FUNAGENノート

私の考えたことや、読書から学んだことを伝えます。
私の脳は書いたり読んだりすることで研ぎ澄まされると思っています。

認知症予防と感性の役割

2017-06-04 15:59:21 | コラム
認知症予防と感性のはたす役割を考える
 ちょっとした所用で、札幌へ行ってきた。時間ができたので、有料の介護施設のある高齢者マンションに入居している方を見舞った。
 そこで、感じたことを述べてみよう。お会いした時、異様に感じたのは全く感情を表に出さないことだった。はるばる東京から来てくれたことも、しばらく会っていなかったことも、喜びの会話が飛び出してこないのだ。だから、一方的なこちらからの話しかけとなってしまう。ひょっとしたら、私たちが誰かも分かっていないのかもしれない。表情にも感情が表現されていないのだ。まるで、仮面のような顔立ちであった。でも心の内面はどうなのかを知るべきもない。
 一方、畑作りを楽しんでいる、先輩であるかつての同僚に出会い、懐かしい会話を交わすことができた。少なくとも彼は、農作物の世話を通して、植物との対話に感性を働かせているのであろう。とても、すばらしい事だ。
 一方、茶道(これはこれで奥が深い)の師匠さんの宅では、庭の花のこと、野花のことが話題になり、とても感性の豊かな方に出会い、ひと時を過ごした。
 ところで、少なくても認知症予備軍にしても、現に認知症の人も、人生のプロセスのなかで、感動するとか、反対に怒りの感じを表現するとか、なぜだろうの疑問などを発する感性が、生きて働く機会にあまり出会うことがなかったのではないだろうか。つまり、感性が働く存在に接してこなかったのだろう。
 先のエッセイで、私は考えるということの再考の中で、いろいろ考察した。その中にヒントはあると自負してる。(私の考えは、フランスの哲学者「デリタ」や「ドゥルーズ」そして「その日本人の研究者たち」からの影響を受けながら、自分なりに編曲や翻訳したもの(自分のコトバで表現したもの)が基盤になっている。)つまり、現前する存在にいつも目を向け、それに感動したり、課題を見つけたり、世相の様相を感じ取ったり、すべからく感性のなせる技だと思う。
 何らかの形に、文化活動(ここで言っているのは、もっと広い意味での活動・活動すべて・・自然・動植物観察、スポーツ、学術活動など・・)に関心を示し、好奇心を抱いている人は、たぶん認知症にはならないと思う。当然アルツハイマーとか、脳梗塞、脳溢血などの病の影響もあるだろう(そのことについては、勉強不足ではっきり私にはいえないが、例えばむちゃくちゃな食生活や生活習慣など影響している場合もあろう)が、ふつう一般的な場合には、少なくとも感性(五感全体が働きかける感性)を働かせることこそ、必要なことなのだ。
 そういう体験を常日頃から行っていくことが必要で、それも一つのことをもとに、広く多くの現前する存在に目を向けることによって、ものの考え方が、案外同じように展開されていることに気づくというものだ。孔子の「一隅を持って三隅を照らす」という言葉がある。もちろん、それはそれとして、一つでもやらないよりは、やるにこしたことはないだろう。
 しかし、広範に、対極的、分け隔てなく(先入観を持たず平等)にものを見るには、広く多くの存在に目を向けることは、自分のやっていることを、より深いものにするものだ。しかも、自分のコトバで心の通った表現をすることこそ必要であろう。それこそ、認知症予防の最大の特効薬だと思っている。まさに脳は使うことによって、活性化するものだ。
 いずれにしても、「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」と、そしてその逆の「健全なる肉体は健全なる精神に宿る」ことも大事にしたいものである。


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