[期間限定] 『9.21に集う500人実行委員会』の広報ブログ

全国の老兵士62年ぶりに一堂へ!
「あの戦場体験を語り継ぐ集い」
2007年9月21日(金)13時~日比谷公会堂

9.21日比谷公会堂「あの戦場体験を語り継ぐ集い」レポート2

2007年11月02日 | [期間限定]日比谷公会堂
・中島裕 
19年17歳で陸軍特別幹部候補生を志願。航空兵科で教育、3ヵ月後満州へ移動、ソ連軍の侵攻により戦闘に参加することなく武装解除を受けシベリア抑留を経験しました。伐採作業に従事していました。人間の限界を超えた重労働の中で栄養失調と闘い、後半には日本人アクチーブ達の迫害にあいながら自分に正直に一生懸命働きました。復員後戦後今日まで、シベリア抑留されていたときと同様自分に正直に一生懸命生きてきました。地位も名誉も財産にも縁はありませんでしたが、恥ずべき人生ではなかったと自負しています。現在も17歳で志願した時と同じ国を愛する心、心意気に変わりは無いことを結びの言葉と致します。

・白崎勇次郎 
通信兵だった私が天皇の敗北宣言を聞いたのは日本領土の最北端占守島でした。目の前にソ連領のカムチャッカ半島が肉眼で見えるところです。敗戦の3日後18日明け方、占守島を占領しようとしたソ連軍と戦いました。通信兵の私は「ヨーロッパ戦線で名をはせたソ連軍の重戦車を先頭に敵の大部隊が飛行場を目指して進撃中」との情報を受け、いよいよ最後の敵が来たと腹を固めました。「これより歩兵部隊に合流、最後の突撃を敢行せんとす。」との電信を本隊に送り、飛行場に張り巡らされた蛸壺に身を隠し、火炎瓶をしっかり握ってソ連軍戦車への肉薄攻撃の時を今か今かと待ち受けました。ソ連軍戦車が飛行場突入寸前で停戦命令が出たので命拾いすることが出来ました。危機一髪で命拾いした兵士として次のことだけは言い残したいとい思っています。敗戦後戦死した多くの戦友への鎮魂の叫びであり、また第二次世界大戦の歴史を正しく後世に伝えるため兵士達の心からの願いであります。

・神保忠次郎
本日は海軍の先輩方も大勢おいでのことと思います。私は、昭和18年5月、横須賀海兵団で3ヶ月の新兵訓練を終了、巡洋艦高雄に配属となり最前線トラック島基地に上陸しました。まずびっくりしましたのが、戦艦大和、武蔵、長門をはじめ、空母、巡洋艦、駆逐艦等100隻余りの大連合艦隊。全く心強く感じ、頑張ろうと心に誓いました。私の戦争体験は、ラボールの米軍艦載機100機以上による大空襲、対空戦闘でした。その次は”あ号作戦”、”捷号作戦”、転戦地は南太平洋全域でした。そのおかげでトラック、パラオ、フィリピン、ラボール、ボルネオ、シンガポール、マレー諸島等、今考えれば無料で避寒旅行に行ったと思っております。友達というか戦友、また、上官であった人々が、私の財産と思っております。

・梶泰治 
17年1月10日、赤坂の東部部隊に入りまして、翌二月北支の春部隊に到着した。そこで実践即応の初年兵教育を受けた。春部隊は北は万里の長城、南は黄河の果てまで最前線の河北省全域を転戦し、八路軍とゲリラ戦を展開したが、点と線の守りだった。万里の長城方面へ1500キロ大移動した後状況は一変、敵勢力は増強され、精鋭となり、わが方の損害は激増する。八路軍は一晩に40キロ歩く。対するのに、わが方は兵舎を捨てて野戦軍となり行動せよ、夜行軍をもって目的地へ行けと。交戦の無いときは野営して夜を待ち、敵を求めてまた連日の夜行軍である。この作戦は6ヶ月続いた。

・丹羽正治 
従軍期間は5年間でしたが、その後半のニューギニアは最も激しい、ものがありました。補給が途絶え餓えやマラリアに悩まされましたが、必勝の信念に燃えて米軍と戦いました。しかし頼りとするのは精神力が主体で、精神力だけでは物量に極端な差のある相手との近代戦を戦うことさえ不可能であり、多数の戦友の貴重な命が失われました。必勝の信念には何時の時代にも通じる重要なものがあるが、それだけでは唯の掛け声に終わる空しいものがある。

・山下春江 
満州に住んでいた私には他国での敗戦には厳しいものがありました。外出すると中国の子供達から外套をはがされ石を投げられる、姉の義兄は青龍刀で殴り殺されました。日本円は使えなくなって食べ物はぶつぶつ交換をしなければなりませんでした。家にある貴金属はたちまち無くなり、困った母は病院へ付き添い婦として働きに出ました。間もなく八路軍が町に来て、次にソ連兵が南下し、また国民党軍が来て内戦が始まるというので、市公署へ行き軍隊へ連れていかないよう許可証を貰って帰る路上で八路軍に捕まり、軍隊へ連れていかれました。船に乗せられ、おう緑江を遡り、そのまま中国内戦の一端を担がされました。中国の全土を北から南まで毎晩50キロメートルの行軍をし、爆弾を落とされたり、機関銃で撃たれたり、食物が前線まで届かず一日ねぎ一本という日もありました。毎日足に30個も豆が出来、爆弾の音に生理も無くなり、凍りついた川をざぶざぶいって割ったり、4年間を同じように過ごしてきました。やっと日本の土が踏めたのは戦後13年が経っていました。私は戦争の無い平和な世の中をいつまでも守りたいと思っております。

・斉藤一好
私は1941年3月海軍兵学校を卒業して少尉候補生となり、連合艦隊旗艦陸奥、同じく連合艦隊旗艦長門乗組となりました。私は指導官であったオジオショウタ少佐より、”日本がアメリカと戦争をしても勝てるわけがない、日米開戦は有り得ない”、こう言われておりましたが、瀬戸内海西部に碇泊中に、パールハーバー(真珠湾)の襲撃で開戦がなされたことを知って大きなショックを受けました。長門は大和にしたがってミッドウェー海戦に参加しましたが、皆さんご存知のように4隻の航空母艦が全滅致しまして、この戦争は敗北致しました。その後、駆逐艦雪風に乗艦してガダルカナル島を中心とする幾多の海戦に参加致しました。第3次ソロモン海戦では、水雷長が重傷を負って退艦したので私が後任となり初めて魚雷戦を経験しました。ガダルカナル撤退後、船団護衛の後、私は潜水学校にもいまして、イ号400潜水艦の水雷長専任将校となりました。1945年8月15日に、赤道直下ウルシーで特攻準備のところ日本政府の終戦を聞いて帰国、大湊へ向かう途中で米駆逐艦に拿捕され1ヶ月間の捕虜生活を終え釈放されて、復員致しました。

・上斗米正雄
戦争は悲惨で地獄であり、その実態はあまりにも複雑で程度も大きく、その全貌を理解することは極めて困難だろうと考えます。私は昭和16年2月、満州関東軍に歩兵として入隊し、昭和19年3月分隊長として中国戦線に派遣されました。そこは待った無しの戦場でした。現役の3年間関東軍で鍛えられたことは、いかに有益で役立ったことか身をもって体験しました。終戦は湖南省で迎え、武装解除の後、道路工事に従事し、昭和21年5月上海から帰還しました。日本は戦後62年間、平和に過ごして参りました。また経済大国として繁栄しています。しかしこれは太平洋戦争の戦場に散った210万人もの尊い犠牲の上に築かれたことを忘れてはならないと思います。私は老い先短い戦争体験者として自衛隊の紛争地域派遣に反対します、テロ特措法の延長に反対します。

・松浦俊郎 
私は昭和18年12月陸軍に入って、幹部候補生の試験にうかり前橋予備士官学校に入学しました。同校から同期生398名とともにフィリピンのルソン戦線に運ばれました。マニラについたのは昭和19年11月中旬、二ヵ月もたたないうちに米軍が中部ルソンに上陸してきたのです。私はルソン島の最北端を守る師団に配属になりましたので米軍との本格的な戦闘は他の師団より遅かったのですが、航空機も戦車も失ったわが軍はついには敵陣に切り込むという戦法をとるより他無かったのです。米軍との戦闘は苦戦の連続であったが、それにもまして食料が極めて乏しく飢餓との闘いでありました。七月下旬私は重い大腸炎にかかりました。私の隊には軍医はおらず薬もろくろくありませんでしたので、効くか効かないか分かりませんでしたが竹を取ってきて黒焼きにして、それを飲んでいました。8月中旬アメリカの飛行機が飛んできて戦争は終わったというビラをさかんに撒くんです。はじめは謀略かと疑いましたが、数日後旅団から連絡があり敗戦を知りました。ジャングルから隣の村に降りて武装解除を受けました。フィリピンに送られた日本軍総数63万人のうち50万人弱が戦死をしました。前橋予備士官学校の同期生も八割強が戦死しました。若い日の彼らの面影を目に浮かべます。冥福を祈るのみです。

・中島高男 
対馬丸の悲劇を申し上げます。昭和19年対馬丸は疎開船第1号となり8月21日夕方6時半ごろ那覇港を出航、他の僚船2隻と護衛艦2隻と合流し船団を組んで長崎に向け航行して参りました。22日10時12分ごろ汽笛が3発なりました。敵潜水艦が出たという合図です。思わず立ち上がったその瞬間です。大きな爆発が起きました。左舷後方です。ショックで3メートルほど飛ばされました。両足と目の上を負傷しました。2、3秒後また爆発が起きました。更に2,3秒、大爆発が起きました。3発の魚雷が当たって轟沈することが確認されました。一番船倉まで私は飛び出しました。もの凄い光景を見ました。大勢の子供達と荷物が一緒になって爆発部分から海水が流れ込み渦となってもの凄い惨状でした。今でも覚えております。沈没後私は6枚のいかだを繋いで7人の人を救助し、3日間漂流して救助されました。

・石井春吉 
満州に少しいた後、いわゆる大東亜縦貫作戦(1号作戦)で、北支から黄河を渡り中支、揚子江をまた渡河して南支、ずっと徒歩で戦い続け広東省までいきました。更に(徒歩で)引き返して中支で終戦となったのですが、同年兵は機関銃と大隊砲で80数名いましたが一緒に帰ってきたのは20数名でした。今でも靖国神社に毎年集まっていますが、我々は決して亡くなった仲間が神様になったとは思っていません。神様になる訳ないんです。全然食料は送ってこないし、弾はどんどん送ってくるけど、食料はどうするかというと中国の村に行って取って来る訳ですね。徴発なんですが、これは命令でやられたんですが、それでも飯は足りなくて栄養失調で死ぬ人が大部分でした。靖国神社に行っても、せめてお化けでも幽霊でもよいから会いたい・・・、戦友に会いたいと思っています。

・鈴木健一 
特殊部隊を編成すると言うので希望、落下傘部隊に入りました。親も当時館山に来ていて『本日は落下傘も開かないのもだいぶあったし、半開きのものも落ちたけど、どうなんだ』と聞かれ『あれは全部人形だよ、本当の人間じゃないよ』と話しておきましたが実際訓練中から事故は起きていました。ミンダナオのダバオを基地として輸送機28機で第1回目のメナド奇襲攻撃が始まりました。隠密な攻撃のため途中で味方から1機は撃墜され戦死しました。私は第2回目の攻撃に参加、ラング湾飛行場を制圧しました。戦争ほど悲惨なものはありません。私は90歳を過ぎましたが戦争ほど悲惨なものは無いと今後その体験を語っていきたいと思います。

・谷口末廣 
昭和17年から軍役に服し、その間あらゆる軍隊の醜さ、人道外れたやり方に悲憤慷慨しながらも、天皇陛下の命という事で従ってきたのです。しかし、最後はフィリピンのミンダナオに派遣されました。飛行場警備に当たりましたが、敵機のみ、遊軍機は1機もきません。ついに山岳地に入り、玉砕を覚悟で戦えということでしたが、既に戦うに弾無し、生きるに食無し、どうして戦えるのかという苦しい思いを秘めながら頑張ったのですが、もはや食料がない以上は大隊としての機能を果たすことが出来ないのです。そこで4,5人ずつに分散し、ジャングルの中に敗走しました。その苦しさは言葉に出来ませんが、つづめると「憲法9条を守れ」と87歳の老骨に鞭打って一生懸命に頑張っております。力を貸してください。

・稲村繁 
1万人の兵隊には1万の戦争があります。今でも忘れないのは軍隊に入る前の晩、父親に言われました。『お前と会えるのは今日が最後だろう。よっぽどの奇跡が無ければお前とは二度と会えないだろう』それが3万2千日近く生きてここに立って皆様にお話している訳です。満州に転属になり、終戦は新京で知りました。『戦争には負けたが生きている』と若い部下と手を取り合って喜んだものです。それが連れて行かれたのはモンゴルの山の中でした。ここは六月に雪が降って、8月に雪が降るところです。零下30度の極寒の地でした。皆さんには想像できるでしょうか。夕べ一緒に寝た兵隊が、朝起きてこない、皆死んでいたんです。戦争とは、国は勝つためには何でもやる、そういうことを心していただきたいと思います。

・松浦喜一 
私は特攻隊、爆弾を飛行機に積んで行う特攻ですが、の最後の生き残りではないかと思うのですが、沖縄の闘いは6月23日に終わりました。私が出撃の命令を受けたのは6月19日です。三機で飛びました。もの凄い悪天候で、沖縄の側まで行ったときに超低空で飛んでいた我々3機の中の1機が海に落ちて亡くなりました。そこで私ともう1機は引き返し、今日まで生きながらえたという事になるのです。私は戦争が終わって民間人になったとき、大勢の人からあちらこちらで尋ねられたのは『特攻は志願だったのか命令だったのか』『本当に死ぬ気で飛んでいったのか。』私の答えは分かりませんというだけでした。当時私は22歳、そういう時に生き残って仕舞った私が、死んでしまった特攻隊員の精神状態を『あの人は悠久の大意に生きたんだ』と説明する資格は無いと思うのです。そういうことを言えば僭越という事になります。ですから分かりませんという言葉を通してきました。しかし今日私は84歳になりました。もう分かりませんという言葉は出せないんです。私は戦争と死というものを一生懸命考えました。そして戦争というものがいかに国民を不幸にするものか、国民の平和な生活をいかにめちゃくちゃにするものかを訴えたいと思うのです。戦争で死んだ人は南方では殆どが飢え死になんですよ。内地では空襲や原爆で死んだ。それが天皇陛下のためとか、大日本帝国のために喜んで死んでいったということは絶対にありません。戦争は絶対に悪であるということをこれからもお考えになって頂きたいと思います。

・佐藤孝則 
私は民間人です。しかし戦場は兵隊も民間人もないんです。命を落とすことにかわりはありません。私は福島で生まれ、3歳でテニアン島に移住しました。南北20キロ、東西10キロの小島です。体には砲弾、手榴弾、カービン銃、手榴弾とカービン銃はアメリカの兵隊に直接撃たれました。19年6月11日米軍が島のまわりにびっしり、機動隊の多さにびっくりしました。砲撃が一段と激しくなり、日本の応戦も激しかったですが一日で終わりました。一番恐怖だったのは5キロ先のサイパンから打ち込まれる巨大な砲弾でした。本当に恐怖でした。7月24日島の南端に追い詰められ、兵はここが最後だと集結、銃を空に向け撃っている兵隊、洞窟に入る兵隊、本国に帰ったら頼むとお金などを持ってくる兵隊がいましたが、私どももここが最後と思っていましたので、爆薬に火をつけようとしたときに親父が「死に急ぐ事は無い」と自決をやめました。

・波田ひろこ 
私の父は私が2歳の時にニューギニアで戦死しました。家族のもとに届けられたのは白木の箱だけでした。私には父の記憶が全くありません。それは私の心に埋めがたい空洞を残しました。6歳の時に母が再婚し、妹と弟が生まれましたが、そこで戦死した父のことが話される事はありませんでした。義理の父が亡くなった後自分で父の軍歴を調べたり、ニューギニア戦の本を読んだりしましたが、心の空洞を埋めることは出来ませんでした。昨年戦場体験放映保存の会に参加して以来ニューギニア戦から生還された元兵士の方から直接戦場の体験を伺うことが出来ました。戦争の悲惨と虚しさが私の心と体にじわじわ迫って打ちのめされました。父はなぜ私という幼い娘を残して・・・遥か南方で飢餓の中死ななければいけなかったのか。父の無念と悲しみにやっと少し寄り添う事が出来たように思いました。・・・11月には遅ればせながら父が戦死したウエワクに慰霊の旅に行くことにしました。元兵士の方が今まで長く心におさめてこられた戦場での重い体験を話してくださった勇気に心から敬意を表します。話された事実はどれも重くきついものでしたが、それまで空虚だった私の心を強く揺さぶり、一歩前に歩みだす力を与えてくださいました。・・・ありがとうございました。

◆会場からのご発言

・湯浅謙 
中国帰還者連絡会の湯浅と申します。私は山西省ろあんの陸軍病院で軍医をしておりましたが、3年半に7回に渡って14名の中国人の捕虜・拘束者を生体解剖しなければいけないというはめに陥りました。そのときの心理状態は気持ちが悪いぐらいのことであって、酷いことだ、悪いことだとは考えようもなかったんであります。軍の命令で行いましたが、命令に逃れるつもりはありません。私自身は戦争に勝つためには軍医の救急手術を行う技術を高めなければならない、そうして日本軍の兵士の負傷を救ってまた前線に返さなければならない、そうしなければ日本は戦争に勝てないんだ、こういう一念に凝り固まって私のしていることを悪と考える余裕はなかったのです。麻酔はしましたけれども盲腸の手術、腸管の手術、気管切開、腕の切断を行いましたが、看護婦にさせる、衛生兵に手伝わす、そういうこともあえてしたのです。これは北支全体の陸軍病院で行っていたので、全体で2~3千人の衛生部員が経験しています。しかし誰も話すことはありません。私は捕虜収容所でこのことを反省する機会を与えられたので、このお話をするようになったのです。

・岡野工治 
集会の最終バッターとして指名されたことを光栄に存じます。私は18歳で陸軍航空兵として満州に渡りました。私の二ヶ月先輩は沖縄へ、当時の飛行機はぼろでヨチヨチで、普通100キロ爆弾を積むのが50キロ爆弾で、先輩は死にました。満州で終戦を迎えましたから、我々60万の仲間がスターリンと瀬島さんの話し合いか、捕虜となりました。この捕虜に国家補償を国は1銭も払っていません。こういう運動を今日は国会で会議を開き、そこからここに駆けつけました。私ども60万、家族を入れれば200万、当時食料増産で満州に行き、耕しただけ農地をくれるという事で行った開拓団20万、家族を入れた30万、この人たちが日本の国に捨てられたのです。100万の捨てられた民です。小泉さん、安倍さん、次に誰が選ばれるか知りませんが、今この国は戦争へ戦争へ、アメリカの行う戦争に加勢・賛成する風潮を、われわれ戦争体験者が絶対に起こさないように孫子に引き継ごうではありませんか。そして権力、政府、軍隊は言葉では国民の生命・財産を守る、これが嘘偽りであることを今皆様に申し上げたい。私は107歳まで生きる、共に力をあわせて頑張って参りましょう。

◆会長挨拶
◆閉会の言葉

9.21日比谷公会堂「あの戦場体験を語り継ぐ集い」レポート1

2007年11月02日 | [期間限定]日比谷公会堂
 今年9月21日、日比谷公会堂にて催されました「あの戦場体験を語り継ぐ集い』には、たくさんの方々にご来場いただき、大変感動致しました。皆様からの御賛同や御批判を真摯に受け止め反省をするとともに、今後の活動の励みとさせていただきます。本当に、皆様ありがとうございました。

 また、当イベントは平日開催と言うこともあり、「仕事で来られない」または「遠方なため東京まで行くのは難しい」との御意見を多くいただいておりましたので、ここに一部ではございますが、「あの戦場体験を語り継ぐ集い」を文章にてご報告させていただきたいと思います。当日より1ヶ月以上経ってしまい申し訳ございません。

お名前は全て敬称を省略させていただいております。ご了承ください。

インターネット新聞JANJANにて、映像配信中です。


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◆司会の紹介
◆黙祷
◆司会挨拶

・張替麻里
戦場体験放映保存の会の張替麻里と申します。叔父が宇都宮36部隊歩兵でルソン島で戦死、叔母が大宮の中島飛行機の暗号係で戦死している遺族です。

・猪熊得郎
元兵士の会の幹事をしている猪熊得郎です。15歳の時、陸軍特別幹部候補生に志願、水戸の航空通信学校に入隊しました。20年に日立の飛行部隊でアメリカの艦載機の攻撃で11名の同期生が戦死するという初めての戦闘体験をしました。切れ切れの戦友の体を繋ぎ合わせながら戦争とは殺し合いだと肝に銘じました。敗戦は旧満州で対空無線として戦闘に参加していましたが、混乱の中17歳の同期生は生きて虜囚の辱めをうけず、歩いて日本に帰るのだと隊を離れました。彼の消息はいまだ分かりません。17歳の誕生日にアムール川を渡りソ連の捕虜となり、19歳で帰国しました。二つ上の兄は回天特攻隊員で沖縄へ出撃の途中戦死致しました。私たちのたった一つのかけがえのない青春は戦争のための青春でした。私は若者達には平和のための青春を送って欲しいと、戦場体験を生きて入る限り語り継ぎたいと思っています。元兵士の会は3千人の会員を実現しました。今、一万人に達しようとしています。これも消えうせようとする戦場体験をどうしても孫子に伝えたいという皆様方のご支援、ご助力の賜物と思っております。

◆来賓挨拶

・川島裕(戦没戦を記録する会会長、日本船長協会名誉会長、ぶらじる丸最後の船長)
観音崎公園の丘の上に太平洋戦争で戦没された6万4人の船員の慰霊碑が立っています。碑銘文に"安らかに眠れわが友よ、波靜なれとこしえに"とあります。太平洋戦争は広大な海洋作戦でした。前線に兵士や武器・弾薬・食料を運ぶ為船舶が必要でした。そのため商船は船員もろとも根こそぎ徴用され、壊滅的な打撃を受けました。ここを通って出て行った輸送船団の殆どは再び故国に帰ることはありませんでした。2500隻以上、840万総トン以上の船舶が撃沈され、しかもそのことを知る人は多くありません。また南方に送られた陸軍兵士30万人が戦闘を交えることもなくみず区屍と化した事は痛恨の極みです。漁船の被害も甚大でした。

・寺嶋芳彦(連合会会長)
小野田少尉の救出以来遺骨収拾活動を続けている。40年近くになる。私は昭和12年海軍に入団したが、内地に帰ってからご遺族の皆様の悩みを痛切に感じ遺骨収拾を続けている。最初は南方をやっていたが、最近はシベリアもやっている。自分の商売は家内や子供に任せ、遺骨収拾に一身をささげて来た。90近いが今後も続けてもらうよう政府に働きかけている。最近は若い人が協力してくれる。女性でも山を登ったり穴を掘ったり協力してくれる。私たちはもう先も短く、山にのぼる事も掘る事も出来ない。しかし遺骨収拾は最後まで続けないといけない。一日も早く祖国に持って帰りたい。今後ともご協力を賜りますようよろしくお願い申し上げます。

・猪熊得郎
それぞれの団体、それぞれの個人にはそれぞれの主張や考え方があります。しかし今、戦場体験が消えようとしている時、どうしても後世に伝え残さなければならない、この一点で結ばれご協力を頂き、今日も沢山の方方が参加しております。団体、個人名の幾つかをご紹介させて頂きます。朝風の会、戦場体験を語る会、不戦兵士・市民の会、全国抑留者保障協議会、わだつみの声の会、所沢雑学大学、埼玉県少飛会、関東・空の特幹友の会、曙光会(フィリピン関係)、中国帰還者連絡会。また個人として日本大学の粕谷進教授とそのゼミナールの方々、憲法学者の星野安三郎先生、法政平和大学の尾形憲先生がお見えになっておられます。

◆兵士からの発言

・井ノ口金一郎
8番出るぞと川添が身を起こしたとたん水田に倒れた。畜生と腹のそこから怒りがこみ上げたが9番出るぞと私も次の地点に移った。後で川添の遺体を後方に引き上げたがすぐに出発の命令。わびながら彼の右腕を肘関節から切り落とし火葬に臥すまで携帯することとした。この日から炎天下の行軍が続き、腕は日増しに悪臭が増し、包んだ旗の間からウジがぽろぽろ落ち、包みなおそうとすると断面に飯粒のようにウジが蠢いていました。その腕も日がたつにつれ暗褐色の干物となり、一ヵ月後無事荼毘に付す事が出来ました。

・熊井敏美 
フィリピンバナイ島は本来砂糖と米の豊かな土地だったが、昭和17年5月日本軍が上陸した。守備軍は日本との戦闘を避け焦土作戦をとった。現地の将兵は米軍の支援を受けゲリラ戦に入った。殺したり殺されたりの毎日が始まった。ベトナム戦やイラクの戦闘を想像してほしい。渦の中に巻き込まれた日本軍の将兵、現地の住民、ゲリラは何よりの犠牲者だ。

・槇原幸成 
19歳の俺は牡丹江で捕虜となった。2千人の捕虜が羊の群れの様にとぼとぼと力なく歩いた。騙されて6日間歩き続け、途中で百人ぐらいが倒れて死んだ。汚い馬小屋の収容所、9月でも零下20度、うずら豆のスープ一日2杯、皆夏服の軍服で、毎日二人三人と死んだ。俺は二等兵、死体運搬人を命ぜられた。一等兵、上等兵、伍長、軍曹、将校の死体もあった。あばら骨が洗濯板のようだった。くぼんだ黒い目ん玉、衣類は全部はがして仕舞う。裸の死体を死体小屋まで運んだ。汚いふんどしはマフラー代わりとなる。はがした衣類は皆に配る。遺体が30人溜まるとソ連軍の壕に持っていく。運搬中にでこぼこ道で死体が落ちると大きな野犬が群がってそれを食った。翌春までに200人以上を処理した。人数も名前も記録しなかった。今でも死体運搬の夢を見る。

・岩井忠正 
1943年学徒出陣で海軍に入り、回天と伏竜の二つの特攻部隊に所属した。伏竜は人間機雷です。特殊な潜水服で敵の上陸地点の海中に潜み竹竿の先につけた小さな機雷で敵の上陸用舟艇を攻撃するものです。呼吸は背中の酸素ボンベから行います。私は野比海岸で訓練をしましたが、この作戦が非現実的なことは訓練ですぐに分かりました。背中に重いものを背負っているので海中では前傾姿勢をとらねばならず、そうすると被っている兜の面ガラスから見えるのは数メートル先の海底だけで、頭上を通過する敵舟艇を狙う事など不可能なのです。訓練中多くの死者が出ました。私自身も海中で窒息死危うく助かりました。

・久田二郎 
昭和15年が徴兵検査でした。生まれは滋賀県でしたが、東京にいました。簡単な手続きで東京で検査を受ける事が出来ましたが、私は滋賀に行って受けることとしました。都会より田舎の方が体格が良いだろうから田舎で受けた方が合格の順位が下がるだろうと思ったからです。私は噂に聞く軍隊に嫌気がさしており、腹の中で思っていただけでしたが、「風とともに去りぬ」や「巴里祭」「格子無き牢獄」を見て生きる喜びに浸っていた。滋賀に行くと案に相違してでっちぼうこうをしている人が多く思惑が外れたが、耳が片方遠かったので第二乙となった。二年後召集された。

・秋元実 
チモール島ではマラリア、デング熱、アメーバー赤痢、脚気、熱帯潰瘍をした。戦争の苦しみはどんぱち撃っている時だけではなく、合間の病気の苦しみや、軍隊組織の苦しみに耐える事にあった。現在は静岡東部各地を廻りながら戦友の霊を背中に背負いながらささやかに語ることをしている。

・三井國代 
17歳の時満州開拓青年義勇隊を志願した。チチハルの軍が足りないからと弾薬庫の警備に行かされた。8月、最後の一兵まで戦うと持ち物を一箇所に集めて全部焼いた。終戦後「お前らは若いんだからこれからの国を作るんだから、すぐ軍隊を出ろ」といわれ、引き上げるつもりで列車に乗ったが運転手がいなくて4時間も5時間も動かない。結局知り合いや中国人に頼って邦人にまぎれて暮らした。ソ連兵が来て皆で女性を畳の下に隠した。引き上げが始まったが無蓋車で亡くなった人はそのまま落としてくるだけだった。戦争はそんなものだった。戦争を二度と起こさないよう頑張って下さい。

・黒澤啓 
1944年レイテ湾で武蔵は撃沈した。大きな船団だったが、米軍の爆撃は第1波から他の船には手を出さず全て武蔵を向けてやってきた。何としても武蔵が沈むまでやるという感じだった。私は機関兵、地獄攻めというような熱気の中、第3波、第4波で外との連絡が取れなくなり、応急治療者が集まった場所に第5波で直撃弾を受けた。その惨状は何と言葉にしたらよいか分からない。人間の塩辛のようだった。

・黒田千代吉 
戦争と言うのはあなたの愛する人が殺されるという事です。私は20日で入隊、中国に送られ重い背嚢を担ぎ、戦場の部隊に合流するため出発。空腹、疲労に耐え行軍。糧秣は欠乏し、徴発、手榴弾を川に投げて魚を取り、青草を雑炊にしたり、蛇・蛙も食べました。行軍が嫌になり、銃や手榴弾で自殺、逃亡するものも増えました。マラリア、栄養失調で次々と仲間が死んでいきました。敵飛行機の制空下、明日の命も分からず敵地区の中3000キロを必死で行軍。やっと本隊に到着。1200の兵は400足らずになっていました。まさに死の行軍です。もう、戦争は嫌だ。今日の平和は先輩や戦友の犠牲の上に築かれたことを忘れず次の世代に語り継ぎたい。

・阿部英夫 
皆さん今日は、お元気で何よりです。私は大正5年生まれの91歳になります。支那事変勃発と同時に北京に敵前上陸、黄河の鉄橋に向け南下しました。13年4月火野葦平氏が配属になり、6月麦と兵隊が書かれました。双方100万の遭遇戦が間もなく幕を切って落とされました。大平原の野兵戦なので両軍身を隠すところが無く、機関銃の双方の乱射で綿の実が舞い上がり、麦畑では穂の先が舞う光景でした。七月徐州陥落、ノモハンに増援部隊として急行。19年にはフィリピンに渡り、バシー海峡で海没、ニューギニア、ボルネオで兵士達は玉砕。生き残り兵全員でゲリラ作戦に転じました。

・菊地定則 
満州で現地検査、現地入営、資格のある人は全員幹部候補生を志願することになった。出身は山形で父親は自宅に帰り盛大に送る事を望みましたが、どうせ満州にくるのだからと現地入営しました。山砲兵でしたがまことに厳しい演習でした。特に馬のいる部隊でもあり、日常の自分の時間は便所にいる時だけでした。19年結核で先に帰国、戦友は殆ど戦死しました。生き残ったものは何をなすべきかということで、生涯をかけて反戦平和運動に邁進する所存です。

・関利雄 
昭和15年に少年飛行兵11期生に志願。18年に卒業。いわゆる“隼”の操縦をしておりました。20年の1月が初陣でした。インパールの北、チンスキア上空で敵の輸送機に攻撃をかけましたが、その時はぶるぶる震えて、寒さもあったのか、武者ぶるいというのか、未だに分かりません。

・沼田清介(代読)
昭和18年6月、200名の兵の隊長として、パラオ諸島の一角に上陸し本隊と合流した。当時、ガ島(ガダルカナル島)では死闘が行われていたが、パラオはまだ後方地域であった。ところが、私は幼い頃より胃腸が弱く、上陸後絶えず下痢をし、テング熱にもかかった。だんだん衰弱していき、小隊長として指揮することができるか否か懊悩し始めた。”軍規は軍隊の命脈なり、義は山岳よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ。”自信を喪失した私は、自決することを考えざるを得なくなった。9月15日、拳銃で胸を撃った。弾は心臓をはずれたが、血液は胸部に溢れた。2,3日後から激しい屈辱感と絶望感に苛まされた。精神病者として内地に護送された。終戦となり、生還した戦友にあったが、”彼らは地獄を経験した、多くの戦友は死んでいる、しかるに私は生きている”という後ろめたさが絶えず私を突き刺した。戦後、教員となり教祖運動に参加し、”平和憲法を守れ、教え子を戦場に送るな”をスローガンとする平和運動に没頭し、退職しても続けている。私の平和運動は、亡き戦友の霊に捧げる宗教的行事なのである。

・横尾肇
今年は2007年ですから、私は85年間、大正、昭和、平成と生きてまいりました。私が物心ついた5,6歳の頃、そして小学校、中学校の頃と言いますと、今から70年、80年も前です。その頃の日本がどんな国であったのか、今の若い人たちには全く想像もできない時代があったのです。当時の日本はいわゆる軍国主義の思想で塗りつぶされておりました。日本は、今から66年前の1941年12月8日にアメリカに対して宣戦布告を致しました。日本が世界の大国と言われるアメリカと戦争を始めたということは、当時の軍部の暴走であり、それを抑えることのできなかった政府ならびに政治家の重大な責任です。この戦争によって、日本は数百万人の尊い人命が失われました。当時の国民全ての軍国主義の思想は、政府や軍隊によって強制的に押し付けられていた面が大きかったのです。

・梶山登
15歳で陸軍の輸送船の乗組員として働いていました。17歳でマレー上陸作戦、北方への輸送、南方はラバウルまで。戦後は復員船、米軍に雇われて朝鮮にも半年、よく生きていた。戦争をしてはなりません。よろしくお願い致します。

・本郷勝夫 
私は62年前のわが国の命令について話をします。上官の命令は天皇陛下の命令と思え、軍隊に不可能は無い、不可能を可能ならしめるのが軍隊だと最初に言われました。今でも深く心に残っています。私は野戦病院の衛生兵の最下級兵の一員として中国大陸の作戦に参加していました。作戦中次のような場面に遭遇し、今も命令の冷酷と非情さにさいなまれながら生きております。湖南省のある場所でコレラ患者が多発し続々と運ばれてきました。建物の一箇所に隔離収容し閉じ込めておくのでした。そこで命令が出るのです。患者に一切接触厳禁の命令でした。当時薬は無く消毒薬は少なく他の一切の物資補給は無し。どうすることも出来ずただ収容しておくだけでした。患者兵は水をくれ、水をくれと言うのですが、見てみぬふり。非情極まりない命令の理由は部隊に感染し、全滅の恐れありという事です。その後また命令が下るのです。部隊前進との事、患者収容の建物へ火を放っての前進なのです。焼き殺すのです。最下級兵の衛生兵としてこの目で見た一場面でした。命令という言葉で若き命が紙くずのように大陸の果てで捨てられ、遺族には白木の箱に紙切れ一枚、これが戦争でした。終わり。

・内貴直次 
19年5月ニューギニアサルミに上陸した米軍に対し敵陣偵察の師団命を受けました私は、途中機銃掃射、爆弾の雨を受け、生き埋めとなる寸前を助かり、急流の対岸に泳いで渡り、敵陣地を見て伝令を走らせたので(日本軍は)攻撃を開始しました。私は敵陣地に潜入したのですが銃弾を受け肩と腕に被弾。貫通していたため翌日倒れながら歩いて発熱と痛みに耐え次の陣地に移動しました。