
「なばなの里」ウィンターイルミネーション <桑名市>
先週の土曜日、いつ行こうかと迷っていた「なばなの里」へ行ってきました。
去年の混雑を思い出し心配しながら行ったが、時間が遅かったせいか
楽々~! 光のトンネルも遠くまで見通せました。

トンネルを抜けると、光の花畑が広がっています。
花畑の上には、蝶が舞っています。
うねり方がいい感じだなあと思いました。
お金を取るだけあって、
とても豪華に作られています。

少し離れて、全景を見ると、これもまたきれいでした。
去年の星空もきれいでしたが、今年のも大がかりできれいでした。

ゆっくり歩いて見て回り、
後は、いつものようにお湯にじっくり浸かって、
いい気分で帰ってきました。
この時期は、ねらい目かも・・・
来年もこのくらいにこようと思いました。

また、また、また、また・・・
近江八幡の「たねや」サンに行ってきました。
本当に・・・何回行けば気が済むのかと聞かれそう(^_^;)
この夏どこへも連れて行っていないことが気になっていたので、
ハハを誘ってみると、「たねやさんに行ってみたい」とのこと。
断らなかったことから考えても、
ハハはどこかに出かけたかったのだなあと思いました。
インターネットで近辺の温泉、梨園を探し出し、3カ所を回る計画で出かけました。
夫は、午前中仕事。「悪いけど~」と言いつつも、
楽できたという気持ちが見え見え!
でも、近江八幡ぐらいなら一人で連れて行けるので、3人で出かけました。
たねやサンは相変わらず盛況で、40分ほど待ちました。
その間に、ハハは向かいの洋菓子の店HARIEを見に行き、
義姉のところへのお土産だけでなく、
大阪に住む姪のところに宅配。
友達にもお土産をと楽しそうに店内を見ていました。
日牟禮の舎に戻って順番が来たとき、
「奥は空いていないのですか?」と聞いてみました。
その少し前に奥から出てくる人を見かけたからです。
「見てきます」と店員さんは奥を見に行ってくれました。
そして、蔵のへやへ案内してくれました。

表や二階は人が多くてザワザワしているのですが、この蔵は別世界です。
いすもゆったりしていて、チチもハハも気に入ってくれました。
この店に来たら、ここへ入るのが一番です。
得した気分になります。
いつものように「せいろ蒸し膳」をおいしくいただき、
その上、「冷やしぜんざい」を食べて、120%満腹(*^_^*)
梨園はナビの言う通りに行ったら、何もないところにでてしまいましたが、
コンビニで道を尋ねて、何とか行き着きました。
ここでも、ハハは張り切って、桃と梨を買い、
またまた、姪のところにも送っていました。
うちの母もこういう買い物ツアーが好きだったので、
生きているうちに連れてきてやればよかったなあと思いました。
最後は温泉。何とか行ってはきたのですが、
これは、ハズレだったかも。
こういう施設のハシリだったのでしょう。
今では、少々もの足りません。
日帰り温泉施設は、ここ10年ぐらいの間にどんどんよくなってきていますが
その分、すぐに「ちょっと前の施設」になってしまうのだなあと思いました。
チチもハハもご機嫌な様子でしたので、よかったなあと思いました。
来月は・・・・
いつもいろいろやってもらっているので、このくらいはしなくては
と、「不出来な嫁」は「できのいい嫁」を演じるのでした。(^_^)v
綺麗なレンゲツツジが咲いていました。

はじめは、何の花だろうと見ていました。
つぼみが凛として、
なんだか、つぼみばかりでも綺麗に思えました。
「レンゲツツジだよ」
と、友達が教えてくれました。

次に見つけた木では、
下の方に、もういくつか花が開いていました。
あまり大きくない花です。
何とも優しい色をしています。
何色と形容するのでしょう。

満開の木を見つけました。
それはそれは見事に、花をつけていました。
木全体が燃えるような赤に見えました。
(木全体の写真にリンクしています。画面をクリックしてください。)

はじめは、何の花だろうと見ていました。
つぼみが凛として、
なんだか、つぼみばかりでも綺麗に思えました。
「レンゲツツジだよ」
と、友達が教えてくれました。

次に見つけた木では、
下の方に、もういくつか花が開いていました。
あまり大きくない花です。
何とも優しい色をしています。
何色と形容するのでしょう。

満開の木を見つけました。
それはそれは見事に、花をつけていました。
木全体が燃えるような赤に見えました。
(木全体の写真にリンクしています。画面をクリックしてください。)
今回の旅行で思うことはたくさんありました。
1.家族に連絡することのできる方法を考えて行かなくてはいけないということ。
滅多に行く訳じゃないから海外でも使える携帯なんか持ってないけれど、
そのときだけでも用意できればいいでしょうね。
PCを持って行っている人もいました。
海外でも使えるような知識がないので、これは難しそうですが、
ちゃんと知識を持っていれば、これもいい方法です。
うちの家族も私の実家も、いろいろ安否確認の方法を考えた様です。
最悪の状態ももちろん考えたようで、誰が現地に行くかそれぞれ考えていたみたいです。
2.避難しているときに、従業員はお金を持っていて、屋台で食べ物を買っていたのです。
我々はほとんど、水着に何かを羽織っている程度。多くの人はお金を持っていませんでした。
2時も過ぎると、子どもたちはおなかをすかせていたことでしょう。
日本だったら、客が食べられないのに従業員は自分たちだけ食べ物を買ったりしないだろうと思いました。国民性の違いを感じました。
水の配給は何度もありました。食べ物も3時頃にはありました。その後もそうですが、みんなゴミをぽいぽい捨てるのです。
いろいろな国の人がいましたが、日本人は何のかのといわれているけれど、行儀がいいのではないかとつくづく思いました。
3.危機管理ができていないとよく批判されているけれど、
私のいたホテルでは、人員の確認に大声を出すだけで、
ハンドマイク1つありませんでした。
人員の確認方法にしても無駄が多く、
日本人の方が話もよく聞き、よくできているように思いました。
115→1029
1.家族に連絡することのできる方法を考えて行かなくてはいけないということ。
滅多に行く訳じゃないから海外でも使える携帯なんか持ってないけれど、
そのときだけでも用意できればいいでしょうね。
PCを持って行っている人もいました。
海外でも使えるような知識がないので、これは難しそうですが、
ちゃんと知識を持っていれば、これもいい方法です。
うちの家族も私の実家も、いろいろ安否確認の方法を考えた様です。
最悪の状態ももちろん考えたようで、誰が現地に行くかそれぞれ考えていたみたいです。
2.避難しているときに、従業員はお金を持っていて、屋台で食べ物を買っていたのです。
我々はほとんど、水着に何かを羽織っている程度。多くの人はお金を持っていませんでした。
2時も過ぎると、子どもたちはおなかをすかせていたことでしょう。
日本だったら、客が食べられないのに従業員は自分たちだけ食べ物を買ったりしないだろうと思いました。国民性の違いを感じました。
水の配給は何度もありました。食べ物も3時頃にはありました。その後もそうですが、みんなゴミをぽいぽい捨てるのです。
いろいろな国の人がいましたが、日本人は何のかのといわれているけれど、行儀がいいのではないかとつくづく思いました。
3.危機管理ができていないとよく批判されているけれど、
私のいたホテルでは、人員の確認に大声を出すだけで、
ハンドマイク1つありませんでした。
人員の確認方法にしても無駄が多く、
日本人の方が話もよく聞き、よくできているように思いました。
115→1029
今朝旅行から帰ってきました。
実は、プーケットに行っていたのです。
私は無事だったのですが・・・
予定は大幅に変更を余儀なくされました。
亡くなった方もいるらしいことは聞きましたが、
現地であまり情報がなかったので、
帰ってきて知ったことがとても多かったです。
精神的に疲れた数日でした。
私のいたホテルは、大きな被害の出たビーチより北の方にあったので、
みんな無事でした。
でも、避難しなくてはいけないというので、
小高いところにある、お寺のある広場に、水着のまま避難しました。
200人以上はいたし、現地の人も避難してきていました。
私たちにしてみるとこんなに遠くまで津波なんてくるの?
と不満たらたらで、そこでぼーっと待ちました。
情報がないので、そんな大変なことになっているなんて考えもしませんでした。
結局、立ち入り禁止区域だからとホテルには戻れず、
その夜は、お寺に雑魚寝。避難所生活です。
一番困るのが情報がきちんと伝えてもらえないことでした。
バラバラと入ってくる情報を合わせて、
スマトラのところで地震があったそうだ
インド洋上のあちこちで被害が出ているそうだ
などなど・・・大変なことなんだと思った次第です。
きっと遠い日本にいた皆さんの方が詳しく知っていたでしょう。
次の朝、避難は解除になったのですが、
電気も水道も使えないホテルで
そのホテルの用意するチャーター機を待って夕方までいました。
どうしようもないのです。待つのみ。疲れました。
ホテル内の被害箇所の写真を撮って回ったら、後はぼーっと待つしかありません。
電気が通っていないことなどから
ホテルのパソコンも使えず、
ホテルから電話も使えず、
ほかに日本電話をかけることも思いつかず・・・
そのころ、日本で家族は右往左往していたようです。
ホテルの中には、
ひどく壊れているところや水につかったところなどがあり、
浜辺は、文字通り嵐の後という感じでした。
地震の後すぐ津波の心配があるとかないとか情報が出る日本に住んでいるわたしでも、
海岸から遠いと所に住んでいるので、津波のことは考えませんでした。
まして地震のないところでなら、
こういう被害が起きるのも分かる気がしました。
チャーター機もすぐくるわけではなく、
6時頃から飛行場でずっと待たされ、やっとプーケットを離れたのが
真夜中の3時頃。バンコクに向かいました。
朝、バンコクに到着。
でも、帰る飛行機が取れず、また、1泊。
真夜中の飛行機なので2日間バンコクにいた勘定になります。
やっと今朝帰り着きました。
帰ることだけに使われた数日間。とにかく疲れました。
待つことが多いし、
情報を手に入れる方法も知らず、
いろいろ分からないことばかりでした。
バンコクのホテルでNHKのニュースを見たり、
家に帰って新聞を読んだりして、
たまたま運がよかったことに感謝しました。
実は、プーケットに行っていたのです。
私は無事だったのですが・・・
予定は大幅に変更を余儀なくされました。
亡くなった方もいるらしいことは聞きましたが、
現地であまり情報がなかったので、
帰ってきて知ったことがとても多かったです。
精神的に疲れた数日でした。
私のいたホテルは、大きな被害の出たビーチより北の方にあったので、
みんな無事でした。
でも、避難しなくてはいけないというので、
小高いところにある、お寺のある広場に、水着のまま避難しました。
200人以上はいたし、現地の人も避難してきていました。
私たちにしてみるとこんなに遠くまで津波なんてくるの?
と不満たらたらで、そこでぼーっと待ちました。
情報がないので、そんな大変なことになっているなんて考えもしませんでした。
結局、立ち入り禁止区域だからとホテルには戻れず、
その夜は、お寺に雑魚寝。避難所生活です。
一番困るのが情報がきちんと伝えてもらえないことでした。
バラバラと入ってくる情報を合わせて、
スマトラのところで地震があったそうだ
インド洋上のあちこちで被害が出ているそうだ
などなど・・・大変なことなんだと思った次第です。
きっと遠い日本にいた皆さんの方が詳しく知っていたでしょう。
次の朝、避難は解除になったのですが、
電気も水道も使えないホテルで
そのホテルの用意するチャーター機を待って夕方までいました。
どうしようもないのです。待つのみ。疲れました。
ホテル内の被害箇所の写真を撮って回ったら、後はぼーっと待つしかありません。
電気が通っていないことなどから
ホテルのパソコンも使えず、
ホテルから電話も使えず、
ほかに日本電話をかけることも思いつかず・・・
そのころ、日本で家族は右往左往していたようです。
ホテルの中には、
ひどく壊れているところや水につかったところなどがあり、
浜辺は、文字通り嵐の後という感じでした。
地震の後すぐ津波の心配があるとかないとか情報が出る日本に住んでいるわたしでも、
海岸から遠いと所に住んでいるので、津波のことは考えませんでした。
まして地震のないところでなら、
こういう被害が起きるのも分かる気がしました。
チャーター機もすぐくるわけではなく、
6時頃から飛行場でずっと待たされ、やっとプーケットを離れたのが
真夜中の3時頃。バンコクに向かいました。
朝、バンコクに到着。
でも、帰る飛行機が取れず、また、1泊。
真夜中の飛行機なので2日間バンコクにいた勘定になります。
やっと今朝帰り着きました。
帰ることだけに使われた数日間。とにかく疲れました。
待つことが多いし、
情報を手に入れる方法も知らず、
いろいろ分からないことばかりでした。
バンコクのホテルでNHKのニュースを見たり、
家に帰って新聞を読んだりして、
たまたま運がよかったことに感謝しました。