FUNAGENノート

私の考えたことや、読書から学んだことを伝えます。
私の脳は書いたり読んだりすることで研ぎ澄まされると思っています。

早春の喜び

2019-02-23 15:37:57 | コラム
早春の息吹ー花たちの喜び
 2月20日の東京は気温が20度近くまで上がり、2月中旬とは思われない暖かさだった。それで、神代植物公園へ行ってみた。昨日の雨模様の天気(一部では雨も降ったようだ)の後ということもあって、花たちの歓喜が伝わってくる咲きっぷりだった。梅園いっぱいに咲き誇る「梅の花」は、一斉に嬉しい春の到来を喜んでいるように感じた。「梅の花」だけではない、「ロウバイ」や「椿」も喜びを表現していた。
 早春の花の象徴的存在である「福寿草」も顔をだしていた。この「福寿草」に出会うと、いつも春の到来を実感するのは私だけではないであろう。
 他に、この植物公園で、この時期になると咲くのが「ユキワリイチゲ」だ。この花も名が示すように、春を告げる使者である。「マンサク」や「サンシュウ」の木々も見事な咲きっぷりだった。「クロッカス」や「クリスマスローズ」の一番咲きにも出会った。
 あたりを見渡すと、あちこりの木々からは小鳥たちの嬉しそうな囀りが聞こえてくる。彼や彼女らもきっと私たちと同じように嬉しいのだろう。私たち地球の仲間たちは、この春の到来をみんな同じように待っていたのだ。しかも、悪天候の次の日の穏やかな晴天ともなれば、なおさらである。
 都会の雑踏から、神代植物公園のようなところへ来るとほっとする。これからも、四季折々の様子を紹介しようと思う。なお、私のHP「K、FUNABAのフォトギャラリー」やブログ「FUNAGENのデジカメ散歩」にも紹介ているので、ぜひご覧あれ!
(「funagen」で検索可能)

 なお、「虐待、DV、いじめ」に少し追加しましたので、再読いただけら、幸いです。














虐待、DV、いじめについて

2019-02-22 16:54:12 | コラム
虐待、DV、いじめについて
 最近、TVや新聞など、マスコミで報道されていることに児童虐待がある。報道内容によると、私たち普通に暮らしている者にとっては、考えられない事である。多分、この加害者である父親は、養育歴や児童・生徒・学生時代、あるいは社会人になって、何やら「フラストレーション(欲求不満)」や「コンプレックス(劣等感)」が心のどこかにあって、それが今現れているのかもしれない。
 聞くところによると、虐待や、DV、いじめは、結構増えているそうだ。今回のような特異な事件のように報道されている他に、表に出ないものが結構あることだろう。こういう事案は、氷山の一角かもしれない。
 この「虐待、DV、いじめ」の特徴は、とにかく持続的に延々と続く行為だということだ。これらが、もし単発であれば、それは「親が子どもを叱る、夫婦げんか、単なるけんか」ということになるだろう。
 その場合、特に家庭の問題であれば、他人の口出しは、遠慮することになるだろう。よく、「夫婦げんかは、犬でも食わぬ」ということわざがる。すぐ仲直りするから、仲裁に入るのは意味のないことだという意味であろう。それは子どもを叱る親の問題でもそうだろう。そういうことがあるので、ついつい虐待やDVが見逃されてしまうのだ。児童相談所など役所にも、そうした遠慮があるのが原因であろう。特に家庭という密室の空間で行われいる虐待やDVの発見が遅れてしまう。
 ところで、現代人は喜怒哀楽の表現が苦手だという。古代人は、この喜怒哀楽はダイレクトに表現いたのであろうが、近代になってだんだんとその表現が苦手となった。現代社会はますますその極地に到達してきているように思う。
 会社では、お客の接待のマニュアルがあり、それに無理して会わせている面があると思う。このマニュアルが、全ての分野で利用され、人間のロボット化が進んでいるように思われる。つまり、そのマニュアルも、AIの威力を使って、ロボットが作り上げたものなのだ。それが、現代人の「欲求不満」や「劣等感」となり、自分より弱いものを攻撃することなる。つまり、心の魔性が表に現れる現象となっているのが、虐待やDV、いじめなのであろう。
 今回問題になっている小学校四年生の女の子を殺害したと思われる加害者の父親の顔をTVで観ていると、ごく普通の父親である。しかも、会社でもしっかり仕事をしていたという。多分どこかで、「劣等感」や「欲求不満」などのはけぐちとなった心の魔性が、この小さな子どもさんに襲いかかったのであろう。
 最近、この家庭内の体罰について、その規制が見当されているようだが、それよりも、この心の小悪魔の処理を、どう現代人はすべきかについて論じることが大事なのではないかと思われる。
 それと、もう一つ触れなければならないのは、人権思想の欠落である。私たちは、過去二回の大戦で、そこに人権思想の欠落をみた。特に第二次世界大戦では、ナチズム、ファシズムなどが、私たちの人権を奪っていった。それが、戦後やっと解放され、本物の人権思想を得たようにみえた。しかし今、私たちが生きている社会で、どんどんこの人権思想が欠落していった。IT革命によって、ますます進行してきているように思う。その姿の一部に、虐待やDV、いじめがあるのだ。その元凶が人間のロボット化である。そこに人を人と思わない行動の源がある。私たちは、もう一度この人権思想について再考しなけれならない時が来ているように思う。

高齢者の悲哀

2019-01-04 14:07:13 | コラム
高齢者の住宅事情
 新年そうそう、はなはだ寂しい話になって、申し訳ありませんが、私たち高齢者の置かれている現状の一つ、住宅問題について述べたいと思います。
 今年になってもう少し縮小した生活をしようと、調布市から、府中市のこじんまりしたマンションへ引っ越すことにしました。それは、一つにいずれ一人暮らしという状況になるだろうということもあるからです。(一人暮らしとなりますと、年金が減ります。特に妻が残ったときは、遺族年金となり確実に年金は減ります。)
 賃貸住宅に住む高齢者にとって、アパートやマンションを借りることは、困難な状況にあります。不動産仲介業者の方がいくら頼んでも、これぞという物件はことごとく門前払いとなりました。やっと、府中のマンションが息子の連帯保証付きということで、認可されました。
 世は100歳時代といっても、多くの高齢者が住宅難民といった状況にあるのです。都営住宅は、エレベーターのあるところで、便利なところは倍率がそうとう高いのです。中には、100倍とか200倍を超えるところも多くあります。反対に、エレベーターがなく、不便なところは倍率0というところもあっります。エレベーターがないということは、高齢者にとって厳しいことです。ですから、エレベーターのあるところに殺到するのは当然です。だから、そう簡単に当たる訳がありません。
 民間の賃貸アパートやマンション(エレベータ付きであっても。)は、どうかと言えば、ほとんど高齢者は、先にも話したように門前払いです。多分、訳あり住宅(そこで亡くなっていたとか、事件があったとか・・・)を避けたいという意味があるのでしょう。都営住宅も、訳あり住宅というのはあります。それは、倍率が3倍ぐらいです。(便利なといころは10倍ぐらいのところもあります。)その訳あり住宅も、ただそこで高齢者が亡くなったというだけの住宅も入っているのです。もちろん、そこで事件があった、自殺者がでた、殺人事件があったとかの住宅も訳あり住宅です。人間はどこででも死ぬもので、住宅だってその一つでしょう。高齢者の介護は家族がやれと言いながら、死んだら訳ありということになってしまいます。
 年金額が高い高齢者は、家賃は月額12万以上でも大丈夫でしょうが、それもなかなか簡単には貸してはもらえないでしょう。もちろん、富裕層でお金のある人は購入すれば良いから、心配はいりません。問題は年金だけで暮らしていて、蓄えもさほど無い場合、借りたとしても、夫に先立たれたご婦人は大変です。私たち後期高齢者にとりましては、妻が専業主婦という方が多くいて、年金は遺族年金となります。国民年金もありますが、丁度過度期であいまいな時代でしたから各自様々です。
 人生100歳と言われている時代でありながら、住宅問題で高齢者の悲哀を感じるこのごろです。まさしく、高齢者の一部は住宅難民なのです。多分、自分の家に住んでいる人たちには、理解できないかもしれません。
 先にも触れましたが、今回不動産仲介業者さんに頼んだのですが、10回以上これぞと言うところに電話しましたが、ほとんどNOという答えでした。それでも、やっと見つけてもらうことが出来きました。それも、息子が近くにいて、連帯保証人となることが条件です。
それでは、そういう保証人になる人がいない人はどうなるのでしょうか。
 この高齢者住宅難民をどうするのか、もっと国や地方自治体は考えてほしいと思う今日このごろです。長寿社会を迎えて、この問題はほっておけない問題だと思います。幸い私は借りることが出来ましたが、次の更新時は無理かもしれません。この状態ですと常に放浪の旅となり、ややもするとホームレスになりかねないという不安がつきまといます。こんな心配をするということは、日本は福祉国家とはとても言えないということを意味します。それこそ、「高齢者は賃貸住宅ノー、日本死ね!」と言いたいところです。

人手不足というけれど

2018-12-13 19:55:09 | コラム
人手不足というけれど
 レストランやコンビニなどの店員、土建・建設関係、運転手、介護ヘルパーなど、人手不足はいくらでもある。少子高齢化のためだと言う人もいるが、それだけではないように思う。高学歴社会(決して学力があるわけではないが)となったことと、非正規雇用が常態化して、アルバイト的な仕事が増えたことによって、だれもこれから将来にかけてとは行かず、敬遠されることとなる。そこで、出てきたのが外国人の受け入れ緩和とする入管法の改正法案だ。
 しかし、結構ぶらぶらしている若者は多い。ニート族(全国に65万人から70万人ぐらいいると言われている)やひきこもりも結構多い。80・50問題(80歳の親と50歳の息子や娘)も大きな課題となっている。こいう人たちをどう支援し、仕事につかせるかが問題だ。
 それにしても、職業として、アルバイト感覚の非正規雇用では、しょせん仮の仕事でしかあり得ないから、やり手がいなくなるのは当然だ。しかも、一応大学を出ているというプライドもあるだろう。
 昔は、農家の次男三男や娘たちは、町へ出て働いたものだ。それも商店の丁稚奉公や、寿司屋の弟子になり将来は職人として、あるいはのれん分けをしてもらい、自分の店を持つことができた者もいた。工場の工員になり、少しずつ昇級していった。しかも、現代は外国への工場移転によって、働き手は必要なくなった。そういうわけで状況がすっかり変わってしまった。
 人手不足を外国人に補ってもらうというのは、対症療法にすぎない。それよりも、店員でも、社員でも将来が約束されるとなれば、どんな仕事でも就いていいとなるのではないだろうか。
 それぞれの仕事には、生きがいを得る魅力は存在するものだ。店の店員でも、お客への対応、商品についてのアドバイスなどいくらでもある。お客との応対で、商いがうまくいくこともある。だから単純なものではない。問題は腰掛けとしての仕事ではなく、もっと腰を据えてあたる仕事にするように考えなければならない。
 ところが、最近気づいたことだが、店員の態度がどうも気になる。それは、いったいこの人は客に買ってもらうという気概を持っているのだろうかと疑いたくなる。客に対して、言葉が少ない。ある品物がどこにあるかを聞いたのだが、無言でPCで検索し、無言でわたしに手渡した。
 現在の若者は責任のある仕事を敬遠する傾向にあることも問題だ。それが、バスの運転手や保育士、介護士などの不足につながっている。また、汚い仕事は敬遠される。農家のなり手がいないのもそのためだ。土建業や建設業もそうだろう。昔、ブルーカラーと言われて、ホワイトカラーは彼らブルーカラーを上から目線でみていた事を思い出す。
 多分、昔はホワイトカラーになりたくて、大学へ行っていたかもしれない。しかし、誰もが大学へ行ったわけではない。ところが、今はほとんどが大学へ進学する。そして、かつてホワイトカラーと言われていた仕事につこうとする。そのために、ブルーカラーの仕事を敬遠する傾向にあることも一因としてあるだろう。
 本当はそうではなく、どんな仕事も尊いのだが、非正規雇用というアルバイトで間に合うようになってしまったことも手伝って、敬遠に拍車をかけることとなったのだろう。そして、そいう仕事を外国人にやってもらおうとしている。
 そうではなくて、もっと人材育成に目をむかなければならない。例えば、自動車大学、介護大学とかを作る手もある。とにかく人材養成が必要なのだ。今問題なのは無職でぶらぶらしている若者、ひこもりの若者をどうするのかである。そういう人たちのケアに目を向けることなく、人手不足を外国人にたよるというのは、その時良ければ良いという発想の権化である。

魅せられる自然の光景

2018-12-08 17:51:48 | コラム
魅せられる自然の光景
 秋、紅葉の季節は、とても美しい。木々たちの冬支度は、素晴らしい光景を醸し出す。人間どものつくるライトイアップなどとは違う。そこからは生き物の息づかいが聞こえてくる。 私たち人間は、自然にたいして横柄な態度を取り過ぎる。でも、それをじっとこらえているのが自然である。
 この自然を侮るから、予期せぬ災害に見舞われることになる。自然の語る物語には風情がある。そこには、人間が現代科学を駆使して作ったどの造形物にまけない力が存在している。 この現前の存在に、美を感じることこそ求められている。ところが多くの人々は、その存在に目を向けようとせず、消費文化にうつつをぬかしている。客寄せの網に引っかかるように、そこへ集い消費生活にあけくれる。TVなどでは、食物の話でもちきりだ。ちょっと、自然を紹介するが、すぐさま食べ物の話になってしまう。じっくりと、自然の美しさ、偉大さにしたることはない。
 存在というものは、見ようとしないと見えないものだ。どんな風景にも、見える者だけに見える物語がある。もちろん、それは何も自然という存在だけの話ではない。私たちの前で繰り広げられる出来事だって、見ようとしないと見えてこない。その話は、置いておいて、自然の繰り広げる物語にもどそう。
 井の頭公園に行けば、そこに水面の風景が広がっている。決して、二度と見ることのできない光景を目にする。まさに一期一会の世界がそこに広がっている。
 神代植物公園の今年の紅葉は見事である。曇りの日だっが、曇りガラスの下に広がる紅葉の世界に引き込まれてしまう。まるで、画家の描いたような光景に出会う。まさに自然は光と影を造り出す太陽のもと、描く画家である。
 それを、私はカメラの目から捉えて写真にする。しかし、誰が撮っても同じではない。そこには、私という人間の目から見た光景が映し出される。現前の存在をどう見えたかの答えが、私の捉えた写真に表現されることになる。
 詩人は、現前の存在を見つめ、そこで自分を語る。画家は、それを絵にして語る。音楽家は、それを作曲とう形で表現する。
 いずれにしても、この創造の世界を楽しむことは、私たち人間にとって必要な活動である。それは、今オリンピックが近づいて注目されているアスリートたちにも言えることで、かれらこそ「生きがい」を実感している人間なのだ。そういう創造の世界へ飛び込むことが、私たちに求めれているのでないか。なにも、アスリートだけの問題ではないだろいう。
 「あなたやる人、わたし観る人」というだけでなく、「私やる人」の一面もあってよいだろう。私のホームページにある写真をご覧ください。右下のブックマークからどうぞ!


井の頭公園ー水面は語る


神代植物公園・魅せられる光景