戦場体験放映保存の会ブログは下記に移転しました。
http://keepast.seesaa.net/
今後ともよろしくお願い致します。
「私は、戦艦武蔵の生き残り。二回死んだ記憶です。」
「フィリピンのジャングル。死体と会うとほっとした。」
「玉砕のサイパン、突撃命令の私だけがなぜ帰った。」
「中国黄河。日本兵の遺体で埋まった。岸には腕一本。」
「固くて掘れないシベリアの凍土。次は自分の埋葬なのか。」
「大和、真っ二つ。大渦巻き。その日を語りたい。」
「硫黄島。斬り込み隊と言われ壕から追い出されたのだ。」
「治療をしない野戦病院。並べる順番は死の順番。」
「一六歳で志願兵。ソ満国境で置き去り。九死の毎日。」
「初年兵教育は中国村民の刺殺。怖くて。むごくて。」
「ニューギニア、餓死で四○人の部隊が二人に。靴を食う。」
「あと二ヶ月で敗戦なのに仲間が自殺。上官、許せぬ。」
「無言で死んだみんなの無念。語らずに死ねない。」
全国の老兵士62年ぶり一堂へ!
あの戦場体験を語り継ぐ集い
東京日比谷公会
2007年9月21日(金)午後13時
発案: 戦場体験元兵士の会
主催: 9.21に集う500人実行委員会
共催: 公益社団法人マスコミ世論研究所・戦場体験放映保存の会
協賛: ※順次拡大中。近日中に社名・団体名を掲載させて頂きます。
後援: ※広報活動のご協力を頂ける個人・団体の方を探しています。
◆◆◆◆
本日、この場をお借りしまして、私ども「9.21に集う500人実行委員会」より皆様に、謹んで以下の通りご案内を差し上げます。なにとぞ趣旨をご理解いただき、皆様のご協力を賜りたくお願い申し上げます。
▽ 協賛・後援としてご協力頂ける企業・団体・個人への働きかけを進めております。お心当たりの関係先をご紹介頂きたく、皆様にはなにとぞよろしくお願い申し上げます。
▽ 9.21に集う500人実行委員会(略称:500人委員会)
元兵士の会は、国民的規模での広範な戦場体験の保存と後世への継承を訴えてきました。それにはもう時間がありません。元兵士の方々は皆さん80歳以上、この痛切な体験はまもなく消えてしまうのです。
私たちはこの「集い」への参加を身の回りの知人・友人らに呼びかけようと、実行委員会を立ち上げました。500人を目指し、今122人です。実行委員たちで“日比谷で会おう”と知人・友人らにパンレット・チラシを配布しています。ぜひ皆様のお力をお貸しください。皆様の周りの方にも、ぜひこのパンフレット・チラシの配布を呼びかけて頂きたいのです。
<500人委員会の活動>
・ この集会への賛同。
・ ひとりがひとりを誘う。
・ この運営のため千円を寄付する。
▽ 500人委員会への参加表明
FAX・郵便・Eメールにて「お名前・ご住所(パンフレットお届け先)・ご連絡先」を下記共催団体の事務局までお教えください。
※現在、パンフレットと一体型の「参加表明フォーム」を作成中です。
〒150-0047
東京都渋谷区神山町17ー1渡辺ビル3階
戦場体験放映保存の会 事務局
TEL: 03-3465-6066(火・木・土・日・祝日。他は留守電応答の場合があります。)
FAX: 03-3465-1671(確実な記録のためできればFAXでお願いします。)
メール: senjyou@notnet.jp
配布用のパンフレット・チラシをどこにでも何部でもご送付します。
現在、チラシデータについては下記からダウンロード可能です。(PDFデータ)
取材日時:2007年4月30日(月)
◆証言を見る方はこちら◆
このお花の写真は、お話しを聞かせて頂いた橋本さんからの頂き物です。(撮った写真をメールで送って下さるって・・・凄い!)
30日は少年飛行兵11期生が4名揃っての合同収録会。16~20期の皆様もご一緒して下さり、当会のスタッフ併せて21名の大がかりな収録となりました。
橋本さんは、
▲1940年(昭和15年)10月、16歳で少年飛行兵に志願。既にお兄様が海軍で殉職しておられたので、陸軍を選んだと・・。卒業式で「海ゆかば」が流れ、「一年後には、自分は死んでいるんだろうな」と何となく寂しくなったそうです。
▲1943年(昭和18年)4月、台湾の第102教育飛行連隊に配属され実戦機での訓練。この部隊はその後フィリピンへ進出、橋本さんは後輩の助教を担当しながら、自らも訓練を受けます。
この頃、内地への空輸任務中、エンジン潤滑油が無くなり石垣島に不時着して機体の足を折る。二ヶ月後には今度は右エンジンから火が出て水田に不時着するなどの事故を経験しておられます。
▲1944年(昭和19年)9月 訓練生6名と同期の機上機関士を乗せて、訓練を兼ねながら船団(高雄→マニラ)援護に出かけました。船団のマストをかすめるような編隊飛行を繰り返し歓声を受けながら4~5時間飛んだ後、帰路に向かったとき両エンジンが停止。
動画はその時のお話しです。
フィリピン人の船がすぐそばを通り海に漂う橋本さん達を見たが、そのまま通り過ぎたそうで、当時対日感情はそれほど悪化していました。米軍に通報される事を恐れそのフィリピン人を撃とうと思いましたが、拳銃が海中に落ちて出来なかったそうで、今になれば拳銃が無くて良かったと思っておられると。
▲その後、教育部隊であったので、戦場を避けカンボジア、マレーと次々に移動。
▲1945年(昭和20年)3月 内地に飛行機受領命令で帰国。受領先の飛行場部隊が総員見送ってくれる様子を見て、自分がもう日本には帰ってこないと思われている事を感じました。この時実家に日誌と貯金通帳と爪を置きに行かれています。
▲1945年(昭和20年)8月
プロペラを外し武装解除。無人島のレンパン島に収容されましたが、食べ物の補給は何もなく、亡くなる方も。後に復員した際タンポポを見て、日本は食糧がないと言うがタンポポが咲いているぐらいだから大丈夫だ、生きられると思ったそうです。一転、12月8日以降米軍のレイションが配布されるようになり、その豪華さに米軍の力を知りました。
▲1946年(昭和21年)5月31日 復員
「手柄は自分のもの、死ぬ時は一人の戦闘機より、皆で一緒に死ねる爆撃機が良いと思い爆撃機の操縦を希望された」と話された事が印象的でした。その橋本さんが無事戻られて、お庭にオダマキの花を咲かせている今を何よりと感じています。(田所@保存会)
証 言: 松浦俊郎さん 1922(大正11)年生まれ、杉並区
取材日時: 2007年2月21日(水)
見て下さい、この飴色の手記!! びっしり書かれた豆粒大の文字!!!
これが三冊もあって、三冊を包むケース(米軍の米袋製)もついてますっ!
これは松浦さんがフィリピンの収容所で書かれたもので、紙は配給のタバコと交換で集めた陸軍の便箋、米粒をのりにしてページを付けています。右の方が糸で綴じているみたいに見えるけど、これって糸の絵を描いてあるだけ(笑)
凄いですよ~、実物を見ると本当に凄いから。
これを書いた松浦さんは
▲1943(昭和18)年12月1日 学徒召集
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兵種:歩兵 最終階級:少尉
▲1944(昭和19)年5月 甲種幹部候補生として前橋陸軍予備士官学校入学(第11期生)
甲種幹部候補生は当時中卒以上の人が試験に通れば教育後すぐに少尉デビュー出来るという制度。けれども松浦さん達11期生は、もう余裕がなく、卒業しないまま現地へ・・・。 おまけに行った先のフィリピンは既に米軍の上陸が始まっていて、すぐにルソン島北部へ移動命令。戦場になるぎりぎり前を駆け抜ける厳しい行軍で(しかも夜)、教育隊なのに、この移動ですでにマラリアや自殺による死者が沢山出ているのです。
▲1945(昭和20)年2月 103師団独立歩兵第180大隊に赴任
さあ晴れて見習い士官任官と思いきや、え~っ、1人で行くの?
だって180大隊も米軍の攻撃に備えジャングルの中を移動してんだよ。どうやってそんなものと合流するのよ(と私だったら思います)
おまけに身を守るのは軍刀だけ(役にたつのか?)、銃は教育隊に返してるんだよ。米6合って後はどうするのよ。心細いって言うかあり得ない!(あくまで私の意見です)
松浦さんも「後で死ぬのは仕方ないけど、ここで誰にも分からないまま1人で死ぬのはイヤだ」と思われたとか。結局2ヶ月かけて到着。
▲同年 6月 バガオに転進 (言葉遣いに突っ込まないでね)
ここで松浦さんは米軍への斬り込み隊の命令を受けた。当時米軍はすでに斬り込み隊に備え、陣地の周囲にマイクロフォン網を張り巡らしており、最初の頃の様な成果はあがらず、むざむざ死地に飛び込むようなものだったが、命令なら仕方がない。この時は斥候将校が案内する宿営地の場所を間違えたため、松浦さんは命拾いをされた。
7月には大腸炎を煩う。
動画はその時のお話しです
▲同年9月半ば 敗戦を知る マニラ南方のカンルーハン収容所に
▲同年12月24日 復員
最後に、前橋陸軍予備士官学校・11期生は、ルソン島到着398名、生還74名と大変悲惨な経過を辿っている。
余談) 松浦さんの奥様はプロフェッショナルと言って良いほどのおもてなし上手な方で驚きました。おぜんざいとぬか漬け(しかも銘々お盆に入っている ここは料亭か!)、とてもおいしゅうございました。写真は頂いたクロスステッチの手作りのしおり。何時も沢山用意していて、いらした方のイニシャルに合わせてお渡ししておられるとか、取材班一同頂いてしまいました。
今回同行の○井先生、決していつもこんな豪奢な思いをしている訳ではありませんから・・・念のため。(報告:田所)