FUNAGENノート

私の考えたことや、読書から学んだことを伝えます。
私の脳は書いたり読んだりすることで研ぎ澄まされると思っています。

郷愁と現実の狭間で

2017-05-20 12:18:02 | コラム
 郷愁と現実の狭間で
 現在81歳の私は、戦争体験(小学校3年生ごろ)、樺太からの引き上げ、戦後の混乱期、復興期、高度経済成長期、バブル崩壊、現在の低成長期と過ごしてきました。
 今、郷愁として残ることは、たくさんあるのですが、ここでは、今日的問題として、私がもっとも憂慮していることを話題にするために、学生時代のことに触れたい思います。
 私の学生時代といいますと、昭和32年から35年ということになります。石橋内閣総辞職と岸内閣成立、東海村原子力発電所に原子の点火、ソ連、世界初の人工衛星「スプートニク号」の打ち上げ成功、カラーTV実験放送開始、コカコーラの日本発売開始などがあったのが、昭和32年です。この年にわたしは大学へ入学しました。
 昭和34年から35年にかけては、いわゆる60年安保闘争があり、闘争は、戦後最大規模に発展しました。わたしは、安保闘争の最中の昭和35年に卒業しました。学生時代は、連日デモが行われていました。
 そんな中、よく喫茶店で政治、経済、哲学、文化、科学などが話題にのぼり友人と議論したものです。夜中に下宿の隣人から、「いつまでやっているんだ。」とおしかりを受けたこともありました。もちろん、当時は東西冷戦という中での論争で、今考えれば、問題をいろいろと抱えていたことは確かですが、いずれにしても、こういう議論が学生の間で行われていたことは事実です。
 そこでは、私たち学生の学んでいる学問について、論じることも当たり前になっていました。その当時、私は心理学や数学を学んでいましたが、我々の学ぶべき心理学は何かなども論議したことがありました。当時、アメリカの行動主義心理学しか講義しない教授に対して、教授室におもむき、「もっと欧州の心理学も教えてほしい、ネズミの心の心理もよいのですが、人間の心の心理をもっととりあげてほしい、欧州の心理学は、人間をあつかっています。私たちは人間でネズミではありません。」と抗議したことを覚えています。
 私たちの時代は、行動主義心理学(刺激ー反応の心理学とも言われる)は、ネズミに刺激を与え、その行動を観察するということで、心理行動をとらえようと考えるのが支流でした。
 そのころ、ヨーロッパでは、言語心理学、精神分析学、ピアジェの発達理論、ゲシュタルト心理学などが盛んでした。どうも、アメリカと欧州大陸の科学に対する考え方の違いはいまも続いているように感じます。
 いずれにしても、私たちの時代の学生気質は、今の学生気質とはまったく違うと感じます。少なくとも、私たちの時代は、政治や経済や哲学を語ったものです。ところが、今はさんざんたる状態です。
 そんな中で、論文を発表したり、著者となってがんばっている若い人をみると、彼らが「自分たちは絶滅危惧種みたいなものなのです。」とうのもよくわかります。ですから、空気になじめず、大きな空気にのまれてしまい、絶滅の憂き目にあっているのです。そういう本を読む私も、ごたぶんにもれず絶滅危惧種なのでしょう。
 どうして、こうなってしまったのでしょうか。一番の要因は、東西冷戦の終焉でしょう。それまであった、東西対立の中に位置づけられたイデオロギーの対立軸がなくなったことでしょう。
 資本家対労働者の対立軸が、不明確になったのは、政党の政策や労働運動にも影響し、いまや、労働組合は、あってないような状況です。政党にいたっては、おなじようなことを、うまい言葉で、まるでデパートのバーゲンセールのように、コマーシャルを連発しています。政党間の間に対立軸がみえません。
 しかも、彼らは世の中の空気を読むことにだけ、励んでいます。だから、当選しそうなグループを目指して、離合集散にあけくれます。しかも、彼らの多くは、富裕層で貧乏人の気持ちなどわかっていないのです。政治家だけでなく、空気を読むのは、私たち日本人の特技のようで、高齢者も中年、若者、学生、児童生徒もみなそうです。政治家もその仲間です。そして、その特技(空気を読む技)の欠けた人たちは、いじめにあっている社会です。
 もっとも、今振り返ってみると、当時激しかった労働運動も、自分たちの待遇改善だけ、貧困層をどうやって救っていくか、日本の国の行く末など真剣には考えていなかったように思います。おまけに、組合員には、確固としたイデオロギーがあるわけでなく、そこの空気を読んで行動に参加していただけのように思います。(私も、当時組合員でしたから、よく実感しています。組合の指示に従わなければ、それこそいじめや仲間はずれにあう。)
 それが、今も尾を引いていて、話題は食べ物のことや健康の話ばかりで、それは全体の空気がそうだからでしょう。もし、その場で、今の世の中の現状など話題ににしたものなら、「そういう難しい話はせっかく楽しんでるのにしらけるからやめて。」ということになります。若者も、TVの放映でも、食べ物の話題となると、生き生きしています。そして、政治、経済、芸術の話となると、「むずかしいことは、わからない。」となってしまっています。そんなに難しいのでしょうかね。そのせいでしょうか、NHKでは、学校ごっこみたいなまねをやって、クイズまがいの番組を放映していますね。解説者もわからない人に説明するような、上から目線を感じて、あまり関心できません。言葉使いもあまり感じがよくありません。私たちは、生徒でも学生でもないのです。
 私は、現在の対立軸は、分断社会にどう立ち向かうか、格差社会にどう対処するかを巡っての対処方法のちがいだと思います。
 あくまでも、「新自由主義をつらぬき、自己責任を主張し、実力のあるものは、裕福になる。能力のないものは、いたしかたないが、そのうち貧乏人にも恩恵がくると考える」か、そうではなくて、「新自由主義は、競争を激化させ、格差拡大をまねく。だから、進学や仕事の機会を平等に与え、互いに助け合い、最低限の文化生活を保証する社会、共生社会を目指のすか」という二つの対立軸だと思うのです。その対立軸が見えなくなってしまっているのです。
 それにしても、日本では、あまり分断化に関心がないようです。世界を見渡すと、アメリカやヨーロッパでは、この分断化がとても深刻です。現地に詳しい日本人や研究者が、いろといろと報告してくれています。TVや新聞、あるいは書物で、そのなまなましい状況が伝わってきます。そこでは、学生を含む国民たちが、抗議の声をあげているのをよく見ます。
お隣の韓国でも、アメリカでも、そして欧州の国々でもです。
 ところが、日本はなんて平和なんでしょう。表向きはすくなくともそう見えます。しかし、本当にそうでしょうか。それは、たぶん自分たちの近くでは、なにごともなく、ともかく平和なんでしょう。なぜなら、そういう同質の共同体のなかだけで暮らしているからです。
 非正規雇用者と正規雇用者の格差、過重労働の問題、貧困者の増大、自殺者の増加、毎日のように報道される悲劇的事故、事件の数々、少子高齢化など多くの問題を抱えているのです。それから、移民ではないけれど、外国人が、抜け道を使って、低賃金で働いているのが現実です。慢性的な人手不足が、それに拍車をかけているのです。
 分断は、日常のこんなところで見られます。たとえば高齢者と若者の分断です。SNS活用を使いこなす世代と、ITにはまったく疎い高齢者の住む世界がちがうのです。
 また、高齢者の間でも、過去の仕事の関係で、年金支給額もちがいます。だから、そこでも住む世界がちがっています。有る程度の年金をもらっている方は、みな高齢者は自分と同じような年金をもらっていると思い込み、なんら問題にしていない。(なぜなら、そういう仲間しか集まらない共同体にいるからです。)
 非正規雇用者と正規雇用者のあいだでも、当然分断がおこっています。所得格差は、生活自体に格差を生みます。大学時代同級生であっても、どちらの雇用になるかによって、高級な物(食べ物、持ち物、服装など)に格差ができ、まともにつきあいきれない非正規雇用者がふえていて、そこでも、しんこくな分断が起きているのです。
 ところが、その分断を意識して感じようとしないのか、周囲が見えずに感じていないのか、どちらなのでしょうか。それは、たぶん徹底した個人主義になってしまい、あたりが見えない人間になってしまっているのでしょう。とにかく、自ら現前する存在を見ようとせず、流されてくる情報に右往左往しているのが今の日本人の姿です。しかも、個人主義は、副産物として、人権思想の欠落を生みます。
 その個人主義が、現政権の正体を見破ることができず、少しでもお金が増えているので、(はたして、増えているのでしょうか、増えている人は恵まれた環境の人でしょう。)今も、なんとなく支持しているのでしょう。もちろん、野党もだらしないと思います。もっと、アメリカのサンダース氏や英国のコービン氏のような人物が、表に出てくるような状況は、日本では考えられないのでしょうか。対立軸をきちんと掲げた政治集団がどうして生まれないのでしょうか。日本人は、どうして笛ふけど踊らずなのでしょうか。昔のことを思い出しながら、現代社会の問題を考えてみました。


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表現の豊かさ、貧しさ

2017-05-17 16:59:17 | コラム
表現の豊かさ、貧しさ
 先日TVで、海岸の清掃をやっているボランティアのことが、放映されていた。TV記者が、中学生ぐらいの子に、感想を聞いたら、ただ、「おもしろかった。」とう答えが返ってきた。こういう答えは、どのイベントのあとでもよく聞かされる。「おもしろかっった。」「楽しかった。」などなど。記者の聞き方もおざなりなのであろう。
 教育の現場では、授業中の「発問」も、教師の研修の対象となっている。どう児童生徒の考えや思いをひきだすかの「問いかけ」の研修である。
 それはともかく、海外番組などで、記者がこどもに訪ねると、たとえばさきの海岸の清掃の場合だと、こう答えが返ってくるだろう。「こんなにゴミが散らかっていたとはね、私たちは、もっと気をつけなければね。」
外国の人の方が遙かに豊かな表現となっている。
 上の例は、こどもの場合だが、大人の言葉も最近は、あまり豊かでない、しかも下品な言葉が反乱している。ことばの乱れはそうとうなものだ。
 そう言えば、最近歌われる歌の詩も、あまり美しく感じないのは私だけだろうか。TV番組に交わされる会話も、そうとうの乱れである。それはTVドラマにも波及している。
 もう一つ気になるのは、SNSの影響で、言葉がやたらと省略型となり、わたしにはわからないこともある。
 つまり、あまりままの存在を断片化してしまっていることによって、流麗なる美しさが、損なわれてしまっているのだ。そこにはとげとげした、ぎざぎざした、ごちゃごちゃしたゴミ屋敷の中にいるよな感じが残るだけだ。
 もう一つ、問題に思っているのは、若者の読解力のなさである。とくに
長文は、もっとも彼らの苦手とするところだ。長文は、いろいろな糸で紡ぎられていて、それを解きほぐすという作業が必要なのだが、それができない。マンガのように断片化しなければ理解できないようだ。
 そこから、文章の綴るう美しさを味あう体験不足にますます拍車がかかかり、表現の貧困化をまねくこととなっている。それを克服するためには、どうするか、それはやはり実際に長文に触れることだ。文学でもいい、哲学や評論でもいい、あるいは学術書でもよい。
 難しい表現を、自分のコトバに置き換える作業をすることだ。
 こんな事例がある。
 「オランダ語しか知らない学生に、ある書物の半分をフランス語の原文を暗証させた後、後の半分はフランス語で物語ることができるように読んでみなさいという指導をしたら、自分たちの読みとったものを、すべてについてフランス語で書くようになった。」(無知な教師ー知性の解放について・法政大学出版局・ジャック・ランシエール著・梶田裕&堀容子訳)
 この事例のようにわたしたちが取り組むとすると、幸い私たちには、日本語の書物(フランスやドイツ、アメリカなどの哲学者の翻訳書も含めて)がたくさんある。だから、外国語を暗証しなくても、自分のコトバで、物語を書き換えることは可能だ。はじめは日本語の書であっても、外国語のように思うことはままある。とくに海外の哲学者の日本語訳はそう感じることがしばしばだ。
 問題は、どうやって自分のコトバで表現するかである。流麗な表現に挑戦することである。別な言い方をすれば、このことが読書の意味、学びの意味、芸術活動の意味ではないのか。私も挑戦しているが、なかなかうまくいかないことは痛感している。
 私の存在(それが書物であれ、自然であれ、動植物であれ)を、いかに流麗な表現で表現するかが、学ぶことの意味なのかもしれない。その一つとして読書への挑戦がある。 


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読書の意味を考える

2017-05-13 19:08:47 | コラム
読書の意味を考える
 ここに一冊の本がある。この本は、私にいろいろと問いかけてくる。それに答えるべく、私も考える。そこにはこの本の内容を知識として覚えるというよりは、お互いに共鳴しあう関係にあり、そこから新たな自分の考えが生み出される。
 「時として読者は、作家を乗り越える。」といったのは、たしか芥川竜之介だったと思うが、乗り越えるかどうかは別として、作者が気づかなかった読者の新しい考えや、感動がそこから生まれるということなのだろう。
 よく知識人という言葉を耳にするし、著者の中には、「わたしたち知識人は・・・・。」と自ら言っている人もいるが、わたしは、感心しない。それでは、あなた方以外は、知識をもたない無知な人間と言っているようなものだ。もちろん、私は「知識は知にあらず」と思っているから、知識人と名乗る方々は、私よりは物知りだと言っているようなものだから、あまり気にしなくともよいのかもしれないが。知識だけの人間には、思考力は育たない。ぎっちり詰まって、空間がないから身動きできないのだ。 しかし、そこに読者を見下す差別的なニューアンスを少しでも感じるのであれば、そういう言い方は改めなければならないだろう。どの分野においても、それに造詣のある専門家(自称知識人、学識経験者)たちが、ややもすれば閉鎖的になり、よそものを受け入れないところがある。原発事故は、原子力村の専門バカの閉鎖性から生まれたのではなかったか。断っておくが、知性主義と反知性主義の意味は、知識人という意味とは関係ない。知識人のなかにも、反知性主義者は結構いるのだ。
 作品を読んだり、鑑賞したりすることと、作品を表現する、書く、演奏する、編曲するということは、別次元のことではない。作品は、著者と読者の共同作業によって、輝きをますものなのだ。
 本の森を探索して、気になる本を取り上げて最初の部分を読むと、引き込まれていくような本は、だいたいお気に入りの本になり、それを手に入れることとなる。先にも述べたように、本というのは著者と編集者と読者の共同作業で、成長していくものなのだ。芥川の言った意味はそこにあるのではないか。私は私なりに、一生懸命読んで、著者の言わんとすること、それと私の考えや思いとの絡み合いを追求しているつもりなのだ。言い換えれば、翻訳したり編曲したり、その本をもとに、作曲したりの作業を伴うものなのだ。
 私は、以前に「FUNAGENノート」というブログで、著者たちは絶滅危惧種となっているといったが、それは一つには専門家どうしの論戦だけに重きを置き、外に出ないことにも原因しているように思う。インテリゲンジャー(知識人)よ、大衆の中に入れ、どこかで聞いた言葉である。哲学や思想は万人のものであって、専門家集団だけのものではない。本を種や肥、土壌として、耕し、育てるのは読者である。
 本というのは生きていて、しばらくたって読み返すと、以前とちがった考えに到達することもある。重ねて言う「読者は作者を乗り越えることが時としてある」、つまり乗り越えるというよりは、別な考えに発展する可能性があるのだ。だから、私はこれからもブログで、いろいろ発信していこうと思っている。
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能動と受動の生態学

2017-05-08 16:35:20 | コラム
  世の中には、自分本位の人間であふれている。
 私と私の前に現れる存在(他者)との関係は、互いに話すと聞くの関係、言い換えれば、お互いに、聞くと聞かされる、触れる触れられるの関係にあるべなのだが、それがうまくいっていないのが今の世である。
 ここで、言っておきたいのは、現前する存在(他者)は、人間だけでなく、動植物や芸術作品(絵画、書道、音楽、詩などもろころ)、自然や書物であることは、いつも述べていることだ。これらの存在が、もしおれがおれがと、私にせまってきたら、私はよろけてしまうし、第一精神的によくないこととなる。 
 能動的という言葉がある。自分から積極的にはたらきかけるという意味なのだが、それが今や一人歩きしていて、他者である相手の気持ちに無関心になり、決めつけたり、無視したり、いじめになったり、暴力になったりする。
 日常で経験することの一つに、電車やバスの中、喫茶店やレストランでの会話がある。たまたま、近くの席だと、やたらと気になる光景に出会う。それは、片方が一方的に自分に関わる話をし、相手は一方的に聞き役にまわるとう会話である。おまけに、聞き役が自分の話をしようとしても、すぐ自分の話にもどしてしまう。この場合、話している方は能動的であり、聞き方は受動的ということになる。
 これを、もう少し広げてみると、会社や共同体での友人関係、家庭の人間関係、恋人などどうしの間で、能動的とい名のもとに、自己中心的な言動などによる一方的な要求が裏目にでて、争いとなり、それが家庭崩壊、離婚、ストーカー、虐待、障害や殺人、人種差別、動物虐待となって現れる。おまけに、民族間、国家間、宗教間の間の争いに拡大し世界は大変な状況になっている。
 話を、先の会話に戻してみよう。自分本位の話題を、一方的に話している方は、それで、満足していて、欲求不満にならないようだが、別な言い方をすると、日常生活における欲求不満のはけ口となっているのかもしれない。あるいは、いつも自分中心で世は動いていると、無意識のうちに思い込んでいるのかもしれない。(自分が中心で存在の方が回っているのではなく、自分が存在の周りを回っていると考えるべきなのだが。)
 受動的である相手方にとっては、相手のおしゃべりは欲求不満の震源である。しかし、あんがい相手のフラストレーションの解消のお手伝いをしてやっていると思えば腹も立たないのかもしれない。または、心の中でまた始まったと思いつつ、仕方がないなと思って聞いているかもしれない。しかし、当の本人は聞き手にそう思われているとは、考えたこともない。相手の気持ちのことなど、頭にないのだ。
 私は前段で、互いに話すと聞くの関係、言い換えれば、お互いに、聞くと聞かせてもらう、触れる触れられるの関係にあると、言ったのだが、そういうように考えて行動することは、自分自身を広げるためにも、世界の平和のため、世の中のために重要なことだと思っている。
 もし、中動という言葉が許されるなら、それが上述した意味であり、中動的な行動ということになるのではないか。つまり、私たちは能動的でもなく、受動的でもなく、中動的でなければばらないということだ。
 ところが、またこの能動的オンリーの人間って、結構多いのだ。先のおしゃべりさん(これがまた結構多い)はもちろん、政治家にもたくさんいる。そいう政治家は、他者のことはほとんど聞かず、質問にも明確に答えず、我田引水の答弁を繰り返す。夢物語(自分の夢物語)を軽いタッチで話し出す。おまけに、質問する議員やメディアにいらだちをあらわにする。
 先日来、話題となっている例の小学校三年生の殺害事件、あの容疑者は、地元小学校の保護者会の会長だったという。たぶん会長になろうという人がなかなかいないので、「だれかやってくれる人いませんか。」とうことで、手を上げてなったようだ。
 会長ともなれば、一応それ相応の人にお願いするのが、常識なのだが、そうはならなかった。これも能動的人間がのさばる機会を与えてしまった結果である。そして、他の人たちは受動的人間を決め込むこととなった。結果、とんでもない事になってしまった。外国のメディアは、自分の国では、こういう選出方法はとらないと話していた。その通りで、まったく無責任体制の極みである。しかもこの男の容疑は、まぎれもなく能動的で、自分勝手で、現前する存在(この場合は犠牲になられた少女)の声を聞かない自己中心的行為であった。
 司馬遼太郎は、何かの本で、役職を決める時、「私がやります。」という人にはろくな人がいない。「私のような者に務まるかどうか。」という人が引き受けると、良い仕事をする。「努力してなる人」は、だいたいふつうの仕事をする、と言っていた。
 いずれにしても、おれがおれがの人間が多すぎる。実は、この前の前のエッセイー(報復の連鎖を克服するために)を書いたのも、その意味である。おれがおれがが多すぎて、自己中心的な言動、「人のことはどうでもいい。」、「格差なんてどうでも良い。」、「人種差別なんてどうでもいい。」「憲法なんて、どうなったっていい。」と変身し、「お金さえ増え、自分の暮らしが良くなればそれでいい。」そういことになっている。そこには倫理観もなく、人権主義もない、自己中心主義が大手をふるっている。
 だから、先にも言ったように、能動的でもなく受動的でもなく、中動的な人間になろうと努力することが、今求めれれているように思う。それは現前する存在、つまり他者の間に、「見る見られる」の関係、「触れる触れられる」の関係、「話すと聞く」の関係などの相互作用によって生まれるものなのだということを理解することだ。そう考えると、視野も広がり、存在との関わりも良好になり、ここちよい風が吹き、広く広がる世界、深く高くと広がる世界に感動することができるであろう。そして、それが結果的に平和の訪れの到来につながるであろう。

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「学ぶ行為」は手段か目的か

2017-05-05 12:43:49 | コラム
  私は、学ぶという行為は、基本的には目的であって手段ではないと思っている。先日、盆栽に取り組む中学生のことをTVで見て、関心したことがある。この中学生にとっては、盆栽を学ぶことは手段ではなく、目的なのではないかと思った。以前私の住んでいた近くに、科学についてやたらと詳しい高校生がいた。彼女は、科学をこよなく楽しんでいた。「学ぶ行為」が目的となっていたのだろう。
 だいたい、画家が絵を描くのは、手段ではないだろう。画家は絵画によって自分を表現しているのだ。音楽も、詩や文学も、そして科学もそれに携わる人々はみな、対象に立ち向かい彼ら(対象)から何かを感じ取ろうと挑戦し、表現し、そこにロマンを感じているはずだ。
 ところが、人間は幼稚園(保育園)、小学校、中学校、高校、場合によっては大学卒業まで、学ぶことを目的にしているはずなのだが、それが手段と化してしまっていないだろうか。ブラント学校にいくために、良い会社に入社するために勉強しているのではないか、覚えることにあくせくしているのではないか。これはまぎれもなく、「学ぶ行為(学習、勉強)」の手段化を意味する。
 本来なら、「学ぶ行為」の中で、最初は手段だったものが、目的に変わるということがあるのだが、なかなかそうならない。なぜか、たぶん学問や芸術の素晴らしさに感動する機会がないまま過ぎてしまっているからなのであろう。
 学問や芸術にたいし魅力を感じ、先の中学生が盆栽に打ち込むように、高校生が科学に打ち込むようにチャンスはいっぱいあるのだが、その感動体験がないがしろにしてしまって過ごしてしまっているために、勉強を手段と考えることになってしまっているのだと思う。昔から「学校の勉強は、校門を出ず。」ということが言われているが、それは昔の今も変わらない。
 たとえば、音楽の授業を通して、音楽の素晴らしさを味わったとか、図工や美術の授業を通して、創作することの素晴らしさを感じたとしても、それがいつのまにか断ち切れになるのはなぜだろうか。
 子供が絵(デザインやまんがなども含めて)ばかり描いていると、親は「そんなことばかりしないで、算数(数学)や英語の勉強をしなさい。」となってはいないだろうか。もちろん数学や英語にも、学ぶことのおもしろさ、奥深さを感じることもあるはずなのだが、それを味あうことのないまま、受験のための勉強となってしまっている。
 ところが、成人して社会人になって、英語とか科学とか数学、あるいは絵画、音楽、俳句、書などを楽しむ人はいっぱいいる。これらの人々は、リラックスして、それらを楽しんでいる。まるで、フェギヤスケートの選手が、試合(テスト)ではなく、エキビジションだとのびのびと演技しているように。しかし、むろんスケーターたちは、スケートという対象を表現することを目的としていることに間違いはない。
 学ぶとはどういうことなのだろうか。それは、私たちが存在に立ち向かい、そこで感じたこと思ったことを、自分のコトバで表現することなのだろう。決して知識を得ることが学ぶことではない。確かに知識を得ることは必要であろう。ただ、それを自分のコトバに翻訳することがなければ、それはただ単なる暗記となってしまう。(私がいつも使うコトバとは、感情や身体全体をつかって自分の心で表現することを言っている。)
 一つ例をあげてみる。台形の面積の公式は、『「上底+下底」×高さ÷2』なのだが、テストの時に暗記しても、それは意味がないし、忘れてしまうこともままある。もし、これをこの公式の成り立つ理由を自分のコトバで理解していれば良いのだが、それがそうはいかないようだ。単なる暗記で乗り越えても、それは「できた」けれど、「わかった」ことにはならないだろう。「できる」と「わかる」は違うのだ。
 自分のコトバ、つまり「台形をひっくり返してあわせると、平行四辺形になり、それを長方形にすれば良い。」「三角形の面積は、台形の上底が0の時だから、三角形の面積から類推する。」などということをイメージとして体感(体全体でコトバとして表現)していれば良いことになる。イメージの方法は他にもあるが、ここでは触れない。つまり公式や原理は暗記するものではなく、それを生み出すプロセスを自分のコトバで感じ取っておくことである。
 私は読書にいそしんでいるが、それは、そこに存在する一冊の本と対話をかわすことによって、自分のコトバに翻訳しているのである。決して知識を得るためにではない。名文を暗証することでもない。「読者は時として作者を越える」とは、芥川竜之介の言葉である。越える越えないは別して、自分の考えをもつことに意義があるのだ。
 以前、自分の撮りためたフォトを、集約をしてみようと、ホームページの作成に取り組んだことがある(79歳の時)。確かに、この場合その行為は手段なのかもしれない。でも、やっているうちに、ウェブデザインの奥深さを感じたものである。ただ、そのデザインの学習を目的にしなかったのは、別にやりたいことがあるのと、年齢からくる目の疲れに心配があったからだ。もっと若かったらのめり込んだかもしれない。ただ、ウェブデザインの魅力を感じ取っただけでも、良い体験だったと思っている。そして、それは私の「学ぶ行為」にいくらかの影響を与えている。
 「学ぶ行為」が目的となるには、第一に、私の現前に広がる存在に感動や好奇心をもつことなのだろう。次にそれをきっかけに、より深い探検や探検につなげることなのだろう。
 よく考えてみれば、音楽も絵画も詩や文学、書、哲学書、学術書も、すべてに共通なところがある、それは奥深い縦の広がりと、とめどもなく続く横の広がりである。そこに感動する。たとえば、「なるほどな、表現の方法は違うけれど、考えているところは同じだな。」という具合に感動することがよくある。そのことが、自分の表現活動をより深くし、広くなっていくという経験をしたことがある。「学ぶ行為」とはこういうことなのかもしれない。
 子供たちの受験対策もさることながら、認知症対策として「学ぶ行為」もさかんである。その場合に、大切なことは、認知症の進行を押さえるとか、予防とかのための手段ではなく、「学ぶ行為」の対象(私の現前の存在)そのもに対する感動体験、好奇心こそが、「学ぶ行為」の目的化につながるのであろう。
 いずれにしても、私たちは「学ぶ行為」は目的なのか、手段なのかを改めて吟味する必要があるように思う。

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