FUNAGENノート

私の考えたことや、読書から学んだことを伝えます。
私の脳は書いたり読んだりすることで研ぎ澄まされると思っています。

情報の扱いについて

2017-06-08 19:30:58 | コラム
情報の扱いについて
 今、膨大な情報が飛び交っている。その情報に振り回されている人たちがいる。TVやネット、「おしゃべり共同体」(カルチャー、老人クラブ、子育てママさんの集まりなど)の中で流される情報に右往左往している。
 それどころか、自分がまるで報道写真家になったつもりで、ネットで発信し、それを見た人々がまた発信し、時には炎上現象を起こす場合もある。写真だけでなく、聞いた話なども、次から次へと情報は拡大する。
 先日、TVドラマを観ていたら、人が急に倒れているのに、それをまるで報道写真家のように何人もの人間がスマフォで写真を撮っている場面があった。救急車を呼ぶという気はまったくない。やっと、誰かが救急車を呼ぶ場面が放映された。
 これは、一つの問題提起をしているのであろう。私は、こういう連中をアマチャ報道写真家症候群と呼ぶことにする。事実、最近の事故や災害などの報道は、一般人の写した写真が使われることはよくあることだ。
 例えば、食堂に入って、自分の注文した料理を写メールで発信し、それがまた次から次へというようになって、話題の店は長蛇の列ということになる。
 ある時は情報を発信する方に、ある時には着信する方となり、情報が飛び交うこととなる。そして、その情報をめぐって右往左往している。まるで情報の奴隷のようになってしまっている。
 たしかに、私たちにとって情報は必要である。それは間違いない。ただ情報を考える糧となるためには、考えるという行為が必要なのだ。
 例えば、情報源のひとつに、本(小説、詩集、哲学書、評論、学術書など)がある。私たちはそれを読むと同時に、自分のコトバに翻訳するか、編曲することが求められる。本で述べられていることをただ鵜呑みにしてはならない。本で著者が述べられていることは、あくまでも、私たちの感性に揺さぶりをかけてくれる情報である。その揺さぶりに答えるのが私たちの任務である。もし、私たちの感性にさっぱり響かないのであれば、その本を読むのをやめることだ。
 情報源になるものの一つに、私たちの現前の存在つまり、自然(風景、動植物など)、社会(世の中の姿)などがある。それを元に情報が飛び交うこととなる。ただここでも、鵜呑みにすることがあってはならない。その情報源にまでさかのぼり、実際にどう考えたらいのか、感性をふくらませて、自分のコトバで表現することが求められる。
 それがないと、結局は情報の一人歩きに拍車をかけて、間違った情報やデマが飛び交ったり、炎上を引き起こすこととなる。かつてのドイツや日本などであった、情報操作(意図的な国家権力の操作)を、現在も行われるかもしれないという危険性をはらんでいる。「一億総何々」になることにならないようにしなければならない。
 情報と言えば、コンピュータの得意分野である。膨大な情報を処理して、答えをだす事が得意である。ただここで大事なのは、情報の質であろう。この質の善し悪しは人間の得意分野である。
 ということは、情報をどうとらえ、自分の考えに取り込むかがどうしても必要だということだ。だから、いくらコンピュタが発達しても、結局は人間の考える力が必要だということだ。
 情報(TV、ラジオ、SNS、おしゃべり共同体などから得る情報)を追っかけてばかりいてはならない。そんなことばかりしていたら、考えるという脳の操作がおろそかになり、やがて認知症になるかもしれない。老いも若きもである。