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唯物論の再構築

進化論

2011-01-07 08:11:37 | 進化論

 進化は環境要因が決定する。遺伝子とは、生命体による環境認識の記録にすぎない。言い換えれば、遺伝子は生命体の道具であり、生命体が遺伝子の道具ではない。

 神が人間世界を創造したという考えは、19世紀のダーウィン進化論の登場で基本的に壊滅した。もちろんアメリカ人の半分は、まだ進化論を信じていないし、おそらくイスラム世界のほとんどの人間も同じであろう。実際にはダーウィンよりはるか昔にプラトンが、人間は魚から進化したと考えていたそうである。今では観念論でも進化論を無視できなくなっており、キリスト教原理主義などは、進化に神が関わっているという混合バージョンに切り替えている。 混合バージョンの基本的な発想は、進化における環境要因の排除として現れる。遺伝子は後天的に生存中に得た経験まで記憶できない。つまり親は環境に対応した努力を、遺伝子に含ませて子に譲り渡すことができない。したがって子の遺伝子は、常に親の遺伝子のコピーとなる。また生物種間で染色体数に差異がある場合、それらの生物種間の混血の子の出生は可能でも、孫の出生は不可能である。さらに生物種内の遺伝子変形は、単体では交配相手が存在しないために、子の世代にその遺伝子を伝承できない。このことからエホバの証人などは、多様な生物種は少なくとも生命誕生時点で全て存在していたと扱っており、生物種の分岐的進化を認めていない。上記混合バージョンは、いわゆるルイセンコ学説の否定と連動している。要旨を言えば、遺伝子は環境を認識できない、ということである。なるほど遺伝子は、親の後天的獲得形質を取り込めない。しかし生物種自体が親の後天的獲得形質を取り込めるかという点について、上記混合バージョンの言及は無い。

 上記混合バージョンに対して、さしあたり既存の進化論の見解は以下になるはずである。
 生物種内の地域的グループは、地域の環境特質に応じた文化を各グループごとにもっている。それは捕食対象であったり、交配相手の選別傾向であったり、子供の育成パターンであったりするが、基本的に環境に適応したものである。人間でもそうであるが、同一生物種内であっても、文化的差異はグループ間の分離をもたらす。同一生物種内のグループ分離は、生物属などの多様化に連繋していく。このような属分離は、属単位での遺伝子変形の可能態でもある。つまり遺伝子レベルの分離の条件は、すでに整ったことになる。
 既存の進化論での混合バージョンに対する説明は、ここで終わるはずである。すぐわかることだが、属分離は遺伝子レベルの分離にまで連繋しない。つまり可能なだけであり、条件が整っただけにすぎない。遺伝子レベルの進化が現実になる仕組みは、遺伝子をいじくっても答えが出ないのである。当然ながら遺伝子レベルの進化が現実になる仕組みは、遺伝子の外側にある。現時点の仮説は、ウィルス集団感染による生物属全体の遺伝子変形の発生や、宇宙線大量被爆による生物界全体の遺伝子変形の発生などがある。

 上記と別に、既存の進化論と混合バージョンの両方を活かす見解が可能である。多様な生物種の元になる染色体数の起源は、生命誕生時点で出揃っていて、後は生物種内の属分岐だけで進化を説明する見解である。つまり染色体数の枠内でそれぞれの生物種が分岐するわけである。この場合の進化分岐の樹形図は、染色体数ごとに作成し直したものになる。この見解だと両者はアリとアリグモのように類似しているだけの別種となり、既存の進化論のように人間とチンパンジーは親戚関係ではないことになる。ただしキリスト経原理主義の期待と違い、人間が魚からサルを経由して進化したことに変わりは無い。
 上記混合バージョンの問題点は、実は別のところにある。遺伝子が環境を認識できないというのは、遺伝子自体の必要性を脅かす結論だからである。
 遺伝子は、生命体が迷路の各経路上につけた目印のようなものである。生命体は迷路の目印をつけながら進むが、その多くが迷路の先で行き止まりに追突して頓死する。頓死した生命体がつけた迷路の目印は、そこで系譜を終える。行き止まりに当たらなかった生命体の子孫は、親のつけた目印をたよりに迷路での頓死を避ける。いわば遺伝子は、運良く頓死しなかった先祖の教えであり、その中身は環境認識なのである。つまり進化は、環境要因が決定するのである。遺伝子は親の後天的獲得形質を取り込めない。しかし生物種は親の後天的獲得形質を取り込んでいるのである。
 遺伝子版不可知論は、観念論にすぎない。
(2011/01/07)

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進化なんて存在しない! (法政太郎(ニョロニョロ@ムーミン谷))
2011-07-24 04:03:17
進化なんて存在しない!
ダーウィンも「進化」なんて胡散臭い用語は使いたくなかったそうだが、「進化」という言葉が当時トレンディーだったためにキャッチーなマーケティングのためにイヤイヤ使ったらしい。
形質の変化は単なる「構造変化」に過ぎない。
「まつ毛は目にゴミが入らないようにするDNAの戦略」ではない。
川はニュートン力学に従い、山と山の間の谷の底を流れて湖を形成するように、感覚器(神経の集積場)の周辺に触覚(神経末端)が集積するのは構造的な理由による。そこに「なぜ?」という合目的的問いはない。

「蟲」という漫画あるいは映画はおもしろいと思う。
人の心や身体を規制するのは「流れ者」と呼ばれる目的・意思を持たない「蟲」の大群だそうだ。
「蟲の居所が悪い」「哲学の蟲」。誰も怒りという意思も持たず、哲学をするという自由意思もない。ただ、そう蟲が流れて行くだけだ。

「蟲」という映画はヨーロッパの映画祭に出品されたそうだが、案の定、欧米人には理解できず大不評だったそうだ。
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 進化は存在せず、変化だけが存在するという文面... (慶応次郎)
2011-07-24 16:27:07
 進化は存在せず、変化だけが存在するという文面かと思います。進化論は、生物個体の目的意識が種の変化をもたらすのを排除します。その点で進化論は、方向性をもたない変化だけを許容します。この限りで進化論は、すなわち変化論です。
 しかし進化論は、環境的制約がもたらす種の変化が合目的になるのを容認します。つまり進化論は、自然環境が目的意識的に種の変化をもたらすのを容認します。その点で進化論は、方向性をもつ変化だけを許容します。この限りで進化論は、やはり進化論です。
 したがって、進化とは変化にすぎないと言う表現が、種の変化に方向性が無いのを意味するなら、その表現は進化論と相容れません。またそのような変化論は、およそ世界には必然が存在せず、偶然だけが存在するのを意味します。その理屈を極度につきつめるなら、因果律の否定にも繋がります。
 貴殿の文面は、構造変化が力学的方向性をもつのを容認しているので、進化の完全否定になっていないように見えます。つまり進化の完全否定なら、まつ毛の生成という変化から力学的理由づけを廃し、環境と無関係な自律的変化としてそれを説明すべきです。

 「蟲」という漫画映画は知りませんが、紹介された内容を読んで、つげ義春の「沼」という漫画を連想しました。「沼」には物語を支配するような虫は登場しませんが、代わりに直前の意識動因を一種の霊的存在のような形で描いています。結果的にこの漫画では、直前の意識動因だけが後続のストーリー展開を産む形で、ストーリーの合目的性が廃棄されています。後の「ねじ式」などの作品に繋がる漫画でした。
 似たように物語の合目的性を廃した作品として、カミュの「異邦人」があります。実存主義文学の傑作として、この作品でカミュはノーベル文学賞を得ています。この作品の主人公は、偶然に起こした殺人で死刑になります。物語は、世間が主人公の殺人を合目的に理解しようとするのに対し、殺人が偶然に起きたのを知っている主人公が憤慨し、世間を心底嘲り笑う場面で終ります。「異邦人」は一般者の軽薄に対する個別者の憤慨を描いていますが、それは軽薄で冷淡な必然に対し、現実に存在せざるを得ない偶然の憤慨でもあります。このような観点で、「蟲」という映画内容を欧米人に理解できないという意見は、違うように感じました。「蟲」を観ていないので申し訳ないですが、全く評価されなかったのであれば、観客に共感させるまでに到らなかった点で、単純に映画の出来が不十分だった可能性を感じます。
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