サッカー狂映画監督 中村和彦のブログ

電動車椅子サッカーのドキュメンタリー映画「蹴る」が6年半の撮影期間を経て完成。現在、全国で公開中。

再び『聲の形』~表現と障害

2013年02月25日 | 手話・聴覚障害

少年マガジンに掲載された『聲の形』はその後も話題になっているようで、再度触れてみたいと思います。

『聲の形』は4年ほど前に作者が新人賞を受賞した作品だそうです。先日、読んだ時点では知りませんでした。ということは作者がテーマを考えたわけでしょうが、“いじめ”と“聴覚障害”、どちらが先に頭の中にあったのかと考えると、いじめでしょう。
つまり最初から聴覚障害に関する漫画を書こうとしたわけではなく、いじめの漫画を書こうとしたのだろうなということです。
健常者(という言い方もなんだかなとは思いますが)だけの漫画より、話が作りやすい、インパクトがある、効果的、いろいろとメリットを感じたということだと思います。
漠然と“いじめ”の漫画を書きたいという思いがあって、聴覚障害という題材と出会うことによって一つの作品としてまとまったのかもしれません。


コミュニケーションがうまくとれなかった二人がコミュニケーションができるようになる。
別の言い方で言えば、心を通い合わせる。
そういったものを表現するには、(変な言い方になりますが)、聴覚障害、とりわけ手話はとっても便利です。例えば、手話ができるろう者と手話のできない聴者が何らかの形で出会い言葉が通じず誤解やすれ違いなどのドラマが生まれる。そして聴者が手話を学び、二人が心を通い合わせる。
誰もが思いつきそうな展開です。
往々にして、聴覚障害に関するリアリティは無視されます。

『聲の形』に関しての“聞こえ”のリアリティに関しては、一つ前の記事でも触れているのでここでは細かく触れませんが、かなり矛盾があります。
例えば、彼女はそもそも手話が出来るのか?など疑問点だらけです。
疑問点だらけで、彼女の内面も含めて“謎の女の子”と言っても過言ではありません。
聞こえない、聞こえにくい人が、聴者から見たら謎に見えるということはありますが、そういう意味ではありません。
ある意味、聴覚障害に関して何も知らない人がいだくイメージの、一つの例だと言えるかもしれません。
そういった意味で誤解が誤解を生むという点も否めません。
いじめられている描写に関してはある種のインパクトはあると思います。
しかし実際にはもっと陰湿ないじめがあるでしょう。現代の日本社会では、小学生でも建前では“障害者”をいじめてはいけないということを知っているために、より陰湿になる傾向があるようです。


この漫画は全日本ろうあ連盟が監修しています。
ろうあ連盟としては、聴覚障害者がいじめられている事実を描いていること、そして聴者が手話を学ぶことで希望の光が見えること。
この2点を高く評価し、リアリティの無さに関しては、フィクションだからある程度仕方がないという判断だったのではないかと推測されます。
そして素早く読める漫画という表現媒体であるということもあったのでしょうが、2010年9月6日に開かれている第3回中央教育審議会初等中等教育分科会特別支援教育の在り方に関する特別委員会に、全日本ろうあ連盟側から『聲の形』を添付資料として提出されています。
文部科学省の議事録に出ていました。
発表される以前からそういった形で活用されていたようです。おそらく補足説明もあったのでしょう。
ろうあ連盟が監修していることで、聴覚障害に関する部分はリアリティがあるという誤解は生まれると思います。
もちろんろうあ連盟も承知のうえでしょうから、判断に誤りがあるとは思いません。
文句言われたりするぐらいなら、監修とか後援とか全部やめちまえという流れにはならないほうが良いと思います。


障害を扱った作品の場合、障害に関して何も知らない人は「感動した」「すごい」という感想だけで終わる場合が多く、理解にまで至らないことが多いような気もします。むしろ前述したように誤解が誤解を生むということのほうが多いかもしれません。
そもそも障害を“感動のためのスパイス”にしか使っていない作品もまだまだ多いわけで、そのことが一因です。『聲の形』は、感動のためにスパイスではなく、いじめをより効果的に見せるためのツールとして使っている印象です。いずれの場合も、それだけで終わらなければ、いい作品に昇華する可能性はあると思います。
実際、最近は絵にかいたような感動物語は減ってきていて、作り手側の意識も変わってきています。

また障害を扱った作品を当事者が見たり読んだりする場合、一場面に共感し自分を重ね合わせたりして、なかな客観的に触れることができないということも感じます。聴覚障害者、ろう者の場合は、日本語が苦手な人も多く、聴者にうまく補足説明できないということもあります(もちろんそうではない人もいます)。また手話通訳者の方々も外に向けて発信したがらない人が多いような気がします(もちろんそうではない人もいます)。
そんなこともあり、聴覚障害者にまつわるさまざまなことがベールに包まれている現状はあると思います。
そういった意味で、多少なりとも知識がある人間が発信すべきだと思い、「聲の形」に関して2度書き込みました。

偉そうな物言いになっている箇所もあるかと思いますが、ご容赦ください。


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2 コメント

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作品中の女の子は手話が使える? (たまこ)
2015-02-06 18:40:02
偶然流れ着いたのですが、一つ言わせていただきたく書きます。

手話は聾者の使う日本手話と難聴・中途失聴者の使う日本語対応手話があります。

作品の女の子はバックグラウンドが曖昧なまま作られていますが、周囲に聾者がいないと日本手話は使えません。
日本手話は外国語と言ってもいい代物なのです。

そうなると日本語対応手話のはずですが、手話ユーザーがいないともちろん使えません。

外国語だって使わなかったら忘れますよね?

手話=カッコイイというイメージばかり先行してますが、聴覚障害は中途半端な知識では語れません。

「健常者の手によって誤解が誤解を生んでいる」というのは佐村河内守の件で明らかになりましたね。

ちなみに私は作品の女の子と同じレベルの聴覚障害で同じ学校環境にいましたが、手話は習得してません。

つか「レベル」というより「等級」ですが、「レベル」の方が、ビートたけしや和田アキ子みたいに誤解を生み出す健常者には「解りやすい」んだろうなと思います。

「健常者」についても環境によってはそう呼ぶ聴覚障害者もいますので気にしなくていいです。
私は学校や社会で聴覚以外の身体や知的の障害を持つ人と関わることが多かったので彼らと話を合わせるために統一しているだけです。
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書き込みありがとうございます (なかむら)
2015-03-05 04:47:53
随分時間がたってしまいましたが、書き込みありがとうございます。是非手話を習得してください。私の手話はなかなか上達しないのですが、続けていくつもりです。
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