さやかな岸辺

短歌という風の中州の草はらに言葉の卵をあたためています

永井祐 『日本の中でたのしく暮らす』にみる現代との関わりと、「わたし」の奪還     岸原さや   

2012-12-13 21:06:39 | 永井祐論

作者と歌集プロフィール 

『日本の中でたのしく暮らす』(ブックパーク)は若手歌人、永井祐の第一歌集である。本歌集巻末のプロフィールには次のように記されている。

 【1981年、東京生まれ。18歳ぐらいのころ作歌をはじめる。サークル早稲田短歌会に入会。歌会・勉強会・他大学との合同合宿を行う。水原紫苑の短歌実作の授業に参加する。2002年、北溟短歌賞次席。2004年、第3回歌葉新人賞の最終候補。ガルマン歌会などフリー参加の歌会、批評会等に参加しつつインターネット上でも活動。2007年、「セクシャル・イーティング」に参加。2008年、「風通し」に参加 

 「セクシャル・イーティング」とは、石川美南・今橋愛・永井祐・光森裕樹の四人が、2007年8月19日~12月1日までの百五日間、毎日の食事を記録し、毎月短歌を十首詠んでネット上で発表した企画。

 「風通し」はWEB上で展開された歌会をもとに編集発行された〈そのつど同人誌〉。メンバーは、我妻俊樹・石川美南・宇都宮敦・斉藤斎藤・笹井宏之・棚木恒寿・永井祐・西之原一貴・野口あや子の9人。  永井は短歌結社には所属せず、主に同世代の若手歌人とのゆるやかな繋がりのなかで短歌をつくり、発表してきたと言えよう。

 

まとまった形で初めて読む永井祐作品 

 永井祐といえばフラットな口語短歌をつくる歌人として注目されてきたが、私にとって今一つその全体像の把握は難しかった。 その詠風は一見稚拙に見えるほどシンプルである。だが背後には意外に勁い補助線が存在するのではないか? 今回歌集というまとまった形で永井作品を読む機会を得たので、作者が何を志向・企図し、それがどんな意義や可能性を持つのかを考えてみたい。

 

あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな      

2002年に発表され話題になった作品。  猛スピードで走る青い電車。その電車との接触場面の映像が脳裏によぎる瞬間をつぶやきの形式で作品化している。「はね飛ばされたりするんだろうな」は潜在意識から届く声のように響き、〈微妙に遠い生々しさ〉を読者に手渡す。言語化されることで改めて呼びだされる感覚というものがあり、これはその呼び出しに成功している。

 

わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる    

 「わたしは別に」と脱力的に始まり「撮ったりして暮らしてる」と終わる。「わたしは別に/おしゃれではなく/写メールで/地元を撮ったり/して暮らしてる」と、七七五八七音とすれば三句目の「写メールで」が短歌の腰を押さえており云々……と言えるのだが、私はむしろ、散文的に上から下までするりと読みくだすのが適切と思う。「腰押さえ」の読み筋を採用すると、一首の中で「写メールで」が強調され浮き出てしまうからである。

この歌は「わたし」の生活様式を「こうですよ」と示しているだけで、他には何も言っていない。他には何も言わぬため、つまり限定や強調を避けるため、このフラットな形態が選択されているのだと思う。

私はこの作品が2007年9月に発表されたことに注目したい。「おしゃれではない」「地元で写メールを撮ったりして暮らしてる」という情報には、2007年における特別の意味と価値があるからだ。

日本は1991年3月にバブルが崩壊して以降、二十年にもわたる不況の中にある。その出口は今も見えない。だがその雲間に輸出産業の好転を受けてプチバブルを迎えた時期があった。2005年後半から2008年の約三年間である。株価は上昇し投機ファンドの村上世彰が時代の寵児と呼ばれていた。彼は2006年後半に株のインサイダー取引容疑で逮捕されたが、逮捕前の会見で「金儲け、悪いことですか?」と言い記者団を沈黙させた。株価は2007年7月にバブル崩壊以後の最高値を付け、その後下がるのだが、プチバブルの名残りは2008年9月のリーマンショック直前まで続く。

 哲学者の池田晶子は2006年10月発行の『知ることより考えること』(新潮社)の中で次のように書いている。 

 「小中学生の間で株がブームになっているという記事を読んだ。/子供向けの投資教育セミナーも大盛況で、参加した子供が言うには、『お金持ちになりたい。貯金が五十万になったらデイトレードを始め、一億円稼ぎたい』/端的に私は、死にたいと感じた。こんな世の中に、これ以上生きていたくない。」 

こうした時代の文脈を踏まえると、永井が2007年に「都会より地元」「おしゃれよりフツー」「お金をかけずに遊ぶ」というスモールモデルを提示したことは注目されてよい。時代の逆を行く抵抗だったと読みかえることができるからだ。

 

バブル崩壊後のロスジェネ世代

大きければいよいよ豊かなる気分東急ハンズの買物袋

                              俵万智『サラダ記念日』(1987年) 

さらに時代を遡ってみよう。

1986年12月から1991年2月までの4年3か月(51ヶ月)間をバブル景気と呼ぶ(*註)。この一首はその時代の空気を反映している。『サラダ記念日』が出た頃の永井は六歳位。 その後彼が十歳前後でバブルがはじける。株価が急落し、地価が下がる。不良債権問題が深刻化する。企業の業績も悪化し、倒産やリストラ、新規社員採用の抑制による苛酷な就職難が到来した。1997年頃からは経済政策の失敗により、大手金融機関が破綻や統廃合を余儀なくされ、以後長い就職氷河期が続く。1993年から2005年の12年間に大学卒業を迎えた世代(1970年から1982年生まれ)は大卒時に就職氷河期に遭遇した受難の世代となり、ロストジェネレーション(略してロスジェネ)と呼ばれる。前掲の永井が参加した同人誌のメンバーでは、今橋愛・光森裕樹・宇都宮敦・斉藤斎藤・笹井宏之・棚木恒寿・西之原一貴がロスジェネ世代に該当する。

 

ここにある心どおりに直接に文章書こう「死にたい」とかも   

何してもムダな気がして机には五千円札とバナナの皮         

五円玉 夜中のゲームセンターで春はとっても遠いとおもう          

一首めは2002年の出来事を詠んだ連作中の作品。やりきれなさや無力感が漂う。

二首めの結句「バナナの皮」の字足らずの体言止め。あきらめを超えた投げやりな感じを与える。三首めの「五円玉」と「春はとっても遠いとおもう」の組み合わせにも未来への希望喪失が窺える。

 先にも記したが、この後2005年後半から2008年の約三年間にプチバブル期が訪れた。

次は先行世代が仮りそめの豊さに浴していた時の歌。

 

水母のような代用品にみちていてさしあたりしあわせなぼくたち

                                加藤治郎『雨の日の回顧展』(2008年)

勝ち組・負け組という言葉が躍っていた。だがこの時も就職の採用は新卒に集中し、ロスジェネ世代の既卒者は時代の恩恵を受けることがなかった。 その後、新自由主義の名のもとにグローバリゼーションが進む。国際競争の激烈化の中で企業は生き残りのためさらなる固定費の削減、つまりリストラや正規雇用の抑制を図る。非正規雇用が拡大し、日本は下流社会化した。

 

みんなまけみんなまけぺらぺらのマスクに顔を包んであゆむ  

                                      加藤治郎『しんきろう』(2012年)

いわば、ロスジェネ世代が貧乏くじを引かされて受けて来た風圧を、いま遅れて多くの者が経験しているのだ。逆に言うと、永井たちの世代から学ぶべきことがある筈なのだ。

 

 ◆作者はどこにいるか 

ここで永井の作品に戻ってみたい。彼はどこにいて何を歌にしているのか。

歌集の全274首のうち、部屋(家)の中にいる歌が12首ある。

 

テレビの台にティッシュを2枚しいた上にお餅をのせてみかんをのせる     

お正月を迎える歌。〈マイ鏡餅〉完成までの動作を順序正しく書いている。「ティッシュを2枚」の「2枚」にリアリティがある。

部屋の外にいる歌はどうか。場所が確定できるものは約百首あり、そのうち家路・坂道・駅の連絡通路を移動中の歌が約三十首、電車の中や駅ホームにいる歌が約20首ある。

 

夕焼けがさっき終わって濃い青に染まるドラッグストアや神社   

リクナビをマンガ喫茶で見ていたらさらさらと降り出す夜の雨

                           ※リクナビ…就職情報

公園・駅付近・ドラッグストア・コンビニ・レンタルビデオショップ(ツタヤ)・マンガ喫茶・マクドナルド・西友・デニーズ・ブックオフ・ゲームセンター・カラオケ・駐輪場・交差点・歩道橋・駅ビルの連絡通路・道ばた。彼が描く短歌風景は電車の中から駅、駅から住宅街、ほぼそのルートに集約される。日常の移動の中で歌が生成されているのだ。歌集中盤からは、友達とのお花見や飲み会の帰り道・「君」と歩く道・湾岸の美術館・冬のディズニーシーなど、行動半径が広がり彩りや躍動感が出てくる。そしてその日常の中から、相聞歌も登場する。

 

たよりになんかならないけれど君のためのお菓子を紙袋のままわたす 

元気でねと本気で言ったらその言葉が届いた感じに笑ってくれた 

君に会いたい君に会いたい 雪の道 聖書はいくらぐらいだろうか   

この歌集では架空(空想)の場所・過去の場所は登場しない。自分が今いる場所が歌われる。これは何を意味するか。作品の中心点は「今のわたし」にあり、作者と作中主体はほぼイコールで、私性がきわめて高いということだ。その「わたし」の位置から現代日本のありふれた風景が描かれる。コンタクトをした0.8ほどの視力で、見える風景の見えたままの縮尺をキープし、写し撮る。そのキープ力の靭さが非凡だ。

 

おじさんは西友よりずっと小さくて裏口に自転車をとめている

 

選ぶ ~自己把握と世界選択~  

次の三首で永井は「僕」の好む風景を明確に定義している。興味深いので引用する。

 

高いところ・広いところで歩いてる僕の体は後者を選ぶ     

建物がある方ない方 動いてる僕の頭が前者を選ぶ         

整然と建物のある広いところ 僕全体がそっちを選ぶ  

「僕全体が~を選ぶ」とは独自のスタンスである。ここには自己の全体性を明晰に意識化する態度と、世界への選択的姿勢が顕著だ。換言すれば「自己把握と世界選択において主導権を握っているのは自分だ」という強い自己意識をここに見ることができる。

 

お金、そして前世代の価値観からの脱却 

 

大みそかの渋谷のデニーズの席でずっとさわっている1万円   

1千万円あったらみんな友達にくばるその僕のぼろぼろのカーディガン 

一首め。大みそか、作者は渋谷のデニーズの席で一万円札をずっとさわっている。愛おしそうな仕草で。月末のバイト代が入ったのだろうか。

二首めは全三十八音でかなりの字余り。

 「ともちにくるそのくのろのカーン」。これらの濁音が重さを伴ないながら一定の調べを形成している。

作者は「1千万円あったらみんな友達にくばる」という。だが本人は「ぼろぼろのカーディガン」を着ている。貧しさと一千万円。この距離を「みんな友達にくばる」と宣言することで一挙に無化させようとしている。渋谷のデニーズで一万円札の感触を味わいつつ、お金から自由でありたいと希求しているのだ。作者の価値の優先順位は明快だ。お金より友達。世界の価値の序列から離脱し、自分の価値観の採用を夢見る。大げさに言えば世界の脱構築を企図している。

 

人のために命をかける準備するぼくはスイカにお金を入れて    

この歌集にはお金を詠み込んだ作品が多い。お金の歌が九首、「高い・安い・いくら」等の関連語まで含めると十二首がお金の歌である。お金がこの歌集のキイワードだ。

お金は質の違う全てのものを交換可能なように測る尺度である。社会が多様化するにつれ欲望も多様化し、お金を通して交換される。するとお金はそれ自体で人間の欲望を全て実現できる最強ツールのように実感されるようになる。それで人は知らぬ間にお金そのものが欲しくなり、お金で物の価値を比較し序列化するようになる。そして本来自分が欲していなかった物まで(皆がそれを欲しがるから)欲しがるようになる。しかしそれは何者か(メディアとか世間の風潮とか流行とか)によって序列化され刷り込まれた価値である。皆がその獲得競争の土俵に立つとしたら、結局その欲望を実現できるのは少数者であり、その他大勢は失敗することになる。そういう構造になっている。宝くじで誰かが手にする三億円はその他の人々の損の集積で成立しているのと同じ理屈だ。

 

ベートーベンのCD2枚ポケットに入れてくらくらうちまで帰る      

ベートーベン後期弦楽四重奏 ぴちぴちのビニールに透けている       

 作者はベートーベンが好きだ。「くらくら」「ぴちぴち」のオノマトペからは、まるで意中の女の子と初デートするような初々しい幸福感が伝わる。

 

灰色のズボンがほしい安すぎず高すぎもせず細身のズボン      

買ったばかりのズボンを入れた紙袋 日曜日の日ざしであったまる        

本当に欲しいものだけを欲すること、それを手にした時の、借り物ではない心からの充足感。消費や所有の拡大に邁進する時代からの脱却をここに見ることができる。

 

アスファルトの感じがよくて撮ってみる  もう一度  つま先を入れてみる   

 この一首ではさらに「モノからコトへ」の流れも感じる。ささやかなことを面白がり楽しんでみる。ここには向日性へと半ば意識的に自分を促していく意志があるように思う。

 

日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる   

やさしい人やかわいい人と生きていく 家に着いたらニュースが見たい   

ぼくの人生はおもしろい 18時半から1時間のお花見          

とおくから見ると桜は光ってる 着信がある にぎやかな春        

次はあの日付をたのしみに生きる そのほかの日の空気の匂い       

現代社会の労働や情報において人は数でしかない。そのペシミズムをどう乗り越えて「わたし」を救出し、主導権を取り戻すか。どう人と繋がるか。折れない・媚びない・流されない個であろうとするか。そのヒントとモデルがこの歌集には示されている。

 

*註…内閣府経済社会総合研究所ホームページ 「バブル/デフレ期の日本経済と経済政策」(歴史編)1所収〈第2部プラザ合意・内 需拡大とバブル〉石井晋の論文より

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※ この文章の初出…「りいふ」第7号(2012年11月15日発行)  

☆ 永井祐 歌集 『日本の中でたのしく暮らす』 

   http://www.booknest.jp/detail/00006016 

 

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