FUNAGENノート

私の考えたことや、読書から学んだことを伝えます。
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TVドラマを観て感じたこと-適度の情報から情報過多時代へ-

2017-07-10 16:37:58 | コラム
テレビドラマを観て感じたこと
   ー適度な情報から情報過多時代へー
 久しぶりで、松本清張の「証言」というTVドラマを観た。証言するということは、単純なことではないことを、このドラマはテーマとして追求している。
 証言と言っても、例えばだれだれに会ったのか会わなかったという証言を一つとっても、単純ではない。例えば会ったことが知れると、自分の秘め事があからさまになると思えば、正しい証言を躊躇することとなる。それと恩義のある相手に迷惑をかけることとなると、証言の正しさも曇るだろう。それは、言った言わない、書いた書かないでも同じだろう。
 このドラマ「証言」の場合は、殺人事件で逮捕された容疑者杉山が自分はやっていないことを証明しようと、犯行時刻には犯行現場(向島)ではなく西大久保で「石野さんに会った」といっても、石野は「会っていない」という。しかも、杉山と石野は近く(大森)に住んでいて、挨拶ぐらいはする間柄である。
 なぜ会ったと言えないのか。総務課長である石野は奥さんや職場の仲間に内緒で同じ職場のOL千恵子と時々密会していたことがばれるから、実際は行っていたのに「私は行っていない。」と嘘の証言をすることからドラマは始まる。この秘密を守ろうとする嘘の証言から、石野の人生は狂い始めることとなる。
 実際、我々の社会でも、犯罪の取り締まり、裁判所などでの証言もそれぞれの人の人生に大きな影響を与えることになろう。
 よくテレビ中継されるが、国会や地方議会などでの証言喚問なども繰り広げられている。そこには、質問者やそれに答える証言者の間の人間ドラマをかいま見ることが出来る。本当の事をどこまで言えるか、本人の葛藤はどこまでも続く。苦しくなると記憶にないとの証言となるようだ。
 証言の話はここまでにして、話題を現在のTVドラマに目を向けてみよう。実は、こっちの方を今回のテーマなのだ。私はよくサスペンスドラマを観るのだが、それがずいぶん質が落ちてきているように見えてしかたがないのだ。
 内容が複雑で、あっちいったりこっちいったり、よくわからない。あげくの果てに、最後にまとめとして、登場人物(犯人自身であったり、刑事であったり、友人などの関係者であったり)がるる説明し始めるというようなのが結構多い。
 テーマも一つのテーマを追い求めるというよりは、例えば官僚の収賄からみであったり、男女間のもつれ、痴漢騒ぎやそれにまつわる詐欺などが複雑にからみあい、観ている方には何がなんだかわからないうちに、犯人のどんでん返しがあったり、まるでがらくた劇を観ているように思ってしまう。
 私は、こういうドラマを、ゴミ屋敷ドラマと呼ぼうと思う。なぜなら、いろいろな要素が複雑に入り込みすぎて隙間がなく、空気を感じさせてくれないのだ。これでは、じっくりとテーマを追い求めることになりようがない。先に取り上げた松本清張の「証言」のドラマが、「証言することによる人間の葛藤の意味」をとことん追求しているのと比べると大違いである。今の世相がそうさせるのか、制作者の質の低下なのか、いずれにしても大きな違いがそこにある。
 世の中全体を通して、あまりにも情報量が多くつまっていて、考えたり、感じたりする余裕がなくなってきている一つの現れに思えてならないのだ。情報過多現象と言ってもよい。これは、まさに現代社会の持っている一つの病根なであろう。
 私たちは、あまりにも多くの情報量に囲まれすぎ、考える余裕を奪われてしまってるように思う。情報のゴミ屋敷は、歩く隙間がなく、そこに自分が埋まってしまって身動きできない、それでは困るのだ。人間は、歩きながらそこに空気や風を感じ考える動物なのだ。いや、ほかの動物たちも歩きながら考えているに違いない。