子供の頃は、簡単に幸せになれた。
夏休みに海に連れて行って貰ったり、欲しかったおもちゃを買って貰っただけで、「完全な幸福」を感じることができた。
ところが、年をとるにつれて徐々に状況が変わってきた。
健康・家族・お金・恋愛・仕事など、自分を取り巻く要素のどれかひとつにでもネガティブな問題があると、他が大体うまくいっていても、それだけで不安だったり、暗い気持ちになったりする。
(中略)
不況とか格差社会とか云われながらも、誰もがそれなりに強く明るく暮らしているようで、なんだか騙された気持ちになる。それとも、表面上そうみえるだけなのか。みんなそれぞれの不安や焦りや苦痛を隠して日々を生きているのだろうか。
日常の風景は奇妙な滑らかさに覆われていて、いくら目を凝らしても、ひとりひとりの生の実相を読み取ることができない。かといって、テレビや雑誌を見ると、ますますよくわからなくなる。
みんなの人生の本当のところはどうなんだろう。
穂村弘さんの書評エッセイ集『これから泳ぎにいきませんか』の一節を長々と引用させてもらった。
長い連休ももう少しで終わってしまう今日という日に読み返すと、また別の感慨を抱く。日々の暮らしの辛さを忘れるように、救いの光明のように思い描いていた計画も、あっという間に終わってしまった。
もとの辛い日々に逆戻りだと観念した「みんな」の行列に流されるように、今という時間が通り過ぎてゆく。自分というものが頼りないゼンマイ仕掛けのようにも思えてくるし、みんなも同様なのだとすると、それはもう味気ない世の中ではないか、とも思う。
穂村弘さんがこの書評で紹介するのが、上原隆著『にじんだ星を数えて』だ。普通の人の普通の生活を描くノンフィクションという新たな地平を切り開く一冊。
難病の婚約者と別れた過去を持つ女性「もり」の生活を淡々と描いた作品「記憶だけで生きてる」の紹介で、穂村弘さんは、もりの「私、逃げたんだなって思うんです」という言葉に引き込まれ、次のように語る。
生身の人間は「ドキュメンタリー」の外側で生きている(ドキュメンタリーとはここでは難病の夫を支える妻などのことー引用者注)。その生の意味とは、誰が決めたのかもわからない「ちゃんとした生活」という「枠」を超えたものではないのか。
「なぜかシャンプーをしてる時に」もりがクスクス笑う。「いろんなことを思い出すんです」
この「シャンプー」に私は分類不能な生の手触りを感じる。
確かに、本書もまた一種の「ドキュメンタリー」には違いないだろう。だが難病の恋人から逃げなかったとか逃げたとか、「ちゃんと」しているとかしていないとか、そのような分類や価値判断は一切保留にされている。その代わりに描かれるのが「シャンプー」のような細部の実感だ。
みんなの人生の本当のところははどうなんだろう、と私は思った。でも、人生における本当などは、どこにもないのかもしれない。強いて云うなら「シャンプー」のようなギリギリの手触りだけが「本当のところ」なのだ。
「シャンプー」のような手触りを、そのときその場所に、錨を下ろすように生きてゆくのなら、人生はそれほど味気なくもない、と思う。