goo blog サービス終了のお知らせ 

FZXな日々

YAMAHA FZX750を 旅の友として 気ままなツーリングの記録

東日本大震災 その1

2011年03月30日 | 東北地方の旅

2011年3月11日14時46分、何が起こったかを正確に記憶しておくことは難しい。今まで経験したことのない長い激しい地震だったことだけは覚えている。あわててスイッチを入れたテレビでは、東北地方の震度7を伝えていた。

妻の実家が大船渡市だということもあり、東北に地震が起こると、津波は大丈夫だろうか、といつも心配していた。夏に帰省するたびに、三陸津波やチリ津波の惨状を聞かされ、特に義妹の夫は消防団員だったので、地震のたびに防波堤を締め切るため、真夜中でもサイレンがなると出動していた。

http://www.bo-sai.co.jp/tunami.htm

津波について詳しい上のサイトには、約30年周期で三陸地方を大津波が襲っていると述べられているが、まさに1978年から数えると、約30年経っていることがわかる。

テレビの画面には、「末崎町細浦が巨大津波で壊滅」というテロップが流れた。細浦こそ妻の生まれ故郷である。その後のニュースで細浦ばかりではなく、青森から千葉に至る太平洋岸のほとんどの街が津波に襲われたことを知った。

当然のことながら、岩手との通話は不通となり、携帯もつながらない。親族はどうなっただろうと気が気ではなかった。3日目になってようやく災害電話が設置され、義妹から叔母の家族が犠牲になったことや、家が流失したことを知らせてきた。

これは何としても現地に行かなくては、と準備を始めたが、製油所が津波でやられたこともあってガソリンが手に入らなくなった。ともかくバイクででもと思っていたのだが、FZXではガソリンが無くては話にならないし、救援物資を少しでも積んでいくには車しかないということになり、モビリオで行くことにした。

千葉で満タンにして仙台まで350kmを行き、仙台にいる甥のところに1泊して、翌朝ガソリンスタンドに並んで満タンにすれば大船渡までの200kmを往復できる。職場には無理を言って1日有休をもらい、春分の日前後の3連休を合わせた4日間休んで出かけることにした。

朝9時に家を出発した。高速道路は緊急車両のみで一般車は通行不可なので国道4号線を北上した。ガソリン不足は深刻で、どこのガソリンスタンドにも長い列ができているが、走っている車は少なく、渋滞はないのが幸いだった。仙台に着いたのは夜の8時で、甥の下宿しているアパートの空室に寝かせてもらった。

仙台では前の日まで雪だったとかで、道路の両側には雪が残り、気温も0℃を下回っている。さすがに夏用の寝袋では寒く、ライダースーツを着込んで寝たが、明け方あまりの寒さに目が覚めた。

翌朝は、7時半から近くのガソリンスタンドの列に加わったが、給油できたのは11時だった。甥も一緒に行きたいというので、2人で行くことになった。気仙沼を通る国道45号や一関からの343号は不通という情報で、奥州市(水沢)経由の397号に迂回することにした。ここは、はからずも昨夏に北海道ツーリングの帰途、走った道である。

大船渡には午後5時前に着いた。山側から入ったので、街の様子は全く以前と変わらず、津波で壊滅状態というのが信じられない。義母と義妹が避難しているという介護施設にまず行ってみると、定員の何倍もの老人が収容されていた。後日この施設に避難していた20人の老人が亡くなったというニュースを聞いた。

義妹はその施設の管理職なので、もう1週間になるのに仕事に追われ、避難所にいる家族に会えないでいるという。しかし、心配した義妹の夫は無事であることがわかった。そこには依頼されたチャッカマンとキャンディを渡した。老人が喉をやられているそうだ。

その施設をあとにして、市内を通り、細浦に行くことにした。市内に入ったとたん景色は一変した。街が空襲にでもやられたように無いのだ。

すべてが瓦礫と化していた。自衛隊によって道路の瓦礫だけが片づけられ、何もなかったかのように伸びている。電柱もなく大きな建物がわずかに残るだけで、にぎやかな人通りはゴーストタウンとなっている。あまりの光景に現実とは到底思われない。

道路には流されてきた船が多数転がっていた。



煙突に引っかかった船

柱だけ残った商店


寸断された線路

湾を堰き止めていた湾口防波堤がものの見事になくなっている。海面には家の屋根らしきものも漂流している。牡蠣やホタテの養殖いかだもきれいになくなっている。


(津波に破壊される以前の、湾口防波堤)


(津波に襲われる以前の大船渡湾、牡蠣やホタテ、ホヤやワカメの養殖場が並んでいる)



細浦港はさらに悲惨な有様で、市場が残骸をさらしている。



実家の周りの家は原形すらなかった。


地域の人たちは、公民館を避難所にしているというので、インスタントラーメンとサバの味噌煮の缶詰を届け、その夜は、津波に遭わなかった叔父の家に泊めてもらった。電気と水道が止まり、かろうじてプロパンガスのみ使える状態だ。積んでいった残りの食料や米、布団や乾電池は叔父に分配を託した。

日が暮れると、暗黒の世界で、ろうそくで灯りをともしているという。余震があるからろうそくは危険だと話し、懐中電灯にするようにいったが、ろうそくの方が電池より長持ちするのでいいという。お寺でもらってきたという太いろうそくに火をつけると、その光の色が暖かい。

冷蔵庫が使えないので、入っていた塩ウニや鹿の肉を早く食べないと腐ってしまうというので食べろと言われ、ごちそうになった。避難所で配給になったというおにぎりと一緒に食べたが、なんか、非常時なのに贅沢な感じ(笑)。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。