桂樹通信-予備-

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紙は天にいまし、全て世は事ばかり(13)

2011-04-01 00:00:00 | SS
Part.13 3-A、西へ
 神保町での衝撃的な出来事から一夜明けた翌日。
 昼休み、千雨は屋上でごろりと横になって空を仰いでいた。
 来たくてここに来たわけではない。教室に居辛かったから、逃げてきたのだ。ある少女の視線に、追い立てられるように。
 綾瀬夕映。クラスでは自分の隣の席に座っている彼女の千雨を見る目が、今日は───いや、正確に言えば昨日からおかしかった。
 いや、おかしいというのには語弊がある。奇異の目、あるいは好奇心の塊のような目とでも言えばいいのだろうか。とにかく、ちらちらと常に千雨の事を彼女は気にしているようだった。落ち着かないことこの上ない。もっとも元はと言えば、そんな目で見られる理由を作ったのは千雨自身ではあった。

「あれは、仕方なかったんだけど……」

 誰でもない、自分自身に向かって千雨はそう言い訳をする。だがしかし、もちろんそれは何の解決にもなりはしなかった。
 あの日、ミス・ディープと呼ばれていた女に不意を突かれ、人目があるというのに咄嗟に紙技を使ってしまった自分。確かに身の危険に身体が反応してしまったのだが、状況的には迂闊だったとしか言いようがない。
 幸いだったのは、夕映が“あれ”を何なのか、おそらく理解できない事だ。楓クラスの研ぎ澄まされた目をもってしても、千雨が紙技を使う動きを見切る事は容易ではない。
 だから、一般人であるはずの夕映の目には、恐ろしいまでの早技で千雨が何かをやったという、漠然としたものしか目撃できていないはずだった。ミス・ディープの能力にしてもそうだ。
 超常の力であるとは認識はできても、理解する事は容易ではない。それについて自分の中で折り合いがつくまでは、おそらく夕映が動く事はないだろうと、千雨は予想していた。
 とはいえ、いつまでも誤魔化しきれるものでもないだろう。好奇心旺盛な夕映の事だから、遠からず「あれはなんだったのか」と聞いてくる事は想像に難くない。それまでに、何か適当な言い訳を考えておく必要があった。

「はぁ……」

 今日になって何度目のため息だろうか。
 どうも考える事がまた増えた。宿題をたくさん出されたような気分だ。何せ、懸念事は夕映についてだけではないのだから。

「菫川ねねねか……」

 昨日、あの倉田ビルの屋上にあるペントハウスで、彼女は菫川ねねねと出会った。
 おそらくは、自分以上に読子の事を知っているであろうねねね。そんな彼女との出会いは、千雨にとって実り多く有意義なものだったと言える。
 だがそれは同時に、新たな厄介事を千雨へと呼び込んでいた。
 すうっと静かに目を閉じる千雨。思い浮かべるのは、昨日の出来事だ。
 彼女の前に現れた白人紳士。ジョーカーと名乗った男。大英図書館特殊工作部の首魁。そして、読子が身を寄せた麻帆良学園の───敵。
 その男が、自分を味方に引き込もうと接触を図ってきた。本心かどうかはわからない。だが、出会ったのは偶然ではないはずだ。麻帆良の中では話が出来なかったと、あのジョーカーは言っていたのだから。
 ここにいる限り、自分は魔法使いたちに守られている。つまりは、そういう事なのだろう。いつからそうなのかは知らないが、近右衛門や高畑が言ったことに嘘偽りはなかったというわけだ。
 麻帆良学園にいる魔法使いたちというのは、エヴァンジェリンのような例外を除けば、基本的には概ね善人なのだろう。彼らの善性によって、千雨自身を含めたこの街の安全が保たれている───大英図書館という“外敵”を昨日初めて目にして、それが初めて実感できた。

「けど……これからしばらくは、そういうわけにもいかないんだよな」

 明日から自分たち3年生は修学旅行だ。それはすなわち、麻帆良という守護の傘から出て行動する事になる。きっと、ジョーカーたちはその間にまた接触を試みてくることだろう。こういう好機は、そうそうあるものではないのだから。
 しかし、接触される千雨の側としては、本心がどこにあるか読めないのが不気味で不安だ。それにジョーカーの言動はいちいち慇懃で、どうにも反感を抱いてしまう。
 確かに、ネギとあわせて考えてみれば、馬鹿丁寧なのは英国紳士とやらの基本姿勢なのかもしれない。だが、話せば子供らしい愚直なまでの真摯さを感じるネギと違い、ジョーカーにはそれがない。直感的に、信用が置けないと感じるのだ。
 実際、ねねねにもジョーカーを信用するなとあの後に言われている。詳しい事情はわからないが、彼女はひどくジョーカーの事を警戒しているようだった。まぁ、あんな慇懃無礼な男であるから、無理からぬ事だと千雨も納得はしていたが。

「くそ、わっかんねー。なんでなんだよ……?」

 しかしそんな態度だからこそ、幾ら考えてもジョーカーの真意がわからない。
 読子ほどの手練であれば、スカウトしようというのもわかる。だが、自分など読子の足元にも及ばない、駆け出し同然の紙使いだ。そんな者にわざわざ声をかけて───あるいは騙して───招き入れる必要性など、どこにあるというのだろうか。
 千雨の持っている情報はあまりにも少ない。ネットの海に少しでも繋がっている情報ならば苦もなく引きずり出してみせるのだが、ここ最近彼女を悩ましている案件はそういうものとは質が違う。
 結局、どれほど考えても妙案は出ないのだ。楓のように「なるようにしかならんでござるよ」と割り切る事ができれば話は楽なのだが、根っこの部分で生真面目な面を持つ千雨としては、そうも言っていられなかった。

「誰かと思えば……随分と景気の悪い顔をしてるじゃないか、長谷川千雨」

 ふわりと、寝転がる自分の顔に影が差した。誰かと思って頭上に目を向けると、爽やかな春風に揺れる豪奢な金髪が見える。

「エヴァンジェリン……」

 そう名を呼びながら、むくりと起き上がる千雨。
 彼女は腕組みをしながら、千雨を見下ろしている。珍しくひとりだ。侍女のように傍らに控える茶々丸の姿がないが、これはきっと昼休み恒例である超包子の中華饅頭販売を手伝っているからだろう。

「……何か用でも?」

 正直、あまり見たい顔ではなかった。結局のところ、すべての元凶はこの小柄な吸血鬼に襲われた事にある。今さら責任を押し付けようとは思わないが、感情的な部分ではどうしても納得し難いものがあった。

「ふん、用などあるものか。昼寝しに来たら私の定位置に貴様が転がっていたから、声をかけただけの事だ」
「悪かったな。邪魔なら消えようか?」
「かまわん。今日の私は機嫌がいい。そこにいる事を許可してやる」
「そりゃ、どうも」

 千雨が知る普段のエヴァンジェリンならば、決して言わないような台詞だ。確かに機嫌がいいらしい。

「しかし珍しいな。いつものあんたなら、声をかける前に蹴り飛ばしそうなもんだが」
「……貴様は私を何だと思ってるんだ」
「暴君?」
「くっ……」

 そんな風に表現されてしまっても反論できない程度には、思い当たる節が自分でもあったらしい。彼女は引きつったように一瞬口元をひくつかせると、憮然とした様子で千雨の向かいへと座った。

「私はこう見えて、格下相手には寛大なんだ。貴様にはこの間徹底して上下関係を叩き込んでやったろう、せいぜい私に忠実でいろ」
「恐悦至極に存じます、エヴァンジェリン様」

 千雨はへへえと平伏せんばかりの、過剰にへりくだった胡散臭い敬語で返した。無論、実際にはこれっぽっちも恐悦などとは感じていない。吸血鬼にされていた時ならともかく、今のエヴァンジェリン相手には、敬意も忠誠も抱きようがない。

「……それは止めろ、気色悪い。素で言われるとさぶいぼが出そうだ」
「同感だな。歯が浮くぜ、こういう台詞は」

 わざとらしく肩をすくめてみせる千雨。

「まったく、貴様という奴は……やはりもう少し教育───いや、調教しておくべきだったか?」
「調教って……勘弁してくれ。あんたがおっかないのは骨身に染みてる」
「本当か?」
「ホントだって」
「ふん……」
 
 エヴァンジェリンは鼻白んだ様子を見せるが、本心から自分をどうこうしようと思っていないのは明白だった。
 彼女自身が言うとおり、エヴァンジェリンは本来格下には比較的寛大なところがある。だいだい、彼女が本気でどうにかする気であれば、自分ごときどうにでもされてしまうのは先日確認済みだ。
 あの停電の夜、格下であるはずの千雨を容赦なく叩き潰し血を吸ったのは、千雨自身の行動が原因であり、そしてまたあの時見せた覚悟が一人前の“敵”として彼女に認められたからだ。そうでないのならば誇り高き真祖であるエヴァンジェリンが、格下をわざわざ相手にしないし、ましてや血など所望するはずもなかった。

「まぁ、いい。それでだ千雨、何故そんなに腑抜けた面をしていた?」
「む……」

 エヴァンジェリンの言葉を聞くと、途端に千雨の眉が険しくしかめられた。探られたくない腹を探られたと言わんばかりの仕草だ。かと言って、聞かれて答えないのは後が怖いのはよく分かっている。
 千雨は仕方なく、なるべく遠まわしに言葉を選びながら答えることにした。

「いや……大した事じゃない。ちょっと、面倒事が積み重なってるなってだけで」
「ほう? 何があった、話してみろ」
「やけに食いついてくるな……」

 心底嫌そうにエヴァンジェリンを見る千雨。だが当の彼女は、千雨の反応などどこ吹く風と言わんばかりの、腹が立つほどに悪辣な笑みを浮かべていた。

「なに、貴様がトラブルに巻き込まれて苦労しているというだけで、私の溜飲が下がるんだ。ほらほら、早く白状しろ」
「……あんた器が大きいのか小さいのかよくわからん。私みたいな小物が苦労してるの見て楽しいのか?」
「ああ、実に愉快だ。それに言ったろう、力持つ者はそれから逃げることはできないと。しかし貴様はそれに背を向けていた。そのせいで溜まった数年分の負債を、貴様は今支払ってるんだろうさ。きっとしばらくは続くぞ、トラブルは。山積みでな」
「勘弁してくれ……」

 千雨はげんなりとした表情で頭を振る。だが、もはや喋るまで解放はされないと悟ったのだろう。諦めた様子で話し始めた。

「……大英図書館の連中と会った」
「ふむ?」
「私をスカウトしたいってさ。本気かどうかはしらなーけどな」
「スカウト? それはまた……」

 顎をつまんで考え込むエヴァンジェリン。まるっきりの他人事だというのに、やけに熱心だ。きっと、新しい暇潰しか何かだと思っているに違いなかった。

「まぁ……年齢的には別におかしくもないのか」
「どういう事だよ?」
「いや何、ザ・ペーパーが大英図書館に入ったのは確か15歳だと聞いている。貴様と同じ年齢だ。ならば、連中は貴様を後釜として働かせる事に何の躊躇もせんだろう」

 そう言われれば、一応納得はできる。だが、その一方で先ほども思ったように、自分と読子が同列に扱われるというのは、どうしても感情的に理解できないものがあった。

「あの夜も思ったが……お前は身の程を知らない訳ではないんだよな……」

 千雨の内心を察しているのか、エヴァンジェリンは呆れたような表情をしつつも、それを肯定した。

「でも、私じゃ大して役に立たないだろ」
「だろうな。それにここ数年でだいぶ組織が弱体化しているとはいえ、連中も引き金になったザ・ペーパーの後釜として、わざわざその弟子であるお前を迎え入れるほど困窮してはいまい。体面の問題もあろうよ」
「そういうものなのか?」
「中学生であるお前には少々分かりにくい話かもしれんが、組織の面子というのはまぁそういうものだ」

 真祖の吸血鬼エヴァンジェリンは、伊達に600年生きているわけではない。長い人生の間に、人間の醜いところは散々見てきているだろう。ならばその経験を基にした洞察には、一定の信頼がおけるはずだった。
 だとするなら、話は難しい事ではなくなる。千雨がそれに気付いた素振りを見せると、エヴァンジェリンもまた頷いた。

「やっぱ、そうか? つまるところ、私を何かに利用しようって事なんだな」
「そう見るのが妥当だろう。どんな形でだとか、そういう細かいところまでは知らんがな。ともかく、お前を認めてスカウトしようなどと言ったのは嘘っぱちだろうさ」
「だよなぁ」

 得心いったとばかりに頷く千雨。しかしそうなると、だんだん腹が立ってきた。

「随分と人の事をナメてるよな、大英図書館ってのは」
「連中は裏の人間の中でも、いちばん性質の悪い連中のひとつだからな。まったくジョンブルというやつは度し難い」
「けど、全部が全部ってわけでもねーだろ? ネギ先生とかは悪い人間には見えないぜ」

 そう反論しつつ、もっとも身近なジョンブル───英国人である、ネギの姿を思い浮かべる。

「ふん。ぼーやは確かに英国人だが、それ以前にまだガキだ。本人がどう主張しようが、まだ人格を語るレベルまで成熟しておらん」
「ま、確かにそうだ」

 千雨は否定しなかった。否定しようもない。彼は確かに子供であるのだから。

「嘘をつくのは苦手そうだしな、あいつ」
「まったくだ。バカ正直というのがあれほどピッタリ来るガキも珍しい。親父とは大違いだ」

 ネギの父であるナギは息子に比べると、随分と奔放な性格の持ち主だったらしいというのは、エヴァンジェリンの言葉の端々から分かる。ただ、彼女はナギのそんな性格こそを愛していたようではあったが。

「しかし、そういうバカ正直な奴だからこそ、ぼーやの言葉は信じられる……冷静になればな」
「何の話だ?」
「苦し紛れに適当な嘘を言うような奴ではないという事だ」
「ん? ああ……あれか」

 そこまで聞けば、千雨にもわかる。あの夜、ネギが言っていた事を彼女は思い出していた。曰く、自分の父は生きていると。離れてはいたが、千雨にもやり取りはちゃんと聞こえていた。
 あの時はエヴァンジェリンの逆鱗に触れる結果になったが、実のところ千雨本人としては、ネギがそういうつまらない嘘をつく人間だとは考えていない。エヴァンジェリンを説得できず怒らせてしまったのは、彼独特の“空気の読めなさ”に起因するものだと、千雨は思っていた。

「なんだ……先生の言ってた父親の話、結局あんたも信じる事にしたのか。もしかして、それで機嫌良かったのか?」
「……まぁ、先日あらためて話をしてみて───な」

 曖昧に頷くエヴァンジェリン。
 あの夜、彼女はネギの言った“ナギ・スプリングフィールドが生きている”という言葉を一方的に嘘だと決め付けた。昂ぶった感情は、あの時その言葉を真実だと見抜く事ができなかったから。
 しかしその後は違った。彼女には日を置いてから偶然ネギと話をする機会があったのだが、そのときは彼の言葉に耳を傾ける事ができた。あれが嘘であるならば、後日あらためてネギがそれを主張する意味がない。理屈ではそうなる。
 ならばあの誠実な少年がそう言うのだから、少なくとも彼の主観では6年前にナギ・スプリングフィールドが彼の目の前に現れ、その命を救ったというのは真実なのだろう。一般には死亡説まで流布しているのだ。だから、ネギの前に現れた時、どのような裏があったのかはわからない。
 だが、エヴァンジェリンは改めてネギから聞かされたその話に賭けた。もしも生きているのなら、まだ待てる。吸血鬼には永遠の時間があるのだ。もう一度絶望するのは、あの男の死体を見てからでいい。エヴァンジェリンはそう考えていた。

「呪いを解くための千載一遇の好機を逃してしまった以上、どちらにせよ他の可能性を模索せねばならん。その意味では、ぼーやの話は渡りに船だったさ。手駒が増えたようなものだ」
「よくわかんねーな。エヴァンジェリン、あんたネギ先生と何を話したんだ?」
「いい質問だ。実はサウザンドマスターの家が京都にあってな。そこに呪いに関する資料でもないかと、茶々丸を京都に送る事を考えていたんだ。半年前にぼーやが麻帆良に来ると知る前の話だ。ぼーやが来るのが分かってからは、奴から血を奪う方が手っ取り早いんで、すっかり頭の隅に追いやっていた計画だがな」

 京都という単語を聞いて、千雨の脳裏に閃くものがあった。それはつい今朝も、ホームルームの時間に話題に上がった事だ。

「なるほど、修学旅行か……そうだろ?」
「その通りだ。今年の修学旅行、行き先は京都だからな。家を探して呪いや奴の足取りについて調べてくるよう、ぼーやに水を向けておいた」

 彼女は頷きながら、そう説明した。
 千雨のだいたいはそれで納得できたのだが、ひとつだけ引っかかる事があった。何の気もなしにその疑問を口にしてしまう。

「でも、なんでわざわざ先生に? 修学旅行のついでだったら自分で……って、ああそうか。あんた呪いで麻帆良から出られないんだっけ。修学旅行は欠席か」
「ふん」

 自己完結した千雨に一瞥をくれると、エヴァンジェリンは不愉快そうに鼻を鳴らした。
 悪い事を聞いたかな、と思った千雨はじっと彼女の姿を見つめる。エヴァンジェリンの性格を考えれば、自分で調べに行きたいのはやまやまだろう。それができない口惜しさが、その佇まいからにじみ出ているような気がした。
 しかしそれに同情を寄せたら、きっとエヴァンジェリンは怒るだろう。だから、なるべくそんな雰囲気をにじませず淡々とした素振りで、千雨はこんな言葉を口にした。

「……お土産、いるか?」
「いらん」

 即答だった。
 
 
 
 そのあくる日。
 3-Aを含む麻帆良学園本校女子中等部3年生は、ネギら数人の学園教師に引率され、新幹線で一路京都へと向かっていた。4泊5日の修学旅行、その初日の始まりである。
 今回の修学旅行は麻帆良からJR線で大宮駅に朝9時に集合、東京駅まで新幹線『あさま』で移動した後に、『ひかり』に乗り換えて京都まで一直線という、極めてオーソドックスなルートだ。到着時刻は午後1時。乗車時間は合わせて約4時間といったところだ。
 『ひかり』に乗り換えてからは、生徒達は思い思いのやり方で乗車時間を過ごしていた。友達と談笑する者。景色を楽しむ者。カードゲームに興じる者。睡眠を取る者。十人十色、皆さまざまだ。
 千雨もまた、車内では睡眠を取ろうと頬杖を突きながら、ぼんやりと高速で流れゆく景色に目を向けていた。

「あふぅ……」

 今日何度目になるだろうか。数えるのも億劫になるほど繰り返したあくびを噛み殺しながら、眼鏡の下ににじんだ涙をぬぐう。明け方、部屋を訪ねてきた楓に「始発で大宮まで行くでござるよ」と拉致されて来られたため、とても眠い。
 彼女の隣では、その拉致した張本人である楓が、千雨の気も知らずにもふもふとお菓子を食べていた。『たけのこの里』だ。

「寝てたらもったいないでござるよ、千雨殿。せっかくの修学旅行だというのに」
「誰のせいだ……ったく、ギリギリまで寝てようと思ってたんだぞ、私は」

 ギリギリまで旅支度をサボっていたせいで、昨夜は遅くまで準備に時間がかかってしまった。ベッドに入ったのはすでに深夜1時を回っていたのに、始発に乗るため楓に叩き起こされて一緒に寮を出たのが午前4時30分頃。つまり千雨は3時間半しか寝ていない事になる。眠いのも当然だった。

「とにかく、京都まで起こすなよ。超、古、お前らもだ」

 自分の周りに座るクラスメートの中で、特に騒がしい連中にそう申し送っておく。聞きはしないんだろうなぁとは思っていたが、言わないよりはマシだろう。
 ちなみに、楓も超も古菲も千雨とは一緒の班だ。彼女たちの班は2班。班長の古菲以下、長谷川千雨、長瀬楓、超鈴音、葉加瀬聡美、四葉五月の6名である。
 これまで特に親しい友人を作ってこなかった千雨は、こういった班分けの際は自然と“余りもの”となって、どこか人数の足りない適当な班に組み入れられるのが通例だった。
 しかし今回はあれよあれよという間に楓や超に招かれ、気付いた時には彼女たちと同じ班になっていた。とはいえ千雨にしても、うっかり夕映と同じ班になって気を使う羽目になったりするよりかはずっといいので、特に異論は唱えなかったが。

「アイヤー、付き合い悪いネ千雨サン」
「……むしろ半分寝ながらとはいえ、始発で大宮まで来た事を褒めてくれ」
「それはそれ、これはこれヨ?」

 言いながら顔を近づけ、ニヤニヤとチェシャ猫のごとく笑う超鈴音。それを千雨は鬱陶しそうに、手で追い払うようにして押し退けた。

「やめれ。顔が近い、顔が」
「まぁまぁ、千雨殿。これでも食べて落ち着くでござるよ」
「あ、ああ……もらっとく」

 機嫌の悪い千雨を宥めようと、楓がついと菓子の箱を近づける。
 別に懐柔されるつもりはないが、くれるというなら断る事もない。PCオタクでコスプレイヤーで紙使いであっても一応は女子中学生。甘いものは嫌いじゃないのだ。
 そう考えて、千雨が箱に手を伸ばしたときだった。

「ゲコ」
「……げこ?」

 千雨は指先に、妙な感覚を覚えた。クッキーにチョコレートをかけたような菓子である『たけのこの里』らしからぬ手触り。ぷにょっとして、ぬるぬるとしている。こんな手触りの菓子は口に入れたくない。おまけに触ると「ゲコ」と鳴くのだ。普通、菓子は「ゲコ」なんて鳴かない。

「じゃなくてっ! 菓子じゃねーだろこれっ!?」

 千雨が慌てて手を引っ込めると、箱の中から現れたのはぷにょっとしてぬるぬるとした緑色の肌を持つ、彼女も見知った生き物だった。一般的にはアマガエルと呼ばれるだろうか。小型の両生類である。

「カエルぅーっ!?」

 それがカエルだと認識した瞬間、隣からありえないほどの、まさしく絹を引き裂く悲鳴が上がった。

「きゃああああああっ!?」

 楓だった。いつもの彼女からは想像もできないほどの悲鳴。よほどびっくりしたのだろう、そして恐ろしいのだろう。驚いて椅子から立ち上がった彼女の、菓子の箱を持つ手が震えている。

「ゲコ」
「ひいっ!?」

 箱から出てきたカエルと、楓の目が合った。ぴぃんと、凍りついたように硬直するその身体。意識を失ってしまったのか、そのままゆっくりと彼女の長身が斜めに傾き始める。

「げっ!? お、おい長瀬っ……ってぎゃあーっ!?」

 気絶した楓は、まるでマネキン人形のように千雨の上へと倒れ掛かる。あっさりとその下敷きになってしまう千雨。
 楓は何せ身長180cmを誇る長身。おまけに鍛え込んだその五体は適度に筋肉質であり、相応の重さがある。紙を使えば話は別だがそれをやれない以上、千雨の細腕では彼女を支えきる事などできようもなかった。

「ぐえっ!? お、重い……超、なんとかしてくれっ!」
「はいはい、ワカてるネ。よっこいせっと……」

 なりはでかくても一応は花も恥じらう女子中学生の楓に対して、重いとはっきり言ってしまうのはあまりにも酷い言葉ではあったが今の千雨はそれどころではない。彼女は超に楓を持ち上げてもらうと、なんとかその下から抜け出した。

「ふぅ……やれやれ」

 心底げんなりとした表情の千雨。コキコキと首や肩を鳴らしてほぐしつつ、盛大に溜息をついた。
 持ち上げられた楓は、そのまま自分の席に座らされている。だが、顔色が悪い。どうやら、心底カエルの事が苦手なようだった。いつも飄々としている忍者娘の意外な弱点発覚といったところか。

「……忍者ハットリくんみたいな奴だ」

 とはいえ楓は甲賀忍者の出。どちらかといえば、立場的にはケムマキの方だったりする。

「んー、楓サンは気絶してるだけネ。そっちは大丈夫だたカ?」

 楓の様子を見ていた超が、振り向いて声をかけてくる。こういう時の超は頼りになるなぁ、などと考えながら千雨は小さく頷いた。

「ああ、助かったよ。にしても……こりゃ、酷い有様だな」
「うむ、まったくネ」

 騒ぎは自分たちの周りだけではない。車両の中を見渡してみれば、まさに阿鼻叫喚としか言いようがない状況だった。
 カエルはまさにそこら中、ありとあらゆるところから這い出ていた。千雨の見立ててでは、数は100匹は下らないように思える。ヒキガエルのようにグロテスクな外見ではないのがせめてもの幸いだが、それでもこれだけの群れがたった一つの車両でゲコゲコひしめいているのは生理的に耐え難いものがある。気の弱い和泉亜子や源しずななど、あっさりと気絶してしまっていた。

「なぁ超、これって……」
「ケージを持ち込んで100匹以上のカエルを放した……とは考え難いネ。魔法絡みではないカ?」
「やっぱそうだよなぁ。それしかねーよなぁ」

 少し考えればわかる事だ。こんなもの、マトモではない。貨物列車ならともかく、新幹線を使って100匹のカエルを運送する者などいようもないし、楓にまったく気付かせずにその菓子箱の中にカエルを潜ませる事も不可能だ。ならば何か超常の力が働いているに違いないと思うのは、世界の裏を知る人間としては当然の事だった。

「……はぁ」

 ごく当たり前のように、裏側に身を置いて物を考えている自分に気付いて、思わず溜息が出る。エヴァンジェリンの一件で、否が応にも意識改革をさせられてしまったようだった。

「ん? どうかしたカ、千雨サン?」
「なーんか、トラブルの予感がするなと思ってさ」
「ほほう、このカエルよりもカ?」
「ああ。もっともっと面倒な事、起こりそうな気がするぜ」

 そう、これはトラブルだ。偶然のものではない。何者かが悪意をもって仕掛けてきた、明確な妨害工作だ。少々子供じみてはいるが。
 だとすれば、問題は“誰を狙った犯行か”になる。幸いというか、残念なというか、千雨には心当たりはひとつしかなかった。
 無論、目標は彼女自身、そして襲ってきたのは大英図書館───千雨の持っている情報では、そう結論づけるのが一番妥当と思われた。

「ううむ……」
「さっきから溜息ついたり唸ったり、随分にぎやかネ」
「いやまぁ、その……」

 煮え切らない様子で言葉を濁す千雨。超は眉をしかめながらそんな彼女の方を見ると、大げさに溜息をつきながら肩をすくめた。

「千雨サン、もしかしてこの騒ぎが自分のせいだとか考えてないカ?」
「え……」

 図星を突かれて、彼女の動きが止まる。目を丸く見開いて、前に立つ超の顔を見つめた。
 超が畳みかけるように、舌鋒鋭く言葉を続ける。

「どうしてそう思ったかは聞かないガ……今回に限っては違うと思うヨ?」
「なんでそんな事言えるんだよ?」
「それハ……」

 そう言って、超はちらりと車内のある場所へと目を向ける。
 そこではクラスメートに混じって、カエルを捕まえようとしているネギの姿があった。

「誰かに狙われる理由なら、ネギ坊主みたいな魔法使いたちの方が、よっぽどわかりやすいからヨ」
「……どういう事だ?」
「簡単ヨ。魔法使いにとって京都は敵地、ただそれだけのシンプルな話ネ」
「敵地って……京都が?」

 敵地とは穏やかな言葉ではない。聞き流せるものではなかった。

「うむ、そうネ。彼の地はなんでも、関西呪術協会とかいう団体の支配下にあるって話ヨ?」
「関西呪術協会ねぇ。麻帆良の関東魔法協会みたいなもんか?」
「いかにも。東洋の呪術を使う者たちが集う団体らしいヨ。そしてここで問題になるのが、その関西呪術協会と関東魔法協会の仲が、とても悪いらしいという事ネ。それこそ、一触即発レベルで」

 なるほど、と千雨は納得する。つまるところ、2つの協会は縄張り争いをしているのだろう。そこに、魔法使いであるネギが、建前と一緒に送り込まれてくる。真実はともかく、関西の協会の主観はそうなるだろう。当然、縄張りの中に敵対する魔法使いを入れる事を、関西呪術協会とやらは面白く思わないはずだ。
 しかし、全面戦争をやる覚悟はない。だからこんな子供の悪戯のような嫌がらせをしてきたのだろうと、千雨は想像した。

「それでこのカエルか。なんというか、器が小せぇなぁ……」
「んー、まぁ関西も一枚岩ではないそうだからネ。抑えの効かない過激派の小者が激発したというところではないかナ?」
「ふむ……ま、事情はわかった」

 顎に指を当てながら考える。
 超の説明は、いちいちもっともなものだ。説得力もある。自分が原因でないのならば気も楽だ。しかしだからこそ、ただその言葉を受け入れてしまっていいのかと疑念が湧いた。

「超」
「何かナ?」
「さっきの説明、裏付けはあんのか? それがなかったら……」
「あるあるヨ」
「あんのか!?」

 こくりと頷く超鈴音。彼女は黙って、千雨の眼前に握った右手を差し出した。ゆっくりと握られていた掌が開かれ、中にいたものが姿を現す。

「ゲコ」
「カ、カエル!? っておい超! カエルがなんで根拠になんだよ?」
「千雨サン。ちょっとこのカエルを、紙でスパっとやってくれないカ?」
「いいっ!? キモいだろ! なんで私がそんな事を?」

 千雨の紙技ならばカエルごときを斬るのは容易いが、こんな車内で解剖実験などしたくない。内臓とか飛び散ったらどうするというのだ。

「いいから、ちゃちゃっとやってみるヨ。心配するような事は何もないはずだから」
「う、うう……」

 そう言われても、ちっとも安心できない。それに千雨は特別カエルが苦手というわけではないが、やはり好きなわけでもない。できれば近寄りたくないのだ。

「むう、しょうがないナ。ホレ」

 業を煮やしたのか、ぽいっと千雨の顔に向かって超はカエルを放り投げた。
 不意を突かれて、千雨の思考が止まる。だがその思考の間隙で、彼女の身体は勝手に動いていた。
 一瞬で袖口から取り出した、名刺ほどの大きさの紙。それが常人の目には止まらぬ速さで閃いたかと思うと、眼前に迫るカエルを頭から両断する。

「超、何すんだよ!? って、これは!?」

 食ってかかろうとする千雨だったが、それよりも先に斬られたカエルに目を奪われた。
 真っ二つになったカエルは、血も内臓も飛び散らせる事はなかった。ただ色を失い、厚みを失い、ついにはただの紙をカエルの形に切り抜いた───ただし頭から真っ二つにはなっていたが───紙形となって、はらはらと舞い落ちていく。千雨はその紙形を素早く捕まえると、手に取ってまじまじと観察する。

「紙形だと……?」
「式神って名前くらいは聞いた事あるかナ? 陰陽師の使役する使い魔ヨ」
「陰陽師……ねぇ」

 その名を持つ職業に対する、ある程度の知識は千雨も持ち合わせていた。
 曰く、日本古来より伝わる占・呪・祭を司る技官ないし神職。ただ、千雨はこれまでそれもすべて創作上のもの、現代に名を残す彼らは拝み屋もどきのまがいものだと、頭から決め付けていた。
 しかしそうではないのだ。なぜなら、魔法使いが現実のものであるなら、陰陽師がいてもおかしくはない。いや、むしろ当たり前とすら言えるだろう。

「なるほど。お前はこれを使っていた奴が、その“呪術協会”の構成員って言うんだな?」
「この式神っていうのは、ほとんど日本の呪術でしか使われないらしいヨ? だったら襲撃者として可能性が高いのは、関西呪術協会の陰陽師という事にならないカ?」
「確かに……つか、なんでお前そんな事知ってるんだよ」
「フフフ。蛇の道はスネークと、日本のことわざで言うだロ? そういうプロセスだから、聞くのは野暮ヨ?」

 まっとうな手段で入手した情報でないという事はわかった。これ以上追求すべきではないだろう。

「さて、納得してもらえたかナ? 現時点では襲撃者は関西呪術協会、そしてその目的は関東魔法協会……ひいてはネギ坊主ら魔法使いと考える方が、可能性としては自然だって事が」
「ま、まぁな」

 流石に、今の段階ではこれ以上異を唱えられない。そもそも、あくまでも可能性を探っていただけなのだ。こうまでとくとくと説明されれば、意固地になるのは馬鹿を証明してみせているようなものだった。

「だいたい、世の中そんなに千雨サンを中心に回ってるわけではないネ。ちょっと自意識過剰というものヨ?」
「うっ……」

 言葉もなかった。
 確かに、ここのところトラブルに関わりすぎて、無意識的に自分を出来事の中心に据えて物を考えがちになっていたかもしれない。調子に乗っていたというわけではないが、とにかく千雨が本来好んでいるポジションから、自分自身で踏み外しかけていたようだ。まったく、思い上がりも甚だしい。まさに赤面物だ。

「あー、なんだ。その、ちょっと私手洗い行ってくる。長瀬の顔色が悪い。濡れタオルでも用意してくるわ」
「はいはい、わかたネ」

 いたたまれなくなって、あからさまに話題を逸らす千雨。
 彼女は返事を聞かないうちにポーチを掴んで歩き出すと、未だにカエル騒ぎでキャーキャー言っているクラスメートたちの脇をすり抜け、千雨は出口にある自動ドアの向こうへと逃げるように姿を消す。
 そんな彼女を静かに見送る程度の情け深さは、超鈴音も持ち合わせていた。
 
 
 
「ふぅ……」

 車両と車両の間にある洗面所の前で、千雨は小さく溜息をついた。
 さっき、超に言われたことはまさしく図星だった。特別な存在───自分の事を、知らず知らずのうちにそう考えていたらしい。
 事実として他人とは違った力を持ってはいても、そう意識してしまえばニュアンスは異なってくる。思い上がりというものだ。
 まったく嫌になる。そういう風になるのを拒んで、ずっと力を隠して生きてきたくせに。いざバレてしまえばこの様だ。
 無論、エヴァンジェリンに常々言われた『運命からは逃げられない』という言葉が、思考を縛っていたというのはあるかもしれない。
 しかし、そういう言い訳に逃げる事こそは、千雨のもっとも嫌悪するものだった。過ちは過ちとして認める。苦しい事ではあるが、それができない人間にはなりたくないと、千雨は思っていた。

「ああ、くそっ!」

 ぱしゃぱしゃと音を立てながら、流水で顔を洗った。大して冷たくもない水だったが、それでも思い上がった頭を冷やす程度の役には立つ。
 ポーチからハンカチを取り出し、濡れた顔を拭ってようやく落ち着いた。

「……やっぱ、私も結構浮かれてたのか?」

 目の前の鏡を見ながら、そう自問する。だから、考えを誤ったと。
 テンションの高いクラスメートから一歩離れていたつもりでも、内心ではやっぱり随分と盛り上がっていたのかもしれない。まだまだ自分にも子供っぽいところがあるのだと、再確認させられた。

「まぁ、いいや……それよりハンカチ濡らさないと。一応長瀬のためにって言ってきちまったしな」

 超には一応、目覚めない楓のために濡れタオルでも用意するといって、こちらに来ているのだ。手ぶらで戻るわけにもいかない。
 ポーチにしまいかけたハンカチを流水にさらし、濡らして絞る。これでいい。後は楓のところに持って帰ってやるだけだ。

「あっと!?」

 洗面所を出ようとしたところで、千雨は大柄な白人と出くわした。すれ違おうとするものの、避け損ねて肩がぶつかってしまう。当然のように、身体の小さい千雨が弾かれ、よろけてしまった。
 
「ソーリー、すまんな」

 白人男は拝むように片手の掌を眼前で立てながら、軽く頭を下げた。英語混じりの日本語ではあったが、まるで日本人のようなその仕草を見るに、男は随分と日本慣れしているようだ。
 考えてみれば、この新幹線が向かっているのは京都。国際的な歴史観光都市として知られる古都だ。このような“日本通”の白人が乗り合わせていたとしても、何の不思議もない。

「あ、いえ」

 千雨も軽く頭を下げる。こういう時はお互い様というものだ。下手にも上手にも出る必要はない。もっとも、男が結構な強面だったため、気後れしてしまったというのはあるから、上手に出るのは難しかったろうが。
 男はそんな千雨を一瞥すると、彼女の脇を抜けてその場を去っていった。
 どうやら、隣の車両に席があるようだ。自動ドアが閉まる一瞬、椅子に腰掛けながら車内販売の女性に話しかけている、男の姿がちらりと見えた。

「さて、戻るか……」

 男の立ち去った車両にくるりと背を向けて、ゆっくりと歩き出す千雨。すぐに男の事を頭から追い出し、自分の車両で起こった喧騒へと思いを馳せた。
 とりあえず、カエルはそろそろ全部捕まえられた頃だろう。物怖じせず運動神経の良い明日菜や古菲が手伝っていたのだ。100匹程度のカエルならそこそこ時間をかければ捕まえるのは難しくないはず、というのが千雨の見立てだった。
 だとするなら、次にネギがやりそうな事は何か? それを考えると、一番可能性が高そうなのは犯人捜しに違いなかった。あの子供は正義感が異常に強い。何事も無かった、良かったねで済ませるほど穏当な性格をしていない。困った事に、何かしでかす可能性は十分にあった。
 たかだか10歳の子供に多くを期待し過ぎている気もするが、せめてこの修学旅行くらいは千雨も平穏に過ごしたいのだ。自重してくれる事を祈らずにはいられない。
 つらつらと埒もない事を考えながら、自動ドアの前に立った千雨は、ふと人の気配を感じて顔を上げた。
 センサーが千雨の姿を感知して、圧搾空気が音を立てながら自動ドアが開く。その瞬間、彼女の眼前で一筋の銀光が煌めいた。

「っ!?」

 距離的に“それ”は当たらないと理解していたが、身体の方は反射的に動く。千雨は無意識のうちに飛び退き、大きく後退していた。

「なんだ……って、桜咲!?」
「……!」

 見れば、そこには白木の鞘に太刀を収めながら、驚いた顔で彼女を見つめる刹那の姿があった。
 自動ドアが、それを抜けてきた刹那の後ろで閉まる。今、この車両には千雨と刹那のふたりきりだった。

「す、すみません……」
「あ、いやぁ……なんだ、うん」

 とりあえずといった様子で、軽く頭を下げる刹那。千雨は、それになんと言って返せばいいのか、判断しかねていた。
 はっきり言って、非情に気まずいシチュエーションだ。
 刹那が“まっとうな”立ち位置の生徒ではない事は、今の千雨は知っている。かつて自分と揉め事を起こしそうになったのも、その立場故の事だと理解できる。
 だがあれ以来、刹那と話をする機会はなかった。そのため───千雨はどこか、刹那の事が苦手になっていた。

「……」
「……」

 交わすべき言葉が見あたらない。おそらくは、刹那にしても同じだろう。気まずいのは2人とも一緒だ。見つめ合いながらも、次に何をしていいのかが、まるで思い当たらない。
 互いに何も知らなければ、大して親しくもないただのクラスメートでいられたのに。ほんのひとつのボタンの掛け違いで、こんなに気を遣う羽目になった。千雨は内心で、舌打ちでもしたい気分だった。
 刹那の眼光は鋭く、力がある。まるで抜き身の刃のようだ。その視線に射貫かれたら、並の人間ならば萎縮する事は間違いない───とそこまで思って、自分があっさりと“並の人間”の範疇に入らなくなった事に愕然とする。

「あ、あの……長谷川さん?」

 この世の終わりのような表情の千雨を怪訝に思い、おずおずと刹那が声をかけてくる。

「え? 悪い、ぼーっとしてた。なんだよ、桜咲?」
「いえ、用というわけでは……なかったんですが」

 声をかけてはみたものの、話し辛いのはやはり刹那も同じようだ。誤魔化すように、いそいそと刀袋に太刀をしまいながら、眼を逸らす。また気まずい雰囲気に逆戻りだ。
 千雨も仕方なく、刹那から視線を外して、何の気もなしに足元へと目を向けた。

「ん……なんだこりゃ?」

 足下に、紙切れが2枚と封書が落ちていた。屈んでそれを手に取ると、刹那からあっと声が上がった。

「それは……!」
「桜咲のか?」

 封書と紙切れを、彼女に向かって差し出しながらたずねた。
 よく見れば、2枚の紙切れは同じ形をしている。ひとつひとつでは形から意味を見いだせなかったが、まっすぐな切断痕で2つ合わせると、まるで燕のような姿の紙形になった。

「こう組み合わせると……やっぱり。もしかして、いやもしかしなくても式神か?」
「気づきましたか。詳しいのですか、陰陽術に?」

 刹那の口ぶりは、明らかに“その技術”が現実のものであるという事が前提の聞き方だった。

「いいや。さっき、ちょろっと超の奴に聞いただけの“にわか”だよ」

 またしても、すっかり裏の人間同士の会話になっている事に複雑な感情を抱きつつも、千雨は素直に答える。こんな事で嘘をついても仕方がないのだ。

「これ、敵の式神か?」
「はい。おそらくは……どうやら、ネギ先生を狙っていたようです」

 敵とはつまり、この場合は件のカエル騒ぎの元凶の事を指している。
 刹那は千雨の言葉を肯定するべく、小さく頷いた。

「なるほどね。それであんたが、その段平で斬ったのか。形からすると、燕だったんだろ? 見事なもんだな……はは、文字通りの燕返しってとこか」
「いえ、私などまだ未熟ですから……」

 紙形の切断面は鋭利極まりない。よれや引き攣れなどは一切無く、綺麗に両断されていた。紙使いたる千雨だからこそわかるミクロなレベルですら、それは変わりない。この腕前で未熟だというのなら、世の中の剣術家のほとんどは、今日にでも看板を降ろさなくてはならないのではなかろうか。
 まったく“裏”というのはつくづく恐ろしい世界だ───などと考えるが、口には出さない。代わりに、もうひとつ聞くことがあった。

「ふぅん……じゃあ、こっちの手紙は?」
「あっ、それは……」

 刹那が口を開いた瞬間、背後の自動ドアが開く。そこから現れたのはひとりの少年───彼女たちの担任教師である、ネギ・スプリングフィールドだった。

「桜咲さん!? それに、長谷川さんも……どうしてここに?」
「どうしてって言われても。なぁ桜咲?」
「え、ええ……」

 千雨と刹那は、顔を見合わせる。千雨の方には単に手洗いに行って来た帰りだし、刹那にしても敵の式神に対処しようと、人目につきにくい場所へ移動していただけだ。
 だから2人は示し合わせたわけではなく、たまたまここで会って、話をしていたに過ぎない。内容は少々物騒なものではあったが。

「あっ、いえその……」

 珍しい2ショットを前にして、ネギは少々驚いていた。普段学校での様子を見ている限り、千雨と刹那に接点のようなものは感じられなかったと記憶している。
 意外な人間関係ってあるんだなぁ、とある意味では正解であり、ある意味では的外れな感想を、ネギは抱いていた。
 そして、当の刹那はしばらくの間ネギを見つめていたが、やがてふと思い出したかのように、千雨の手元へと視線を送る。

「……長谷川さん、その封書を私に頂けますか?」
「え? ああ」

 言われるまま、手にしていた封書を刹那へと渡す千雨。何故だろうとは思ったが、よこせというからには何か考えがあるのだろうと、疑問はとりあえず頭の隅にすまっておくことにした。
 千雨から封書を受け取ると、刹那はそれを黙ってネギへと差し出す。これは何だろうと、目を白黒させるネギ。刹那はわずかに眉をしかめると、説明のために言葉を付け足した。

「落とし物です。そこで拾いました」
「はぁ、落とし物ですか? って、これは僕の大切な親書!?」

 驚くネギと対照的に、刹那は表情ひとつ変えなかった。
 態度から察するに、封書の持ち主には最初から心当たりがあったのだろう。おそらくさっきたずねた時に何か言いかけたのは、その件についてだったに違いない。

「あ、ありがとうございます桜咲さん!!」
「いえ、礼には及びません。それより先生……大切な物なのでしたら、もっとちゃんと持っておいた方がいいですね」
「あうう、すみません」

 怜悧な舌鋒から放たれる忠告に、ネギは恐縮して頭を垂れる他ない。

「気をつけて下さい、先生。これからも───そう、向こうに着いてからも、きっと“こんな事がある”でしょうから」

 それだけ言うと、その場を立ち去ろうとする刹那。
 だが、それはネギ以上に千雨の心を絡め取る、意味深な言葉だった。トラブルの到来を匂わせる、刹那の言葉。それを捨て置くことはできず、慌ててネギの横を擦り抜け、刹那を追いかける。

「……長谷川さん、何か?」
「あ、いや……」

 しかし追いついたはいいが、上手く言葉が出ない。何かを聞きたいのだが、その何かも聞き方も思い浮かばなかった。そもそも自分が聞いていい事なのか、そして自分が聞くべき事なのかにも悩む。自信が無くなっている。先ほど超鈴音に言われた事が、まだ少し尾を引いていた。
 言葉に詰まって、彼女から視線を外す千雨。だが、その歩みは刹那に揃えられたままだ。傍目には、2人が並んで仲良く車両に戻ろうとしているように見える。
 そんな彼女たちの後ろ姿を、封書を手にしたネギが怪訝そうに見つめていた。


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