FUNAGENノート

私の考えたことや、読書から学んだことを伝えます。
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改訂版〈政治〉の危機とアーレント(読書ノート)

2017-10-04 11:01:47 | コラム

政治の危機とアーレント(読書ノート)ちょっと改訂しました。
 今回は、「〈政治〉の危機とアーレント」(佐藤和夫著・大月書店)を取り上げる。
 私たちの政治は、際だって経済との癒着に向かっている。そしていったんその経済があやしくなると、拝外主義やナショナリズムが台頭する。今世界中が、その波に襲われている。
 また、雇用は不安定になり、社会保障政策も困難に直面する。その中で人々は、居場所をなくし、根無し草となって、さまようこととなる。
 消費社会は、私たちの生活に深く入り込み、物質的利益だけが優先され、思考停止に追い込まれている。
 佐藤は言っている。『「自分らしさのための所有」が、究極的には貨幣の量に還元される「富」であるかのように混同されるに至った。しかし貨幣に象徴される富とは結局、無限に肥大を求めるしかない消費物であり、それは、「根を持つ」こと、つまり、そこを基礎にこの大地で生きる基礎を固めることが可能になる「所有」、自分らしさの確保とは正反対のものなのである。こうして、「根を失う」ことは人びとの「自分らしい」かけがえのなさを失わせ、自らを余計なもの、無用なものと思わせるようになる。』
 周りの存在(豊かに繰り広げられる存在)に目を向けることなく、あっち行ったり、こっち行ったりの行動を繰り広げることが多くなる。人間にとって主人公だった道具は機械にとって代わり人間はその奴隷になることを強いられている。
 自分たちの代表者「政治家」は利益代表であればよいという考えが今も存在している。利益団体と政治家の癒着がいまだに横行している。しかし、この利益団体も万全ではなくなってきている。団体の弱体化が影を潜めている。そのために、いわゆる浮動票が増えてきている。この浮動票の奪い合いが、まるでコマーシャルのような政治家の発言を生んでいる。
 このような現状を、ハンナ・アーレント(1906年ー1975年)が的確に述べていることは、私にとって驚きであった。 
 彼女は、あのナチスドイツの迫害にあう中、最後はアメリカにわたって活躍した哲学者、思想家だ。その彼女がナチスの台頭や、ソビエトにおけるスターリンの蛮行を目にして、考察したのが「人間の条件」や「全体主義の起源」などだ。
 私にとって、佐藤の言う次の言葉が印象的だった。
『アーレントは「哲学の本性が日常の現実を超越したものではなくて、日常的現象と関わるも」のだと宣言する。』
『「始める」ことが人間であることの根本的事実だとすれば、」そこには「人間の自由」が存在している。「歴史におけるどの終わりも必然的に新しい始まりを含んでいるのだ。』つまり、歴史の終わりは始まりであると言っているのである。
 ところで、『「社会」によって絶えず平均化、画一化を迫られる現代社会の文化状況において、人びとがそうした物質的利害に押し込められないで、いかにして一人の人間としてこの世界に生きる希望を失わないでいられるのか。』
 佐藤の言うように、『「根をおろす」といくことは、「世界で安心して落ち着いて住める」、「根を奪われている」というのは、表面だけで生きているということ、「寄生虫」のように「淫浪」していることである。』 だとすると、どうやって「根をおろす」このができるのかを私たちは考えなければならない。思考停止に陥らないように、何をすべきかを考えなければならない。
 その場合、自分の考えはかならずしも正しいとは限らないわけだから、相手に問いかけることなしには真理を知ることはできないということを自覚し、これからの世界のあり方を、みんなで話し合うことが必要なではないか。そういう土壌をつくることも求められているのではないか。実際問題として、そういう土壌がないのが日本の実態である。そのことについてはいつも述べているところである。 
 最後に、私もまったくその通りだと思うので、佐藤の次の言葉をそのまま紹介して終わりにする。
『現代世界では、グローバル化した世界の経済競争の中で勝ち残るかどうかということが唯一の絶対的現実であるかのように語られるが、そうした状況を出発点として考えつつも、なぜそのように経済的現実が絶対的に捉えられてしまうのかを、逆にそのような状況自身の分析に立ち入ることによって相対化できるものだとアーレントならば考えるのである。
 より多くのカネを得て、より多くのものをより安く消費することだけが人間の生活であり現実だということになれば、私たちは世界経済競争にさらされ、際限もない労働強化の中で生きるしかなくなるかもしれない。しかし、もし仮にそうした生活はもううんざりで、それよりは多少カネを使うことは減っていくにしても、経済活動以外の人間生活、あるいは市場に依存しない経済活動によって、地域の人の助け合いの中でゆったりと暮らす方向を願う立場をとるとすれば、世界貿易競争に翻弄される現実は一挙に相対化されるだろう。
 その意味で、政治経済的現実は、私たちがそこに全面的に屈して従うしかない現実ではなく、そこを出発点として、私たちがどのように生きるかを考えるものでなければならないはずだ。』