FUNAGENノート

私の考えたことや、読書から学んだことを伝えます。
私の脳は書いたり読んだりすることで研ぎ澄まされると思っています。

五感を総動員して表現する

2017-07-21 15:37:14 | コラム
五感を総動員して表現する
 現前の存在に感情を持つことは、大事なことだいと思います。私たちは会話を交わす時、言葉(感情が表現された言葉)だけでなく、動作も大事だし、あらゆる五感を動員するこも求められていると思います。
 最近、何人かの人と会って、会話を交わす機会がありました。その時、ふと、人一人とっても、ずいぶんちがうものだと実感しました。それぞれの個性がにじみでています。それで、今回はこの問題を取り上げることにしました。
 もちろん、これはいつも言うように、人間を含めた動植物全体にたいして言えることです。動植物には言葉は有しませんが、それなりに、私たち人間と、もちろん彼ら同士も鳴き声や体の動き、植物だとそれどれの姿による表現をして、私たちに話しかけているのでしょう。
 私は、以前次のような経験をしました。これは現在の様相を典型的に示しているように思います。(先に触れたことがありますが、ご了承ください。)
 知らないうちに、人差し指が赤く腫れているのに気づき、最近出来た外科医院(そこの待合室には、「手の外科学会会員」と書いてあり、これは私の指の腫れの治療にもってこいだと思いました。)へいきました。すると、その先生はレントゲンを撮って、「骨に異常がないから、腱鞘炎でしょう。」とおっしゃって、薬を頂いてきました。ところが一向によくなりません。それで、今度は近くの小さな外科医院へ言って見ました。先生は、私の指を観察したりさわったりして、「これはトゲが刺さっているようですね、何かいじりませんでしたか。」とお聞きになりました。わたしは、「そう言えば、庭のバラの手入れをしたことが以前あります。」というと、「それれは多分その時のトゲでしょう。」と言って、トゲを抜いて頂ました。
 検査にたよる医師、一方観察しさわり原因を探る医師、これをいろいろな分野に当てはめてみるとよいとと思います。
 自分の感性を総動員して、感情をふくらますことが求めれているわけですが、世の中はどうもそうでは無く、いろいろと言われる言葉(先の例で言えば、レントゲンが表現した言葉)に左右され、自分のコトバを失ってしまっているようです。
 自分のコトバとは、自分の五感を総動員して、体を使って感情をふくらますことによって生まれるのでしょう。ところが、話すことのできない人(得てしてそういう人は、メールのやりとりは得意かも)が増えているのです。
 例えば、学校という閉ざされた社会の中で、先生も児童生徒も、話すことの苦手な人、自分のコトバをもてない人が増えているよいに思います。学校はただ勉強を教えるところで、しかも、人の臭いのしない言葉だけが、教室をさまよっているように思えてなりません。実際は学問というものは人間や自然、動植物の臭いがぷんぷんするものなのです。そういう学問を教えることが教育の最大の目的であるはずです。そのためには、教師自身はもちろん児童生徒の感性をもふくらますことが求められます。
 父母のみなさんと対話することの苦手な教師も増えているようです。交流はメールのやりとりだけですませているのかもしれません。それではどうにもなりません。自分の五感を総動員して、父母のみなさんとあるいはもちろん児童生徒と直につきあっていかないと、見える世界も見えてくることはないでしょう。「いじめ」一つとっても、見えなくしてしまっているのです。個々人の変化をとらえられなくなっているのです。
 余談になりますが、私の実感として言いますと、考えてみますと自分が一年生に入学してこのかた、常に黒板のある教室で人生を送ってきました。何をいいたいかと言いますと、教師というのはおしなべて学校という世界以外に、世の中の経験がない人が多いということです。ですから、人一倍世の中のことに目を向ける必要が生まれてくるのです。というわけで、これからも広い世界の探検・探索を続けたいと思います。教師諸君もそれを自覚してほしいものです。
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政治の国際化と戦前への回帰

2017-07-16 14:56:41 | コラム
政治の国際化と戦前への回帰
 日本の政治を見ていると、変な意味の国際化(グローバル化と言ってもよい)が進んでいるように思われる。世界に目を向けると、大統領になった政治家が、身内や知人を囲い込み、利益誘導や、各種の便宜をはかって、それが民衆の反感を受けて失脚した例は、数え上げればいくらでもある。その様相ときわめて似てきているのが一点、二点目はトランプ大統領によく似た現象が起きている。例えば、マスコミ批判を行う。こともあろうに自分に好意的な新聞を国会などで読むよう薦める。演説途中にヤジをとばした聴衆に指をさして、攻撃する。戦時中だったら、批判的な報道機関やヤジを飛ばした聴衆はまず逮捕監禁であろう。ナチスもそうだったであろう。さすがに今はないが、彼の思想の根底には排除の姿勢がある。これは危険なことだ。(私の父は樺太ーサハリン州ーで、軍人から「本土決戦、全国民竹槍で立ち向かうこと」と言われたとき、父が「相手が自動小銃なのに、竹槍ですか」といったら、「貴様非国民だ」といわれた。私は小学校三年生で、その町内会の集まりに父と一緒にいたから、今でもはっきり覚えている。
 彼(安倍首相)も、心の中で、貴様たち(反対意見ややめろのヤジをくりかえした人々)は非国民だと思っているにちがいない。ちなみに、非国民という言葉だが、「治安維持法的天皇制が析出した〈非国民〉という範躊は,この〈望ましからぬ者〉〈生きる資格のない者〉の規定としては,最も完成度が高かったかもしれないのである。」と、小森陽一が「変成する思考」(岩波書店)で言っている。戦時中多くの方々がこの非国民呼ばわりをされたはずなのだが、あまり戦争体験には出てこない。
 戦後から今までは、こういう現象はあまりなかったように思われる。それだけ、政治の世界もグローバル化がすすみ、それと同時に、戦前への回帰が進んでいるようにも思えてならない。首相に近い稲田大臣は自衛隊を政権の味方であるかのような発言をしていたが、これは首相と思想的にもっとも近いことを考えれば、非常に危険な発言だ。戦時中政府と軍部は一体だった。
 森友学園を取り上げれば、奥さんは名誉校長、稲田防衛大臣はそこの顧問、籠池氏とは、思想的に共鳴しあう間柄、たぶんもっともっとあるのだろうけれど、私たち一般の大衆には見えてこないのが現状だ。
 ただ言えることは、安倍首相は最初のうちは、籠池氏の考えに共鳴したと言っていた。教育勅語の暗証、他国民の誹謗中傷などの考えに共感したと言っていた。雲行きが悪くなると、トーンが落ちていった。
 一方加計学園をとってみても、ご自身はそこの理事長と親友、副官官房長官は、その関係する大学の特認教授、前文部大臣は、首相の信頼が厚いと同時に、加計学園から献金をうけている。首相夫人も関わっているようだ。それでいて、自分は関与していないと主張してはばからない。しかも、それは印象操作だと何回も言っていた。そして、最後に出てきた言葉が、獣医学部の増設である。一つにしたから疑われたから、それではもっと増やすと多少は疑いは解消されると思ったのだろ。
 だいたい今の安倍政権は、安倍氏を大統領として仰ぎ、自民党の多数派が大政翼賛会の様相である。彼らの常套手段は、いろいろと問題があからさまになると、すぐに格好よいスローガンを打ち上げるか、福祉の問題(例えば保育園の問題や教育費の問題など)に言及して国民受けをねらうか、マスコミの目を引く所に行って、自分をアッピールすることに余念がない。そして内閣改造でお茶を濁す気でもあるようだ。だまされてはならない。コップの中だけで改造しても、何も変わりようがない。
 「論争の過程におけるいかなる場合においても、自らの非を自覚した場合、罪障感を隠蔽したままの自己正当性化を行わないこと、そうでなければ論争相手の信頼を獲得することはできない。」小森陽一(「変成する思考」・岩波書店)。そうだと思う。たぶん自己正当性だけを主張していれば、国民からはどんどん離れることになろう。
 それにしても、政治の国際化と戦前への回帰にどう立ち向かうのか、今問われている問題のように思う。
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美意識について考える

2017-07-14 15:13:55 | コラム
美意識について考える
 私たちにとって、美を感じるということはどういうことか。考えてみようと思う。福田恒存が言うように、我々が美を感じるのは、博物学ではなく生きた花にである。
 私たちの周りには、にわか博物学者が氾濫していて、いろいろと講釈をする人々でいっぱいだ。その講釈に誘われて、例えば注目されている食堂などは、長蛇の列だ。本来なら、生きたその料理を見、味わってこそ実感としての美を発見するはずだ。そいう意味で、福田の言う「博物学ではなく生きた花」が問題なのだ。
 「生きた花」とは象徴的に言っているのであって、それは人間も含めた動物、もちろん植物全般も含めての話なのだ。そこの「生きた花」は曲線で構成されている。
 この曲線美というのが、いい知れない心地良さをわたしたちに与えてくれる。私のような男からみれば、女体のもつやわらかでふんわりした曲線美は魅力的である。多分女性からすると、筋肉隆々たる体の持ち主の男性はたまらないかもしれない。当然それはどうかは、私は男なので知る由もないから予想にすぎないのだが。それにしても曲線美に魅せられるのに男女の差はないだろう。
 曲線と言えば、数学で記憶があると思うのだが、二次関数や三次関数のグラフ(曲線)、三角関数のグラフ(周期的波の曲線)などは、均整のとれた曲線である。しかし、自然の作り出す曲線は、はるかに複雑で、より一層優れた美意識を醸しだしてくれる。
 ところが、この美意識なるものが今あやしくなってきているように思える。この間、家内たち友人がレストランでソフトクリームを頼んだそうだ。その中身たるや、アズキアン、白玉団子、わらび餅、コーンフレークなどが入っており、まるで「がらくたソフトクリーム」あるいは「ゴミ屋敷ソフトクリーム」と言ってもよいよなしろのだったそうだ。食べてみてそこには美意識(心地よい風味、心地よい肌触りなど)を感じる余裕などなかったようだ。
 こういう現象は食べものだけに限ったことではない。すべての分野で美意識にとって大切な適度なシンプルさがなくなってきている。適度のシンプルさは美意識にとって大きな役割を果たす。実際自然界の現前の存在は、シンプルな曲線の組み合わせで出来ているものだ。しかも、そこにはハーモニーがありリズムもある。
 先のエッセイで述べたTVドラマの「がらくたドラマ」も、そこには適度なシンプルさがかけていた。だから、視聴者にじっくりと考える余地を与えることがなかったし、美意識も醸し出すこともなかった。
 どうも、情報の氾濫が世の中すべてに影響を与えているように思えてならない。だから、話題になりネットや会話で取り上げる何か奇抜なものはないものかという風潮が、このような「がらくた」文化を生み出しているのかもしれない。樹木や水族館のライトアップも度を超すと、それは落書きになってしまう。
企業のコマーシャルもそうだが、それに劣らず政治家のスローガンなどは、何か奇抜なことを表現するとみんなが気を引くと思い、いろいろなアドバルンをあげる。アベノミクス、地方創世、一億総括役社会、人づくり革命などなど、まあよく次から次と出てくるものだ。アドバルンも多すぎると全体の調和がおかしくなる。おかしくなるからまたあげる。がらくたいっぱいの空間となる。だからだんだん見通しが悪くなる。しかも、アドバルンのインフレは、アドバルンの価値の低下につながる。言っている言葉が軽くなり、そこに重みも美も哲学も感じない。
 せっかくの曲線美に落書きのようにぎざぎざやぴかぴかを入れて、めちゃめちゃにしてしまっているのが現代社会のようだ。この落書きにだまされることなく、真の曲線美を見つけにいこうではないか。


 
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TVドラマを観て感じたこと-適度の情報から情報過多時代へ-

2017-07-10 16:37:58 | コラム
テレビドラマを観て感じたこと
   ー適度な情報から情報過多時代へー
 久しぶりで、松本清張の「証言」というTVドラマを観た。証言するということは、単純なことではないことを、このドラマはテーマとして追求している。
 証言と言っても、例えばだれだれに会ったのか会わなかったという証言を一つとっても、単純ではない。例えば会ったことが知れると、自分の秘め事があからさまになると思えば、正しい証言を躊躇することとなる。それと恩義のある相手に迷惑をかけることとなると、証言の正しさも曇るだろう。それは、言った言わない、書いた書かないでも同じだろう。
 このドラマ「証言」の場合は、殺人事件で逮捕された容疑者杉山が自分はやっていないことを証明しようと、犯行時刻には犯行現場(向島)ではなく西大久保で「石野さんに会った」といっても、石野は「会っていない」という。しかも、杉山と石野は近く(大森)に住んでいて、挨拶ぐらいはする間柄である。
 なぜ会ったと言えないのか。総務課長である石野は奥さんや職場の仲間に内緒で同じ職場のOL千恵子と時々密会していたことがばれるから、実際は行っていたのに「私は行っていない。」と嘘の証言をすることからドラマは始まる。この秘密を守ろうとする嘘の証言から、石野の人生は狂い始めることとなる。
 実際、我々の社会でも、犯罪の取り締まり、裁判所などでの証言もそれぞれの人の人生に大きな影響を与えることになろう。
 よくテレビ中継されるが、国会や地方議会などでの証言喚問なども繰り広げられている。そこには、質問者やそれに答える証言者の間の人間ドラマをかいま見ることが出来る。本当の事をどこまで言えるか、本人の葛藤はどこまでも続く。苦しくなると記憶にないとの証言となるようだ。
 証言の話はここまでにして、話題を現在のTVドラマに目を向けてみよう。実は、こっちの方を今回のテーマなのだ。私はよくサスペンスドラマを観るのだが、それがずいぶん質が落ちてきているように見えてしかたがないのだ。
 内容が複雑で、あっちいったりこっちいったり、よくわからない。あげくの果てに、最後にまとめとして、登場人物(犯人自身であったり、刑事であったり、友人などの関係者であったり)がるる説明し始めるというようなのが結構多い。
 テーマも一つのテーマを追い求めるというよりは、例えば官僚の収賄からみであったり、男女間のもつれ、痴漢騒ぎやそれにまつわる詐欺などが複雑にからみあい、観ている方には何がなんだかわからないうちに、犯人のどんでん返しがあったり、まるでがらくた劇を観ているように思ってしまう。
 私は、こういうドラマを、ゴミ屋敷ドラマと呼ぼうと思う。なぜなら、いろいろな要素が複雑に入り込みすぎて隙間がなく、空気を感じさせてくれないのだ。これでは、じっくりとテーマを追い求めることになりようがない。先に取り上げた松本清張の「証言」のドラマが、「証言することによる人間の葛藤の意味」をとことん追求しているのと比べると大違いである。今の世相がそうさせるのか、制作者の質の低下なのか、いずれにしても大きな違いがそこにある。
 世の中全体を通して、あまりにも情報量が多くつまっていて、考えたり、感じたりする余裕がなくなってきている一つの現れに思えてならないのだ。情報過多現象と言ってもよい。これは、まさに現代社会の持っている一つの病根なであろう。
 私たちは、あまりにも多くの情報量に囲まれすぎ、考える余裕を奪われてしまってるように思う。情報のゴミ屋敷は、歩く隙間がなく、そこに自分が埋まってしまって身動きできない、それでは困るのだ。人間は、歩きながらそこに空気や風を感じ考える動物なのだ。いや、ほかの動物たちも歩きながら考えているに違いない。
 
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説明責任と自浄能力

2017-07-09 13:33:36 | コラム
説明責任と自浄能力
 終戦の日(昭和20年8月15日)から72年を迎える8月が近づいてきた。この時期になると、戦争体験が語られ、もう二度と戦争はしないと、何回も何回も語れる。(私も戦争体験の数少ない一人だ。)
 私はその度に、丸山眞男が言っていた「無責任の体系」を思い出す。責任の所在をはっきりさせないまま戦争に突入し、終戦になってもその責任の所在がはっきりしていない。この曖昧さが今も続いている。
 最近よく使われる言葉に「説明責任」というのがある。英語では、「アカンタビリティ」(accountability)と言うのだが、ウォルフレンによれば、「アカンタビリティ」を「説明責任」と訳すには無理があるそうだ。彼の言によれば、「アカンタビリティ」というのは、ただ単に物事を「説明」すればよいということではなく、結果に対して責任を伴う、しかも誰が責任を負うのかという問題でもあるそうだ。(カレル・ヴァン・ウォフレンン氏は「日本/権力構造の謎」の著者)
 よく政治や行政機関、企業などで問題が起こると、「説明責任を果すべきだ」と口々に言う。ところが、一向にその説明責任を果たす様子はない。あるいはただ、起こった事実の説明に終始し、どうしてそういう問題が出てきたのか、誰の責任なのかの説明がない場合が多い。
 今出てきている森友や加計問題にしても、しきりに説明責任の必要性が語られている。しかし、一向に説明はなされていない。彼らはどうも何か今にほとぼりがさめて、国民の目が違う方に向かってほしいと願っているように思われてしかたがない。ここで一つ大きなアドバルーンをあげて国民の目をそらそうとしているかのようでもある。
 今回の都議選の大敗(原因は都民ファーストの会の躍進もあるが、自民党のいま抱えているもろもろの問題も影響している)に、平静を装っている。与党からは全く、責任論が出てこない。なぜこのような結果を招いたのかの説明もない。かれらは全く自浄能力を失ってしまっている。自浄能力の欠落は政治家に限ったことではなく、国民全体に広がってしまった。いつのまにか、このような世の中になってしまっていた。とにかく、私には異様な光景に見えてしかたがない。以前は、少なくとも自浄能力はどの組織にも、個人にもあった。
 それに対して、昔から続いているのは、責任の所在をあいまいにすることだ。なんだか知らないうちにこうなってしまった。そいうことが非常に多いのが日本の風土だ。これの意識改革はぜひとも必要なことだと思っている。ある意味、それが悲惨な戦争を起こさないためのキーワードの一つかも知れない。
 責任の所在の明確化、自浄能力の復活、これこそ今の日本の大きな課題であると思う。
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