とうにクリスマスを過ぎて

クリスマスがもう終わった〜っと思った瞬間に思いついたタイトルです。
他意はありません。年末にはタイトル変更か?

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真夏の藤の花

2017-07-17 16:24:45 | 日記
藤の木が二房、花をつけているのを見かけた。
異常気象による狂い咲きかと思っていたら、
よくある現象なのだそうだ。



6月から7月にかけてに分化した花芽の、充実した先端だけが翌年が待ちきれずに開花してしまう。夏に花をつける藤の木は翌年、必ずきれいな花を付ける、ということだ。
来年のゴールデンウィークを楽しみにしていよう。
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ありがとう さようなら

2017-07-12 22:04:01 | 日記
最後だし「う」まできちんと発音するね ありがとう さようなら

ゆず

別れの歌だと思います。我々日常では「ありがと」「さよなら」は、完全には「う」を発音しないですよね。だけど別れのときだから、最後はきちんと「ありがとう」「さようなら」って言って別れるっていう、言われた方は逆に切ない。高校生くらいの女の子の歌だと思うんですけど、感覚がおもしろい。これでも短歌だと思います。
「なりけり」とか「枕詞」を使ってなかったり、古典文法にはのっとっていないですよね。完全に日常の時間に即して詠っているんだけど、何か新鮮なところをついていると思うし、魅力的な女の子って気がします。
(穂村弘 フェリシモ対談にて)
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税務署へ届けに行かむ

2017-07-11 16:42:30 | 日記
税務署へ届けに行かむ道すがら馬に逢ひたりあゝ馬のかほ

斎藤茂吉

小高賢さんはこの歌についてこう書いている。
「茂吉は意図していないでしょうが、詩型がほころびて、歌からはみ出してくるものがある。それは短歌がかつて持たなかったおかしさだ」
税務署に行って、職員の話ぶりが変だったとかではなく、途中で逢った馬の顔を詠嘆する。
常人には思い付かない離れ業だ。
ああでもないこうでもないと考えながら歩をすすめるうちに、ふと見上げると馬の顔に出逢う。馬の前でひとり佇む茂吉は可笑しいけれども寂しい。
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お金というものは

2017-07-10 21:43:26 | 日記
「お金というものは女房と税務署に知れると、もうお金じゃないよね内藤さん」

大山康晴が、将棋の打上げの席で、部屋に早く入りすぎて一人ぽつねんと座っていた内藤國男にかけた言葉。
静の大山、動の升田の対局戦はまるで名優の舞台を見るように見事なもので、谷川、羽生などはまだまだ巨木になりうるかどうか、大山、升田の両巨頭の足元にも及ばないと、内藤國男は力説していた。といっても1993年のエッセイだから、もう24年も昔の話だ。
その内藤が大山の偉大さを讃える文章の最後に付け加えたのが冒頭の大山のひとこと。
それはもう、よっぽどつらいことがあったのだろう。
内藤もこう書いている。

そのとき私は突然思いもかけない妙手を放たれた感じでとっさに応手が分からず、目をぱちくりするばかりであった。(『将棋世界』1993年8月号)
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尾花が上の白露思ほゆ

2017-07-09 10:44:38 | 日記
夕立ちの雨降るごとに春日野の尾花が上の白露思ほゆ

夕づく日さすや川辺に作る屋の形を宜しみうべ寄そりけり

小鯛王『万葉集』

上記二首は、小鯛王が宴会のたびに、琴の弾き語りで最初に歌うものだった。
一首目の尾花はススキの穂。夕立が降るたびに、ススキの穂についた白露のことを思う。
二首目は、夕日がさすと川辺の家の形が良いので、なるほど引き寄せられてしまう、の意。
いずれも、これだけ読むと意味がわからないが、宴席の男女には艶っぽい歌だったのだろう。
ちなみに「川辺に作る屋」とはトイレのこと。
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