FUNAGENノート

私の考えたことや、読書から学んだことを伝えます。
私の脳は書いたり読んだりすることで研ぎ澄まされると思っています。

正の財(グッズ)と負の財(バッズ)の狭間で

2017-04-16 16:07:36 | コラム
  今回は「変態する世界」(ウルリッヒ・ベック著・枝廣淳子+中小路佳代子訳・岩波書店)を読んで、自分なりにまとめたものをお届けします。
 ウルリッヒ・ベックは、この本の中で、つぎのように言っている。『「変態」とは、現在社会の昔ながらの確実性がなくなって、新しい何かが」出現してきているという、もっとも急進的な変容を意味する。』
『気候のリスクは私たちに、国が世界の中心ではないことを教えてくれる。』
 世界が国や人々の周りを回っているのではなく、国々や人々が「世界」と「人類」という新たな恒星の周りを回っていると言うのだ。
 貧しい人々は国境を越えて行動する。富める人々も、国境を超えて、より多くの利益を上げるところにお金を投資したり課税を逃れようとする。これこそが、グローバル化のもたらしたリスクとなる。
 スマートフォンの「世界」に足を踏み入れたことにより、私たちは情報の虜になり、多国籍企業はデータ集積によって手に入れた資源によって、私たちは気づかぬうちに、コントロールされることとなる。これも現代社会によって生み出されたリスクである。富める者は、その情報資源を有効に使い、ますます富み、一般庶民はこの情報に振りまわされることとなる。
 そうならないためには、情報を読みとることと、実際に現実を見てふれて読みとることを区別する必要がある。そうでなければ、フィルターのかかった情報の取得や、場合によってはそれが炎上をもたらし、人々の好みや習慣に応じて調整されたデジタル世界で、個人が操られることとなる。そこにあるのは、虚構と現実との区別がつかなくなっている自分がいることとなる。
 私たちの世界は、リスクを生み出す者と、その影響をもろに受ける者とが存在する。リスクを産み出す国や企業は天然資源は無尽蔵で、いつまでも経済成長(グッズ・正の財)が望めるものと信じて疑わない。彼らはイノベーションで消費を生みだそうと躍起である。生産活動が生み出すリスク(負の財・バッズ)については眼中にない。
 イノベーションを目指す時、そこにはグッズの生産と配分という目的があるのだが、そこには必然的にバッズ(負の財)の生産を伴うこととなりり、バッズ(負の財)の生産と配分がついてまわる。
 このバッズというリスクは、必ずわたしたちに影響を与えるが、それをバッズ(正の財)を旗印に、意志決定するのは、国家や企業である。そして、彼らは決して責任を負わない。しかも、このリスク(バッズ)たるやただ単に国内にとどまることなく、世界中に拡散する。結果人々は否応なしにリスクの分配を受けることとなる。
 グッズ(正の財)として、研究された医療技術によって、人間の生命を製造したり、臓器移植が可能になところまできているのだが、それがいろいろとバッズ(負の財・リスク)の生じる原因となっている。
 医療費の高額化や、選択や評価などの価値観の多様化、そして何よりも人間存在の根幹にかかわる問題となって現れる。貧しい国の人々の臓器や卵子、精子が、富める国の富裕層に売るビズネスが生まれている。
 ところが、このようなリスクは可視化されていない中で生じていて、よく注意しないとみのがしてしまう。私たちの世界には、多くの目に見えないリスクが存在している。気候変動、原子力や金融投資に関するリスク、遺伝子組み替え、ナノテクノロジー、生殖医療、NSNに関するリスクなどだ。
 ところが、やっかいなことに、例えば原子力発電について考えてみると、原子力産業や研究者はリスクを生みだす一方で、リスクの査定という両面をもっている。そのことが安全神話となって、あの悲惨な原発事故となった。これは、どのリスクを抱える分野について言えることだ。
 それにしても、先にあげた諸々のリスクは国民国家の内外に社会的不平等をもたらす。富める者がますます富み、貧しい者がますます貧しくなるという状況に歯止めをかけるような動きはあまり感じられない。もっと平等や人権に関する社会的規範が広がることを望むだけだ。
 国際社会を見ていると、残り物の豊かさをめぐって、諍いを繰り広げている。片方は、少ないパイを守ろうとして、移民排斥をかかげ、一方は良い暮らしを求めて、国境を突破しようとしている。
 今後さらに富の分配をめぐっての闘いが激しさをますことだろう。将来的におそらくより急激に明らかになるだろう。不平等を回避するための資源が少なくなる中、グッズ(正の財)の分配はおろか、バッズ(負の財)によって引き起こされるリスク(気候変動、自然災害、金融危機、科学技術、文化・芸術などで展開されるリスク)による不平等社会、荒れ狂う心の問題にどう立ち向かうのかが問われている。
 大切なことは、自己中心の発想ではなく、平等や人権に対する意識をとりもどすことであろう。自国がよければ良い、自分の会社がよければ良い、自分がよければ良いという考えを捨て、広い視野をもって事にあたることが求められているのだろう。
 自国だけを極度に大事にするナショナリズムは自己中心的考えに陥り、人種差別(弱者・恵まれない人や身障者への差別)を公然と正当化してしまう。そして、大変なことに、私たちの考えや行動を制限し、真実を求めることへも干渉する。「いつかきた道」にもどらないよう注意をしなければならない。
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人工空間と時間尺度の変化がもたらすもの

2017-04-05 13:34:41 | コラム
  このエッセーは、「人間ならざるものの環境哲学・複数性のエコロジー」(篠原雅武著・以文社ー)を読んで学んだことをもとに、私の考えをまとめたものである。(なお、篠原氏は、ティモシー・モートンの環境哲学から学ぶかたちで述べられている。)
 今こそ生きていてよかったと感じてくれる何かが存在することがもとめられている時代はない。なぜなら、私たちは変化のない空間、画一的な空間、遊びのない空間の中で生きているというのが現状だからだ。
 私たちの都市空間は、自然と歴史の流れの中で作り上げられてきたのだが、現代の空間は、埋立地や、広大な原野をすっか人工的に変えてしまった。いわるる人工空間の誕生である。そういう空間のなかで、わたしたちは生きている。
 その人工空間たるや、構成要素である各種存在から成り立っているのだが、それが、ぎっしりと詰まっていて、そこに私たちが入り込む余地をなくしてしまっている。例えば、立て直された住宅も、敷地はすっかりコンクリートでかためられ、雑草の生える隙間もない。
 無駄(遊びと言ってもよい)もまた人間にとって余裕をもつきっかけとなるのだが、それを排除してしまっている。そこから、異様と思われる行動が現れてくる。それが「うつ病」や「引きこもり」、「いじめ」、「虐待」、「自殺」、「殺人」などである。
 科学・技術のもたらした、人工的で抽象化されてしまった空間に生きる私たちのなかには、それが当たり前であると思い、生真面目にその空間に浸っている人も多い。
 本来、私たちは、いろいろな存在との絡みから成り立っている空間の中で、存在に立ち向かい感性を研ぎ澄ますはずなのだが、それが出来ない状態にあることを自覚すべきなのだ。
 楽しいということは、空間の個々の存在と、そこから考えようとする自分の間に隙間を感じることから始まるのだが、隙間を感じようとしても、肝心の隙間がないか、あっても無視される社会になっている。
 異質なもの(隙間に何かを感じる人々)を自分たちから切り離し、ないものとしてしまう風潮、同調強圧の雰囲気も、それに拍車をかける。
 その結果、人工空間に浸り楽しんでいる集団(決して幸福だとは思えない集団)のなかで、排除され自分の居場所を失い、「ひきこもり」になったり、「自殺」したり、「うつ」になったりする人々が存在しているのが現実である。
 自殺で思い出すことがある。息子が中学三年生のとき、クラスの友人が自殺してしまった。その時は、学校やマスコミも全く問題にすることなく終わってしまった。実はこの自殺した子は、一人で、屋久島に旅するほどの子で、表現も文学的でユニークだった。私は、この子と息子と私の仲間とニセコにスキーに行ったことがあった。それで、強く印象に残っていた。この自殺事件は、現在社会のかかえている問題として、わたしがるる述べていることと深く関わっていると思う。
 この自殺について、篠原氏も、自分の高校生のクラスメートの自殺について、振り返っている箇所がある。(人間ならざるものの環境哲学・複数性のエコロジー・篠原雅武著・以文社)
 人工空間は生活の形骸化をまねき、人やものなどとの間で取り交わす表現は貧困化の一途をたどっている。そうした中で、感性や直感力を重視する芸術活動は、私たちに、力と励ましを与えてくれる。
 そこで表現されるリズムは、ひときわ私たちの身体を揺り動かす。空間に散らばっているもろもろの硬直された概念にとらわれることなく、世界を、感性を揺り動かすコトバとして表現することが必要なのだろう。そこからおのずと身体を揺り動かすリズムが生まれるのであろう。それは音楽だけではない、文学、詩、絵画、書道、舞踊など、すべてにリズムがあるのだ。
 ところが、それがだんだんと先細り、人工空間の再現を思わせる事態となっている。象徴的な例で言えば、TVに表現される空間ひとつとっても、たとえば歌番組で、舞台いっぱいが、カラフルで、しかもそれらがひっきりなしに動き出す。そのことを美だと勘違いして、歌手の方が埋没してしまっている光景をよく眼にする。そこからは、空気を感じる隙間はどこにも見あたらず、かえって疲れるだけである。おまけに、歌手の表現する歌心を消してしまている。これこそ人工空間そのものだ。
 よく、あそこの何々は美しいとか、見事だとか、美味しいということを知人やマスコミ、SNSで話題になる。そして、人は群がる。その中には、企業や自治体のつくる人工空間の一つとなっている場合もある。
 そうではなくて、それにとらわれることなく、実際に自分の感性を揺れ動かしてくれるものと接し、自分のコトバで表現することが求められているのが現代だと思う。
 その肝心のリズムも、昨今の時間尺度の変容(都市化と、情報通信によるネットワークの肥大化)によって、それに惑わされる状況が続いていることもみのがせない。決して身体にここちよいリズムとは言えないようになってしまっている。
 その結果、あちこちで考えられないような事故や事件が発生している。これらは、私たち人間の身体が感じる時間尺度をこえた結果、落ち着きない状況に世の中がなってしまっているために起こっているように思う。こういう時間尺度にとらわれないで、自分の内面を表現することが、楽しみの秘訣なのかもしれない。そして、無駄の中に遊びを見いだすこと(つまり、消費ではなく、浪費すること)も人生にとって必要なのであろう。
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縦の流れと横の流れの紡ぎ出すもの

2017-03-28 16:43:04 | コラム
  わたしたちの前に広がる存在は、縦の流れと横の流れが紡ぎ出す空間としてそこに存在している。
 先日、音楽大学フェステバル・オーケストラの演奏を聴く機会があった。そこで演奏されたのは、「ドビッシー:交響詩『海』」と「マーラー:交響曲第6番イ単調『悲劇的』」指揮は高関健で、演奏者は首都圏の音楽大学の学生たちだった。
 すばらしい演奏だったと思った。やはり、生で聴く演奏はすばらしい。
私の前に展開される、一大物語は、舞台いっぱいに広がって存在する個々の演奏者の響きが重なり合い、奥行きや広がりをもって私の心にとどく。
 「マーラー:交響曲第6番イ単調『悲劇的』」にいたっては、80分という長い演奏だったが、その時間を感じさせないものだった。
 およそ、存在を感じ取り、考え、表現するということは、この広がり(横の流れ)と奥行き(縦の流れ)を感じ取ることから始まるのだと実感したのだ。指揮者も個々の演奏者も、その縦と横の織りなす物語を、そこで表現しょうと一生懸命だった。
 ところが、最近はどうだろうか。いろいろなTVでの表現(音楽やドラマなど)、あるいは個々人の動きに、この縦と横の織りなす奥の深い行動があまり観られなくなってきているように思われてならない。
 あっちいったり、こっちいったりの根無し草になり、浮遊物のようにさまよっている。根無し草は、ちょっとでも風が吹くともう持ちこたえられない常態になり、SNS上やTVや新聞、わたしたちのとりまく社会、はては国会や地方議会でまで、「言った」「わない」、「やった」「やらない」でもめることとなる。
 そのときどきの感情のままに動き、行動することは、まるで反知性主義者のする行為の典型のように思われてならない。その反知性主義者が、今世間を騒がしているのだ。反知性主義者同士のバトルが行われているのだ。
 動植物は、決して反知性主義者ではない。かれらは、しっかりと大地に根を下ろしている。春になったら、梅が咲き、桜が咲き、渡り鳥たちは移動を始める。けっして場違いな行動はとらない。嘘を言って喧嘩になることもない。
 ところが人間どもは、この季節という存在を払いのけ、一年中根無し草のように動き回る。そこに自分がいることにどんな意味があるのか、どんな影響を与えるのかも省みずに行動する。場違いの存在に現れて物議を醸している。
 この行動をみていると、きちんと大地に根をおろし、縦と横の広がりをしっかり見つめ、感じ取りそして表現するということの欠落が感じとれる。落ち着きのない、いきあたりばったりの行為としか思われないことが、現実として存在している。これぞまさしく反知性主義者の行動パターンなのだ。この反知性主義者が世界をかき混ぜている。


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政界を揺るがす問題に思う

2017-03-25 18:37:16 | コラム
 今、大揺れしている政治の世界、「森友学園」の土地の購入問題、寄付の問題などが世間の話題となっている。
 そこでよく出てくるのが、立場のある人の「口利き」の有無だ。そこに金品のやりとりがあったかどうかも問題になっている。
 しかし、私の経験からすると、政治家というものは、ある意味「口利き」が仕事であるかのように、あちこちでやっている。それは与野党を問わない。政治家の中には政治活動として、支援者の要望を聞くのはあたりまえだという人もいる。
 私も現職のころ、政治家から頼まれたことはあった。その場合、それを聞き入れるのには無理があることがほとんどだった。無理でなければ、政治家に頼まなくても本人でも用はたせるはずだから、当然、無理なことが「口利き」の対象となる。
 「口利き」とはいかなくても、偉い方に応援いただいていることがわかれば、気を利かせて有利な方向へ導くよう努力する部下もいるだろう。政治家だけでなく、一般社会でも、そういうことは起こり得ることだ。
 そういう意味で言えば、この問題は「森友学園」の教育理念に共感をもった偉い方々(?)の存在から、端を発しているのではないだろうか。その理念たるや、教育勅語の暗証だの、瑞穂の国日本だの、愛国・拝外主義など戦前を思い出すようなしろものだ。
 この右傾化の波は、世界的流れの中の日本での現れである。しかし、国民の動きは鈍い。知識人やジャーナリストが騒いでいるわりには、なにごともなかったように社会は動いている。
 東西冷戦のころは、イデオロギーは、対立軸を鮮明に描き出していた。その中で、日教組は一方の重要な勢力だった。かれらは、「日の丸・君が代反対」をはじめ、徒競走や夏休み作品展の賞状の廃止、勤務評定反対、主任制反対など、悪しき平等主義に傾斜していった。もっと具体的な問題で言えば、卒業式で歌う「仰げば尊し」に反対(教師は労働者であるという理由で)、紅白の「鯨幕」、はては「紅白饅頭」にまで反対などまったくばかげたことにこだわっていた。その反動が日教組反対の右翼教育の台頭である。しかし、今の日教組にはそんな力はあるわけがない。
 東西冷戦の終焉から26年、今考えれば右も左、どちらも貧困問題、格差問題にはあまり熱意はなかった、というより今もない。日教組の主張には、そうとうの無理があった。そして、その時の反動としての「森友学園」の右翼思想もまた時代遅れ(彼らの目の敵の日教組は風前の灯火)の感じだが、この道は「いつかきた道」に通ずるということで、危険性をはらんでいる。
 それにしても、今や世界はグローバル時代、企業は世界中を駆けめぐって利益を追求している時代に、私は国家間の戦争はそう簡単には起きないと思っている。それよりも恐ろしいのは、分断が進めば進むほど、そこに亀裂が生じ内戦に向かうという心配だ。問題になっている集団的自衛権については、この諸外国の内戦に加担することを強いられるという意味で問題が多い。
 先に述べたように、欧米では東西冷戦時とは別な意味での右翼思想が増大している。貧富の格差増大により、自分たちが貧しいのは、米国やヨーロッパに移住してきた者のせいだ。だから、排斥しなければならないという考えが根底にある。しかも、移住してきた者のなかには、圧倒的にムスリム(イスーラム教)の方や黒人の方が多い。そこに報復の連鎖が起きている。先日もイギリスでテロがあった。
 森友学園でも、外国人に対する差別発言があり、拝外主義が根底にあるようだ。これこそ大問題なのだ。それにしてもこの学園の教育に共感したという政治家がいることが問題なのだ。今は自分に不利になるから、距離をとっているように見えるが、それは自分の保身のためだ。自分たちの思想が簡単に変わるわけがない。しかし、森友学園と心中することはないだろう。
 日本社会も分断社会になってしまっている中、社会から見放されたと考える人間は行き場を失ってしまっている。彼らは、人や動物を簡単に殺す。それが母であろうと祖父母であろうとも容赦はない。そこには、やぶれかぶれもあるだろう。自分なりの理屈をつけて行動する者もいよう。
 わたしたちは、分断社会をどう克服していくのかが求められていることを認識すべきである。(その危機意識をもてず、みんな自分たちのような暮らしを送っていると思っている人も結構多い。日本の若者の賃金が安いという外国人ジャーナリストの指摘もある。)
 そのためには、失業者や非正規雇用をなくすとか、同一労働同一賃金とか、保育や介護の充実とか、奨学資金の問題、子育て支援とか、人的資源への投資が国家として必要なのだろう。そういう身近なわたしたちの暮らしに軸足を移すべきであろう。各政党もこうした課題に立ち向かうべきなのだ。
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「見える存在」と「見えない存在」の狭間

2017-03-21 15:05:30 | コラム
  「見えない存在」は、いつの世も科学の対象となってきた。しかし、なかなか見えない時は、その存在を神のしわざとすることとしてきた。また、科学の力で、「見えない存在」が見えてくると、その存在を災いのもととして退けようとする動きが出てくることもある。三平方の定理として有名なピタゴラスたちは、無理数の存在を知りながら、それを悪魔の数として、徹底して隠していた。ガリレオは、実験や観察(天体望遠鏡を使って)を駆使して、見えない世界の解明に取り組み、天動説に到達したが、神の世界を司るキリスト教で、裁判にかけられた。有名な「それでも地球は動いている。」という言葉はよく知られている。その後も科学は、どんどん存在を広げていった。ニュートンの万有引力、アインシュタインの相対性理論などなど。その広がりは今でも続いている。
 「見えない存在」は、時として魔物がつけ込むこととなる。見えないことをいいことに、だまそうとする人間が出てくる。
 「見えない存在」を、見えるようにするために、科学は確かに力を発揮するのだが、その科学を司るのは人間だから、手心を加えたり、都合のよい我田引水になったりして、始末が悪い。また、科学は万能だという科学者の傲りも見え隠れする。そこで安全神話がまかり通る。
 その典型が、原子力発電だ。あの原発事故は、科学の安全神話を覆してしまった典型的な例である。「見えない存在」の典型として、放射能がある。そこでも、科学の安全神話がまかり通る。
 始末に困るのは、どの程度の放射線量まで人体に影響を及ぼすのかは学者によって考えが分かれていることである。また、避難地域解除にしても、放射線はいくら除去しても、放射線は空間を移動するだろうし、周りの山野すべてを除去したわけではないだろう。だからそこの土地は大丈夫と言われても、納得はいかないこととなる。とにかく相手は「見えない存在」なのである。
 ところで、私たちの住んでいる地下は、どうなっているのか、どういう土地の上に私たちの家は建っているのか、私たちは考えたことがあるだろうか。実は、今話題の豊洲市場や森友学園は、この普段は見えない地下の存在の問題がきっかけとなっている。
 この土地の地下にある汚染物質や、ゴミのあることが両方に共通している。汚染物やゴミの存在が土地の代金の駆け引きの材料となり、手心を加えたのかどうかが問われている。われわれの税金の無駄遣いが行われたことも共通している。わたしたちに見えないことをいいことに。
 昔からよくあることに、土木事業の手抜きがあったり、建売住宅の屋根裏に古材が使われていてだまされた人もいる。最近では杭打ちの手抜き、耐震構造のごまかしも問題になった。とにかく、見えない世界は騙しの宝庫である。
 宅地造成にしても、あの東日本大震災で、自分の建てた家が、土地の液状化現象でかたむいた人もいたことも、建築学という科学の世界では、盲点を突かれた結果となっている。彼らは言うだろう、「予想していなかった事態が起きた。」と、原発事故と同じように。
 見えない存在は、わたしたちの組織(行政、企業、関係機関など)内にもある。そして、少しでも見えて風向きがあやしくなると、公的機関や第三者機関、学識経験者に検証を委ねることがよくある。しかし、それがまたくせ者なのだ。いつの世も御用学者と称される面々が存在していて、だいたいは当事者が結論らしきものを持っていて、なんとかこの線で手を打ってほしいということで、お茶を濁すことがままあるのだ。すべてではないが・・・。何々審議会などで、私も経験したことがある。
 いえることは、いつの世も「見えない存在」は悪の温床であることにかわりがないということだ。これからも、科学は「見えない存在」の究明にあたるであろうが、「見えない存在」は決してなくならないだろう。
 そしてその「見えない存在」に対応するのが人間である以上、そこには複雑怪奇な人間模様が描かれることとなる。
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