kebaneco日記

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大聖堂の十字架

2011年12月20日 | 折々の話題
うちから見えるカトリックの関口教会聖マリア大聖堂、夕方ベランダに出たら闇の中に鐘塔の十字架がライトアップされて白く浮かび上がっていた。ここに越してきて5度目のクリスマス、ライトアップに初めて気がづいた。いままでライトアップされていたのかしらん?あまりにいろんなことが起こりすぎた今年、イエスさまの誕生日を契機に振り返ってはいかがかと、十字架に語りかけられた気がして、寒さも忘れてしばし見つめてしまった。

ところで、日本のカトリック司教団は2011年11月8日に日本に住むすべての人に向けて、以下のようなメッセージを発している。「人間の限界をわきまえた英知」という言葉が、胸に深く突き刺さる。

日本カトリック司教団
「いますぐ原発の廃止を~福島第1原発事故という悲劇的な災害を前にして~」

日本に住むすべての皆様へ

 東日本大震災によって引き起こされた福島第1原発の事故により、海や大地が放射能に汚染され、多くの人々の生活が奪われてしまいました。現在でも、福島第1原発近隣の地域から10万人近くの住民が避難し、多くの人々が不安におびえた生活を余儀なくされています。

 原子力発電の是非について、わたしたち日本カトリック司教団は『いのちへのまなざし―21世紀への司教団メッセージ―』のなかで次のように述べました。

「(核エネルギーの開発は)人類にこれまでにないエネルギーを提供することになりましたが、一瞬のうちに多くの人々のいのちを奪った広島や長崎に投下された原子爆弾やチェルノブイリの事故、さらに多くの人々のいのちを危険にさらし生活を著しく脅かした東海村の臨界事故にみられるように、後世の人々にも重い被害を与えてしまうことになるのです。その有効利用については、人間の限界をわきまえた英知と、細心の上に細心の注意を重ねる努力が必要でしょう。しかし、悲劇的な結果を招かないために、安全な代替エネルギーを開発していくよう希望します。」 (1)

 このメッセージにある「悲劇的な結果」はまさに福島第1原発事故によってもたらされてしまいました。この原発事故で「安全神話」はもろくも崩れ去りました。この「安全神話」は科学技術を過信し、「人間の限界をわきまえる英知」を持たなかったゆえに作りだされたものでした。

 わたしたちカトリック司教団は『いのちへのまなざし』で、いますぐに原発を廃止することまでは呼びかけることができませんでした。しかし福島第1原発事故という悲劇的な災害を前にして、そのことを反省し、日本にあるすべての原発をいますぐに廃止することを呼びかけたいと思います。

 いますぐに原発を廃止することに対して、エネルギー不足を心配する声があります。また、CO2削減の課題などもあります。しかし、なによりまず、わたしたち人間には神の被造物であるすべてのいのち、自然を守り、子孫により安全で安心できる環境をわたす責任があります。利益や効率を優先する経済至上主義ではなく、尊いいのち、美しい自然を守るために原発の廃止をいますぐ決断しなければなりません。
 
 新たな地震や津波による災害が予測されるなか、日本国内に54基あるすべての原発が今回のような甚大な事故を起こす危険をはらんでいます。自然災害に伴う人災を出来る限り最小限にくい止めるためには原発の廃止は必至です。

 原発はこれまで「平和利用」の名のもとにエネルギーを社会に供給してきましたが、その一方でプルトニウムをはじめとする放射性廃棄物を多量に排出してきました。わたしたちはこれらの危険な廃棄物の保管責任を後の世代に半永久的に負わせることになります。これは倫理的な問題として考えなければなりません。

 これまで、国策によって原発が推し進められてきました。その結果、自然エネルギーの開発、普及が遅れてしまいました。CO2削減のためにも、自然エネルギーの開発と推進を最優先する国策に変えていくようにわたしたちは訴えます。また、原発は廃炉にするまで長い年月と多くの労働が必要になります。廃炉と放射性廃棄物の処理には細心には細心の注意を払っていかなければならないでしょう。

 確かに、現代の生活には電気エネルギーを欠かすことはできません。しかし大切なことは、電気エネルギーに過度に依存した生活を改め、わたしたちの生活全般の在り方を転換していくことなのです。

 日本には自然と共生してきた文化と知恵と伝統があり、神道や仏教などの諸宗教にもその精神があります。キリスト教にも清貧という精神があります。そして、わたしたちキリスト者には、何よりも神から求められる生き方、つまり「単純質素な生活、祈りの精神、すべての人々に対する愛、とくに小さく貧しい人々への愛、従順、謙遜、離脱、自己犠牲」(2) などによって、福音の真正なあかしを立てる務めがあります。わたしたちは、たとえば節電に努める場合も、この福音的精神に基づく単純質素な生活様式を選び直すべきです。(3) またその精神を基にした科学技術の発展、進歩を望みます。それが原発のない安心で安全な生活につながるでしょう。

2011年11月8日 仙台にて
日本カトリック司教団

(1) 『いのちへのまなざし―21世紀への司教団メッセージ―』(中央協議会・2001年)p.104~p.105
このほかに原発の是非に関する日本のカトリック教会のメッセージには『ジェー・シー・オー(JCO)ウラン臨界事故に関する要望書』(1999年)があります。
(2)教皇パウロ6世『福音宣教』(1975年)76「生活の真正なあかし」(中央協議会 ペトロ文庫)
(3)教皇庁正義と平和評議会『教会の社会教説綱要』(2004年)486「d.新しい生活様式」(中央協議会)参照


宣言とともにコメントも発表されている。私が日ごろ漠として感じていることや、まさに人間として倫理が問われているのだと感じることを、この文章が静かな言葉で表している気がする。

1. なぜ、カトリック教会が原発に関するメッセージを出すのか?
 原発については、国民一人ひとり、また、様々な立場からその是非について議論されています。採算がとれるかどうかといった経済的な立場、子どもたちの健康や市民生活の安全を守る立場、国際競争力を保持しようとする立場など・・・。

 しかし、カトリック教会は原発の是非に関する問題は倫理的な問題、人間の命の問題でもあると考えます。また、私たちはすべての人と連帯して、神の被造物である自然や環境、すべての生命を保護していく責任を持っています。以上の二つの立場から、宗教者として原発の是非について発言する責任を果たしたいと考えています。

2. 「司教団メッセージ」について
 日本には北海道から沖縄まで16教区があります。各教区にローマ教皇によって任命された大司教、司教、補佐司教が各教区の信徒、諸施設に対する責任を持っています。現在日本の司教は17名。(引退司教は除く)
 折々の問題について、これらすべての司教の合意を得たメッセージが司教団メッセージとして発表されます。今回のメッセージは11月8日に仙台で行われた特別臨時司教総会において、全員の司教の合意を得て司教団として発表するに至りました。また、日本のカトリック信徒だけではなく、日本に住むすべての人々に向けた呼びかけとしました。

3. なぜ、今、原発についてのメッセージを発表するのか?
 (1) 原発事故以来、脱原発か原発存続なのか議論され始めましたが、政府はその国民的な議論を待たずに、なし崩し的に原発存続の方向に進み始めています。再稼働への道を歩み始め、原発技術の輸出交渉なども再開されています。このような時こそ、国民的な議論によって、原発の是非について考えるべきです。そのために、このメッセージを発表することになりました。
 (2) カトリック教会の司教団メッセージ『いのちへのまなざし』(2001年)では、脱原発の方向を示しましたが、その存続を容認する立場でした。福島第一原発事故を目の当たりにして、司教団は原発に対するより踏み込んだ明確な姿勢を打ち出すことにしました。

4. いますぐに原発を廃止することができるのか?
 2011年の夏、関東、東北では原子力発電が止まり、電力不足が予測されましたが、市民、企業、自治体などの節電努力によって、それを乗り越えることができました。いますぐに原発を止めても、節電によって、電力供給不足は乗り越えられることを証明したと言えます。国際競争力などの点でハンディを負うことになるかもしれませんが、自然エネルギーの開発を推進することで新たな国際競争力を育てるようにするべきです。日本の技術力と国民の節電などによるライフスタイルの転換に期待したいと思います。原発事故の被災地である東日本だけではなく、日本全体として脱原発、脱電気エネルギー依存への生活転換が求められます。

5. メッセージの中の言葉の説明
1頁
 「人間の限界をわきまえる英知」:人間の知識・技術・努力などには限界があり、その限界を知ることが真の英知(真の知恵)です。科学技術の分野においてもこの英知を謙虚に受け入れる必要があります。人間の知識や技術力をもってしても原発は制御できないことが起こりうることは、今回の事故でも明らかになりました。
2頁
 「平和利用の名のもとに」: 広島、長崎における原子爆弾の恐るべき体験から、日本人は核兵器廃絶を悲願としています。しかし、「平和利用」という名のもとに、原発という核エネルギー利用に方向を転換しました。この原発の技術は核兵器開発に容易に利用されることも指摘されています。私たちはこの点からも原発の廃止を考えるべきです。
 「清貧」:物や金(欲望)に執着することのない生き方。物や金は不要と考えるのではなく、全ての神の被造物(水、自然・・・)の価値を正しく認め、それを大切に使い、ほかの国や人々と公平に分かち合う生き方。
 「従順」:神の望みに従うことを意味します。
 「離脱」:物や金や人に関わる利己主義から抜け出し、“所有する(to have)”満足から、“存在する(to be)”喜びへ移行することを意味します。
 「自己犠牲」:個人が欲望のままに生きるのではなく、他者・神への愛をもって自らの生活を他者・神のために捧げて生きることを指しています。個人の倫理に留まらず、地球市民として限られた資源や生産物を全ての人と等しく共有し公平に分かち合って生活すること(連帯の精神)の意味も含まれます。

6. 今回のメッセージでは「脱原発依存」だけではなく、「脱電気エネルギー依存」の生活転換を訴えるものです。それが、脱原発だけではなく地球温暖化への対策も含めた地球環境、人間の命を大切にすることになります。

2011年11月10日 仙台において


私たちは、あの事故から学ばねばならなかったことや学べたかもしれないことを、なにも目に見える形にできていないことを絶対に忘れてはならない。現在福島で頑張っている作業員の努力は素晴らしいと思いつつも、そんなことしなくていいような運用ができなかった、人間の知恵の限界をすっかり忘れた驕りがなかったか自らに問うているようには見えない、誰も何の罪に問われていない警察の捜査すら入っていない東京電力という存在に、測り知れない恐怖を感じる。今年が終わり新しい年が始まるというだけで、この重たい宿題を済ませないでよいような気になってはならないのだと思う。

このメッセージが、もっと広く多くの人々の心に触れ、少しでも具体的な動きとなっていくことを願ってやまない。

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