何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

森戸神社-(1) (三浦)

2018年01月29日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・三浦郡】創建年は不詳だが、12世紀後期に源頼朝により創建された。 社伝(由緒書き)等によると、平治の乱で敗れ翌年の永暦元年(1160)に伊豆の蛭ヶ小島に流された源頼朝は、伊豆国一宮の三嶋大社の祭神三嶋明神を深く信仰し、源氏再興を祈願した。
三嶋明神の加護を受けて治承四年(1180)に旗挙げに成功し、天下を治めた頼朝は、信奉する三嶋明神の分霊を鎌倉に近いこの地に勧請して森戸明神としたとされる。
『我妻鏡』には、頼朝がこの地に別荘を建て、鎌倉幕府歴代将軍が訪れて、流鏑馬、笠懸、相撲などの武事を行ったこと、また、災厄が生じると加持祈祷が行われ、七瀬祓の霊所としても重要な地であったことが記されている。 祭神は大山祗命と積羽八重事代主命の二柱で、二柱を総称して森戸大明神と称す。

葉山海岸通りから社号標石と朱塗りの明神鳥居が立つ参道に入り、少し進むと白い狛犬が迎えてくれる。 3つのしめのこ付き注連縄が下がった神明鳥居をくぐって社殿へ....流石に多くのご神徳がある神社らしく、参道右手に多くの境内社や石造物が社殿近くまで整然と鎮座している。 その中で特に興味を引いたのは「猿田彦大神」文字庚申塔で、石祠に祀られた庚申塔を拝観するのは初めてだ。
また、水天宮には安産・子宝に霊験あらたかな「子宝の石」があり、傍の子寶石納所には赤ちゃんの名前と誕生日を記した卵型の玉石が奉納されていて、多くの信仰を受けていることを窺わせる。
 
参道に立つ「森戸神社」の社号標石と朱塗りの一の鳥居の明神鳥居/参道両側に鎮座する狛犬と社殿境内入口に立つ二の鳥居
 
造立後間もないとみられる阿形・吽形の獅子の狛犬

石燈籠を従え、3つのしめのこ付き注連縄が下がった石造り神明鳥居は二の鳥居

右から神明鳥居が立つ総霊社、畜霊社、猿田彦大神文字庚申塔

切妻造桟瓦葺の総霊社..英霊・祖霊・水子霊などを祀る
 
総霊社向拝の虹梁上の精緻で見事な龍と木鼻の獅子の彫刻

切妻造銅板葺の覆屋に鎮座する畜霊社..保食神を祀る切妻造りの石祠
  
覆屋に鎮座する畜霊社の石祠/三浦半島では珍しい流造の石祠に祀られた「猿田彦大神」の文字庚申塔..猿田彦大神を祀った庚申塔は葉山町唯一

畜霊社の前から眺めた境内..社殿は右手の少し奥に建つ

切妻造銅板葺の手水舎

子寶石納所の前から眺めた境内..正面の階の上に社殿が建つ

右から子寶石納所、水天宮、おせき稲荷社
  
切妻造銅板葺の子寶石納所..子宝石を受け、赤子を授かった後に戻す場所/赤子の名前が書かれた卵形の玉石群

切妻造銅板葺の覆屋に鎮座する水天宮

御祭神の天御中主大神を祀る石祠..左右の「子宝の石」を撫でると子宝に恵まれるらしい
  
切妻造で唐破風向拝..2本の向拝柱と軒下に垂木を設けている/水天宮の脇に佇む「子宝の福」と刻まれた句碑
 
切妻造銅板葺の覆屋に鎮座するおせき稲荷社..多くの神使狐に守られ、鮮やかな丹色塗りの明神鳥居/おせき稲荷社内の座布団に置かれた3段に積み重ねられた石

逗子市の二子山付近を源流とする森戸川に架かる朱塗りで擬宝珠高欄の「みそぎ橋」..鎌倉時代に七瀬祓の霊所と定められみそぎが行われた
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興禅寺-(2) (横浜)

2018年01月26日 | 寺社巡り-神奈川

【横浜・港北区】江戸時代初期の慶安二年(1649)に高7石の寺領を拝領。 江戸時代後期の文化三年(1806)、第二十二世證淵和尚により密教造りの本堂に改築された。
明治四年(1871)頃まで境内の一画に寺子屋があり、第二十三世興国亮淵和尚により「高田学舎」(高田小学校の前身)が設立された。 堂内には本尊の十一面観世音菩薩像の他、聖観世音菩薩、阿弥陀三尊、薬師如来、不動明王、地蔵尊、十王像、七福神など多くの仏像が安置されている。

落ち着いた雰囲気が漂う境内の正面に、破風に金ぴかの装飾金具が付けられた千鳥破風と軒唐破風のある本堂が建つ。 本堂前に鎖樋がない蓮花形の天水桶が置かれている。
3個の鰐口が下がる向拝の虹梁上や木鼻に精緻な龍の彫刻があり、木鼻の龍は向拝柱に巻き付くように施されていて迫力がある。 また、両破風の懸魚部に鳳凰とみられる彫刻がありこれも見事だ。 よく見ると、大棟や獅子口や鬼瓦だけでなく、掛瓦や軒丸瓦にも小さな「笹竜胆」の寺紋が入っている。
本堂左手の木陰に、塔身に種子が刻まれた重層の宝篋印塔と笠を乗せた石塔(笠塔婆と思う)がひっそりと立ち、笠塔婆の塔身に四方仏の種子と仏像名(正面は「釈迦像」)が刻まれている。
石塔の傍の石段上の一段高い所に、和様式建築で建てられた朱塗りの多宝塔が鎮座....上層に「薬王殿」の額が掲げられているので、二十五菩薩の一つの薬王菩薩を祀っているのだろう。

山門から眺めた境内..正面に本堂、直ぐ右手に手水舎が建つ

入母屋造本瓦葺の本堂..屋根に千鳥破風、向拝屋根には軒唐破風を設けている
 
本堂前参道にに置れた露盤宝珠を乗せた宝形屋根の常香炉/明治二十七年(1894)造立の石燈籠..古い台座の上に設置されたようだ

向拝前に蓮花形の天水桶が置かれているが鎖樋がない..向拝に3個の鰐口が下がる
 
装飾金具が付けられた千鳥破風に獅子口、軒唐破風に鳥衾を乗せた鬼瓦..大棟、獅子口、鬼瓦、掛瓦、軒丸瓦に「笹竜胆」の寺紋が入っている..両破風の懸魚は鳳凰の彫刻/彫刻が施された虹梁の上と木鼻に精緻な龍の彫刻..木鼻の龍は向拝柱に巻き付いている

入母屋造銅板葺の鐘楼..入母屋破風の懸魚は二重懸魚
 
木鼻に獅子の装飾彫刻が施された鐘楼と梵鐘/梵鐘に「南無本尊十一面観世音菩薩」の刻

本堂に向かって左手の一段高い所に建つ多宝塔

多宝塔への石段下に2基の石塔が立つ

上層に「薬王殿」の額が掲げられている多宝塔..薬王菩薩を祀っていると思う
 
下層は脇間が狭い方三間でご母子高欄を巡らす、板唐戸に連子窓などは和様式建築
 
明治十二年(1879)造立の重層の宝篋印塔..上下の塔身に種子が刻/文政十一年(1828)造立の笠付石塔(笠塔婆と思う)..四方仏の種子と仏名が刻され、正面は「釈迦像」と刻
 
注連縄が下がるので鎮守社か..注連縄は紙垂が付いた前垂注連/鎮守社の近くに佇む十三重石搭
 
本堂脇の狭い石段の上に建つ宝形造桟瓦葺の古い御堂..多宝塔建立前の旧薬王殿か?

本堂右手の客殿の玄関

客殿の右手に連なる庫裡
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興禅寺-(1) (横浜)

2018年01月23日 | 寺社巡り-神奈川

【横浜・港北区】平安時代の仁寿三年(853)、第3世天台座主慈覚大師(円仁和尚)が東国下降の折、この地で自ら十一面観世音菩薩像と勝軍地蔵尊像を彫って安置したのが開山の始まりとされる。 開山以後、度重なる兵火により伽藍を焼失したが、鎌倉時代後期の元応二年(1320)、時の領主であった桃井播磨守直常公により再建された。 宗旨は天台宗で、本尊は十一面観世音菩薩像。
武相不動尊霊場第7番、関東百八地蔵霊場第86番、准秩父三十四観音霊場第27番、横浜七福神福禄寿神、稲毛七薬師第6番の各札所。 六面に地蔵尊を刻んだ石幢は、鎌倉時代文保二年(1318)に直常公により寄進された。 

参道入り口の左右に福禄寿神像と新旧12体の六地蔵尊像が鎮座....満面に笑みを浮かべた福禄寿神が迎えてくれる。 下り坂の参道を進むと、門前に仏敵の侵入を防いでいる金剛力士像、本堂を向いて並ぶ「十二支守り本尊」、そして月待塔や供養塔が鎮座している。
虹梁上に七福神の装飾彫刻がある山門をぐぐると、直ぐ右手に起り屋根の手水舎があり、その右側の注連縄が張られた覆屋に、約700年前の鎌倉時代に造立された単制石憧が立つ。 また、単制石憧の直ぐ傍には、鎌倉時代か室町時代に造立された5基の古い板碑がひっそりと並んでいる。 いずれも貴重な石造物だが、特に憧身六面に六地蔵尊が浮き彫りされた単制石憧は珍しく、じっくりと拝観させてもらった。

下り坂になっている参道の入口..右に寺号標石、左に十一面観音菩薩と新旧の六地蔵尊像が鎮座
 
十一面観音菩薩碑..種子「キヤ」と本尊慈覚大師御作の刻/地蔵堂に鎮座する新旧12体の六地蔵尊像..堂内に舟光背型、堂前に丸彫りの地蔵尊が並ぶ..丸彫り像は平成元年(1989)造立で赤い帽子を被り前垂をしている
 
参道脇でにこやかな微笑みをたたえて参詣者を迎えている福禄寿神像

切妻造本瓦葺で袖塀を設けた山門..門前に金剛力士像が露座
  
阿形・吽形の力強い金剛力士像が鎮座し寺を仏敵から護っている/右側の金剛力士は金剛杵を振り上げ忿怒の形相

門前に本堂を向いて鎮座する「十二支守り本尊」..手前から阿弥陀如来・不動明王・大日如来・勢至菩薩・普賢菩薩・文殊菩薩・虚空蔵菩薩・千手観音菩薩の八体

門前の右手に「十二支守り本尊」に対面して佇む3基の石仏
  
月待塔の「二十三夜塔」..二十三夜の主尊は勢至菩薩/文化七年(1810)造立で兜巾角柱型の「秩父三十三番供養塔」..蓮華座で合掌する半肉彫りの観音菩薩像
  
安永八年(1779)造立の供養塔..念仏講中と観音講中による建立/門前に立つ明治初期造立の「芭蕉翁碑」と刻まれた石碑/山門袖塀に下がる「芭蕉翁碑」由来の説明板

山門の虹梁上に七福神の彫刻..木鼻は牡丹をあしらった精緻な獅子で、獅子が向拝柱に巻き付いているような彫刻

山門から眺めた境内..正面に入母屋造りの本堂、直ぐ右手に手水舎

切妻造銅板葺で起り屋根の手水舎
 
「盥漱」と刻まれた明治十二年(1879)造立の手水鉢/手水舎の傍に鎮座する子育て地蔵尊像

宝形造銅板葺で四方転び柱の覆屋に鎮座する石憧
 
鎌倉時代文保二年(1318)造立の単制石憧..憧身の六面に六地蔵尊が浮き彫りされている
 
単制石憧の傍に並ぶ5基の板碑(塔婆)..古そうだが、案内板から鎌倉時代か室町時代造立のようだ
  
寛延四年(1751)造立で竿が太くどっしりした石燈籠/前庭の植木の中に竿が半分まで埋まった織部石燈籠/横浜市の銘木古木指定の「モッコク」の前に鎮座する寿老人か
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本乗寺の石仏

2018年01月18日 | 石仏巡り

【横浜・港北区】本堂前に平成二十三年に造立された端正な姿の石仏が鎮座している。 石仏は、仏龕のように彫り窪められた中に、右手施無畏印で左手に数珠を持つ聖観音立像のようだ。
手水舎傍の覆屋に、舟形光背型石仏と青面金剛庚申塔が並んで鎮座している。 石仏は江戸中期に造立された宝冠をいただき智拳印を結ぶ大日如来立像だが、大日如来の石仏は珍しいと思う。 覆屋の傍に駒型文字庚申塔があるが、昭和初期の造立だ。
手水舎と壁の間に、窮屈そうに墓碑や石仏が並んでいる。 板碑型、舟形光背型、箱型、駒型などいろいろな形をした墓碑・石仏で、殆んど江戸期の年号が刻まれている。

本堂前に鎮座する平成二十三年(2011)造立の石仏
 
楕円の頭光と瑞雲が刻まれた舟形光背型の石仏..右手は施無畏印、左手に数珠を持つ聖観音菩薩(と思う)

覆屋に鎮座する2体の石仏
 
宝暦年間(1751~1764)造立とみられる舟形光背型石仏と造立年不詳の青面金剛庚申塔/昭和四年(1929)造立の駒形文字庚申塔
 
舟形光背型石仏は、宝冠を頂き智拳印を結ぶ大日如来立像/青面金剛庚申塔(日月、円光(法輪)、邪鬼、3猿)..合掌女人(ショケラ)をぶら下げているようだ

手水舎と塀の間に整然と並んだ板碑型、舟形光背型、箱型、駒型などの墓碑や石仏

手前左の舟形光背型聖観音石仏は正保年間(1644~1648)の造立、後方の板碑型墓碑は元禄十五年(1702)造立
  
手前の小さな石仏は正徳、明和、享保など1700年代の元号が刻まれている/元禄十三年(1700)造立の舟形光背型地蔵石仏/大きな地蔵石仏の右側に鎮座する石仏群

手前の石仏は右から享保九年(1724)、宝暦十一年(1763)、元文三年(1738)の造立..後方右の板碑型墓碑は寛延四年(1749)、次の箱型墓碑は宝暦十年(1760)、3番目の舟形如意輪菩薩石仏は宝暦の造立
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本乗寺 (横浜)

2018年01月13日 | 寺社巡り-神奈川

【横浜・港北区】戦国時代の天文二十三年(1554)、後北条氏の家臣・小幡伊賀守泰久が日逞和尚を開山に迎えて創建した。 小幡伊賀守泰久は天文年間(1532~1555)頃、近くの八杉神社の裏手にあったとされる大豆戸城(別称:安山城、小幡泰久館、小幡氏館)という平山城に居住していた。
小幡泰久はもともと足利氏の一族である今川氏に仕えていたが、後に後北条氏に従い、永禄元年(1558)伊豆戸倉の合戦で討ち死にし、本乗寺に眠っているようだ。 宗旨は日蓮宗で、本尊は十界曼陀羅。

木立の先の小さな山門を見ながら参道を進む…門前に鎮座する左右とも阿形の狛犬が迎えてくれる。 擬宝珠高欄を設けた階を上がり山門をくぐると、緑に囲まれた静謐な境内が広がる。 本堂前に美しく緑青が浮き出た梵鐘がで~んと置かれているが、境内を見回しても鐘楼がない。
山門脇に切妻造本瓦瓦葺の手水舎があるが、その重厚な造りから元は鐘楼だったのではないか....と思った。 手水舎の隣の小さな覆屋に舟形光背型石仏と青面金剛庚申塔が鎮座しているが、石仏は宝冠をいただき智拳印を結ぶ珍しい大日如来立像だ。 覆屋前右手に駒形の文字庚申塔が立つが、昭和初期に造立されたもの。 堂宇境内や墓所に多層塔や石燈籠などの石造物があるが、比較的近年に造立されたものが多い。
 
参道から眺めた山門/袖塀を設けた山門と左手に手水舎..門前左右に阿形の獅子の狛犬が鎮座し、寺号標石が立つ

切妻造桟瓦葺で四脚門の山門..寺号標石は嘉永三年(1850)造立

虹梁上に龍の、木鼻は獅子と獏の彫刻
  
門前に装飾彫刻が施された台座に2頭とも阿形の獅子の狛犬が鎮座/門前の路傍に佇む2基の石燈籠

入母屋造桟瓦葺の本堂

本堂入口の扉は桟唐戸で脇間は全面が腰高の格子窓..本堂前に梵鐘が置かれている
 
虹梁上と木鼻の勇ましい龍の彫刻はいずれも精緻/赤い絨毯が敷かれた向拝に鰐口が下がる

本堂前に石仏、石燈籠そして梵鐘が置かれているがいずれも近年の造立で新しい
  
平成二十三年(2011)造立の石仏は聖観音菩薩(と思う)、平成二年(1990)造立の石燈籠/梵鐘は平成十四年(2002)鋳造..開口部が波を打っている/梵鐘龍頭は勇ましい姿の龍
 
本堂の正面と側面の廻廊にずらりと下がる釣燈籠群
 
本堂後方の建物..2重の切妻破風の入口に題目塔、狛犬そして卒塔婆が置かれているが近代的な御堂か
 
山門傍に建つ重厚な切妻造本瓦葺の手水舎/手水舎の後方(塀側)に板碑型、舟形光背型、箱型、駒型など多くの墓碑・石仏が鎮座

覆屋に鎮座する舟形光背型石仏と青面金剛庚申塔..いずれも造立年不詳だが石仏は宝冠をいただき智拳印を結ぶ大日如来立像..右手の駒形文字庚申塔は昭和四年(1929)造立
  
造立年不詳の十三重層塔..軸部に四方仏、基礎に格狭間/寛永十年(1633)造立の墓碑の宝篋印塔..搭身に輪郭を巻いて題目、相輪部は宝珠と伏鉢で妙と法の刻/造立年不詳の「帯塚搭」(と思う)
  
昭和六十一年(1986)造立の十三重層塔..軸部に霊の異体字、基礎に格狭間/寛政萬々年造立の題目塔..開祖日蓮大菩薩と開山日什大正師の刻/本堂前にある明治十四年(1881)造立の報恩搭
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金蔵寺の石仏

2018年01月10日 | 石仏巡り

【横浜・港北区】観音堂の前庭に珍しい四方仏型の飾手水鉢を見つけ興奮した。 側面の四方に挙身光に彫り窪めた中に様々な印相の如来坐像が浮き彫りされているもので、初めて見る飾手水鉢だ。 また、絢爛な天水堂(手水舎)の右手に立つ「水天堂」の石塔に、磐石座上で右手に剣、左手に羂索を執る水天像が線刻されているが、線刻の水天像を拝観するも確か初めてだ。
地蔵堂の六地蔵尊像の他、本堂裏山の奥之院などに幾つかの石仏が鎮座している。 中でも、岩窟不動堂内に安置されている江戸初期造立の舟形光背の千手観音像と聖観音像、そして山腹に建つ奥之院不動堂に鎮座する火焔光背の不動明王像はいずれも整った形像で素晴らしい。 殆ど風化していないので、しっかりと造られた石仏であることが分かる。
 
本堂前左手に平成二十八年(2016)造立の釈迦如来坐像が鎮座/釈迦如来坐像は蓮華座に法界定印を結び結跏趺坐で鎮座
 
観音堂前庭にある四方仏型飾手水鉢に彫られた石仏..挙身光に彫り窪めた中に如来坐像が浮き彫りされている
 
昭和四十四年(1969)造立の絢爛な水天堂の右手に水天像が線刻された「水天堂」の石塔/線刻された水天像(水を司る龍神で西方の守護神)..磐石座に立ち右手に剣、左手に羂索を持つ

六地蔵尊像が鎮座する切妻造銅板葺の地蔵堂..「古材使用 駒林の大谷戸の長者柱の一部分」とある..地蔵堂の左に浮き彫りされた地蔵尊像が鎮座
 
昭和四十二年(1967)造立(とみられる)の厚肉彫りの地蔵尊像/六地蔵尊像の前左に蓮華座に地蔵尊像、右に経を読む地蔵坐像が鎮座その前に仏頭が置かれている
 
奥之院不動堂への参道入り口に鎮座する青面金剛庚申塔/青面金剛庚申塔(日月瑞雲、2鶏、邪鬼、2猿)..髪の毛を掴んで人を釣り上げている
  
日𠮷山王権現           岩窟の奥之院弁天..石祠がある  岩窟の不動堂

岩窟不動堂内に鎮座する3石仏..火焔光背の不動明王、舟形光背の聖観音菩薩と千手観音菩薩
  
左は寛永十九年(1642)造立の千手観音菩薩/中央は造立年不明の不動明王/右は寛文元年(1661)造立の聖観音菩薩..右手与願印で左手に未開蓮
 
裏山の中腹に建つ奥之院不動堂/磐石座上に鎮座する火焔が線刻された舟後光型不動明王立像..宝剣と羂索を持つ

墓所への門前にある墓碑が積み上げられた三界萬霊塔
  
三界萬霊塔..殆どが江戸期の年号を刻む舟型光背石仏や板碑型の墓碑群/頂部に寛文三年(1663)造立で、錫杖と如意宝珠を持つ舟形光背地蔵石仏が鎮座
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金蔵寺-(2) (横浜)

2018年01月07日 | 寺社巡り-神奈川

【横浜・港北区】江戸時代、徳川将軍家の庇護を受け、徳川幕府から寺領10石7斗の御朱印を拝領し、多くの末寺を擁する本寺格の寺院に。 三代将軍徳川家光が開基した寛永寺(関東天台宗の中心・徳川家の菩提寺)の末寺となり、関東の檀林寺に指定され、末寺五十二ヶ寺を統轄する中本山として栄えた。 慶長八年(1603)に徳川家康・秀忠父子により寄進された梵鐘を有している。

本堂左手の地蔵堂の前を通って本堂左後方に建つ辯天堂に....。 辯天堂は上下屋根に唐破風を設けた重層で、下層は極彩色の彫刻や絵などでけばけばしく装飾されている。 下層の階を上ると、狭い平地に丹塗の明神鳥居を従えた稲荷社と石祠が鎮座。 そこから四段ほどの階段を上り、辯天堂上層の回廊を進んで正面に....堂内を拝観すると本尊の弁財天が安置され、弁財天に寄り添うように打出小槌を持つ大黒天と天邪鬼を踏みつける毘沙門天が鎮座している。
辯天堂から裏山の中腹にある奥之院不動堂に向かう....参道には朱塗りの社に青面金剛庚申塔と日吉山王権現が鎮座、また山裾の岩窟内に奥之院弁財天、更にその先の岩窟内に不動明王像を中心に左右に千手観音像と聖観音像が並んで山麓の本堂を見守るように鎮座している。 奥之院不動堂に安置されている石造不動明王像に合掌して堂宇境内に戻る。
墓所側に建つ観音堂の周りにたくさんの石造物や石仏が佇んでいるが、中でも特に、鎌倉時代と室町時代に造立された古い3基の板碑、そして初めて見る珍しい四方仏型飾手水鉢と読誦塔に興味を引かれた。

本堂左奥に建つ重層の辯天堂..上下層に獅子口を乗せた軒唐破風を設けている

虹梁上下に彩色された龍、鳳凰、飛天などの装飾彫刻が施されているが、白っぽい彫刻は鏝絵のようにみえるが..
 
下層内の壁面と天井に装飾画や装飾彫刻が施されている/辯天堂の上層に擬宝珠高欄を巡らし、開閉式の脇障子が設けられている
 
.露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の辯天堂の上層/上層に祀られている本尊の弁財天、左に大きな袋を背負い打出小槌を持つ大黒天、右に邪鬼(天邪鬼)を踏みつける毘沙門

辯天堂の下層の階を上った狭い平地に鎮座する丹塗の明神鳥居を従えた稲荷社と石祠

奥之院不動堂への参道入り口に鎮座する青面金剛庚申塔と日吉山王権現
  
天保八年(1837)造立の奥之院弁財天/岩窟内に鎮座する弁財天の石祠/岩窟に鎮座する不動堂

左から寛永十九年(1642)造立の舟後光型千手観音像、火焔光背の不動明王像、寛文元年(1661)造立の舟後光型聖観音像
 
本堂裏手の山腹に建つ入母屋造桟瓦葺の奥之院不動堂/磐石座に鎮座する舟後光型不動明王像

本堂前の左手に建つ入母屋造桟瓦葺の観音堂
 
入母屋造桟瓦葺の観音堂/四方仏形の飾手水鉢..挙身光に彫り窪めた中に如来坐像が浮き彫り

観音堂脇の塀際に佇む石造物群

5基の石塔..右端は安永三年(1774)造立の尖頭角柱形「敷石供養塔」
  
2基の大乗妙典六十六部供養塔..右の笠付角柱形は安永九年(1780)、左の平頭角柱形は文化十四年(1817)造立でいずれも日本廻國と刻む/造立年不詳の異形の笠を乗せた宝篋印塔型読誦塔/享保七年(1722)造立の石塔..「法界一切含識」の刻..上に如意宝珠を持つ地蔵尊像が鎮座

阿弥陀の梵字キリークが薬研彫りされた3基の板碑..右は室町時代嘉吉四年(1444)造立、中央は鎌倉時代建武元年(1336)造立、左は鎌倉時代嘉暦元年(1326)造立で三尊阿弥陀仏

墓所への門前にある三界萬霊塔..多くの墓碑が積み上げられている

観音堂の後方に鎮座する7基の宝篋印塔等の石造物群

宝篋印塔の右手に4基の供養塔が立つ..右から2基目は角柱型供養塔で上の蓮華座に与願印と施無畏印の如来立像(多分釈迦像)が鎮座、右の燈籠型供養塔は笠部に梵字、竿部に「地蔵尊」の刻
 
文政五年(1822)造立で唐破風形笠付の「百番供養塔」..西国、秩父、坂東を刻む..右側面に天保十一年(1840)の刻/文化七年(1810)造立で唐破風形笠付の「百番供養塔」..出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)を刻む..右側面に文政七年(1824)の刻

入母屋造銅板葺の客殿の玄関か..照り起り屋根のように見える
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金蔵寺-(1) (横浜)

2018年01月04日 | 寺社巡り-神奈川

【横浜・港北区】平安時代の貞観年間(859~877)、第56代清和天皇の勅願により、比叡山延暦寺第5世座主で天台宗寺門派の祖・円珍(智証大師)が東国教化の際に創建したと伝える。 母が空海の姪である円珍は、弘仁五年(814)に讃岐国の金蔵郷で生まれた。 円珍は自ら本尊の大聖不動明王像を刻んで御堂に安置し、また比叡山の地主神の日吉社(山王権現)を勧請して守護神とし、寺院を開基した。
創建当時は頭塔23ヶ寺を擁する大寺院で、鎮護国家祈願の勅願寺であり、また修験者の一大安居道場でもあった。 宗旨は天台宗、本尊は智証大師作の大聖不動明王像。 関東三十六不動尊5番札所、武相二十八不動尊8番札所、関東百八地蔵尊霊場85番札所、准秩父三十四観音霊場3番札所そして横浜七福神の寿老人を祀る。

門前に重厚な石燈籠と3基の石碑が立ち、「鎮護国家道場 金蔵寺」と刻まれた寺号標石と「比叡山根本中堂不滅之法燈御分燈奉安」と刻まれた霊場標石が歴史を刻んできた古刹を感じさせてくれる。
山門を通して極彩色に彩られた燈籠が見える。 山門をくぐると境内は厳かな空気に包まれ、正面に本堂、右手に唐破風を設けた屋根の手水舎、左手に観音堂が建つ。
本堂前には、山門から眺めた木造の燈籠が礼盤座のような台座の上に立っているが、極彩色の装飾彫刻が施されていてまるで芸術作品のようだ。 また、「水天堂」と呼ばれる手水舎も同じように、彩色された装飾彫刻がこれでもかと言わんばかりに施されているが、静かに身を清める所にしてはあまりにも絢爛では....と、つい感じてしまった。
山門の右手に鐘楼があるが、防犯の為か、鉄柵でがっちりと囲まれていて近づけない....徳川家康・秀忠父子寄進の貴重な梵鐘が釣り下げられているからだろうが、梵鐘に刻まれた銘文を拝観したかった。

門前に立つ3基の石碑..寺号標石に「鎮護国家道場金蔵寺」の刻、霊場標石に四霊場と「比叡山根本中堂不滅之法燈御分燈奉安」の刻

門前に立つ大きく重厚な石燈籠と七福神の霊場標石
  
天保十二年(1841)造立の重厚な石燈籠/「港北七福神 寿老神」の霊場標石/山門に掲げられた「清林山」の扁額

切妻造桟瓦葺の山門..棟門の内側に瓦屋根を乗せた梁を伸ばして控柱を設けた高麗門形式

山門から眺めた境内..正面に本堂、右手に水天堂、左手に観音堂が建つ

入母屋造桟瓦葺の本堂..正面に1基の木造燈籠が立つ

向拝前に回向柱、常香炉そして両側に石燈籠が立つ
 
紙垂が付いた注連縄が下がる三間の向拝..鰐口と2つの大念珠が下がる..虹梁上の3頭の龍と木鼻の獅子と獏の精緻な彫刻
 
本堂前に回向柱、常香炉、1基の木造燈籠、2基の石燈籠、九重層塔/本堂前左手で瞑想する釈迦如来像..法界定印を結び結跏趺坐で鎮座
 
礼盤座のような台座上に立つ木造燈籠..極彩色の装飾彫刻が施された珍しい形/九重層塔は昭和五十一年(1976)造立、石灯籠は昭和五十四年(1979)造立

本堂前の右手に建つ、前後に唐破風を設けた切妻造銅板葺の「水天堂」

豪華絢爛な水天堂..右手に「水天堂」の石碑
 
極彩色で美しい装飾彫刻が施された「水天堂」..正面の柱の昇降龍など多くの彫刻が施されている
  
手水鉢の龍の水口/左右の高欄柄の台を支える邪鬼/昭和四十四年(1969)造立の「水天堂」の石碑..線刻された水天像は磐座に立ち、右手に剣、左手に羂索を持つ
 
「本堂改修記念碑」と手前に力石                    四拾五貫目(約170kg)の重さの力石
 
切妻造桟瓦葺の鐘楼..梵鐘は徳川家康&秀忠父子の寄進/懸魚は蕪懸魚、虹梁に本蟇股と大瓶束

本堂前左手にある切妻造銅板葺の地蔵堂..「古材使用 駒林の大谷戸の長者柱の一部分」とある
 
絢爛な装飾彫刻などが施された地蔵堂に鎮座する六地蔵尊像
 
貞享五年(1688)造立の六層石塔..台座に五重層石塔と刻まれているので初層は後補..後方に地蔵像が浮き彫り/造立年不明の織部型石燈籠..竿上部にアルファベットを組合せた記号が陰刻、下部に浮き彫り像(地蔵尊か)

地蔵堂前から眺めた本堂左奥に建つ辯天堂       
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瑠璃光寺 (山口)

2018年01月01日 | 寺社巡り-山口

【山口・山口市】室町時代文明三年(1471)、大内氏の重臣で陶氏7代当主・陶弘房の夫人が夫の菩提を弔うため、仁保高野(山口市)に仏宗慎悟(石屏子介)禅師を開山として創建した安養寺が前身。
室町幕府第3代将軍・足利義満と対立して応永の乱を起こした室町前期の武将・大内義弘(大内氏25代)が、現在の地に臨済宗寺院の香積寺を建立した。 応永の乱で戦死した大内義弘の菩提を弔うため、弟の大内盛見(26代)が香積寺の寺域に五重塔の建築を進め嘉吉二年(1442)頃に完成したが、盛見は永享三年(1431)の九州の少弐氏・大友氏との戦いで完成を見ずに戦死。 安養寺は明応元年(1492)に瑠璃光寺に改称された。
慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦後に萩入りした安土桃山時代の武将・毛利輝元(毛利元就の孫)が、五重塔だけを残して香積寺を萩に移した。 その後、江戸時代の元禄三年(1690)、香積寺の跡地に仁保の瑠璃光寺が移転されて現在に至る。 宗旨は曹洞宗で、本尊は薬師如来像。

寺号標石と「不許葷酒入山門」と刻まれた戒壇石が立つ門前に立つと、緑の山と深い樹林を背景にして瑠璃光寺が鎮座している。
正面奥に小さく見える中門を眺めながら進むと、境内は古刹らしい森厳さを漂わせている。 直ぐ右手に放生池とみられる池があり、池の畔の樹林の中に、燦々と日差しを浴びる檜皮葺の重厚な五重塔が立つ。 水面には美しい姿の五重塔と池の辺の緑の植え込みが映っていて実に美しい。
参道を進んで中門に....驚いた、門前に「不許葷酒入山門」と刻まれた戒壇石があるのに、中門の横の店に「あま酒」の看板が....。 甘酒とはいえ不謹慎ではと思いながら中門をくぐって堂宇境内に。
左右に階段の回廊があり、正面の階の上に入母屋造瓦葺で妻入りの本堂が建つが、浅い波状の独特の瓦が葺かれ、妻面側の屋根が異様に大きく見えて、何か不思議な感じがする造りだ。
日本三名塔の一つとされる瑠璃光寺五重塔は、古色蒼然たる佇まいで歴史を感じさせるが、近くでみるとかなり傷んできているのが見て取れ、気になった。
 
両側に白壁の築地塀が続く門前に立つ戒壇石..「不許葷酒入山門」の刻/横長の寺号標石..境内参道奥に中門と本堂屋根が見える

寺号標石と白壁の築地塀越しに眺めた五重塔

境内に入ると直ぐ右手に池(放生池か)あり、水面に五重塔と植え込みが映っている
 
前身の香積寺の遺構の檜皮葺の五重塔(国宝)..室町時代嘉吉二年(1442)頃の建立/高さは相輪尖端まで31.2m、各層軒が広く張出し、屋根勾配は緩い、塔身は上層ほど間を縮めて胴を細く見せている
 
建築様式は板唐戸・連子窓・間斗束中備など和様..ただし二層目回縁高欄の親柱に逆蓮頭が乗っていて禅宗様を採り入れている

瑠璃光寺五重塔は日本三名塔の一つに数えられるが、流石に美しい搭だ
 
門柱近くから眺めた参道と中門  中門の両側に桟瓦葺の回廊が続く

切妻造本瓦葺の中門..確か柱が4本だから薬医門だつたか
 
「保寧山」の扁額が掲げられた中門/中門の左廻廊の先に寺務所・庫裡などが建つ

左側階段廻廊から眺めた本堂前階下の境内
 
参道左手に佇む慈母観音像とわらべ地蔵像/自然石で造立された手水鉢..池は放生池か、奥は左側の階段回廊

参道右手に立つ石造五重塔と袴腰鐘楼..奥は右側の階段回廊
 
平成四年(1992)造立の石造り五重塔..五重塔創建五百五十年を祈念し、維持保存してきた諸先賢の霊の供養のため建立/入母屋造桟瓦葺の袴腰鐘楼..上層回縁に組高欄を設けている

石段上に建つ入母屋造で妻入の本堂..本堂前の広い石段下に身代わり地蔵と閻魔大王が鎮座
 
切妻造桟瓦葺御堂に鎮座する身代わり地蔵/後生車の上の切妻造桟瓦葺御堂に鎮座する閻魔大王

入母屋造桟瓦葺の本堂..妻面側の屋根が異様に大きく見える..正面身舎に裳腰

浅い波状の独特の瓦が葺かれている
 
大棟に獅子口が乗る..妻飾は二重虹梁大瓶束、懸魚は三花懸魚/本堂前にある佛足石..蓮華上面に足跡が刻まれている

本堂の外陣..内陣の奥に薬師如来像が鎮座
  
外陣前に鎮座する弥勒菩薩の化身とされる布袋像と十六羅漢の第一尊者の賓頭盧尊像/向拝横に置かれた「佛心」と書された巨大な御飯箆

本堂右手に建つ切妻造桟瓦葺の薬師堂..身舎正面に裳腰
 
薬師堂に鎮座する薬師如来坐像..法界定印で薬壷を持つ/向拝に大きな数珠が下がる

薬師堂後方の高台に鎮座する金毘羅神社..創建は南北朝時代貞治三年(1364)で、大内氏一族の鎮守神として香川県の金毘羅神社本宮の御分霊が勧請された
 
切妻造銅板葺の社殿(流造か)/金毘羅社近くで五重塔を向いて鎮座する4体の丸彫り石仏(羅漢像か)
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