同時代に生きていて共に体感でき幸せ~!

あっという間のつかの間の人生に、一緒にいる仲間と、時に泣き、時に笑い、時に感動し、時に怒り、時に学んでみたいです~。

土星の悪質宇宙人・スッタリータ

2022-09-30 06:52:16 | 宇宙人・UFO
バズーカと同格の悪質宇宙人・スッタリータ
光と影の戦いを繰り広げる宇宙存在
ザ・リバティ11月号より

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渡辺貞夫氏の半生を独断でまとめてみました・その2

2022-09-29 09:23:02 | 音楽・ライブ・楽器・演奏・芸術・文化
日本のジャズを世界に発信
アフリカ音楽のエッセンスも吸収し、自身の音楽世界に反映させる。

1968年(35歳)にはニューポートジャズフェスティバルに呼ばれたり、
1970年(37歳)には、スイスのモントルージャズフェスティバルに出演するが、全て日本人メンバーでバンドを組む。結果は大成功!
サダオ氏は1970年(37歳)、73年(40歳)、75年(42歳)と3度モントルー・ジャズ・フェスティバルに出演しています。

1969年Someday In Suburb(ある日郊外で)


サダオ氏の次の転機となったのが、アフリカ訪問でした。
1972年(39歳)彼はテレビのドキュメンタリー番組のリポーターとして初めてアフリカを訪れる。
「ジャズの源をたどっていくと、アフリカの民族音楽に行き着く。一度は訪れてみたいと思っていたので、リポーターの打診があった時点ですぐに飛びつきました」書籍「秋吉敏子と渡辺貞夫」

ケニアの首都ナイロビに到着したサダオ氏は、その夜に早くもライブ・ハウスを訪れ、ステージに飛び入り。
「現地のバンドと共演していると、大地の鼓動を思わせるようなリズムに圧倒されました。簡潔で力強く土着的で、どこかロックのリズムにも通じる。そこに浸っていると、何とも言えぬ陶酔感を覚えるのです。アフリカの地を踏み、よかった。心底、そう思いました」(同上書籍)

5年間続いたアフリカ音楽
74年6月には、映画「アサンテサーナ・わが愛しのタンザニア」の撮影に同行して再びアフリカを訪れる。
「この2回の旅で、アフリカが僕の音楽の柱の一つになったのは間違いないですね」本人談。
1977年(44歳)まで、およそ5年間にわたってサダオ氏のアフリカ音楽巡りは続いた。


サダオ氏は、アルトサックスとソプラニーノとフルートを吹きますが、ソプラノサックスは吹きませんでした。あのアフリカのイメージにソプラニーノがあっていたとは思いますが、ソプラノサックスはBb楽器で、アルトサックスとソプラニーノはEb楽器で同じキーなので指の動きが同じ為、扱いやすかったこともあると思います。フルートは、ピアノやギターと同じC楽器ですね。
ちなみに、コルトレーンやデイヴ・リーブマンなどのテナーサックス奏者は、テナーサックスとソプラノサックスをよく持ち替えますが。これらはいずれも同じBb楽器ですので同じキーで同じ指使いですから、扱いやすさもあったと思われます。

1976年 My Dear Life


1977年 Samba Em Praia


浜辺のサンバ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=JSYu8HTJ6CA

1983年(50歳)の時、C型肝炎で10か月入院する。
1984年(51歳)アメリカのWEAに所属して、病み上がりの中でCDアルバム「ランデブー」(‎ワーナーミュージック)録音。これが、ビルボード誌ジャズチャート2位になる大ヒット。

渡辺貞夫 Rendezvous - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=diklM_b-c3s

この「ランデブー」というアルバムは、サダオ氏が退院したあと、アメリカの作曲家やアレンジャーとかが参加して曲を作ったのですが、サダオ氏は、このアルバムは、彼らに吹かされたんだ!と言っていますね。私はシャレていて、力が入っていないので、聞きやすいと思いますけど・・。コマーシャルベースに乗りたくなかったのですね。

その後、1996年(63歳)に、テレビ企画でチベット旅行があり、チベットの人々とふれあううちに、素直にかっこいいと感じたものを自分はやりたいと思い、商業ペースで無いものを追求して行くことを決意!

ESCOLA JAFRO(エスコーラ ジャフロ)について
1995年の栃木県内中学生約200名と渡辺貞夫さんの共演がきっかけで、1996年から貞夫さんを指導者に迎え「スクールアート推進事業(リズムスクール)」(ブラジルのサンバとレゲエをミックスさせたもの)のドラムチームがスタート。
2005年に宇都宮市を中心とするグループをESCOLA JAFRO(エスコーラ ジャフロ)と命名。
同年に愛知県で開催された「愛・地球博」では、世界のパーカッションチームや国内の子どもたち約400名とともに出演する。
2007年のJAVA JAZZ(ジャワジャズ)フェスティバルに貞夫さんと共に参加、ジャカルタの子供たちと共演。
2008年スペインで開催されたサラゴサ国際博覧会ジャパンウィーク「Share the world 渡辺貞夫と世界の子どもたちコンサート」に参加し、ポルトガル、セネガルのパーカッショングループやスペインの子どもたちと共演。
現在も、宇都宮市を中心とする小学生から20歳までの青少年約40名が、月2~3回程度の練習に励み、貞夫さんの理想である、いつでもトコトコと太鼓の音が聞こえるまちづくりをめざして、多くの方がたの支援を受けながら楽しくドラムをたたいています。ESCOLA JAFRO(エスコーラ ジャフロ)HPより抜粋。


サダオ氏は、楽器は何度か変えましたけど、マウスピースやリガチャーやリードのメーカーにはあまり興味を示さないようですが、以前TVでライブ用のリードの選択には、何と80枚から一枚を選び出している様子が映し出されていまして、ここだけは執着されるのか!っと驚きましたね(笑)。
ライブ中でも、結構リードを変えている様子が見られますもんね。
現在只今の最高のカッコいい音を観客に届けたいという思いが強いんですね。

来年2023年は90歳になりますサダオ氏、一日に3回も散歩をされまして、体調も万全のようですね。
今後の活躍も大いに期待しています~。 


参考:日本経済新聞「私の履歴書」、徹子の部屋、サワコの朝、書籍「秋吉敏子と渡辺貞夫」「ぼく自身のためのジャズ」、オリジナルソングブック1、ウィキペディア、ESCOLA JAFRO・HP他・・
            
                        2022年9月27日 記す
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渡辺貞夫氏の半生を独断でまとめてみました・その1

2022-09-28 09:54:59 | 音楽・ライブ・楽器・演奏・芸術・文化


1933年2月1日生まれ(2022年現在89歳現役プレーヤー)
宇都宮・渡辺電機工業所の5人兄弟の次男坊として生まれる。
父は、元薩摩琵琶の演奏家。
ちなみに、妹はジャズシンガーのチコ本田(夫はジャズピアニスト本田竹曠・2006年没)、弟はジャズドラマーの渡辺文男、娘は絵本作家の渡辺眞子。
空襲で自宅全焼。1945年8月(12歳)終戦。


終戦後はラジオで進駐軍の流す、明るい陽気なアメリカ音楽、ポップス、ジャズ、ハワイアン、ヒルビリーに衝撃を受ける。
1948年(15歳)映画「ブルースの誕生」で少年の吹くクラリネットに惹かれ、上映期間中は毎日通って、横から入れてもらって観る。かっこいいクラリネットに憧れ、中古のクラリネットを買ってもらう。
近所の駄菓子屋の主人が、無声映画の伴奏でクラリネットを吹いていたという事で、
教えてもらう。その後、教則本で猛練習する。
1949年(高校生16歳)地元の山内楽団に入団する。

進駐軍のバンドの報酬
やがて、進駐軍の仕事が来るが、演奏するにはA~Dランクの審査評が必要。
1950年(当時高校生17歳)の頃の渡辺貞夫氏の入っていた地元のラテンバンドは、下手すぎてランク外でしたが、鰻の接待攻勢で、辛うじてEというランク外の審査評を得まして、何とか進駐軍バンドとして出演できたそう。
その時のバンド報酬は一人一晩300円ですって、今の9千円。
ちなみにAランクは、2千円(6万5千円)

1951(18歳)で、家との約束で2年間は自由にさせてもらう、という事で上京。東京世田谷・三宿で下宿生活。
仕事は新宿などで沢山あり、腕を磨くために、1か月ごとにバンドを変わっていた。
昼はデパ地下のダンスホールで、夜はクラブやキャバレーで、月収はサラリーマンの倍以上稼いでいた。
この頃アルトサックスを4万円(130万円)で購入、警察に目を付けられ、父が家までくる騒ぎ。
進駐軍将校専用の高級クラブ・フォリナーズクラブ。
日本の一流ミュージシャンが出演している店。
毎日、店外で立ち聞きしていた。
ある日、我慢できなくなって、飛び入りでジャムセッションに参加、その演奏が認められ、新バンド、榎本オクテットのサックス奏者に向かい入れられる。3人のサックスのリーダーに抜擢されるも、譜面が読めない為、Tpの仲間からやめさせられそうになる。
2週間待ってください!と言って先手を打ち、下宿に楽譜を持ち帰り必死に楽譜を読む訓練をして、寝る間も惜しんで楽曲を練習し、1月後には、リーダーとして認められる。

家との約束の2年間は間近に迫っていたが、家には帰らずにジャズの街・横浜に行く。
1953年(20歳)で、自分のバンド「ジャフロ」結成する。
「ハーレム」というGI専門のクラブでリズム&ブルースを演奏する。
そこで、秋吉敏子氏と出会う。
その秋吉さんの新バンド「コージーカルテット」に向かい入れられる。

パーカーの曲・ムースザムーチの楽譜をいきなり敏子氏より渡された貞夫氏は2,3小節しか吹けなかった。それを見た秋吉敏子氏は、あなたプロなんでしょ!譜面をちゃんと読めなきゃダメじゃない!などと言われ、ショックを受け、必死に練習する。
音楽に妥協しない秋吉敏子氏のジャズ演奏は、ダンスには向かないので、首になったり、ギャラが300円とか100円とかになった時もあった。

更に音楽にどん欲になっていった渡辺貞夫氏は、フルートに興味を持ち、林りり子先生に指導を受ける。

秋吉敏子氏がバークリーに留学することになり、23歳で「コージーカルテット」のリーダーになる。

1957(24歳)で、ジャズ喫茶で知り合った、貢子(みつこ)さんと結婚。
この頃進駐軍が撤収し、ジャズクラブも閉鎖され、仕事が激減する。

そんな時、ジョージ川口氏より声がかかる。
1958(25歳)で新バンド「ビッグ4プラス1」に加入する。娘誕生。
最初の仕事が、四国松山でエンディングのジョージ川口氏と白木秀雄氏のドラムバトルの最中に、ステージの裏で興行師が銃で撃たれ死亡する。
バンドメンバーも危険なので逃げてくださいと言われ、港まで連れていかれ、そのまま蒸気船で広島まで逃げる。

この年、初リーダーアルバム「渡辺貞夫」を発売。この中には、奥様と娘さんの頭文字をとってつけた曲、「M&M」も入っている。


1961年、28歳になったナベさんに、5年ぶりに帰国した秋吉敏子氏から、バークリー行きを進められる。
妻も背中を押してくれたので、バークリー行きを決意する。
1962年、29歳で月謝が全額免除になる、フルスカラーシップを利用し、バークリーに行く。

ニューヨークに着くと、秋吉敏子氏宅に荷物を置いて、彼女の仕事先であるファイブスポッツへ連れてかれ、演奏していたチャールズ・ミンガスにいきなりステージに呼ばれ演奏する。知らない曲なので、ミンガスは、演奏中にコードネーム、Ebマイナー7とか、Ab7とか教えてくれるのだが、その時にはもう次の小節に行っていたというエピソード。一緒にいたエリックドルフィーの音圧に圧倒される。
ミンガスから一緒にやらないか?と声をかけられるが、バークリーで学びます。と言って辞退する。

バークリー音楽院では、最上位のクラスに編入される。
所持金は200ドル(7万2千円)だったが、1か月で底をつき、学友の紹介で、ボストンのジャズクラブ「コノリーズ」で講師らとバンドを結成し演奏する。
週125ドル(4万5千円)だった。
10か月で千ドル溜まったので、家族(奥さんと娘さん)を呼び寄せる。
生活は、昼は、バークリーで学び、夜はクラブのライブで午前2時までやり、朝は娘を幼稚園に送ってから、バークリーに行く。

バークリーでは、自分が日本でこれまで、レコードを何回も聞いて独学して演奏してきたことが、全て理論づけされて、今までやってきたことが間違っていなかったことが証明され自信を付ける。


1965年32歳
ニューヨークのゲイリー・マクファーランドのバンドに入り、ボサノバを知り夢中になる。
10週間のウェストコースト(西海岸)ツアーに参加するも、家族は一時帰国していて、疲弊感や孤独感が募り、日本に帰りたくなる。
1965年11月9日のニューヨーク大停電で、我慢できなくなり、直ぐバスでボストンのバークリーまで行き、日本に帰ります!と言って、翌日帰国する。


日本に帰国した翌日、銀座のジャズクラブに招かれプロも多くいる超満員の中で演奏する。
1967年34歳でアルバム「ジャズ&ボッサ」発売。2万枚のベストセラーになる。

White Waves(白い波)

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簡単レシピの第一人者の本ゲット!

2022-09-27 08:21:50 | グルメ・飲食・スイーツ・料理
TV「DAIGOも台所」毎週金曜日の簡単レシピ担当の山本ゆりさんは、何十冊ものレシピ本を出版されていまして、その中での集大成っぽいこの本を選んでみましたです~(笑)。
さてさて、何から作ろうかな~。楽しいな~っと(笑)。













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日よけシートを外しました・ビフォーアフター

2022-09-26 09:47:42 | 花・園芸・生き物
台風通過後、急に秋っぽくなり、朝も寒いほどですので、南側の日よけシートを取り外しました。









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