老い烏

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5 ズザンナ事件とグレートヒェン悲劇(「ローマ悲歌」から見るゲーテ)

2014-10-15 23:16:57 | 「ファウスト」を読む

       ズザンナ事件とグレートヒェン悲劇   

 グレートヒェン悲劇のモデルとなった事件、ズザンナ事件について記す。

 1772年一月に、ゲーテ誕生と成長の地,帝国都市フランクフルトで24才の未婚の女中が「嬰児殺し」の咎で斬首処刑された。同事件は20世紀になってE.ボイトナーにより報告され(1939年)、現在ではグレートヒェン悲劇の資料、「枠組み」をゲーテに与えたとされている。 

 同事件の裁判経過を記録した文書(刑事事件のファイル、同市「クリミナーリア」)の写しが、1939年にゲーテ家文書中に見出されている。ゲーテは「自伝」とされる「詩と真実」では次のように記している。

  「市民生活の平穏と安全を脅かすおぞましい事件にも事欠かなかった。・・・・・あるとき大罪が露見して、その調査と処罰のために町は幾週間も不安の中におかれた」

 S.ビルクナーは、この叙述はズザンナの嬰児殺しとその処刑を述べているとする。フランクフルト市で執行された斬首死刑は、これ以前ではゲーテ9歳の時であった。事件はボイトナーによって「発見」されるまで、約150年間「闇」に葬られていた。

 留学していたフランス領都市シュトラスバーグ近郊の小村、ゼ―ゼンハイムでルター派牧師の娘フリードリーケ・ブリオンを知り、「愛し」そして「捨て」、ゲーテがフランクフルトに帰郷したのは1771年の8月7日だ。この直前の1771年の8月1日、市内の小旅館「アイン・ホルン館」の24才の女中ズサンナ(ズサンナ・マルガレーテ・ブラント。つまりグレートヒェン)が嬰児を出産し、「殺し」、翌日には犯人として逮捕された。(S・ビルクナー編著「ある子殺しの女の記録」(佐藤正樹訳人文書院、1990年参照)。

 同市「クリミナリア」によれば、1770年のクリスマスの4週間ほど前、オランダ商人の名前も知らぬ下男が同旅館に6日ほど宿泊した。読書きできなかった旅館の女中ズザンナ・マルガレーテは、宿泊人の名前さえ知らなかった。ズザンナの供述によれば、薬物を入れたと思われる葡萄酒を飲まされて「すっかりのぼせてしまって、何をされても抵抗できませんでしたから、あの人は力ずくで私をベッドに引きずりあげて淫らなことをしたのです」。さらに述べる。「あの人は何も呉れませんでしたし、どんな約束もしてくれませんでした。・・・・私はあの人と何度かいたしました。あの人は私と3回寝たのです。それでも次の日に生理はありました(1771年10月8日の調書)。

        「生理の有無」は、現在でもよくある妊娠否定の「誤りの根拠」、あるいは「気休めの根拠」だ。

 確かに、ズザンナは一方的に男の欲望の発露により性関係を持た(強姦)され、その為に妊娠したのだろう。彼女から積極的に関係したのではない。身元の不明な男との性行為(寝た)は、妊娠の「危険」を伴っていたから、彼女が積極的に男に働きかけたとは考えられない。

 「妊娠に何時気づいたか」の問いに「復活祭(3-4月)大市が済んだ後、お腹に子供の命を感じました」と答えている。

 彼女が性関係を持ったのは、供述によれば「薬により抵抗できない」状態での暴行、レイプであり、嬰児殺しの原因となる「妊娠」に彼女の責任は完全にない。しかし「私と3回寝たのです」との供述は、彼女が暴行に「無抵抗」であったことを示しているかもしれない。一方的な「暴行」であれ、彼女は性的関係を意識下では望んでいたのかもしれない。柴田翔氏は「秩序からはみ出た若い女の欲望」と書く。グレートヒェンと同じように24才の健康な女性として、彼女は決して性欲から無縁ではなかった。だが、誰がそれを非難できよう。若く健康な女性であれば性的欲望を持って不思議ではない。

 「秩序からはみ出している」のはレイプする「男の欲望」だ。当時の市民社会でさえレイプは犯罪だが、「される」のは犯罪とはしていない。東大教授柴田氏は「レイプされる」被害者には「秩序からからはみ出た若い女性の欲望」があるとする。つまり氏の考えは、現在の日本にも存在する、被害者には「被害者」となる理由がある、との偏見と同じレベルだ。似たような考え「虐められる者には虐められる理由がある」との考えは、今でも広く日本社会に残存する。加害者は逃げ出せば、法が追求しないのは現在と同じだ。現在でもレイプは「親告罪」とされ、犯罪者が訴えない限り犯罪とは立件されない。柴田氏は被害者の女性の立場にはいない。

  沖縄で米兵による強姦致傷事件が起きた。被害を常に前提としなければならぬ基地の島沖縄と、20億円もの税金で尖閣を購入する政府を当然とする「本土」の世論なるもの。政府やマスゴミの論調と何と大きな溝があることか。被害者を無視し現実を見まいとする姿勢を、この国の社会は伝統的に持っている。

  他方、親告罪のために無実の「加」害者(男性)も生じ、しばしは一方的な訴えのために冤罪が捏ち上げられもする。

 ズザンナの「嬰児殺し」で疑問なのは、何故、彼女は妊娠を隠し続け、終には嬰児殺しの悲劇にまで至ったかだ。妊娠が噂されるようになり、彼女の妊娠を疑った旅館の女将の連絡で、ズザンナに会った姉のマーリア・ケーニッヒは 「後生だから、お腹に子供がいるのを正直におっしゃい。子供ができたからって別にどういうことはないのよ。こういう目に会うのはお前が初めてじゃないし、最後でもないだろうさ」と言っている。

 「こういう目に会うのはお前が初めてじゃない」。この有名な台詞は詩劇ファウストではメフィストが述べる。ズザンナ事件では姉以外にも繰り替えし用いられている。ゲーテが文学に取り入れた「普遍的」な言葉であり、今でも世界中で繰り返されている(ビルクナーは1971年にもフランクフルトでも「嬰字殺し」が生じた、と報告している)。この台詞の持つ重要性は今更言うまでもなく、佐藤正樹は姉が述べたこの言葉を、メフィストに言わせる事により、現在も繰り返し生じる同様事件への男性視線の「残酷さ」をゲーテは強調しており、そこに鋭い作者の感性があるとしている(前掲書)。同感だ。

   この9月、広島のモールで女子高生が嬰児を出産し死亡させた事件が起きている。彼女の性知識の無知によるか否かについての報道は無い。10代の男女に必要な性知識、性と妊娠、避妊と中絶について十分な知識が与えられていたとは思えない。WEBやアニメや小説などで「過剰」とも思える性情報の氾濫に対し、自らを「守る」性知識の提供は限られているのが現実だろう。為に、子殺し・育児放棄の増大が21世紀の日本になって増大している。

   この直ぐ後にも、17歳で出産した28歳の女性が11歳の娘をゴルフ道具で虐待死させた。社会的・精神的にも未熟な親をどう支えるか、と同時に「望まれない出産」の防止、安全な避妊法と中絶法が全く考慮されていない日本の現状を悲しむ。

  10年以上前、筆者は「日本医事新報」で緊急避妊法や薬物中絶法を紹介した。当時、世界では、女性の生命と健康、そして「望まれない子供」の出産防止に、上記の避妊法は広く用いられていた。その後10年間たったが、一体どのような進歩がこの国にあったというのか?適応外処方でしか可能でなかった緊急避妊法は、2011年に薬剤レボノルの正式認可で公認されたかに見えるが、現実に処方時に2から3万円の費用が掛かる。レイプなどの時以外に、不確実な「危険性」の度ごとに、2から3万円のレボノルを使える経済的余裕のある「夫婦」や恋人が、日本に果たしてどれだけいるのだろう。現実には、多くの生殖年齢にある男女から、妊娠の危険性の回避手段を奪っているだけの事だ。

  避妊に向き合わない社会は、未熟な親(父親も含めて)の子殺し、育児放棄を招くだけでなく、多くの男女(夫婦)から、妊娠と子育てを忌避するための性行為抑制を強制する。筆者の勤務する施設の30から40歳の男女職員に聞いた限り、数人の子供を有する夫婦においては、性行為を夫が求めても妻の拒否に会うことが多い、あるいは女性職員の場合、拒否する、との答えが返ってくる。妊娠のリスクと子育てや勤務からの疲労を理由に上げる。かくして、性は家庭から追放される。性交渉なき夫婦が家庭を作り上げる事態を招いている。又、それを当然とする空気が満ちている。

 ズザンナの姉の言葉「子供ができたからって別にどういうことはないのよ」が重要だ。当時でも(今と同じに)、未婚の母による私生児の誕生は多くあった。特に最も被害の多いのはズザンナのような、都市市民の中でも最下層(最低の賃金で雇用されていた)の若い勤労(典型例が女中などの接客業に従事する)女性であった。こうした女性達にはズザンナと同じ苦しみと悲劇が頻繁に生じていた。(ビルクナー前掲書および佐藤の訳注を参照のこと)

   日本の江戸時代には、旅籠(旅館)の女中は「飯盛り女」の賤称で呼ばれ、事実上の売春婦とされた。江戸(東京)の遊郭、品川・新宿・板橋・千住などの宿場では、彼女たちは「遊女」ではなく、「宿場女(女中)」であった。庶民は何を感じていたかは「品川心中」や「三人旅」などの落語が参考になる。

 ズザンナの姉の上記の言葉は、都市の下層の人々(ビルクナー前掲書によれば、当時の給与の最低は女中と兵士であった。二人のマルガレーテ、女中ズザンナもファウストの恋人グレートヒェンも兵士の娘だ)の中では、ズザンナのような娘が多くいたことを示している。彼女ら「未婚の母」は「噂」の種として、あるいは容赦ない「いじめ」や「侮辱」の対象として存在していただろう(「リープヒェンの噂話」のように)。それはファウストのグレートヒェンが恐れていたものであった。

 最も「下層」の労働者である女中ズザンナには、子供を産んでも、一人では養い育てるのは極めて困難であったろう。まして出産前の彼女は、事件直前に旅館を馘首されている。社会(共同体)などの「差別」「いじめ」「辱め」などと共に、子供(私生児)の存在は独り身の女性にとって大きな負担であった。

 彼女らを恐れさせた「差別」や「いじめ」「辱め」は、程度の差はあっても、現在でも私生児や私生児を出産した女性に対して存在する(ドイツ文学者小栗は「私生児」に「不義の子」なる言葉を用いている)。プロイセン王国では1765年に婚姻外の性関係と出産に対する刑罰(教会贖罪)を廃止した。ゲーテのワイマールでは、当時でも私生児出産そのものは刑法上の犯罪と看做されていなかったが、「教会贖罪」の対象ではあった(廃止は1785年)。「嬰児殺」として処罰の対象になるのは、妊娠を「隠して」いた場合だ。妊娠を役所に届けない出産と嬰児の死亡は、故意の有無に係らず殺人と見なされ、母親は処刑された。

 嬰児殺の定義は当時の法学者フォイアーバハ「刑法学教科書(初版1801年)」(佐藤前掲書)によれば、「嬰児殺とは、母親によって、それに先立つ妊娠隠蔽を経て、その母親の、生活能力のある婚姻外の新生児に対して為された殺人である」。つまり「妊娠隠蔽」と「婚姻外新生児(私生児)」に対して、母親だけが責任を一方的に問われるのが「嬰児殺」である。

 この定義では母親の妊娠の否認と被害者が「私生児」であること、さらに加害者が母親である事が重要であろう。父親による嬰児殺しは、殺人にはなるが嬰児殺にはならない。統計では1800年台まで発生した「新生児殺」は多く嬰児殺であり、死刑は母親に多く、殆どの場合に適応された。責任ある「父親」は否認してしまえば「逃げる」ことが出来る。(佐藤前掲書)

 当時、多くの嬰児を含む子供が栄養失調や疾病で死んでいる。嬰児殺しは罰せられが、乳幼児の死は当たり前に起きていた。例えば、ゲーテの兄弟は彼と妹を除く4人は早世している。ゲーテには妻クリスチャーネとの間に5人の子供が生まれているが、成長したのは「不肖の息子」アウグスト一人で、他の4人は3週間以内に死亡している。

 妻の血液型がRH(-)だった為、ゲーテとの血液型不適合による溶血(新生児黄疸)の可能性が指摘されている。F.ヴァイセンシュタイナー。山下丈訳「天才に尽くした女たち」(阪急コミュニケーションズ、2004)

  閑話休題   歌曲王シューベルトの代表的な歌曲「魔王」(1815年作曲)は、1782年に民話からゲーテが作った詩だ。後に80歳近くのゲーテはこの曲を聞いて、最初とは異なった感を持ったと感想を述べている。常に冷静であったゲーテは、魔王に命を奪われる息子を抱きかかえ、一刻も早く医者の下へと馬を駆る父親の声を、自らの耳で聴いた時、何を感じたろう。祖父テクストルは予見能力を持っていたと著書「詩と真実」の中で、彼は誇らかに述べている。息子を失う親と魔王を恐れる子供、子供に囁く魔王。このドラマに詩人は己の「驚くべき」予見性を感じたろうか?

  元に戻ってファウストのグレートヒェン悲劇とフランクフルトのズザンナ事件を比較し、詩劇ファウストに与えた意味を考えてみる。両者に共通しているのは、一般庶民(ズザンナは最下層市民と言ってよい)の若い娘(ズザンナ24歳とグレートヒェン16~18歳?年齢の同定は不能。10代の娘であるのは確かだ)の、孤独な「私生児」出産と「嬰児殺し」、そして斬首による公開死刑だ。この類似は、いわば絵画では額縁にあたる。両悲劇の内容(絵そのもの)は異なっている。では、ズザンナ(悲劇)とグレートヒェン悲劇の最も大きな差異は何か?

 グレートヒェンはファウストを愛していた。ファウストも彼女を愛していた。しかし結果的にファウストは彼女を「捨て」、己の子供の死と愛する女の斬首による処刑死を齎した。ズザンナは名前も知らない男から「一方的」にレイプされ、愛もないままに妊娠・出産し、嬰児殺しの罪名で処刑された。すなわち両悲劇の最大の差異は、性において「愛の有無」だと言ってよいだろう。

 同じ「嬰児殺し」であっても、愛の存在しないズザンナ事件は「グレートヒェン悲劇」の資料と枠組み、詩人の想像力を掻き立てたとしても、その悲劇の内実を与えるものではなかった。それは丁度、疾風怒濤時代の名作、「若きヴぇルテル」で、ヴェルテルの「内実」はゲーテであっても、最後の「自殺」という結論を作ったのは、ヴェツラウでの知人イエルザレムの自殺を聞いてのことだ。

 ファウストにはグレートヘンを「捨てた」意識は希薄だ。彼は「夜」でグレートヒェンの兄ヴァレンタインの殺害後、彼女の下へ戻る事はできなかった。何故なら、彼は「人殺し」の犯人として、町には戻れなかったから(町に戻り処刑を待つグレートヒェンを救おうとするファウストに悪魔は言っている。彼は「お尋ね者」になっているから、町に戻るのは危険だ、と)。従って、彼がグレートヒェンに逢う事は無かった。勿論、グレートヒェンに兄殺害の事情を話して、彼女と共に「別の人生」を選択するのは可能だ。しかし、既に彼の「小世界」での体験は終わっていた。ファウストには次への旅立ち(第二部)の準備が必要だ。

 結果として、「夜」のその後、彼の子を妊娠し、なおかつ「母親殺し」の「罪の意識」に苦しむグレートヒェンを「見捨て」、ファウストはブロッケン山に出かけたり、その他の地で「何らかの経験」をメフィストと共にしていた。 彼がグレートヒェンの運命を知るのは、彼女が「嬰児殺し」で斬首される前日こととなる。ブロッケン山で斬首されるグレートヒェンの幻を見るが、この後も、彼の意識には彼女は存在していない。彼がいか様に悪魔メフィストを罵ろうと、メフィストの言の如く、全てはファウストの責任で生じた事だ。

 

         グレートヒェンの愛

 第一部の最後「牢屋」の場でのグレートヒェンの刑死の「受容」が、「ファウストの救済」を齎すとされる。グレートヒェンはファウストの牢外脱出を拒否し、「主」に運命を任せると心に決めている。メフィストは「女は裁かれた」と言うが、上方から「救われたのだ」との声がする。彼女はファウストに「従わない」ことにより、天上からは「救われる」。

  Urfaustでは「天上からの声」は無い。グレートヒェンは嬰児殺し(と母親殺し)で斬首されるだけだ。「天上の序曲」も未だ存 在していないから当然だ。「天上の序曲」があるから「天の声」があり、ファウストの「救済」が可能になる。

 牢内から発せられる「ハインリヒ、ハインリッヒ」の叫び声は、彼女の苦しみを物語って悲痛極まりない。刑死を覚悟して「神」に従うグレートヒェンの決意と斬首刑の「受苦」は、第二部最後の「山峡」で、ファウストの救済につながる、とされ、この前「市壁」の場でグレートヒェンの「受苦のマリアへの祈り」は、翻訳された詩としても美しく感動的だ。訳者達の感動が読者の胸を打つ。この「祈り」は「牢屋」を経て、「山峡」の場で、彼女の聖母マリアへの「取成しの伏線」ともなる。

 ファウストが、グレートヒェンの聖母マリアへの哀願、「取成し」によって救済されるとすれば、グレートヒェンの「愛」が重要となるだろう。己を見捨てた恋人を聖母マリアへ取り成すには、現世での彼女の愛が問われる。彼女のファウストへのこの上ない「聖なる」愛が、聖母による救済に繋がる、とされるからだ。彼女のファウストへの愛は、聖母によって嘉される「聖的な愛」だ。

    「恩寵」が「全てに遍く」存在するから「救済される」との考えもある。恩寵を「全てに遍く」と理解すれば、宗教的には無宗教を容認することになる。あるいは無神論に等しくなるだろう。ゲーテは無神論との非難を避けようと努力した。だからグレートヒェンのファウスト「愛」と、執成しの「聖母」が発想される。

 従来、聖母への「取り成し」を可能とする彼女の愛は、「聖なる愛」とされてきた。彼女の「愛」は人を救済する「聖なる」愛だったのか?だとしたら何故?

 小栗浩氏は次のように書く。

 「町娘グレートヒェンは彼の子を生むが,不義の子を殺して獄につながれる。ファウストは彼女を救おうと牢に来るが、彼女はファウストの促しに従わない。彼女は神の裁きに身を任せる。身は破滅したが、彼女の心はあくまで純潔であった」。しかし「あくまで純潔な心」とは何を意味するのか?対極とする「不純な心」とは何か?まさかグレートヒェンが金銭や地位を求めたという訳ではあるまい。氏のいう「不純な心」とは、単純に官能(性欲、性愛)に支配された心を言うのだろう。では、官能(肉欲・性欲)に従った心は「不純」で、官能から無縁な「愛」を純潔と呼ぶのか?であれば、あまりに単純で無意味な「純潔な愛」の定義といえる。

 氏はグレートヒェンの生んだ子供が「不義の子」だったと書く。「不義」とは、一般的には「道徳的正当性」に反する事を言う。従って「不義の子」とは、結婚している男女の、婚姻外異性との関係で生じた、別言すれば所謂「不貞・不倫」を因として生まれた子供を、現在では意味する。とすれば、グレートヒェンの殺した嬰児は「不義の子」ではない。また「私生児」とは現在では死語であるが、ここでは単純に父親が法的に確認されていない子を「私生児」と規定する。であれば、この可哀想な子を「私生児」にしたのは、グレートヒェンではなく、彼女の恋人ファウストだ。結婚を望むグレートヒェンを捨てた為に、彼女は孤独の中で「私生児」を生み、さらに嬰児殺しを犯した。「不義」と「私生児」は全く関係はない。小栗氏は基本的な言葉の使い方を間違っている。

 言葉の使い方の良否は問わないとしよう。筆者が問いたいのは、「不義の子」なる言葉を用いる氏の価値観だ。氏の周囲には、事情によって片親で成長した人々(「私生児」)がいるだろう。現にシングル・マザーとして生きている女性がいるだろう。そうした人々を、小栗が「不義の子」、あるいは「不義の関係」にある人間と考えているかが問題だ。「不義の子」あるいは「私生児」なる概念で、子供(母親)達を括ろうとするなら、その思考法を問題としたいし、氏の価値観に疑問を抱く。氏の考えは、18世紀後半の帝国都市フランクフルト市の表層的な道徳観念そのもの、あるいは「姦通罪」を残した明治刑法そのものだ。このような「不義の子」「私生児」なる意識・価値観が、強姦されて妊娠し嬰児殺しにいたった歴史の中の女中スザンナの斬首や、詩劇ファウストのグレートヒェンの処刑を齎したのではないか?

 星野慎一氏は書く。「グレートヒェンは過ちを犯したが、彼女を罪に陥れたのは彼女の官能であって、そのまでがそれを肯定したのではない」と。彼女は確かに「過ち」を犯した。それはファウストという男を愛した「過ち」で、それ以外の責任は、彼女を「捨てた」恋人ファウストと共に負うべきものだ。星野氏は、グレートヒェンの罪は、彼女の官能(欲望)であって、そのではない、という。官能と独立した魂とは何ぞや?人間の魂と官能(性愛への欲望)は切り離せない。「高貴な魂」と切り離された「卑俗な官能」という人間理解は、単純で表層的、お粗末な二元論的な人間理解だ。

 男と女の官能(性欲)は、魂から切り離せない。人は、己の中にある官能・欲望があって人間として存在する。官能(性欲)があって始めて、他の異性(同性の場合もあるが)を愛する事ができる。官能(性愛)を捨てきった愛などは存在しようがない。ファウストだけでなく、グレートヒェンも彼に逢った時から、官能としての愛に囚われたから文学ファウストが成立する。二人の人間としての苦悩が始まる。

 多くのファウスト学者やゲーテ信者の有難がる「全人的自我」とは、性欲を当然含んでいる筈だ。

 ゲーテは「詩と真実」(第三部、岩波文庫、P215)で、「(愛を)感覚的なものと道徳的なものと分離する事は、入り組んだ文化世界において、つまり愛の感情と欲望とを分ければ誇張を産み、決して良きものを齎しはしない」と書いており、さらに15年後の1828年の3月、78歳のゲーテはエッカーマンに「健康な官能や官能的なものに対する歓びなど、彼らには微塵も無く、あらゆる青春の感情や、あらゆる青春の快楽は、すっかりなくなっていて、それは取り返しがつかぬものだよ。20歳にして若さが無いのだから、40歳で若返られる筈がないだろう」と語っている。

         

              「ローマ悲歌」から見るゲーテ

 イタリア紀行後の「ローマ悲歌」(1788年秋より執筆)を始めとする様々な詩の中で、ゲーテは他の誰よりも高らかに「性愛への賛歌」を謳い上げている。「ローマ悲歌」の第5歌は次になる。一部をドイツ語で示す。(V歌)

       Aber die Nächte hindurch hält Amor michanders beschäftigt;
       Werd ich auch halb nur gelehrt, bin ich doch doppelt beglückt.
       Und belehr ich mich nicht, indem ich des lieblichen Busens
       Formen spähe, die Hand leite die Hüften hinab?
       Dann versteh ich den Marmor erst recht: ich denk und vergleiche,
       Sehe mit fühlendem Aug, fühle mit sehender Hand.
       Raubt die Liebste denn gleich mir einige Stunden des Tages,
       Gibt sie Stunden der Nacht mir zur Entschädigung hin.
       Wird doch nicht immer geküßt, es wird vernünftig gesprochen,
       Überfällt sie der Schlaf, lieg ich und denke mir viel.
       Oftmals hab ich auch schon in ihren Armen gedichtet
       Und des Hexameters Maß leise mit fingernder Hand
       Ihr auf den Rücken gezählt. Sie atmet in lieblichem Schlummer,
       Und es durchglühet ihr Hauch mir bis ins Tiefste die Brust.
       Amor schüret die Lamp' indes und gedenket der Zeiten, 

  さらにその一部を翻訳を示す。

       アモルの神は 夜々私を別の世界に引き止める

       学ぶものは半分になり、幸せは倍になる。

       私の目は愛らしい胸の形を探求し、

       手は腰を探って下へと辿つ時も、多くを学ぶは私でないか?

       初めて、目で触り、手で見るすべてが我がものとなる、

       比べ考え 考え比べ 大理石像の理解ができる。

       恋人は昼には2,3の時間を私から奪うが

       夜には豊かに贈ってくれて、それを償う。

    

       恋人の背中に指先をそっと触れ、その背骨の凹凸で

       韻律の強弱を数えると 彼女は可愛い眠りの中で深く息づく。

 イタリアで彼ゲーテ(39歳)はファウティ-ナと考えられる女性に会い、ローマで1788年の冬、性の歓楽の日々を送ったとされる(ロベルト・ザッペリ「ローマの痕跡」星野綾子訳,鳥影社。2010年)。「ファウティ-ナという恋人のもとで体験したのは、単なる情事やエピソードではない。彼は初めて40歳の男性として、性的に全く自由に・・・・十全の恋愛体験をもった」、と(ザッペリ「ローマの恋人」)は書く。

 ゲーテは「エロチカ・ロマーナ(ローマ悲歌)」をどう考えていたか。詩集は1791年にはスキャンダルを恐れる友人のヘルダー(Johann Gottfried von Herder)に公開を反対され、1794年には詩人のシラー(Johann Christoph Friedrich von Schiller)に読み聞かせるも、シラーは「確かに際物であまり上品ではないが、これまでの作品で最上の部類に入るものだ」との感想から、「優れた文学的価値があると確信し、公開する決意を固めていた」という。ゲーテも内容のエロチィックさが引き起こすスキャンダルを恐れ、検閲か修正かを必要とするとした。ゲーテは二歌を削除し、シラーと共同出版者であった雑誌「ホレーン」には1795年に掲載された。(ザッペリ前掲書.引用原文は記載なし)

 1824年2月25日に、エッカーマンは「対話」(上、P111)で、「(ゲーテは)極めて注目すべき二編の詩(上記二歌と思われる)を見せてくれた。二つとも傾向としては、高度な普遍性を持っているが、それぞれのモティーフは、無遠慮なほど自然で、真実味にあふれていたから、世間は普通、不道徳と呼ぶだろう」と書いている。

 ゲーテは言う。「もしも、精神と最も高い教養が、人々の共通の財産になるようになれば、・・・何も恐れる必要はなくなるだろう。だが今は、何時もある水準に身を置いていなければならない。・・・(詩人は)作品が雑駁な世の善良な人たちの怒りをかわないように、注意するのはもっともな事だ」。結局、全「ローマ悲歌」は100年の時を経て1914年に公刊された。「ローマ悲歌」をゲーテの人生から削除しようという学者は多い。

 「ローマの恋人」以上にゲーテにとって大きな人生の「転機」は、イタリアから帰国した同じ年の1788年、造花工場の女工クリスチャーネ・ヴェルピウスとの出会いだ。出会い直後(1788年7月12日)に、彼はクリスチャーネを愛人とし家に入れ、翌年には長男アウグストが生まれる(1789年12月)。内妻としていた18年後の1806年に、やっと彼女を正式に妻とする。ゲーテ夫人は法的には公認されたが、ワイマールの社交界は彼女を排斥し続けた。(トーマス・マンは小説「ワイマールのロッテ」(1939年)で、彼女は「マドゥゼル(お嬢さん)」と呼ばれてる、としている。マドモワゼル(Mademoisell)の意味だ。けっしてMadame(夫人)とは呼ばれなかった)。

 「ローマ悲歌」は1788年秋より執筆されたが、当時、彼の直接のアモール(エロス)の対象はクリスチャーネだった。「悲歌」はローマのファウスチーヌとクリスチャーネが詩作の基礎となっていると考えてよい。F・ヴァイセンシュタイナー(「天才たちに尽くした女たち」山下丈訳、阪急コミュニケーションズ、2003年)は書く。「1788年7月12日、(ゲーテ)はその日のうちに彼女を自分の恋人にした。後に二人は愛の結び付きの日として7月12日を祝った。ゲーテはローマ悲歌の中で、

        恋人よ、汝がそのように早く降伏したことを悔いないでおくれ。

        私を信頼して欲しい。私は汝を大胆とはみなしていないのだ!

        私はただ敬意だけを感じている

と書いている(P.57)

 当時「非婚の同衾は、ワイマールではふしだらな行為として、法律上禁じられており、罰金と禁固刑で厳しく罰せられた。妊娠女性は『教会役場で子供の受洗者名簿に登録』され、妊娠させた男性の名前を登録するよう刑罰の威嚇つきで要求された」。但し「厳格な道徳律は、上流階級には適用されず、上流階級以外の高位にない者、貴族でない者、貧しい者たち」にのみ適応された。枢密顧問官ゲーテ閣下には他の道があった。「哀れな娘」に住居を借りてやり、好きな時に訪れる事ができたし、お金で解決する方もあった。世間は許しただろう。が、彼は未婚の父親としての責任を引き受けた」。(同67p)

 トーマス・マンは、芸術家としてゲーテの衣鉢を継ぐ人物と看做されるが、クリスチャーネについて「非常に美しかったが、根本的に無教育」と書いている。ゲーテもどこかで言っているそうだ。

  そもそも人は信じるだろうか?この人が、既に20年間も私と一緒に暮らしてきた事を?けれども、私は彼女をまったく気に入っており、彼女は自分の本質のどれも諦めようとせず、かっての彼女のままであり続けている。

 次のような詩がある(という)。

        純真なるアモールが

        我らに授けし歓びよ

        ベッドは揺れる、

        愛らしく軋む音をたて

 40歳のゲーテと23歳の女性との性生活がどの様なものだったかは、現存する請求書の文章から容易に推定されるだろう。(F.V.シュタイナー前掲書2003.p61)。それには「ベッドの蝶番6組が壊れたので釘で取り付けなおす・・・・一組新しい蝶番を取り付け・・・・更に新しい蝶番を一組。取替え用に付けておく、と記してあった 彼は彼女との間に5人の子供を作る。ただし長男のアウグストを除いた子供は、出産直後に全て死亡している。高橋義孝氏の「ファウスト集註」(郁文堂、1979年)では、第五幕の発想は1800年前後であるとゲーテは語り、“aus der bestem Zeit”の文字がある。ある研究者は1797年から1800年頃という。ゲーテにとって当時は「何事」であれ「良き時」だった。多くの子供たちが生まれるや、直ぐに死んでしまう悲劇に見舞われてはいても。

  ゲーテの芸術から性愛を取り除くことは出来ない。ファウスチーヌもクリスチャーネも、ゲーテの人生から取り除くのは、ワイマール宮廷の「恋人」シュタイン夫人を彼の人生から否定するようなものだ。しかし日本の多くの翻訳者・解説者はこれ(ゲーテの官能性)を容認しない。柴田翔氏がそのよい例であろう(柴田翔「詩に映えるゲーテの生涯」(丸善、1996年、P113)。氏はローマの「恋人」ファウスチーヌについて次の様に書く。

 「ローマ娘との恋いの営みを古代の神々の視線の中で歌う『悲歌』は、一瞬の内に失われる他ない官能の歓び、つまり、人間の純粋な自然性の歓びを・・・・・極めて人工的かつ意識的な試みだったのだから」

 ファウスチーヌは「人工的で意識的な試み」となり、存在すら否定され、詩の全ては偉大な作家へミューズ(詩の女神)からの贈り物になる。したがって生きた「性」を彼と共有する恋人はいなくなり、彼女と等しく性を「歓ぶ」詩人は、頭と口と手だけの貧相な代物と化す。

   「ファウスチーヌ」は古代ローマ皇帝の多情な后の名をとったという(ザッペリ「知られざるゲーテ――ローマでの謎の生活」法政大学出版会、2001)。ゲーテは「ローマのファウスチーヌ」には金銭で「解決」し、ワイマールに帰国した、と書く。

 「ファウスチーヌ」が否定されれば、ファウスチーヌの「代替物」と柴田氏が呼ぶクリスチャーネは 「(彼女は)詩神が送る無垢な少女でなく、・・・・・ローマのファウスティ-ネの代替物であった。・・・・それはゲーテにとって誤算だった。」と激しい攻撃の的、否定的存在となる。柴田氏によれば 「精神の高貴さの基本は普遍性への指向である。ゲーテがイタリアで夢見たものも、存在の基本原理としての自然性=官能性だった。だが彼が愛着しているのは、擬似的家庭生活の心地よさの中での無原則,無原理に盗み取られた官能性、つまり生の安逸に他ならない」からだそうだ。

 日本のゲーテ学者はゲーテから官能性(性愛)を排除したいのだ。彼の愛する女性は「詩神が送る無垢の少女」でなければならない(この芥川賞「作家」は未熟な女性への愛、少女性愛の危険性にある!)。官能性を否定された「少女(女性ではない)」が女性の「普遍性」とされる。若き時には作家でもあった大学教授の青春と、その後の家庭生活はどのような代物なのだろう。己は官能性など微塵もない「普遍的」男性だと思っているのだろうか?そんな作家・教授が存在するとは!!

 氏の教室の先輩、山下教授は「ゲーテが愛して止まないのは、ワイマールの宮廷生活で彼をとりまく貴婦人や女官でなく・・・グレートヘェンなのであり、・・・内妻のまま家に迎えた妻クリスチャーネであった」   (山下「ゲーテ全集、第3巻。ファウスト」解説)と書く。必ずしも同感しないが、柴田氏よりも生きた「言葉」であり、ゲーテという詩人にそった解釈だ。ただし、氏は女中ズザンナ事件には言及するが、何故か「ゼーゼンハイム物語」のフリードリーケは完全に無視する。

 ゲーテは結婚を18年間しなかった。ワイマールの社交界から距離をおいて、十分にクリスチャーネとの性愛を満喫したのだ、としてよい。この事実こそゲーテの真実であり、彼の普遍性でもあろう。その後の(老)ゲーテがクリスチャーネとの愛の「交歓」の過去を、別に考えたとしても。

 その例が1809年、クリスチャーネを妻とした後、1809年に公刊された「親和力」と考える。彼は性愛の危険性(否定的側面)として「親和力」を書く。「ある夜の出来事」までの筋は次の如くだ。

 幼少時に相愛であった男女(田舎貴族)が、諸種の事情から別の異性と結婚した。彼らは共に連れ合いを亡くし独り身になる。二人は晴れて再婚するが、やがて夫は妻の姪、若いオッテーリエを恋人とし、妻は夫の友人(大尉)に強く惹かれる。夫婦はそれぞれの恋人を心に描きながら、ある夜、妻の寝室で夫婦としてベッドを共にする。

「性愛の作家」ゲーテは書いている。「彼女が自分から夫を誘うことは決してなかった。いや夫の求めにも進んで応じるとは言い難かった。・・・・・いつも、許された事に対してすら、心の内に深い羞恥を感じないではいられない、・・。(夫)エドワルドは本当に優しく、細やかで執拗であった」。二人は「心の赴くままに蝋燭の灯りを吹き消してしまった。・・・・魅惑と陶酔に心を誘いつつ、一夜の幻を織り上げたのであった。・・・彼らは夜の数時間をさまざまに話し、戯れながら過ごした。翌朝、妻の胸元で目を覚ました(彼は)妻の傍からそっと抜け出した」                                  柴田翔訳「親和力」

 トーマス・マンは「親和力」について、ゲーテの友人ヘルダー(Johann Gottfried von Herder,1744-1803 年)の妻が、「何だか淫らなような事が、あの方ご自身のお好きな言葉で言えば、愛嬌のあることが・・・そこにもここにも書いてさえなければ良いのですが」と書いているそうだ。マンは説明する。

 「『淫ら』という言葉は、ゲーテの作品の本質に対する上品ぶった、感情的な言い草なのですが、ゲーテの作品の優しく、肉感的な存在の現実性」を語っている」(トーマス・マン「ゲーテとトルストイ」(岩波文庫、P74。1992)

 老ゲーテは、秘書リーマーに、性交について次のように語ったという(フリーデンタール前掲書。下、p170)。

 「性交というものは美を破壊する。そして、この瞬間に至る前まで以上に美しいものはない。古代ギリシャの芸術においてのみ、そうした永遠の青春は・・・・永遠の青春とは、まだ男を知らぬ、あるいは女を知らぬ事以外の何ものであろうか」

 これは十分に性を知った、従って「美を破壊した」経験のある「老いた」人間でなければ言えないことだ。愛に普遍性なるものがあるとすれば、それは性愛を「通過」してのみ実感できるものであろう。その前の未熟な「少女」への愛は、柴田氏のような「人生に未熟」な作家が、詩神からの贈り物と書くだけの代物、あるいは単純に「嘘」だ。

 グレートヒェンの愛欲は否定できないし、否定してはならない。ゲーテは彼女の(性)愛を否定していない。「牢屋」の最後で、メフィストが「女は裁かれた」としたとき、天上から「救われたのだ」の声がする。彼女の愛のありよう(官能)を肯定しなければ、「悪行を重ねた」ファウストの救済もありえない。彼女が性愛をもってファウストを愛したのを「肯定」しているのがゲーテと考える。

詩劇ファウストを理解するには、所謂官能に「汚染」されたグレートヒェンの「愛」をそのまま肯定するしかない。

 グレートヒェン悲劇の「型枠」を提供した18世紀末フランクフルト市のグレートヒェン(ズザンナ)は、オランダ人旅行者の従者の暴行によって妊娠した。「嬰児殺し」の咎で斬首された女中スザンナは、自らの官能に従った訳でなく、今日からすれば男の欲望による性犯罪被害者に過ぎない。

 ゲーテ生誕250年を祝う1999年に、フランクフルト市で行われた同事件の「模擬裁判」で、女中スザンナは過失致死で執行猶予となった。ただし、男の性犯罪を、被害者である彼女が己への犯罪(被害者)と意識したかは別の事だ。彼女は「3度もされた」と調書で供述している。彼女は暴行を「享受」したのかもしれない。それでも彼女は性「被害者」であり、しかも「贖罪」したが、フランクフルト市の古い刑法に従って公開斬首された。

 他方、ファウストの愛人グレートヒェンは、自らファウストへの愛(愛欲、官能)に従って関係を持ち、あるいは「積極的」に恋人を受け入れ、当然の結果として妊娠をした。彼女は妊娠を望んでいたか?詩劇ファウストの中には何も記されてはいない。彼女はファウストに「捨てられ」、孤独の中で出産し、そして絶望の中で嬰児殺しを行った。

   妊娠が女性にとって結婚を可能にする一つの手段であったのは、古今東西を問わず言える(ジャック・ソレ「性愛の歴史」人文書院、1985)。現在の日本には「出来ちゃった婚」という言葉が市民権を得ている。ゲーテの場合、これは彼と少女フリードリーケの関係について言える可能性がある(後述)。18年間結婚しなかった「妻」クリスチャーネは、もし息子アウグストが生まれなかったら、「グレートヘェンの道」(処刑)ではないものの、「ローマのファウスチーヌ」の人生(金で解決)を送った可能性がある。

 ファウストの「救済」は一部・二部を通してファウストの「大前提」だ。この「大前提」の「中前提」として、グレートヒェンの救済(牢屋での天上からの声「救われたのだ」)が先行する。又その「小前提」として、彼女の真剣なファウストへの「愛」がある。救済を主(神)に仲立ちする存在、「受苦のマリア」への彼女の「祈り」が重要な理由だ。「マリアへの祈り」は彼女の三つの苦しみに関わる。第一は、ファウストに「見捨てられ」ながら、新しい命を自らの内に感じる事。第二は母親に「毒薬」を与え死亡させたこと(過失致死傷害)、第三には、己の為に兄が恋人のファウストに殺されたこと。

 彼女は独りになればただ泣くしかない。ただ「受苦の聖母マリア」に祈るしかない。マリアへの祈りの場は「葬儀の場」の次に来るべき理由だ。だから「牢獄」でファウストと決別したグレートヒェンは、第二部(ということは劇詩ファウスト)最後の場「山峡」で、聖母マリアに彼女を捨てた恋人の「救済」を願う事が出来る。