徒然なるままに、異議申し立て

文学・政治・思想・哲学など、心に引っかかる事柄について思ったまま、感じたままを綴る

民主主義の危機(11)――「驕り」なのか、それとも「緩み」なのか?(その4)

2017-07-04 10:45:20 | 日記
安倍首相の言葉が「空疎」で信用できないということは、これまでにも何度もこの欄で指摘してきたことだが(旧ブログである「黒古一夫ブログ」を見てください)、この度の都議選における自民党の「大惨敗」に対する総括においても、「これは自民党に対する叱咤であり、大いに反省している」とは言っても、「責任は自分にある」とは絶対に言わないその態度が如実に物語っている。
 「責任は自分にある」と言ったら、直ちに「責任を取らされる」ということに対する恐怖から、本当は「反省などしていない」にも関わらず「大いに反省している」という空疎な(嘘っぱちな)言葉でごまかそうとする、まさに姑息としか言いようのない安倍首相の態度、こんな態度をとっていたら、これまでは何とか「ごまかす」ことができ、支持率もいつの間にか回復するといいこともあったが、今回ばかりは森友学園問題に加計学園問題、それに稲田防衛相の「失言」(彼女自身は、「失言」と思っていないようで、本当にあるイデオロギー(日本会議系の戦前回帰思想)に洗脳されたら、だれもが「バカになる」典型を演じているように、ぼくには思える)、さらに追い打ちをかけるような、これも安倍首相の側近(ゴマすり政治屋)と言われている下村博文前文科相の「加計学園からの闇献金疑惑」、すべて安倍首相がらみのこれらの「疑惑」「政治の私物化」「闇」がもたらした「政治の腐敗」、もうこれ以上は国民を「だます」ことはできないのではないか。
 もう安倍「ファシズム」自公政権も、はた目には「風前の灯火」のように見えるが、それでも各種の世論調査で、今でもそんな安倍「ファシズム」自公政権に「40パーセント」近い支持(不支持は「50パーセントを超える)を与えている日本人(日本国民)とはどういう人間なのか、ぼくにはよくわからない。今書いている『原発文学史・論』(仮題)の1章で今年の2月に亡くなった津島祐子の作品(『ヤマネコ・ドーム』と『ジャッカ・ドフニ――海の記憶の物語』)を取り上げて論じているのだが、フクシマ(福島第一原発の大事故)が物語の最初と最後に出てくる『ヤマネコ・ドーム』の中に、「金儲けの時代はもう終わりだよ」という言葉が出てくる。
 僕は、安倍首相だけでなく、安倍「ファシズム」政権の一翼を担っている公明党の政治家たち、およびどう見ても「都民のこと」よりも「自分のこと」「権力のこと」しか考えていないように見える今回の都議選で大量当選した「都民ファーストの会」――小池知事が「代表」の座を譲った現在は小池知事の特別秘書である前代表の野田数(かずさ)という人間が、都議時代「大日本帝国憲法の復活」を叫んでいたウルトラ右派であったこと、ぼくたちはこの事実を忘れてはならないだろう――の面々にも、「金儲けの時代は終わった」という認識に関してはほとんど信用・期待していない。
 「金儲け」に拘泥すると何を招くか? その結果はフクシマが如実に物語っている。

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