山風景とデジタルコラボ+α                                   

コンテンツ作製のため、山風景等を素材にして様々な試みを綴ってみます。

東西をつなぐ古道 最終回 検証編⑤

2010年04月29日 | 歴史ネタ
おじいちゃんの話
この辺りは大名の領地になっていて、I豆の国は、山国のため小さくいくつかに分かれていたそうです。N川をさかいに、宇久須までが、那賀郡で、りょう地がK津という所だったためおさめるものなどは、この道を通っていかなければならなかったそうです。こんな事で人通りが多かったため、おいはぎも、たまたま出たということです。おいはぎにT九郎、Z郎佐衛門、孫四郎という人がいたそうです、昔は、今のように車などなかったので、用足しに行くには、みんな、どこでも歩いていったそうです。山こしで行く人、金を持っていそうな人を見つけては、その人のものをむりに取って自分の物にしていたそうです。そのためにこの辺の山にとうぞくの名前が付いたそうです。この三つの山の位置は、北から南へとつらなるI豆半島の中心のおねで北側にZ郎佐衛門、南へ来るとS方平という所があるそうです。ここはI代・Oなべ・S川のさかいに当たる所で、一キロメートルぐらいの所がT九郎山です。孫四郎は、S方平から少し南のおねから下ったOなべ側にあってT九郎よりも山のすそはだんがいぜっぺきで、かんたんには登れる山では、ないそうです。S方平を下って行くとまもなくとりつぎのだんといって、およそ二十アール位の平な所があって、ここで、N川から来た荷物とK津から来た荷物のとりつぎ所になっていおたそうです。この道づたいには、山の神様があり、お地蔵さまもあり、いろいろな名所もあります。道もふかくほりになっていて、いまでも残っているそうです。このほかにもOなべ側にこぞう山という山もあるそうです。

八瀬峠の西側にある山神様。造られた年号は確認できません。


西尾根上の巻き道分岐点


水源から流れる沢水


南尾根進入禁止のテープ


お地蔵さま


長九郎直下の山神様


明治四十一年製


三方平まで堀割みちが存在します


あらら・・・ 「とりつぎのだん」をアップし忘れました。
三方平から南へ進み、堀割道を僅かに下り込んだ地点に、そこそこの平地が確かに存在するのです。




 さーて いかがでしたか? 

「じつはオレのご先祖さんは、あの辺を荒らした山賊だったんだ」みたいな話があれば、さらに信憑性が増すのですけれどね。(笑)

 それとみなさま、1000mほどの低山だからと侮って探索してはいけませんよ。
特に三方平東斜面はとてつもなく急峻ですし、精通した案内人なしでは確実に迷うこと請け合いです。したがいまして、三方平東側についての道説明は割愛とします。


 故意か偶然か、登山道から外れ、毎年何人かの行方不明者いるのも事実なんですからね。

 それでも この道を辿ってみたいと思うのなら、この方に弟子入りするのが得策かも知れません(爆)

東西をつなぐ古道 その12 検証編④

2010年04月29日 | 歴史ネタ
ようやく、出合まで辿り着きました。

で、問題はここからなのです。
現在の登山道を長九郎方向へ進みますと、池代へ分岐できる案内板が建っています。
通常のハイカーは決してそちらへ辿ってはなりません。
かつて私もそちらが気になり、行ったがためにヒドイ目にあいました。

ところが、古地図にはそちらへの道のみの記載しかありません。
長九郎林道も、カンス林道もまだ未完のようです。

河津みちとは言っても、天城山へ至れる道のはずなのですから方角も違うし、まして巻き道では時間がかかりすぎるでしょう。


となれば、答えはひとつ。
地図には記載されていない、八瀬峠へ向かう道があったはず。
それが証拠に、八瀬峠のやや西よりに山神様も祀られています。
現在、池代分岐の先で道は健脚コースと軟弱コースに分かれますが、どちらも八瀬峠へ至れます。もしかすると健脚コースは、山神様へと至る道だったのかもしれません。
となれば河津みちは、軟弱コースの方でしょう。



八瀬峠からは緩やかな尾根を長九郎へ向かってダラダラ登り、白岩の先で巻き道へと入ります。河津へ行くための道ですから、わざわざ長九郎の頂上まで登る必要はないわけですし。
(普通のハイカーは進入しないように といっても分岐点はわからないでしょう)
このおよそ300mの巻き道は、現在廃道になっていますが、途中に水源もあって水分補給にはうってつけの場所といえます。

つづく

東西をつなぐ古道 その11 検証編その③

2010年04月26日 | 歴史ネタ
さあ、この続編もそろそろ終わりにしなくてはと考えていますが、なかなか終焉を迎えそうにありません。(我ながら、やっかいなものを綴ってしまったと、今更ながら反省しちょります)

座禅石から池つぼ間の尾根上はほぼ平坦なのですが、中間地点に民家が一軒ありますので、通行する際には入り込まぬことだけご注意願いますね。

おじいちゃんの話
「仁科と中川の境に河津・大鍋へと往来する道があったそうです。」
が正しいと仮定すると、まさしく御旧跡碑分岐を指していることにはなりませんか!
古地図にも、ちゃんと点線で分岐ルートが示されているんですから。



皆様の目でも、上下の地図をよく見比べてみてくださいまし。


比較対照用現地図

A=御旧跡碑 B=池つぼ C=水源 D=道路水路開削碑 E=男坂 F=女坂 G=宝蔵院 H=現在の長九郎歩道 J=我々のトラックログ K=想定巻き道 L、M=想定路 N=内野火ヶ山 O=出合 P=沢ルート  

となりますと 河津みちは、
C→J→K→O
の順にたどる道だったろうことが、地図からも十分推測できますよね。

つづく

東西をつなぐ古道 その10 検証編②

2010年04月21日 | 歴史ネタ
さて、②から続く道は、ほぼ尾根上をたどることになります。
途中に峠を通過したり、山神様もあったりで、古道だと思わせる雰囲気もありました。
ただし、既に林道化された区間が存在し、その区間のみは我々も。利用せざるを得なかったのです。


ここからが、ダート林道開始地点となります。


小ピークにある山神様の鳥居です。林道が、右に巻いて続いているのがおわかりいただけますよね。


もちろん、山神様にも安全祈願のお参りしておきましょう。


階段を上り詰めますと、古びた石積みの上に小振りな社が建っていました。
地図から判断しますと、船田地区でお祀りしているものと思われますが、
この社への本来の参道だって、きっとあるはずですよね。


さらに林道を進みますと、右手へ下れそうな堀割り道が確認できますが、そのまま林道敷を直進しました。


どうやらそこが、ショートカットルートの入口だったようです。


ここで林道は終点となり、454mピークを大きく巻いてしまったのでした。


それでも、林道終点から座禅石までは、そうたいした距離ではないのですけれど

つづく

東西をつなぐ古道 その9 検証編①

2010年04月19日 | 歴史ネタ
振り出しに戻って、Y・Mさんが当時おじいちゃんに聞いた話と地図を照らし合わせてみましょう。
昔、江奈から登り始めて、仁科と中川の境に河津・大鍋へと往来する道があったそうです。

で、古地図の出番です。



ここからは、憶測に過ぎません。
赤点線を現代地図へ落としてみました。


①から登り始めて、②へ至る道そのものがあったのかは未検証ですが、掲載したものよりもさらに古い地図にも、確かに尾根を辿って登り詰めるルートらしき点線が記載されているのです。

つづく

東西をつなぐ古道 その8 座禅石の位置

2010年04月17日 | 歴史ネタ
まずは、一色地区誌に掲載されている弘法の道マップを御覧願います。
座禅石の位置が記載されていますよね。


ついでに、国土地理院発行の古い地図も御覧いただきましょうか。
このマップだけ、上下のものと縮尺が合っていなくてスミマセン。


で、これが現在のものとなります。


上段のマップですと、A地点に座禅石があるように描かれてていますが、実際はB地点の峠にあります。
あれだけの大きな石が勝手に動くわけもありませんから、単に表記ミスなのでしょう。
となりますと、一色から登った弘法大師は、恐らく赤点線を登りつめたことになるわけですね。(作り話ですが)
一色地区誌には、車道が無かった時代の宝蔵院へと辿ったルートが幾つか紹介されていて、このルートもその一つとされていますが、あまり直線的ではありませんから、宝蔵院へ行くためのものと言うよりも、門野地区との往来のために使用したのでしょう。

その証拠に、座禅石付近だけの判断ですけど、青点線へ下降できそうなルートがあったように思われましたもの。

寺地畑から大峠へ至れるルートも存在したようです。ところで、大峠って、御旧跡碑のある峠のことでしょうかねぇ?

おっと、書き忘れるところでした。
Cが男坂 Dが女坂です。

そんなことよりももっと需要なことがありますでしょう!
中段マップには、池つぼから分岐して、我々が長九郎へと辿った尾根ルートがちゃんと記載されているんですよ。

つづく

東西をつなぐ古道 その7 回帰編

2010年04月15日 | 歴史ネタ
額入りで掲げられていた写真とは、『弘法の座禅石』のことです。


ガイドブックによりますと、伊豆八十八ヵ所の内八十一番目霊場として富貴野山宝蔵院が紹介されています。(富貴野山は宝蔵院の山号でもあります)

「宝蔵院縁起によれば、桓武天皇の御代、延歴十九年(八00年)弘法大師二十七歳の時、伊豆を巡錫して仁科の庄に来た時、巽の方向の山のうっそうとした森の中から、一条の雲霧が盛んに立ち昇るのを見て、これは必ず諸仏遊化の霊地ならんと、草を押し開き、蔓草をよじ登って寺見坂に至り、山上を見ると、山の姿は虎の伏すごとく、渓の有りさまは龍のわだかまるに似て、中腹の森林は八葉の蓮華のごとくで、霊気身に迫る思いであった。そこで大師は、路傍の石上に座禅(座禅石として現存)、諸仏の守護を念じて、書写した梵網経一巻を空中に投じたところ、金色の文字が空中に現れ、微雲が経巻を包んで森の中へはいっていった。云々・・・」

それって、間違いなくここでしょう。 私も同じ構図で撮影していましたもの。

額入りの白黒写真が撮影されたときも、既に石造物の首はありません。

別角度からもう一枚。
M氏と私は右上方向からやってきて、尾根上を左下方向へたどったのです。
座禅石は、尾根より峠道を南へ僅かに下った場所にありました。


さらにアップ画像となります。


ところが不思議なことに、GPSで確認した座禅石の位置が一色地区誌に掲載されている地図位置と符合しないのです。

つづく


東西をつなぐ古道 その6 寄り道編

2010年04月14日 | 歴史ネタ
どうせここまで来たのですから、古刹中の古刹、宝蔵院へも立ち寄りましょうか。
車道を400mばかり進みますと、白川分岐を過ぎた直ぐ先の大師橋を渡りましょう。
車で来られた方のために、2台ほどの駐車スペースが車道脇に用意されています。
現在では、宝蔵院駐車場まで車で行かれる方が殆どでしょうけど、ここよりゆっくりといにしえの参道を辿るのも、おつなものですよ。
橋を渡った先で、左手方向が尾根筋を辿る男坂、右手方向が尾根よりやや下った巻き道を辿るのが女坂です。


男坂を選べば、苔むした落ち葉だらけの石段を登ることになります。
大師橋から宝蔵院まで標高差約100m。沿面距離で600m程度でしょう。
女坂を選んでも、そう違いはありません。
なので、行きは男坂、帰りは女坂が良いと思います。


車道を横断して、さらに古道?を辿るルートもありますが、ここからは車道上を進んだ方が無難でしょう。


昭和24年に倒壊した山門の前後の参道で、沢山の石仏がお出迎えしてくれるのです。


境内へ入ると、左手にそびえる弘法杉の根元には、曽我兄弟ゆかりの宝篋印塔などもあるのです。(辞世の書も所蔵されているとか?)

 
狩野川台風の際に倒壊した本堂も平成11年に再建され、11年の経過とともに建物も色あせてきており、徐々に辺りの風景へとけ込みはじめているように思えませんか。


現在、宝蔵院は無住のお寺となっています。
したがいまして、宝蔵院を訪れても、本堂内を拝観することはできません。
ところが、数年前に訪れた際にたまたま関係者がいらして、本堂内に立ち入らせてもらうことができたんですね。

さらに偶然なんですが、本堂内に掲げられていた額に納められたある写真を、当時の画質が劣るデジカメで撮影できたのです。

その撮影した写真とは・・・
つづく

東西をつなぐ古道 その5

2010年04月13日 | 歴史ネタ
となりますと、こんな仮設が成り立つのではないでしょうか?

大正5年竣工の道路・水路工事で、分岐点に建てられた御旧跡碑は移設を余儀なくされてしまった。
つまり、車道拡幅工事前までは、碑そのものが現車道上にあったんじゃないかってね!

工事の際邪魔になったので、否応なしに元々御旧跡とされていた場所へ移設されたような気がしてならないのです。
だから、矢印が指す方向へ行ってみても、何も確認できないことも頷けますし。


M氏と尾根上ルートにこだわり、海抜0mから長九郎を目指したのは、碑から車道を50mばかり進んだ水道施設からなのでした。


すると、さらに尾根上を100mほど進んだ先で、御覧のとおりの掘り割り古道が出現したのです。


位置関係がわからないとのご指摘もありましたが、ようやくMAPを掲載しましたので、とくと御覧願います。
 赤線が尾根を辿った際のログです。
 青線は、現車道敷となります。


まだまだつづきますよー
(ネタはつきません)

東西をつなぐ古道 その4

2010年04月12日 | 歴史ネタ
本題から完全に脱線してしまいました。

この記事を御覧になっている皆様に、石造物付近の現況を予備知識として把握していただくための前フリとしてお許しくださいまし。

さあ、これからが本題です。
今一度、五画柱の御旧跡の石柱をご覧いただきましょうか。

ほらね、正面左右に怪しげな文字が刻まれているのが確認できますでしょう。


急いては事をし損じます。


ごゆるりと、刻まれた文字を左側から順に確認していきましょうね。

左ハふきの山 拾二丁

施主 門野区 吉長鶴吉 建立

続いてさらに肝要となる、向かって右側の文字をご覧頂きましょう。

あれれー 小さすぎて見えませんか?




ならばしかたがありません、拡大表示して上から順に御覧いただきましょうぞ!

「ここから」



「天城山(ニ)及(ブ)」


「かわづみち」
「明治三十九年三月二十一日」

どうですか?この明治三十九年に建立された御旧跡碑が、道標の役割も果たしていたという訳なのです。

刻まれた文字から推測できること。
①碑建立者は門野地区の財力のある方である 
②門野から峠へ登りつめた三叉路に、この碑が建てられた
③冨貴野山へ至る道は敢えて「左ハ」と注釈されていることからして、少なくとも明治39年頃は、道標を右方向へ辿る河津道が主要道であった

一色誌に、この碑文について言及されていないのが残念でなりません。

いかがですか 以上私の勝手な推測に過ぎないのですが・・・

つづく