は、グレートヒェンの「愛」によると強調されていた。救出しようとするファウストの腕から逃れ、罪を認め、神に全てを委ねようとするグレートヘェン。ここで全ての訳者・解説者は感激し、第二部へ続く「天上」からの「救われたのだ」とのセリフの意味を強調する。確かにそうだろう。しかし最後のファウストの「自らへの呪い」、「自責の念」があって、初めて「天上」からのグレートヒェンの救いも可能となるのだろう。詩劇ファウスト第二部第一幕「爽快なる土地」で、心に深い傷を負ったファウストの「癒し」が必要になる所以でもある。グレートヘンには「救い」が、ファウストには「癒し」がゲーテにより与えられる。
「救われたのだ」はUrfaustにはない。第二部の終末を予定して1808年刊の第一部に付け加えられた。
最後の彼女のセリフ「ハインリヒ、ハインリヒ」は痛切だ。