FUNAGENノート

私の考えたことや、読書から学んだことを伝えます。
私の脳は書いたり読んだりすることで研ぎ澄まされると思っています。

「学ぶ行為」は手段か目的か

2017-05-05 12:43:49 | コラム
  私は、学ぶという行為は、基本的には目的であって手段ではないと思っている。先日、盆栽に取り組む中学生のことをTVで見て、関心したことがある。この中学生にとっては、盆栽を学ぶことは手段ではなく、目的なのではないかと思った。以前私の住んでいた近くに、科学についてやたらと詳しい高校生がいた。彼女は、科学をこよなく楽しんでいた。「学ぶ行為」が目的となっていたのだろう。
 だいたい、画家が絵を描くのは、手段ではないだろう。画家は絵画によって自分を表現しているのだ。音楽も、詩や文学も、そして科学もそれに携わる人々はみな、対象に立ち向かい彼ら(対象)から何かを感じ取ろうと挑戦し、表現し、そこにロマンを感じているはずだ。
 ところが、人間は幼稚園(保育園)、小学校、中学校、高校、場合によっては大学卒業まで、学ぶことを目的にしているはずなのだが、それが手段と化してしまっていないだろうか。ブラント学校にいくために、良い会社に入社するために勉強しているのではないか、覚えることにあくせくしているのではないか。これはまぎれもなく、「学ぶ行為(学習、勉強)」の手段化を意味する。
 本来なら、「学ぶ行為」の中で、最初は手段だったものが、目的に変わるということがあるのだが、なかなかそうならない。なぜか、たぶん学問や芸術の素晴らしさに感動する機会がないまま過ぎてしまっているからなのであろう。
 学問や芸術にたいし魅力を感じ、先の中学生が盆栽に打ち込むように、高校生が科学に打ち込むようにチャンスはいっぱいあるのだが、その感動体験がないがしろにしてしまって過ごしてしまっているために、勉強を手段と考えることになってしまっているのだと思う。昔から「学校の勉強は、校門を出ず。」ということが言われているが、それは昔の今も変わらない。
 たとえば、音楽の授業を通して、音楽の素晴らしさを味わったとか、図工や美術の授業を通して、創作することの素晴らしさを感じたとしても、それがいつのまにか断ち切れになるのはなぜだろうか。
 子供が絵(デザインやまんがなども含めて)ばかり描いていると、親は「そんなことばかりしないで、算数(数学)や英語の勉強をしなさい。」となってはいないだろうか。もちろん数学や英語にも、学ぶことのおもしろさ、奥深さを感じることもあるはずなのだが、それを味あうことのないまま、受験のための勉強となってしまっている。
 ところが、成人して社会人になって、英語とか科学とか数学、あるいは絵画、音楽、俳句、書などを楽しむ人はいっぱいいる。これらの人々は、リラックスして、それらを楽しんでいる。まるで、フェギヤスケートの選手が、試合(テスト)ではなく、エキビジションだとのびのびと演技しているように。しかし、むろんスケーターたちは、スケートという対象を表現することを目的としていることに間違いはない。
 学ぶとはどういうことなのだろうか。それは、私たちが存在に立ち向かい、そこで感じたこと思ったことを、自分のコトバで表現することなのだろう。決して知識を得ることが学ぶことではない。確かに知識を得ることは必要であろう。ただ、それを自分のコトバに翻訳することがなければ、それはただ単なる暗記となってしまう。(私がいつも使うコトバとは、感情や身体全体をつかって自分の心で表現することを言っている。)
 一つ例をあげてみる。台形の面積の公式は、『「上底+下底」×高さ÷2』なのだが、テストの時に暗記しても、それは意味がないし、忘れてしまうこともままある。もし、これをこの公式の成り立つ理由を自分のコトバで理解していれば良いのだが、それがそうはいかないようだ。単なる暗記で乗り越えても、それは「できた」けれど、「わかった」ことにはならないだろう。「できる」と「わかる」は違うのだ。
 自分のコトバ、つまり「台形をひっくり返してあわせると、平行四辺形になり、それを長方形にすれば良い。」「三角形の面積は、台形の上底が0の時だから、三角形の面積から類推する。」などということをイメージとして体感(体全体でコトバとして表現)していれば良いことになる。イメージの方法は他にもあるが、ここでは触れない。つまり公式や原理は暗記するものではなく、それを生み出すプロセスを自分のコトバで感じ取っておくことである。
 私は読書にいそしんでいるが、それは、そこに存在する一冊の本と対話をかわすことによって、自分のコトバに翻訳しているのである。決して知識を得るためにではない。名文を暗証することでもない。「読者は時として作者を越える」とは、芥川竜之介の言葉である。越える越えないは別して、自分の考えをもつことに意義があるのだ。
 以前、自分の撮りためたフォトを、集約をしてみようと、ホームページの作成に取り組んだことがある(79歳の時)。確かに、この場合その行為は手段なのかもしれない。でも、やっているうちに、ウェブデザインの奥深さを感じたものである。ただ、そのデザインの学習を目的にしなかったのは、別にやりたいことがあるのと、年齢からくる目の疲れに心配があったからだ。もっと若かったらのめり込んだかもしれない。ただ、ウェブデザインの魅力を感じ取っただけでも、良い体験だったと思っている。そして、それは私の「学ぶ行為」にいくらかの影響を与えている。
 「学ぶ行為」が目的となるには、第一に、私の現前に広がる存在に感動や好奇心をもつことなのだろう。次にそれをきっかけに、より深い探検や探検につなげることなのだろう。
 よく考えてみれば、音楽も絵画も詩や文学、書、哲学書、学術書も、すべてに共通なところがある、それは奥深い縦の広がりと、とめどもなく続く横の広がりである。そこに感動する。たとえば、「なるほどな、表現の方法は違うけれど、考えているところは同じだな。」という具合に感動することがよくある。そのことが、自分の表現活動をより深くし、広くなっていくという経験をしたことがある。「学ぶ行為」とはこういうことなのかもしれない。
 子供たちの受験対策もさることながら、認知症対策として「学ぶ行為」もさかんである。その場合に、大切なことは、認知症の進行を押さえるとか、予防とかのための手段ではなく、「学ぶ行為」の対象(私の現前の存在)そのもに対する感動体験、好奇心こそが、「学ぶ行為」の目的化につながるのであろう。
 いずれにしても、私たちは「学ぶ行為」は目的なのか、手段なのかを改めて吟味する必要があるように思う。

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