「贖罪の女たち」
柴田氏によれは「ファウストの救済」は「仲介(贖罪)の女たち」によって為されるという。
「『御空の高み』は聖母マリアと、それを囲む贖罪の女たちを中核とする『永遠の愛』の場です。そこでは『愛』から罪を犯した女達が、聖母を囲んで恩寵を願っています。・・・・贖罪の女たちは、性的快楽のゆえに罪を犯し、それ故に自らを救うは難く、かえって、しかし真にそれ故に、聖母マリアの『永遠の愛』において許され、その罪故に、かえって聖母を囲む事を許されているのです」。 (柴田、前掲書「読む」、417P)
ファウストの愛人であった、母殺しと嬰児殺しで斬首されたグレートヒェンも「贖罪の女たち」に入っている。氏は「(女達は)性的快楽の故に罪を犯して」いながら、「それ故」に『永遠の愛』において許されると書く。何故「それ故」であるのか?根拠、理由は一切書かない。また「性的快楽の故による罪」とは、どのような罪かについても記さない。「性的快楽=罪」となるのか?つまり「性的快楽を享受する」そのものが「罪」なのか?それとも性的快楽によって二次的に罪(犯罪)を犯したのか?は氏の文からは不明のままである。恐らく氏は「性的快楽=罪」と考えているのだろう。歴史的にローマ・カソリック教会は「性」に対して、一貫して否定的な態度を取ってきた。それは新約聖書にみる使徒パウロの姿勢(ロマ書)に明らかであり、また聖アウグスティヌスの「告白」にも記されている。ただし「性」が否定されている訳ではない。パウロの「ロマ書(Ⅰ-26)」には「神は彼ら(不敬虔者)を恥ずべき情欲に引き渡されました。即ち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように男も、女の自然な用を捨てて男同士で情欲に燃え、男と男が恥ずべき事をおこなうようになり」とある。「自然の用」というのは「生殖(子を産む)」を言うのだろう。性の一面の生殖のみが「自然」であり、他方の性(愛欲=快楽。男と男も含む)は「不自然」に分類されているのだろう。ただし「性(殖)」は神が認めたものであることまでは否定しない。
4世紀のラテン神学確立者である聖アウグスティヌスは、キリスト教徒として洗礼を受ける前には厳しい禁欲を聖職者に課したマニ教徒であった。マニ教では信者は聖職者と一般信者(聴聞者)とに区別される。彼は聴聞者に留まっていた。マニ教では性に対して前者(聖職者)には厳しく、聴聞者にはある程度「寛容」であった。他方キリスト教では聖職者にも一般世俗信者の双方に対しても、マニ教よりも姿勢は「厳しかった(否定的)」という。当時、身分の低い女性と同棲していたアウグスティヌスにとって、世俗信者の性への考えがキリスト教はマニ教よりも厳しかった為にマニ教に惹かれたと言われている(山田晶著「アウグスティヌス講話」(新地書房、1986年。1987年大仏次郎賞受賞)『アウグスティヌスと女性』)。余分な事だが、アウグスティヌスがマニ教徒であった時、最も会いたかった人がいる。マニ教の聖職者のファウストスなる人物だ。彼への失望からアウグスティヌスはマニ教からキリスト教へ「回心」したと言われる。ファウストのラテン語表記はファウストスとなる。16世紀伝説の「ファウスト博士」は、異教徒ファウストスを意味してはいないだろうか?神に逆らう者として地獄へ墜ちたファウスト博士の先例は、「告白」に出るマニ教の「師」ファウストスであった可能性もある。このように考えるのも又楽しい。
彼がキリスト者へと「回心」した切っ掛けとなったのは、パウロの言葉(ロマ書13-13、14)「遊興、酩酊、淫乱、好色、争いと嫉みの生活」に対して「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲の為に心を用いてはなりません」であったという。「淫乱」は咎められているが、性そのものは非難されてはいない。その後に教会は世俗信者への禁欲は緩和したが、その分、聖職者(司祭・修道士および修道女)にはより厳しい性的禁欲を課した。マニ教の聖職者と聴聞者との区別と同じ、教会は性に対して二重構造を持つようになる。彼ら聖職者の「性愛」はキリストあるいは神への至高の「愛」の妨げになる、という理由付けからだ。1000年後のプロテスタントにおいては、ドイツの宗教革命の烽火を上げたルッターは、日本の浄土真宗の祖親鸞のごとく妻帯し多くの子供を作っている。イギリスの聖公会やカルビン派においても、聖職者は結婚し妻帯し子供ももうけている。無理な禁欲生活の強制が、カソリック司祭の同性愛や小児愛を誘発したとして、現在ローマ・カソリックへの批判の一つとなっている。カソリックにおいて、聖職者以外の世俗信者への禁欲は、夫婦においては強制されていない。つまり世俗信者に「禁欲」は強制されていない(推奨されている訳ではないが)。従って「性行為に伴う快楽」は論じられることはない。つまり「罪」とはされない。
では(カソリック信者でもない筈の)柴田氏の書く「性的快楽の故に」犯された罪とは何であるのか?氏自身が「性的愛=罪」と信じているのだろうか?では氏自身が、己は「性的愛=罪」にあると「罪の意識」に苛まれながら日常生活を送っているのか?氏のパートナーも「罪を犯した人間」だと思っているのだろうか?恐らく氏は普通の性生活を送り、それなりに「性的快楽=罪」な日常生活を送る人であろう。氏が己の「性的快楽=罪」と信じておらず、日常生活を送っておられるなら、このような旧制中学生(しかも低学年)の書くようなレベルの文言は書くべきではない。性(愛)に引きずられ、当初思ってもいなかった「(犯)罪」を犯す。これは今でも世に良くある事だろう。日常的に報道される母親による「養育放棄や幼児虐待死」などは、これに入る現象だろうし、「犯罪の影に女あり」との俗諺は、こうした性の側面を男性の視点から言ったものでもあろう。
ファウストの罪の一つはグレートヒェンを愛し、そして「捨てた」事であった。為に恋人グレートヒェンはファウストへの(性)愛により、誤まって母親殺しを犯し、ついで嬰児殺を行った。明らかにこれらの犯罪に、グレートヒェンは罪を負っている。しかし、その「罪」は彼女一人が負うべきものではない。ファウストも負わねばならない。トロイアのヘレンも女神アフロディテの為に、性愛ゆえに故国を捨ててパリスに走った、と言って良いかもしれない。性愛の持つ「二次的に犯罪を作り出す強力な力」は否定できないが、これと詩劇ファウスト「山峡」の「贖罪の女たち」は直接には関係は無い。彼女らは快楽故に「二次的な罪」を犯した訳ではないから。では「贖罪の女たち」とは、どのような女性たちであったかを見てみよう。ゲーテは丁寧に「山峡」で、彼女達の由来する「聖書物語」を明らかにしている。
「娼婦」マリア・マグダレーナ
第一の「罪深き女」は新約ルカ伝7章36行に記される、一般には娼婦マリア・マグダレ―ナとされている。彼女は娼婦であったため、己の生きる環境への悲しさから、キリストの足に涙を流し,髪の毛で彼の足を香油で拭ったとされる。ならば彼女は「性的快楽」に満足していたのではない。男たちの性対象として社会から阻害され差別され、その為に苦しんでいたと考えるべきだ。彼女は「性的快楽の故に罪を犯した」女性ではない。男の性の対象であった点では、むしろ1782年に嬰児殺しで斬首刑に処されたフランクフルトの女中グレートヒェン(マルガリータ・ブラント)に近い。彼女は性愛に「満足し罪を犯した」ファウストのグレートヒェンと異なっている。
「エジプトのマリア」
彼女は12歳から17年間、「愛」や「金銭」の為でなくて「性的快楽」に耽り、為にエルサレムの聖墓教会に入れず、聖母マリアに祈ったところ、直ちに「風にのるように」キリスト磔刑の十字架の前に行けた、という教会伝説の聖女である。彼女は己の行き方(性的快楽に囚われた)を悔い改め、砂漠でその後40年間にわたり悔悟の生活をし、聖女の称号を教会から与えられている。彼女が聖職者(修道女)ならば「性的快楽=罪」に陥ったとカソリックの教義から言えようが、聖母教会に行った時に彼女は聖職者ではなかった。であれば彼女に「贖罪」は本来求めるべきではない。東西のキリスト教会は、自己の宗教的権威の維持のために、性を否定した聖女を必要とした。この為に作られた物語が「エジプトのマリア」に過ぎない。前記したようにカソリックでは、修道女には「性的快楽=罪」という図が当て嵌められようが、世俗信者にも「性的快楽=罪」なる等式を当て嵌めるのは短絡的だ。又、彼女が聖女名を得たのは聖職者として認知されたのであって、その意味でも柴田氏のように「性的快楽の故に罪を犯し」た、などと書くべきではない。この意味でゲーテは「誤っている」と判断しても良いが、作家ゲーテはどの様に書いても良い。それは「作者の自由」の問題だ。妥当かどうかは読者が判断すればよい。「贖罪の女たち」は「絵画的なシーン」を「詩的」に表現する為に書いただけで、「性的快楽」や「贖罪」などを、単なる「材料」として「感動的=芸術的」に書いたと筆者考える。詩人はこうしたカソリック的物語を、自らの「価値観」に基づいて作ったのではない。文学の解釈と創作を混同してはならない。この意味で柴田氏の「解釈」は誤りなのだ。
「サマリアの女」
「サマリアの女」は新約ヨハネ伝(福音書)に登場する。彼女はキリストの問いに応える。「私には夫はありません」。キリストは言う。「貴女には夫が5人あったが、今貴女と一緒にいるのは、貴女の夫ではないからです」。
詩人ゲーテは、彼女が「正式」に結婚した女性でないから、「贖罪の女」に分類しているのか?そうだとしても、それは作者ゲーテの理解であって、それを正しいとするか否かは、読者の判断にまかされる。しかし何度も書くが解釈者は作者と違う。ゲーテの考えが「正しいか?」の問題提起する義務を負っているのが解釈者だ。柴田氏は、彼女が5人もの夫を過去に持ち、現在内縁関係の夫と同棲しているから「性的快楽のゆえに罪を犯した女」とする。筆者は次のように解釈する。彼女に「5人もの夫があった」事実は何を物語るのだろう。イエスの生きた紀元一世紀初頭(イエスの刑死は紀元30年頃とされる)のサマリア人の庶民女性には、「性的快楽」の為に、自らパートナーを選ぶ「権利」は無かったと考える。彼女の過去の5人の「夫」は、何らかの理由(戦争や病気での死亡、その他の理由による夫側からの「強制的」離婚など)で別れねばならない理由があったはずだ。(例えば日本でも「嫁して3年、子なきは去る」という時代が最近まであった)それは決して彼女の望んだものでも、名誉であったのではない。だから彼女は炎天下、他の女たちが水汲みに来ない時間に、イエスが休んでいた泉に人目を避けて水汲みにきて彼に会った。荒井献は「女性の場合、結婚相手は殆ど例外なく「家父長」によって決められ、当人の自由意志は、事実上認められていなかった。一旦婚約し、結婚したら、夫は「何かの理由があれば」妻を離縁できたのに、妻には事実上離縁する権利は認められていなかった(「問いかけるイエス」NHK出版、1994,306p)と書く。イエスが彼女に水を求めたのは、彼女が5人もの夫と別れざるを得ず、今も又、正式の結婚生活を営めない「苦しみ」の内にいたからだ。だからサマリア人にとって敵対的なユダヤ人ラビ(宗教的教師)のイエスが、積極的に彼女に「水」を求めた意味がある。イエスは彼女の苦しみの生活に「永遠に渇きを癒す水」を与えよう、との言葉を与える。彼女は己の苦しみを知っているイエスを、待ち望んでいたメシア(キリスト)=救済者であると直感する。彼女の歓びがここで爆発する。だから彼女はサマリア人達に、自ら積極的にイエスがキリストであると語り、ユダヤ人イエスもこうしたサマリア人の下に二日間留まる。
上記の新約聖書からの解釈からすれば、ゲーテがサマリアの女を「贖罪する女に」分類するのは、「今日の」聖書解釈からすれば正しくない。しかしそれは個々の読者の判断に任される事だ。少なくとも言えることは、「贖罪の女達」は、柴田氏の解釈する「性的快楽の罪」に陥った女とは関係がない。「罪=性的快楽」と連想するのは、はなはだ浅薄な解釈であり「文学者」として失格だ、という事実だろう。ゲーテは作者として如何様にも書ける。しかし、解釈者は作者の意図を、勝手に作り上げてはならない。ゲーテのカソリック的「罪」なるものは、創作上の「自由」の範疇に入り、これを「良」とするか「否」とするかは、読者の自由に任される。しかし解釈者に自由は無い。ゲーテが「贖罪の女たち」を、聖書から正しく選んでいるかどうかを読者に伝える義務がある。ましてや氏の如く「性的快楽による罪」などと、詩劇ファウストの何処にも書かれていない、ゲーテ自身が考えてもいない「文言」を振りかざして、ゲーテの論理(絵画芸術の言語的表現)を、無批判にズブズブに受け入れるべきではない。特に日本人には新・旧聖書物語は良く知られていないだけに、東京大学(名誉)教授であり、芥川賞受賞者でもある氏の「無責任性」が指摘される所以だ。
氏は次いで「(彼女らの)性的快楽故の過ちは、他者の欲求を優しく受け入れる点、他者を冷たく拒否しない点で、遠く『永遠の愛』に繋がっていくものだからです」と書くが、この柴田氏の「説教」を聴いたマグラダのマリアは、「優しく」この解釈を拒否するのではないか?彼女は言うかもしれない。男たちを「優しく受け入れた覚えはありません。『拒否』したくても娼婦の私には許されなかったのです」。だから、「悲しみの余り、キリストの足に涙を流し髪で拭い、香油を塗ったのです」、と。「エジプトのマリア」も言うだろう。「私は優しく男たちを受け入れました。彼らも私に優しくしてくれました。その為に私は神を忘れ、神(キリスト)は私を拒否され会うのを拒まれました。それが、その後の40年間もの間、私が砂漠で一人暮らし『贖罪』した理由です」と。「サマリアの女」はイエスに言ったかもしれない。「私の事を総て知っている貴方は、きっとキリストでしょう。ならば、私が過去にどんな思いで夫達と別れ、又新しい夫を迎えたか、そんな毎日の暮らしの中で何を思っていたのか、また今の私の思いもご存知でしょう」と。要するに氏の主張なるものは、総て出鱈目だ。氏の出鱈目さは次の文章「従って『仲介する女たち』の空間は、宇宙の生命が循環する空間です。そこでは、宇宙の生命の働きに促されて『行為』へと没入する男たちを、救済へと媒介する『仲介する女たち』の祈りも又、同じ宇宙の生命の現れです。宇宙の生命の働きが宇宙の生命の働きによって、救済へ媒介される。『仲介する女たち』の空間は、宇宙の生命の働きによる宇宙の生命の働きの容認、つまり宇宙の自己肯定空間です」で明らかになる。この文章中に「仲介する女たち(7文字)」という字句が3度、「宇宙の生命(5文字)」が7度、「働き」が5度、「空間」4度、「救済」が2度用いられる。7×3+5×7+2×4+2×7=78。驚く無かれ、たった200字に満たない文章中の78文字・句が繰り返され使用されている。約2分の一弱が同じ文字の繰り返しで作られている文章だ。まともな文章とはいえない。まともな内容でも勿論ない。
上記の文章を一度だけ読んでは、何を言っているのか理解不能だろう。筆者は熟読して次のように読み解いた。つまり簡単に40文字以内で次のように書ける。「『仲介する女たち』によって、行為へと没入する男達は『救済されるのだ』」と。さらにこの文章を「精密らしく」、あるいは「荘厳に飾り立てる」のなら、適当な名詞(宇宙、空間、生命、救済、働く、etc)、動詞(媒介する、)を、あるいは好きな形容詞や副詞を、過剰にならない程度に添えればよい。これらの語を2倍使用しても、せいぜい80字以内に収まるだろう。勿論、問題は文章ではない。氏の説教する「内容」だ。これまた何と古臭いジェンダー観だろう。彼の弟子のドイツ文学専攻の女性学徒達は、氏の講義を如何感じていただろう。(駒場教養部の女性同級生の何人かは、本郷でおそらく氏の講義を聞いたはずだ)。
先に相良守峰氏の解説を示した。氏は「聖母マリアや塵の世を離れて浄められたグレートヒェンなどの女性によって代表されるような永遠の愛を意味する。このような、女性において現れる没我的な永遠なる愛が男性を救うという思想は、ゲーテは生涯持ち続けた(太線筆者)」と書くが、彼の言の証拠をゲーテの著書の中に、訳者の責任において示すべきだろう。「女性において現れる没我的な永遠なる愛」なる概念は、「文学」上は意味を持つだろうが、当の女性たちに聴いてみるが良い。笑い出す事は必定だ。彼女らは、相良氏のような男たちに逆に訊く権利を有している。「貴方たち男には、『没我的な永遠の愛』がありますか?貴方にそれが無ければ、多分、私にも無い。貴方にあれば、私にも多分ある。同じ人間ですものね」。
筆者は上記の意味で、氏らの感激する「没我的な永遠の愛」なるものを、ゲーテは信じていなかったと考える。彼は「贖罪の女たち」を書いているが、詩人自身は40才を越えてから、17才年下の妻クリスチャーネと、十分に満たされた性生活(性的快楽)を謳歌した。柴田氏の「性的快楽故の過ち」などを、「山峡」を書いた時のゲーテは、劫も考えていなかったと思われる。また「贖罪の女たち」なるものを、ゲーテ自身は信じて書いてはいない。では何故、こうした信じてもいないテーマを最後に詩人は書いたのかと言えば、先に述べたように芸術上の立場、「絵画芸術の言語的(詩)表現」からであろう。 皮肉に考えれば、「救済」や「恩寵」、「テーマ」だ「哲学」だといった解釈を、学者達に200年に渉って論議させて、雲の上でニヤニヤ笑いながら喜んでいるのが詩人ゲーテなのかもしれない。
聖アウグスチヌスとゲーテ
先に述べた聖アウグスチヌス(A.D.354~430)とゲーテを対比してみよう。興味深い点が明らかになる。ただしゲーテはアウグスチヌスを「対話」の中では、一言も言及していない。彼はこの聖人に何を感じていたのかは一切不明だ(山田晶前掲書「アウグスティヌス講話」(新地書房、1986年、参考)。アウグスティヌス(AD354年~430年)の自伝とされる「告白」によれば、彼は紀元370年頃に北アフリカのカルタゴに遊学した(16才時)。その時、彼は「放蕩」の結果、ある身分低い女性(コンクビーナ、妾と訳されている。英語ではconcubine)と出会い同棲し、しかも18才で息子アデオダートゥスまでもうけている。女性との身分違いと母親の聖女モニカ(A.D331~387。息子アウグスティヌスとの関係から聖女となった《と考える》)との確執から、彼女との正式な結婚はせずに、女性は内縁の妻、息子は私生児として16年間(16歳から32歳まで)を共に過ごす。この間、彼は敬虔な母親のキリスト教から離れ,マニ教徒(一般信徒=聴聞者)として生活している。
彼の「放蕩」なるものについて、「告白」(服部英次郎訳、岩波文庫、第四巻二章二節)は「この年月の間に、私は一人の女性と同棲したが、所謂正式の結婚によって知り合ったものでなく、思慮を欠く向こう見ずの情熱が彼女を見出した。しかし私は、彼女一人を守り、彼女に愛情を捧げた」。「私は彼女を知って、児を産む為に結ばれる婚姻の契約と、情欲的な愛による結合との間に、何と言う相違があるかを、本当に身をもって経験した」。「愛欲で結ばれた場合、子は親の意に反して生まれるのであるが、生まれたからは愛せざるを得ない。私は彼女を知って、子を産む為に結ばれる婚姻の契約と、情欲的な愛による結合との間に何と言う相違があるかを、本当に身をもって経験した」なる表現には、彼の思いが籠められているように思う。彼は「情欲的」にであれ、真実に彼女を愛したのだ。翻訳された字句を読む限り、彼の表現「放蕩」なるものは、今日的な意味の「放蕩」には当たらない。「彼女一人を守り、彼女に愛情を捧げた」の言葉に、「内縁の妻」を心から愛していた「人として誠実」なアウグスティヌスを、むしろ感じることが出来るだろう。山田晶氏の前掲書では「私は彼女一人を守り、彼女に対して閨の真実を尽しました」と訳されている。筆者にはどちらの訳が正しいのか分らないが、「閨の真実」の翻訳の方が具体的に「性愛」に捉われたアウグスティヌスという男の本音を示しているように思う。「愛情を捧げた」では、彼の心を正確に表しているとは思えない。また彼は「性」の二面性も正しく認識している。すなわち「子を産む為に結ばれる婚姻の契約(生殖)」と「情欲的な愛による結合(性愛)」の「性」の二面だ。彼の言葉は、キリスト聖職者として、生殖のための「婚姻の契約」を「正しい」としているが、ここではむしろ聖職者になってもなお、かっての性愛を否定しきれない、女性との「愛」を否定できない「聖者」の気持ちを見ることが出来る。
社会や教会や親が認める「子を産む為に結ばれる婚姻の契約」を否定して、「情欲的な愛による結合」を優位とする彼の「若い時(マニ教徒であった)」の姿勢は、今日的な意味を失っていない。その為に著書「告白」は、今に到るまで古典として読み継がれてきたのだろう。また「愛欲で結ばれた場合、子は親の意に反して生まれるのであるが、生まれたからは愛せざるを得ない」と書いた時、既に彼は15才の一人息子を失っている(387年)。彼の「愛の結晶」への痛切な思いが、この文章には籠められている。
「告白」はA.D.397年から8年にかけて,彼が聖職者となって後に書かれた。つまり彼の「放蕩」は現在一般的に考えられる「放蕩」ではなく、キリスト教の聖職者(受洗387年。修道士となり391年司祭職)として,結婚せずに「内縁関係」を続けた事実を、「放蕩」と表現しているに過ぎない。「女性」との内縁関係は15年以上続き、彼は嘆き泣き悲しむ母親モニカをアフリカに騙して残し、カルタゴから首都ローマ(ついでミラノ)へ旅立つ。その後もイタリアで女性との「内縁関係」は継続するが、後を追いかけてきた母親モニカの「嘆願」、「圧力」に屈し、自らの「将来」を考えて、女性との内縁関係を清算する。紀元313年、皇帝コンスタンチヌスのミラノ勅令でキリスト教は公認され、新プラトン主義者であったとされる「背教者」ユリアヌス帝の死後(363年)、キリスト教は急速に勢力を拡大していった。マニ教徒に留まれば帝国内での「出世(母、聖モニカが何よりも願っていたこと)」は、聖俗いずれにおいても不可能であった。
「告白」は次のように書いている(第6巻15章)。「これまで同棲していた女は、結婚の妨げになるという理由で、私の傍から引き離された。彼女に執着していた私の心は傷付けられ血を流した。彼女はけっして他の男を知るまいと貴方(神)に誓いながら、彼女の産んだ庶子(私生児)を私の下に残してアフリカに帰った」。「告白」には、彼女の宗教については一字も書かれていなが、彼女がクリスチャンであった可能性は無い。「彼女はけっして他の男を知るまいと貴方(神)に誓いながら」とアウグスティヌスは書くが。彼女が「誓った」相手は、未だクリスチャンの洗礼を受けていない男、16年間もの時を「閨を共にした男」アウグスティヌスだったと考える。「女」は息子アデオダートゥスを(「神からの授かりもの」の意であるという)アウグスティヌスに託し一人アフリカに帰る。残された彼(当時32才。いまだ聖職者ではない)は同じ身分の10才(!!)の少女と婚約する。当時未成年との結婚は12才以後で可能となり、為に2年間は生活を共にはできなかった。この間に彼は別の女性を家に入れる。「聖者」は書く「勿論、正妻としてでは無かったが、私は結婚を望んでいたのではなく、肉欲に縛られていたのである。こうして長い習慣に守られて、私の魂の病気は持続し、その病勢は減じることなく、むしろ増しさえして妻を迎えるまで治らなかった。また、前の女との離別によって生じた私の傷も癒されずに、激しい痛みの後に化膿して、痛みはかなり和らいだ様であったが、いっそう絶望的になっていった」と。
上記「妻を迎えるまで」からすれば、新たに家に入れた「女性」と手を切り、彼は少女と結婚したようだ。ただし彼はキリスト教洗礼(387年)を受け、その後さらに修道士となった。一度結婚した夫婦に教会は「離婚」を許さない。彼はこの少女との結婚について、その後「告白」に何も記してはいない。この少女がキリスト教徒であったか否かも「告白」は記していない。妻帯したままで「聖職者」になる(391年)のは不可能だから、少女(12・3才)は彼と結婚後まもなく、おそらく彼が洗礼を受ける前に死亡したのだろう。あるいは「妻を迎えるまで」と書いているが、その前にゲーテがリリー・シェーネマンとの婚約を破棄したように、彼も婚約破棄を行ったのかもしれない。アフリカに帰った「女性」は彼の洗礼の前年(386年)に死亡したという。希望どおり息子を教会に引き戻した母親(聖女モニカ)も、次いで同じく彼と同時に洗礼を受けた息子アデオダートゥスも、同じ年(387年)に死亡し聖者の直系の肉親は全て途絶えてしまう。洗礼を受けた聖者アウグスティヌスは、第二部第三幕のファウスト―美女ヘレナと一子オイフォーリンを失った―ファウストのように地上に一人残される。ファウストは「所有と支配」を求めて神聖ローマ帝国に回帰し、アウグスティヌスはローマ・キリスト教会へと深く入ってゆく。
「告白」は「あなた=神」へのアウグスティヌスの「呼びかけ(告白)」形式を取っており、神を彼は如何考えているか?が「長々」と繰り返し語られるが、教会外の人間にとって、これらの文章は文学的「告白」として、著作として面白くはないし理解不能でもある。筆者にとって興味深いのは、紀元4世紀後半、キリスト教会が地中海世界、ローマ帝国で圧倒的に優勢な宗教となって出現した当時の世相であり、その中での若者像であり、母親(キリスト教徒)と彼(マニ教徒)との葛藤だ。また書かれた文章は短いが、彼の「内縁の妻」への愛の深さであり、一家の「長」として彼の責任感だ。
聖者アウグスティヌスの著書「告白」は、第九章まで「母の死」までを書いており、息子の死も「女」の死も12歳になっただろう少女との「結婚生活」についても書かれてはいない。ここまでが所謂「個人史」の形をとり、十章以後は彼の「神」への「語り」の形をとるので、内容は神学的および哲学的に偏し、あまり筆者には興味がない。それでも398年頃、「告白」執筆におけるアウグスティヌスの「感覚」への執着は、叙任司教アウグスティヌスを久しく苦しめていたようだ。彼はキリスト教神学に深く入りながらも、なお「凡人」としての苦悩から自由にならなかった。聖アウグスティヌスはなんと「素直な男」である事か!(Webを覗くと、聖モニカの名を冠した幼稚園がある。カソリック系の施設であろう。聖モニカ幼稚園と言うだけに親の子によせる期待が大きい幼稚園のようだ)。
ここでゲーテとの関連を述べる。ゲーテの自伝とされる「詩と真実」との差異は明らかだ。一人の人間としてどちらに共感を覚えるかと言うなら「告白」だ。しかしこれは好き嫌いがあるので、これ以上は立ち入らない。第一部のクリスチャーネ・ヴェルピウスとの関係でも述べたが、ゲーテはクリスチャーネとの内縁関係を始めたのは、39歳(1788年)であった。彼らはワイマールの社交界から絶縁した私生活を「楽しんだ」。1791年には一子アウグトを得た彼らの「内縁関係」は18年間も続いた。そしてこの時のゲーテの(性)生活は、柴田氏らが「望んだ」ようなものではなかった、とも第一部論で記した。内縁関係を長期にわたって強いられた事において、ゲーテの正式で合法的な妻クリスチャーネも、聖アウグスティヌスの「女性」も同じだが、彼女らは内縁関係という「不安定な生活」に耐えざる不安を感じていただろう。ゲーテは1806年に18年間の内縁関係を清算し、幸いにしてクリスチャーネと結婚し彼女を正妻とする。この時にゲーテは57歳、妻クリスチャーネは40歳を越えていた。他方アウグスティヌスは16歳で「女性」と内縁関係を持ち、彼女を詩聖ゲーテがクリスチャーネを愛したように愛した。ただ、彼は16年も続いた関係を「神(母親)」の希望の為に清算する。女性は愛する息子とすら別れさせられ、一人北アフリカに帰り、その地で死亡する。
ゲーテは聖アウグスティヌスについては何も語らない。しかし、この二人には大きな共通点があるように思われるし、ゲーテが何も語らないだけに、彼は聖者の気持ちを理解していたのではないかと思われる。ゲーテが聖アウグスティヌスの「告白」を読んでいないとは思われないからだ。