牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

4月3日(水) 「栄えに満ちた喜び②」 D・M・ロイドジョンズ著

2013-04-03 07:25:21 | 日記

 本からの引用。「聖霊のバプテスマとリバイバルの違いは、単にその影響を受けた人数の違いである。リバイバルとは、大勢の集団が同時に聖霊のバプテスマを受けること、または、共に集まっている多くの群れに聖霊が下ること、と定義したい。それは礼拝や教会でも、ある地域でも、国のレベルでも起こり得る。教会の歴史におけるリバイバルの歴史ほど魅力的なものはない。それについて読めば、それらが聖霊のバプテスマを如実に表していることが分かるだろう。どのリバイバルも、ある意味において、ペンテコステの繰り返しであることは自明である。ペンテコステはその最初であった。」

 続いて本からの引用。「聖霊のバプテスマはいつも明白で、間違えようのないものであり、それを受けた当の本人と、その人を見ていた人々にも、それが起こったことがよく認識できるものである。これは明らかに極めて不可欠な重要原則である。、、、、まさに聖霊のバプテスマの本質は、意識的、体験的、明瞭なものである。それは受け手である当の本人だけでなく、その人を見ている側にとっても明らかである。、、、、聖書は、聖霊のバプテスマが本質的に体験的なものであり、時には神秘的とも言える体験を含むものであることを疑いもなく明白にしている、と私は考える。、、、、誤解しないでいただきたい。私は人目を引く、見せ物的なものを強調することには関心がない。しかし、こうも言わなければならない。それは新約聖書でもかなり目立ち、リバイバルでもいつも非常に目立つ要素である。」

 いくつか過去の例が紹介されているが、そのうちの一つを紹介する。本からの引用。「 1739年1月1日のジョン・ウェスレーの冊子(日記)を読もう。ホール氏、ヒンチィング氏、インガム氏、ホィットフィールド氏、ハッチング氏と、私の弟のチャールズは、フェッターレーンでの愛餐会に、60名ほどの同胞と共に出席していた。朝の3時頃、私たちが祈り続けていた時、神の御力が私たちの上に力強く臨んだ。その結果、多くの人は歓喜に泣き出し、多くの人は床に倒れた。やがて神の臨在の畏敬と驚愕から少し立ち直ると、私たちは声を一つにして叫んだ。「ああ、私たちは神なるあなたをたたえます。私たちはあなたが主であることを認めます。」 

 著者は歴史において起こった聖霊のバプテスマは私たちにも起こることであり、復活された主イエスによって与えられるものであることを説明している。現代の日本の教会に対する私の見解はこうである。ジョン・ウェスレーたちが体験したほどの聖霊の注ぎとリバイバルを体験したクリスチャンと教会はおそらくないだろう。しかし、ジョン・ウェスレーたちほどではないが聖霊の注ぎを体験しているクリスチャンと教会は少ないがある。一方で、聖霊の注ぎがあまりないためか、もしくは自分たちを大きく見せたいためかは分からないが、見せ物的になってしまっているクリスチャンと教会が多いのではないだろうか。更に悪いのはこのような聖霊の注ぎを信じていないクリスチャンと教会が多いことである。私は心の底からジョン・ウェスレーを尊敬している。彼の霊性、品性、知性、働き、どれをとっても教えられることばかりである。ロイドジョンズ師もだからこそリバイバルの歴史を読むことを勧めているのであろう。


 本からの引用。「私は思うのだが、今日の私たちの最大の危険とは御霊を消すことである。現代は抑制を勧めるような時代ではない。今日の教会は抑制される必要はない。教会は立ち上がり、目を覚まし、栄光の霊に包まれる必要がある。なぜなら現代世界では教会が停滞しているからである。、、、、聖霊のバプテスマは第一に性質(道徳的性質、特徴)ではない。御霊の実でもない。聖霊のバプテスマを受けていても、その人に御霊の実が見られないことはあり得る。」

 「聖霊のバプテスマを受けた際の最初の結果とは、御霊の実ではなく、聖霊が私たちになさった直接的な御業の体験によるしるしである。これが「聖霊のバプテスマ」である。それは私たちに起こり、私たちに臨むものである。聖霊の直接的な御業なのである。その時、信徒は恍惚状態になることもあり、自分に起こったことを証しし、現す。他方、御霊の実はプロセスである。これは聖霊が、御言葉や教え、他の事柄や聖徒の交わりなども用いて私たちの内側にもたらされる間接的、定期的な通常の御業の結果である。このようにして、御霊の実は私たちの内に生み出される。突然ではない。これは聖化のゆるやかな過程である。」

 この聖霊の直接的な働きと聖霊の間接的な働きのバランスが本当に大切だと思う。でも著者が書いているように、現代日本においても最大の危険は、直接的な聖霊の働きを拒絶し抑制し、御霊を消していることだろう。日本の教会は上品さを好むということだろうか。内側の変化は好むが外側にあらわれる喜びや涙は混乱と感じるのであろうか。なぜ普段は感情を爆発させている人間が教会では静かに座っているのであろうか。私から言わせれば、それはただ単にプログラムをこなしているだけで、いのちを失っているように感じる。礼拝は難しそうな悲しそうな顔をして捧げる暗いお葬式ではない、キリストが復活されたことをお祝いする明るい祝祭である。でもそれを無理に演出する必要はない。普通にすれば良いのである。