取材日時:2007年4月30日(月)
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このお花の写真は、お話しを聞かせて頂いた橋本さんからの頂き物です。(撮った写真をメールで送って下さるって・・・凄い!)
30日は少年飛行兵11期生が4名揃っての合同収録会。16~20期の皆様もご一緒して下さり、当会のスタッフ併せて21名の大がかりな収録となりました。
橋本さんは、
▲1940年(昭和15年)10月、16歳で少年飛行兵に志願。既にお兄様が海軍で殉職しておられたので、陸軍を選んだと・・。卒業式で「海ゆかば」が流れ、「一年後には、自分は死んでいるんだろうな」と何となく寂しくなったそうです。
▲1943年(昭和18年)4月、台湾の第102教育飛行連隊に配属され実戦機での訓練。この部隊はその後フィリピンへ進出、橋本さんは後輩の助教を担当しながら、自らも訓練を受けます。
この頃、内地への空輸任務中、エンジン潤滑油が無くなり石垣島に不時着して機体の足を折る。二ヶ月後には今度は右エンジンから火が出て水田に不時着するなどの事故を経験しておられます。
▲1944年(昭和19年)9月 訓練生6名と同期の機上機関士を乗せて、訓練を兼ねながら船団(高雄→マニラ)援護に出かけました。船団のマストをかすめるような編隊飛行を繰り返し歓声を受けながら4~5時間飛んだ後、帰路に向かったとき両エンジンが停止。
動画はその時のお話しです。
フィリピン人の船がすぐそばを通り海に漂う橋本さん達を見たが、そのまま通り過ぎたそうで、当時対日感情はそれほど悪化していました。米軍に通報される事を恐れそのフィリピン人を撃とうと思いましたが、拳銃が海中に落ちて出来なかったそうで、今になれば拳銃が無くて良かったと思っておられると。
▲その後、教育部隊であったので、戦場を避けカンボジア、マレーと次々に移動。
▲1945年(昭和20年)3月 内地に飛行機受領命令で帰国。受領先の飛行場部隊が総員見送ってくれる様子を見て、自分がもう日本には帰ってこないと思われている事を感じました。この時実家に日誌と貯金通帳と爪を置きに行かれています。
▲1945年(昭和20年)8月
プロペラを外し武装解除。無人島のレンパン島に収容されましたが、食べ物の補給は何もなく、亡くなる方も。後に復員した際タンポポを見て、日本は食糧がないと言うがタンポポが咲いているぐらいだから大丈夫だ、生きられると思ったそうです。一転、12月8日以降米軍のレイションが配布されるようになり、その豪華さに米軍の力を知りました。
▲1946年(昭和21年)5月31日 復員
「手柄は自分のもの、死ぬ時は一人の戦闘機より、皆で一緒に死ねる爆撃機が良いと思い爆撃機の操縦を希望された」と話された事が印象的でした。その橋本さんが無事戻られて、お庭にオダマキの花を咲かせている今を何よりと感じています。(田所@保存会)