・中島裕
19年17歳で陸軍特別幹部候補生を志願。航空兵科で教育、3ヵ月後満州へ移動、ソ連軍の侵攻により戦闘に参加することなく武装解除を受けシベリア抑留を経験しました。伐採作業に従事していました。人間の限界を超えた重労働の中で栄養失調と闘い、後半には日本人アクチーブ達の迫害にあいながら自分に正直に一生懸命働きました。復員後戦後今日まで、シベリア抑留されていたときと同様自分に正直に一生懸命生きてきました。地位も名誉も財産にも縁はありませんでしたが、恥ずべき人生ではなかったと自負しています。現在も17歳で志願した時と同じ国を愛する心、心意気に変わりは無いことを結びの言葉と致します。
・白崎勇次郎
通信兵だった私が天皇の敗北宣言を聞いたのは日本領土の最北端占守島でした。目の前にソ連領のカムチャッカ半島が肉眼で見えるところです。敗戦の3日後18日明け方、占守島を占領しようとしたソ連軍と戦いました。通信兵の私は「ヨーロッパ戦線で名をはせたソ連軍の重戦車を先頭に敵の大部隊が飛行場を目指して進撃中」との情報を受け、いよいよ最後の敵が来たと腹を固めました。「これより歩兵部隊に合流、最後の突撃を敢行せんとす。」との電信を本隊に送り、飛行場に張り巡らされた蛸壺に身を隠し、火炎瓶をしっかり握ってソ連軍戦車への肉薄攻撃の時を今か今かと待ち受けました。ソ連軍戦車が飛行場突入寸前で停戦命令が出たので命拾いすることが出来ました。危機一髪で命拾いした兵士として次のことだけは言い残したいとい思っています。敗戦後戦死した多くの戦友への鎮魂の叫びであり、また第二次世界大戦の歴史を正しく後世に伝えるため兵士達の心からの願いであります。
・神保忠次郎
本日は海軍の先輩方も大勢おいでのことと思います。私は、昭和18年5月、横須賀海兵団で3ヶ月の新兵訓練を終了、巡洋艦高雄に配属となり最前線トラック島基地に上陸しました。まずびっくりしましたのが、戦艦大和、武蔵、長門をはじめ、空母、巡洋艦、駆逐艦等100隻余りの大連合艦隊。全く心強く感じ、頑張ろうと心に誓いました。私の戦争体験は、ラボールの米軍艦載機100機以上による大空襲、対空戦闘でした。その次は”あ号作戦”、”捷号作戦”、転戦地は南太平洋全域でした。そのおかげでトラック、パラオ、フィリピン、ラボール、ボルネオ、シンガポール、マレー諸島等、今考えれば無料で避寒旅行に行ったと思っております。友達というか戦友、また、上官であった人々が、私の財産と思っております。
・梶泰治
17年1月10日、赤坂の東部部隊に入りまして、翌二月北支の春部隊に到着した。そこで実践即応の初年兵教育を受けた。春部隊は北は万里の長城、南は黄河の果てまで最前線の河北省全域を転戦し、八路軍とゲリラ戦を展開したが、点と線の守りだった。万里の長城方面へ1500キロ大移動した後状況は一変、敵勢力は増強され、精鋭となり、わが方の損害は激増する。八路軍は一晩に40キロ歩く。対するのに、わが方は兵舎を捨てて野戦軍となり行動せよ、夜行軍をもって目的地へ行けと。交戦の無いときは野営して夜を待ち、敵を求めてまた連日の夜行軍である。この作戦は6ヶ月続いた。
・丹羽正治
従軍期間は5年間でしたが、その後半のニューギニアは最も激しい、ものがありました。補給が途絶え餓えやマラリアに悩まされましたが、必勝の信念に燃えて米軍と戦いました。しかし頼りとするのは精神力が主体で、精神力だけでは物量に極端な差のある相手との近代戦を戦うことさえ不可能であり、多数の戦友の貴重な命が失われました。必勝の信念には何時の時代にも通じる重要なものがあるが、それだけでは唯の掛け声に終わる空しいものがある。
・山下春江
満州に住んでいた私には他国での敗戦には厳しいものがありました。外出すると中国の子供達から外套をはがされ石を投げられる、姉の義兄は青龍刀で殴り殺されました。日本円は使えなくなって食べ物はぶつぶつ交換をしなければなりませんでした。家にある貴金属はたちまち無くなり、困った母は病院へ付き添い婦として働きに出ました。間もなく八路軍が町に来て、次にソ連兵が南下し、また国民党軍が来て内戦が始まるというので、市公署へ行き軍隊へ連れていかないよう許可証を貰って帰る路上で八路軍に捕まり、軍隊へ連れていかれました。船に乗せられ、おう緑江を遡り、そのまま中国内戦の一端を担がされました。中国の全土を北から南まで毎晩50キロメートルの行軍をし、爆弾を落とされたり、機関銃で撃たれたり、食物が前線まで届かず一日ねぎ一本という日もありました。毎日足に30個も豆が出来、爆弾の音に生理も無くなり、凍りついた川をざぶざぶいって割ったり、4年間を同じように過ごしてきました。やっと日本の土が踏めたのは戦後13年が経っていました。私は戦争の無い平和な世の中をいつまでも守りたいと思っております。
・斉藤一好
私は1941年3月海軍兵学校を卒業して少尉候補生となり、連合艦隊旗艦陸奥、同じく連合艦隊旗艦長門乗組となりました。私は指導官であったオジオショウタ少佐より、”日本がアメリカと戦争をしても勝てるわけがない、日米開戦は有り得ない”、こう言われておりましたが、瀬戸内海西部に碇泊中に、パールハーバー(真珠湾)の襲撃で開戦がなされたことを知って大きなショックを受けました。長門は大和にしたがってミッドウェー海戦に参加しましたが、皆さんご存知のように4隻の航空母艦が全滅致しまして、この戦争は敗北致しました。その後、駆逐艦雪風に乗艦してガダルカナル島を中心とする幾多の海戦に参加致しました。第3次ソロモン海戦では、水雷長が重傷を負って退艦したので私が後任となり初めて魚雷戦を経験しました。ガダルカナル撤退後、船団護衛の後、私は潜水学校にもいまして、イ号400潜水艦の水雷長専任将校となりました。1945年8月15日に、赤道直下ウルシーで特攻準備のところ日本政府の終戦を聞いて帰国、大湊へ向かう途中で米駆逐艦に拿捕され1ヶ月間の捕虜生活を終え釈放されて、復員致しました。
・上斗米正雄
戦争は悲惨で地獄であり、その実態はあまりにも複雑で程度も大きく、その全貌を理解することは極めて困難だろうと考えます。私は昭和16年2月、満州関東軍に歩兵として入隊し、昭和19年3月分隊長として中国戦線に派遣されました。そこは待った無しの戦場でした。現役の3年間関東軍で鍛えられたことは、いかに有益で役立ったことか身をもって体験しました。終戦は湖南省で迎え、武装解除の後、道路工事に従事し、昭和21年5月上海から帰還しました。日本は戦後62年間、平和に過ごして参りました。また経済大国として繁栄しています。しかしこれは太平洋戦争の戦場に散った210万人もの尊い犠牲の上に築かれたことを忘れてはならないと思います。私は老い先短い戦争体験者として自衛隊の紛争地域派遣に反対します、テロ特措法の延長に反対します。
・松浦俊郎
私は昭和18年12月陸軍に入って、幹部候補生の試験にうかり前橋予備士官学校に入学しました。同校から同期生398名とともにフィリピンのルソン戦線に運ばれました。マニラについたのは昭和19年11月中旬、二ヵ月もたたないうちに米軍が中部ルソンに上陸してきたのです。私はルソン島の最北端を守る師団に配属になりましたので米軍との本格的な戦闘は他の師団より遅かったのですが、航空機も戦車も失ったわが軍はついには敵陣に切り込むという戦法をとるより他無かったのです。米軍との戦闘は苦戦の連続であったが、それにもまして食料が極めて乏しく飢餓との闘いでありました。七月下旬私は重い大腸炎にかかりました。私の隊には軍医はおらず薬もろくろくありませんでしたので、効くか効かないか分かりませんでしたが竹を取ってきて黒焼きにして、それを飲んでいました。8月中旬アメリカの飛行機が飛んできて戦争は終わったというビラをさかんに撒くんです。はじめは謀略かと疑いましたが、数日後旅団から連絡があり敗戦を知りました。ジャングルから隣の村に降りて武装解除を受けました。フィリピンに送られた日本軍総数63万人のうち50万人弱が戦死をしました。前橋予備士官学校の同期生も八割強が戦死しました。若い日の彼らの面影を目に浮かべます。冥福を祈るのみです。
・中島高男
対馬丸の悲劇を申し上げます。昭和19年対馬丸は疎開船第1号となり8月21日夕方6時半ごろ那覇港を出航、他の僚船2隻と護衛艦2隻と合流し船団を組んで長崎に向け航行して参りました。22日10時12分ごろ汽笛が3発なりました。敵潜水艦が出たという合図です。思わず立ち上がったその瞬間です。大きな爆発が起きました。左舷後方です。ショックで3メートルほど飛ばされました。両足と目の上を負傷しました。2、3秒後また爆発が起きました。更に2,3秒、大爆発が起きました。3発の魚雷が当たって轟沈することが確認されました。一番船倉まで私は飛び出しました。もの凄い光景を見ました。大勢の子供達と荷物が一緒になって爆発部分から海水が流れ込み渦となってもの凄い惨状でした。今でも覚えております。沈没後私は6枚のいかだを繋いで7人の人を救助し、3日間漂流して救助されました。
・石井春吉
満州に少しいた後、いわゆる大東亜縦貫作戦(1号作戦)で、北支から黄河を渡り中支、揚子江をまた渡河して南支、ずっと徒歩で戦い続け広東省までいきました。更に(徒歩で)引き返して中支で終戦となったのですが、同年兵は機関銃と大隊砲で80数名いましたが一緒に帰ってきたのは20数名でした。今でも靖国神社に毎年集まっていますが、我々は決して亡くなった仲間が神様になったとは思っていません。神様になる訳ないんです。全然食料は送ってこないし、弾はどんどん送ってくるけど、食料はどうするかというと中国の村に行って取って来る訳ですね。徴発なんですが、これは命令でやられたんですが、それでも飯は足りなくて栄養失調で死ぬ人が大部分でした。靖国神社に行っても、せめてお化けでも幽霊でもよいから会いたい・・・、戦友に会いたいと思っています。
・鈴木健一
特殊部隊を編成すると言うので希望、落下傘部隊に入りました。親も当時館山に来ていて『本日は落下傘も開かないのもだいぶあったし、半開きのものも落ちたけど、どうなんだ』と聞かれ『あれは全部人形だよ、本当の人間じゃないよ』と話しておきましたが実際訓練中から事故は起きていました。ミンダナオのダバオを基地として輸送機28機で第1回目のメナド奇襲攻撃が始まりました。隠密な攻撃のため途中で味方から1機は撃墜され戦死しました。私は第2回目の攻撃に参加、ラング湾飛行場を制圧しました。戦争ほど悲惨なものはありません。私は90歳を過ぎましたが戦争ほど悲惨なものは無いと今後その体験を語っていきたいと思います。
・谷口末廣
昭和17年から軍役に服し、その間あらゆる軍隊の醜さ、人道外れたやり方に悲憤慷慨しながらも、天皇陛下の命という事で従ってきたのです。しかし、最後はフィリピンのミンダナオに派遣されました。飛行場警備に当たりましたが、敵機のみ、遊軍機は1機もきません。ついに山岳地に入り、玉砕を覚悟で戦えということでしたが、既に戦うに弾無し、生きるに食無し、どうして戦えるのかという苦しい思いを秘めながら頑張ったのですが、もはや食料がない以上は大隊としての機能を果たすことが出来ないのです。そこで4,5人ずつに分散し、ジャングルの中に敗走しました。その苦しさは言葉に出来ませんが、つづめると「憲法9条を守れ」と87歳の老骨に鞭打って一生懸命に頑張っております。力を貸してください。
・稲村繁
1万人の兵隊には1万の戦争があります。今でも忘れないのは軍隊に入る前の晩、父親に言われました。『お前と会えるのは今日が最後だろう。よっぽどの奇跡が無ければお前とは二度と会えないだろう』それが3万2千日近く生きてここに立って皆様にお話している訳です。満州に転属になり、終戦は新京で知りました。『戦争には負けたが生きている』と若い部下と手を取り合って喜んだものです。それが連れて行かれたのはモンゴルの山の中でした。ここは六月に雪が降って、8月に雪が降るところです。零下30度の極寒の地でした。皆さんには想像できるでしょうか。夕べ一緒に寝た兵隊が、朝起きてこない、皆死んでいたんです。戦争とは、国は勝つためには何でもやる、そういうことを心していただきたいと思います。
・松浦喜一
私は特攻隊、爆弾を飛行機に積んで行う特攻ですが、の最後の生き残りではないかと思うのですが、沖縄の闘いは6月23日に終わりました。私が出撃の命令を受けたのは6月19日です。三機で飛びました。もの凄い悪天候で、沖縄の側まで行ったときに超低空で飛んでいた我々3機の中の1機が海に落ちて亡くなりました。そこで私ともう1機は引き返し、今日まで生きながらえたという事になるのです。私は戦争が終わって民間人になったとき、大勢の人からあちらこちらで尋ねられたのは『特攻は志願だったのか命令だったのか』『本当に死ぬ気で飛んでいったのか。』私の答えは分かりませんというだけでした。当時私は22歳、そういう時に生き残って仕舞った私が、死んでしまった特攻隊員の精神状態を『あの人は悠久の大意に生きたんだ』と説明する資格は無いと思うのです。そういうことを言えば僭越という事になります。ですから分かりませんという言葉を通してきました。しかし今日私は84歳になりました。もう分かりませんという言葉は出せないんです。私は戦争と死というものを一生懸命考えました。そして戦争というものがいかに国民を不幸にするものか、国民の平和な生活をいかにめちゃくちゃにするものかを訴えたいと思うのです。戦争で死んだ人は南方では殆どが飢え死になんですよ。内地では空襲や原爆で死んだ。それが天皇陛下のためとか、大日本帝国のために喜んで死んでいったということは絶対にありません。戦争は絶対に悪であるということをこれからもお考えになって頂きたいと思います。
・佐藤孝則
私は民間人です。しかし戦場は兵隊も民間人もないんです。命を落とすことにかわりはありません。私は福島で生まれ、3歳でテニアン島に移住しました。南北20キロ、東西10キロの小島です。体には砲弾、手榴弾、カービン銃、手榴弾とカービン銃はアメリカの兵隊に直接撃たれました。19年6月11日米軍が島のまわりにびっしり、機動隊の多さにびっくりしました。砲撃が一段と激しくなり、日本の応戦も激しかったですが一日で終わりました。一番恐怖だったのは5キロ先のサイパンから打ち込まれる巨大な砲弾でした。本当に恐怖でした。7月24日島の南端に追い詰められ、兵はここが最後だと集結、銃を空に向け撃っている兵隊、洞窟に入る兵隊、本国に帰ったら頼むとお金などを持ってくる兵隊がいましたが、私どももここが最後と思っていましたので、爆薬に火をつけようとしたときに親父が「死に急ぐ事は無い」と自決をやめました。
・波田ひろこ
私の父は私が2歳の時にニューギニアで戦死しました。家族のもとに届けられたのは白木の箱だけでした。私には父の記憶が全くありません。それは私の心に埋めがたい空洞を残しました。6歳の時に母が再婚し、妹と弟が生まれましたが、そこで戦死した父のことが話される事はありませんでした。義理の父が亡くなった後自分で父の軍歴を調べたり、ニューギニア戦の本を読んだりしましたが、心の空洞を埋めることは出来ませんでした。昨年戦場体験放映保存の会に参加して以来ニューギニア戦から生還された元兵士の方から直接戦場の体験を伺うことが出来ました。戦争の悲惨と虚しさが私の心と体にじわじわ迫って打ちのめされました。父はなぜ私という幼い娘を残して・・・遥か南方で飢餓の中死ななければいけなかったのか。父の無念と悲しみにやっと少し寄り添う事が出来たように思いました。・・・11月には遅ればせながら父が戦死したウエワクに慰霊の旅に行くことにしました。元兵士の方が今まで長く心におさめてこられた戦場での重い体験を話してくださった勇気に心から敬意を表します。話された事実はどれも重くきついものでしたが、それまで空虚だった私の心を強く揺さぶり、一歩前に歩みだす力を与えてくださいました。・・・ありがとうございました。
◆会場からのご発言
・湯浅謙
中国帰還者連絡会の湯浅と申します。私は山西省ろあんの陸軍病院で軍医をしておりましたが、3年半に7回に渡って14名の中国人の捕虜・拘束者を生体解剖しなければいけないというはめに陥りました。そのときの心理状態は気持ちが悪いぐらいのことであって、酷いことだ、悪いことだとは考えようもなかったんであります。軍の命令で行いましたが、命令に逃れるつもりはありません。私自身は戦争に勝つためには軍医の救急手術を行う技術を高めなければならない、そうして日本軍の兵士の負傷を救ってまた前線に返さなければならない、そうしなければ日本は戦争に勝てないんだ、こういう一念に凝り固まって私のしていることを悪と考える余裕はなかったのです。麻酔はしましたけれども盲腸の手術、腸管の手術、気管切開、腕の切断を行いましたが、看護婦にさせる、衛生兵に手伝わす、そういうこともあえてしたのです。これは北支全体の陸軍病院で行っていたので、全体で2~3千人の衛生部員が経験しています。しかし誰も話すことはありません。私は捕虜収容所でこのことを反省する機会を与えられたので、このお話をするようになったのです。
・岡野工治
集会の最終バッターとして指名されたことを光栄に存じます。私は18歳で陸軍航空兵として満州に渡りました。私の二ヶ月先輩は沖縄へ、当時の飛行機はぼろでヨチヨチで、普通100キロ爆弾を積むのが50キロ爆弾で、先輩は死にました。満州で終戦を迎えましたから、我々60万の仲間がスターリンと瀬島さんの話し合いか、捕虜となりました。この捕虜に国家補償を国は1銭も払っていません。こういう運動を今日は国会で会議を開き、そこからここに駆けつけました。私ども60万、家族を入れれば200万、当時食料増産で満州に行き、耕しただけ農地をくれるという事で行った開拓団20万、家族を入れた30万、この人たちが日本の国に捨てられたのです。100万の捨てられた民です。小泉さん、安倍さん、次に誰が選ばれるか知りませんが、今この国は戦争へ戦争へ、アメリカの行う戦争に加勢・賛成する風潮を、われわれ戦争体験者が絶対に起こさないように孫子に引き継ごうではありませんか。そして権力、政府、軍隊は言葉では国民の生命・財産を守る、これが嘘偽りであることを今皆様に申し上げたい。私は107歳まで生きる、共に力をあわせて頑張って参りましょう。
◆会長挨拶
◆閉会の言葉
19年17歳で陸軍特別幹部候補生を志願。航空兵科で教育、3ヵ月後満州へ移動、ソ連軍の侵攻により戦闘に参加することなく武装解除を受けシベリア抑留を経験しました。伐採作業に従事していました。人間の限界を超えた重労働の中で栄養失調と闘い、後半には日本人アクチーブ達の迫害にあいながら自分に正直に一生懸命働きました。復員後戦後今日まで、シベリア抑留されていたときと同様自分に正直に一生懸命生きてきました。地位も名誉も財産にも縁はありませんでしたが、恥ずべき人生ではなかったと自負しています。現在も17歳で志願した時と同じ国を愛する心、心意気に変わりは無いことを結びの言葉と致します。
・白崎勇次郎
通信兵だった私が天皇の敗北宣言を聞いたのは日本領土の最北端占守島でした。目の前にソ連領のカムチャッカ半島が肉眼で見えるところです。敗戦の3日後18日明け方、占守島を占領しようとしたソ連軍と戦いました。通信兵の私は「ヨーロッパ戦線で名をはせたソ連軍の重戦車を先頭に敵の大部隊が飛行場を目指して進撃中」との情報を受け、いよいよ最後の敵が来たと腹を固めました。「これより歩兵部隊に合流、最後の突撃を敢行せんとす。」との電信を本隊に送り、飛行場に張り巡らされた蛸壺に身を隠し、火炎瓶をしっかり握ってソ連軍戦車への肉薄攻撃の時を今か今かと待ち受けました。ソ連軍戦車が飛行場突入寸前で停戦命令が出たので命拾いすることが出来ました。危機一髪で命拾いした兵士として次のことだけは言い残したいとい思っています。敗戦後戦死した多くの戦友への鎮魂の叫びであり、また第二次世界大戦の歴史を正しく後世に伝えるため兵士達の心からの願いであります。
・神保忠次郎
本日は海軍の先輩方も大勢おいでのことと思います。私は、昭和18年5月、横須賀海兵団で3ヶ月の新兵訓練を終了、巡洋艦高雄に配属となり最前線トラック島基地に上陸しました。まずびっくりしましたのが、戦艦大和、武蔵、長門をはじめ、空母、巡洋艦、駆逐艦等100隻余りの大連合艦隊。全く心強く感じ、頑張ろうと心に誓いました。私の戦争体験は、ラボールの米軍艦載機100機以上による大空襲、対空戦闘でした。その次は”あ号作戦”、”捷号作戦”、転戦地は南太平洋全域でした。そのおかげでトラック、パラオ、フィリピン、ラボール、ボルネオ、シンガポール、マレー諸島等、今考えれば無料で避寒旅行に行ったと思っております。友達というか戦友、また、上官であった人々が、私の財産と思っております。
・梶泰治
17年1月10日、赤坂の東部部隊に入りまして、翌二月北支の春部隊に到着した。そこで実践即応の初年兵教育を受けた。春部隊は北は万里の長城、南は黄河の果てまで最前線の河北省全域を転戦し、八路軍とゲリラ戦を展開したが、点と線の守りだった。万里の長城方面へ1500キロ大移動した後状況は一変、敵勢力は増強され、精鋭となり、わが方の損害は激増する。八路軍は一晩に40キロ歩く。対するのに、わが方は兵舎を捨てて野戦軍となり行動せよ、夜行軍をもって目的地へ行けと。交戦の無いときは野営して夜を待ち、敵を求めてまた連日の夜行軍である。この作戦は6ヶ月続いた。
・丹羽正治
従軍期間は5年間でしたが、その後半のニューギニアは最も激しい、ものがありました。補給が途絶え餓えやマラリアに悩まされましたが、必勝の信念に燃えて米軍と戦いました。しかし頼りとするのは精神力が主体で、精神力だけでは物量に極端な差のある相手との近代戦を戦うことさえ不可能であり、多数の戦友の貴重な命が失われました。必勝の信念には何時の時代にも通じる重要なものがあるが、それだけでは唯の掛け声に終わる空しいものがある。
・山下春江
満州に住んでいた私には他国での敗戦には厳しいものがありました。外出すると中国の子供達から外套をはがされ石を投げられる、姉の義兄は青龍刀で殴り殺されました。日本円は使えなくなって食べ物はぶつぶつ交換をしなければなりませんでした。家にある貴金属はたちまち無くなり、困った母は病院へ付き添い婦として働きに出ました。間もなく八路軍が町に来て、次にソ連兵が南下し、また国民党軍が来て内戦が始まるというので、市公署へ行き軍隊へ連れていかないよう許可証を貰って帰る路上で八路軍に捕まり、軍隊へ連れていかれました。船に乗せられ、おう緑江を遡り、そのまま中国内戦の一端を担がされました。中国の全土を北から南まで毎晩50キロメートルの行軍をし、爆弾を落とされたり、機関銃で撃たれたり、食物が前線まで届かず一日ねぎ一本という日もありました。毎日足に30個も豆が出来、爆弾の音に生理も無くなり、凍りついた川をざぶざぶいって割ったり、4年間を同じように過ごしてきました。やっと日本の土が踏めたのは戦後13年が経っていました。私は戦争の無い平和な世の中をいつまでも守りたいと思っております。
・斉藤一好
私は1941年3月海軍兵学校を卒業して少尉候補生となり、連合艦隊旗艦陸奥、同じく連合艦隊旗艦長門乗組となりました。私は指導官であったオジオショウタ少佐より、”日本がアメリカと戦争をしても勝てるわけがない、日米開戦は有り得ない”、こう言われておりましたが、瀬戸内海西部に碇泊中に、パールハーバー(真珠湾)の襲撃で開戦がなされたことを知って大きなショックを受けました。長門は大和にしたがってミッドウェー海戦に参加しましたが、皆さんご存知のように4隻の航空母艦が全滅致しまして、この戦争は敗北致しました。その後、駆逐艦雪風に乗艦してガダルカナル島を中心とする幾多の海戦に参加致しました。第3次ソロモン海戦では、水雷長が重傷を負って退艦したので私が後任となり初めて魚雷戦を経験しました。ガダルカナル撤退後、船団護衛の後、私は潜水学校にもいまして、イ号400潜水艦の水雷長専任将校となりました。1945年8月15日に、赤道直下ウルシーで特攻準備のところ日本政府の終戦を聞いて帰国、大湊へ向かう途中で米駆逐艦に拿捕され1ヶ月間の捕虜生活を終え釈放されて、復員致しました。
・上斗米正雄
戦争は悲惨で地獄であり、その実態はあまりにも複雑で程度も大きく、その全貌を理解することは極めて困難だろうと考えます。私は昭和16年2月、満州関東軍に歩兵として入隊し、昭和19年3月分隊長として中国戦線に派遣されました。そこは待った無しの戦場でした。現役の3年間関東軍で鍛えられたことは、いかに有益で役立ったことか身をもって体験しました。終戦は湖南省で迎え、武装解除の後、道路工事に従事し、昭和21年5月上海から帰還しました。日本は戦後62年間、平和に過ごして参りました。また経済大国として繁栄しています。しかしこれは太平洋戦争の戦場に散った210万人もの尊い犠牲の上に築かれたことを忘れてはならないと思います。私は老い先短い戦争体験者として自衛隊の紛争地域派遣に反対します、テロ特措法の延長に反対します。
・松浦俊郎
私は昭和18年12月陸軍に入って、幹部候補生の試験にうかり前橋予備士官学校に入学しました。同校から同期生398名とともにフィリピンのルソン戦線に運ばれました。マニラについたのは昭和19年11月中旬、二ヵ月もたたないうちに米軍が中部ルソンに上陸してきたのです。私はルソン島の最北端を守る師団に配属になりましたので米軍との本格的な戦闘は他の師団より遅かったのですが、航空機も戦車も失ったわが軍はついには敵陣に切り込むという戦法をとるより他無かったのです。米軍との戦闘は苦戦の連続であったが、それにもまして食料が極めて乏しく飢餓との闘いでありました。七月下旬私は重い大腸炎にかかりました。私の隊には軍医はおらず薬もろくろくありませんでしたので、効くか効かないか分かりませんでしたが竹を取ってきて黒焼きにして、それを飲んでいました。8月中旬アメリカの飛行機が飛んできて戦争は終わったというビラをさかんに撒くんです。はじめは謀略かと疑いましたが、数日後旅団から連絡があり敗戦を知りました。ジャングルから隣の村に降りて武装解除を受けました。フィリピンに送られた日本軍総数63万人のうち50万人弱が戦死をしました。前橋予備士官学校の同期生も八割強が戦死しました。若い日の彼らの面影を目に浮かべます。冥福を祈るのみです。
・中島高男
対馬丸の悲劇を申し上げます。昭和19年対馬丸は疎開船第1号となり8月21日夕方6時半ごろ那覇港を出航、他の僚船2隻と護衛艦2隻と合流し船団を組んで長崎に向け航行して参りました。22日10時12分ごろ汽笛が3発なりました。敵潜水艦が出たという合図です。思わず立ち上がったその瞬間です。大きな爆発が起きました。左舷後方です。ショックで3メートルほど飛ばされました。両足と目の上を負傷しました。2、3秒後また爆発が起きました。更に2,3秒、大爆発が起きました。3発の魚雷が当たって轟沈することが確認されました。一番船倉まで私は飛び出しました。もの凄い光景を見ました。大勢の子供達と荷物が一緒になって爆発部分から海水が流れ込み渦となってもの凄い惨状でした。今でも覚えております。沈没後私は6枚のいかだを繋いで7人の人を救助し、3日間漂流して救助されました。
・石井春吉
満州に少しいた後、いわゆる大東亜縦貫作戦(1号作戦)で、北支から黄河を渡り中支、揚子江をまた渡河して南支、ずっと徒歩で戦い続け広東省までいきました。更に(徒歩で)引き返して中支で終戦となったのですが、同年兵は機関銃と大隊砲で80数名いましたが一緒に帰ってきたのは20数名でした。今でも靖国神社に毎年集まっていますが、我々は決して亡くなった仲間が神様になったとは思っていません。神様になる訳ないんです。全然食料は送ってこないし、弾はどんどん送ってくるけど、食料はどうするかというと中国の村に行って取って来る訳ですね。徴発なんですが、これは命令でやられたんですが、それでも飯は足りなくて栄養失調で死ぬ人が大部分でした。靖国神社に行っても、せめてお化けでも幽霊でもよいから会いたい・・・、戦友に会いたいと思っています。
・鈴木健一
特殊部隊を編成すると言うので希望、落下傘部隊に入りました。親も当時館山に来ていて『本日は落下傘も開かないのもだいぶあったし、半開きのものも落ちたけど、どうなんだ』と聞かれ『あれは全部人形だよ、本当の人間じゃないよ』と話しておきましたが実際訓練中から事故は起きていました。ミンダナオのダバオを基地として輸送機28機で第1回目のメナド奇襲攻撃が始まりました。隠密な攻撃のため途中で味方から1機は撃墜され戦死しました。私は第2回目の攻撃に参加、ラング湾飛行場を制圧しました。戦争ほど悲惨なものはありません。私は90歳を過ぎましたが戦争ほど悲惨なものは無いと今後その体験を語っていきたいと思います。
・谷口末廣
昭和17年から軍役に服し、その間あらゆる軍隊の醜さ、人道外れたやり方に悲憤慷慨しながらも、天皇陛下の命という事で従ってきたのです。しかし、最後はフィリピンのミンダナオに派遣されました。飛行場警備に当たりましたが、敵機のみ、遊軍機は1機もきません。ついに山岳地に入り、玉砕を覚悟で戦えということでしたが、既に戦うに弾無し、生きるに食無し、どうして戦えるのかという苦しい思いを秘めながら頑張ったのですが、もはや食料がない以上は大隊としての機能を果たすことが出来ないのです。そこで4,5人ずつに分散し、ジャングルの中に敗走しました。その苦しさは言葉に出来ませんが、つづめると「憲法9条を守れ」と87歳の老骨に鞭打って一生懸命に頑張っております。力を貸してください。
・稲村繁
1万人の兵隊には1万の戦争があります。今でも忘れないのは軍隊に入る前の晩、父親に言われました。『お前と会えるのは今日が最後だろう。よっぽどの奇跡が無ければお前とは二度と会えないだろう』それが3万2千日近く生きてここに立って皆様にお話している訳です。満州に転属になり、終戦は新京で知りました。『戦争には負けたが生きている』と若い部下と手を取り合って喜んだものです。それが連れて行かれたのはモンゴルの山の中でした。ここは六月に雪が降って、8月に雪が降るところです。零下30度の極寒の地でした。皆さんには想像できるでしょうか。夕べ一緒に寝た兵隊が、朝起きてこない、皆死んでいたんです。戦争とは、国は勝つためには何でもやる、そういうことを心していただきたいと思います。
・松浦喜一
私は特攻隊、爆弾を飛行機に積んで行う特攻ですが、の最後の生き残りではないかと思うのですが、沖縄の闘いは6月23日に終わりました。私が出撃の命令を受けたのは6月19日です。三機で飛びました。もの凄い悪天候で、沖縄の側まで行ったときに超低空で飛んでいた我々3機の中の1機が海に落ちて亡くなりました。そこで私ともう1機は引き返し、今日まで生きながらえたという事になるのです。私は戦争が終わって民間人になったとき、大勢の人からあちらこちらで尋ねられたのは『特攻は志願だったのか命令だったのか』『本当に死ぬ気で飛んでいったのか。』私の答えは分かりませんというだけでした。当時私は22歳、そういう時に生き残って仕舞った私が、死んでしまった特攻隊員の精神状態を『あの人は悠久の大意に生きたんだ』と説明する資格は無いと思うのです。そういうことを言えば僭越という事になります。ですから分かりませんという言葉を通してきました。しかし今日私は84歳になりました。もう分かりませんという言葉は出せないんです。私は戦争と死というものを一生懸命考えました。そして戦争というものがいかに国民を不幸にするものか、国民の平和な生活をいかにめちゃくちゃにするものかを訴えたいと思うのです。戦争で死んだ人は南方では殆どが飢え死になんですよ。内地では空襲や原爆で死んだ。それが天皇陛下のためとか、大日本帝国のために喜んで死んでいったということは絶対にありません。戦争は絶対に悪であるということをこれからもお考えになって頂きたいと思います。
・佐藤孝則
私は民間人です。しかし戦場は兵隊も民間人もないんです。命を落とすことにかわりはありません。私は福島で生まれ、3歳でテニアン島に移住しました。南北20キロ、東西10キロの小島です。体には砲弾、手榴弾、カービン銃、手榴弾とカービン銃はアメリカの兵隊に直接撃たれました。19年6月11日米軍が島のまわりにびっしり、機動隊の多さにびっくりしました。砲撃が一段と激しくなり、日本の応戦も激しかったですが一日で終わりました。一番恐怖だったのは5キロ先のサイパンから打ち込まれる巨大な砲弾でした。本当に恐怖でした。7月24日島の南端に追い詰められ、兵はここが最後だと集結、銃を空に向け撃っている兵隊、洞窟に入る兵隊、本国に帰ったら頼むとお金などを持ってくる兵隊がいましたが、私どももここが最後と思っていましたので、爆薬に火をつけようとしたときに親父が「死に急ぐ事は無い」と自決をやめました。
・波田ひろこ
私の父は私が2歳の時にニューギニアで戦死しました。家族のもとに届けられたのは白木の箱だけでした。私には父の記憶が全くありません。それは私の心に埋めがたい空洞を残しました。6歳の時に母が再婚し、妹と弟が生まれましたが、そこで戦死した父のことが話される事はありませんでした。義理の父が亡くなった後自分で父の軍歴を調べたり、ニューギニア戦の本を読んだりしましたが、心の空洞を埋めることは出来ませんでした。昨年戦場体験放映保存の会に参加して以来ニューギニア戦から生還された元兵士の方から直接戦場の体験を伺うことが出来ました。戦争の悲惨と虚しさが私の心と体にじわじわ迫って打ちのめされました。父はなぜ私という幼い娘を残して・・・遥か南方で飢餓の中死ななければいけなかったのか。父の無念と悲しみにやっと少し寄り添う事が出来たように思いました。・・・11月には遅ればせながら父が戦死したウエワクに慰霊の旅に行くことにしました。元兵士の方が今まで長く心におさめてこられた戦場での重い体験を話してくださった勇気に心から敬意を表します。話された事実はどれも重くきついものでしたが、それまで空虚だった私の心を強く揺さぶり、一歩前に歩みだす力を与えてくださいました。・・・ありがとうございました。
◆会場からのご発言
・湯浅謙
中国帰還者連絡会の湯浅と申します。私は山西省ろあんの陸軍病院で軍医をしておりましたが、3年半に7回に渡って14名の中国人の捕虜・拘束者を生体解剖しなければいけないというはめに陥りました。そのときの心理状態は気持ちが悪いぐらいのことであって、酷いことだ、悪いことだとは考えようもなかったんであります。軍の命令で行いましたが、命令に逃れるつもりはありません。私自身は戦争に勝つためには軍医の救急手術を行う技術を高めなければならない、そうして日本軍の兵士の負傷を救ってまた前線に返さなければならない、そうしなければ日本は戦争に勝てないんだ、こういう一念に凝り固まって私のしていることを悪と考える余裕はなかったのです。麻酔はしましたけれども盲腸の手術、腸管の手術、気管切開、腕の切断を行いましたが、看護婦にさせる、衛生兵に手伝わす、そういうこともあえてしたのです。これは北支全体の陸軍病院で行っていたので、全体で2~3千人の衛生部員が経験しています。しかし誰も話すことはありません。私は捕虜収容所でこのことを反省する機会を与えられたので、このお話をするようになったのです。
・岡野工治
集会の最終バッターとして指名されたことを光栄に存じます。私は18歳で陸軍航空兵として満州に渡りました。私の二ヶ月先輩は沖縄へ、当時の飛行機はぼろでヨチヨチで、普通100キロ爆弾を積むのが50キロ爆弾で、先輩は死にました。満州で終戦を迎えましたから、我々60万の仲間がスターリンと瀬島さんの話し合いか、捕虜となりました。この捕虜に国家補償を国は1銭も払っていません。こういう運動を今日は国会で会議を開き、そこからここに駆けつけました。私ども60万、家族を入れれば200万、当時食料増産で満州に行き、耕しただけ農地をくれるという事で行った開拓団20万、家族を入れた30万、この人たちが日本の国に捨てられたのです。100万の捨てられた民です。小泉さん、安倍さん、次に誰が選ばれるか知りませんが、今この国は戦争へ戦争へ、アメリカの行う戦争に加勢・賛成する風潮を、われわれ戦争体験者が絶対に起こさないように孫子に引き継ごうではありませんか。そして権力、政府、軍隊は言葉では国民の生命・財産を守る、これが嘘偽りであることを今皆様に申し上げたい。私は107歳まで生きる、共に力をあわせて頑張って参りましょう。
◆会長挨拶
◆閉会の言葉