聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

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ルカの福音書二二章1~6節「ユダから教えられること」

2015-05-10 15:07:16 | ルカ

2015/05/10 ルカの福音書二二章1~6節「ユダから教えられること」

 

 皆さんは、「誰かに裏切られる」という体験で身に覚えがあるでしょうか。信頼して秘密を打ち明けたのに、お喋りされていた。この人ならと見込んでお金を貸したり保証人になったりしたら、実は最初から踏み倒すつもりだった。そんな目に遭うと、ショックで、人間不信になったり、人生だけでなく性格が変わってしまったりすることさえあるでしょう。そして、そういう時に、聖書から引っ張ってきて、裏切り者を「ユダ」と呼ぶことがあります。

 今日からの二二章で、最後の晩餐やゲッセマネの祈りの場面に入って行きます。いよいよイエス様が十字架に掛けられていく、最後の時間になります。その最初に記されているのが、祭司長、律法学者の殺害計画と、ユダの裏切りであり、そこにサタンが働いていた事実です[1]

 一体なぜユダはイエス様を売ったのでしょうか。様々な説明がありますが、「ユダはイエス様にもっと強いメシヤである事を期待したのだが、ローマを一向に倒そうとしないイエス様に、それこそ裏切られた思いになったのだ」と言う人もいます。あるいは、「イエス様を窮地に追い込んで、神の子としての力を発動せざるを得ないようにしたかったのだ」という推測もあります。でも、どれも推測に過ぎません。ルカは動機を説明しようとはせず、ただ、ここに、

 3さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。

とだけ記します[2]。「十二弟子のひとり」という言葉は、「十二の数の」という言葉です。ですから、数の上では十二弟子の中に入っていたけれど、それは数の上だけで、彼の中にサタンが入ることが出来た。そういう含みがあるのです。原因はどうあれ、人間の心というものは、イエス様のそばにいて、最も近い十二人の一人として活躍し、近くされていてさえ、それが数の上だけのこと、名簿や役割だけになっていることがある。心はイエス様の弟子ではなくなっていて、サタンが入って来られる隙(すき)がある。そう教えているのです[3]

 ところで、サタンは、ユダに入って、何をしようとしたかったのでしょうか。イエス様を裏切らせようとした、祭司長たちにイエス様を引き渡そうとした、のですね。その目的は何だったのでしょうか。イエス様を十字架につけて殺させようとした、のではありません。確かにサタンはイエス様の邪魔をしたかったのです。でも、イエス様を殺したかったのではないのです。イエス様の十字架の死は、イエス様ご自身が、その最初から予告してこられた死です。

十八32人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。

33彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし人の子は三日目によみがえります。」

このように予告されていたのですね[4]。イエス様はご自身が、多くの人の罪の赦しのために死なれることをハッキリと教えておられました。ですから、イエス様が死ぬとしたら、それはイエス様の思い通りになってしまいます。サタンはイエス様を殺そうとしたのではありません。むしろ、イエス様に死を投げ出させたかったのです。受難週に見ましたように、十字架の苦しみの時、人々は、イエス様に向かって

「自分を救え」

と四方八方から口々に罵っていました。指導者たちも兵士たちも隣で十字架につけられていた犯罪人も、イエス様に

「キリストなら自分を救え」

と罵倒したのです[5]。これはイエス様に対する嘲りでした。しかし実は、イエス様にとって、神の子としての力を使って十字架から降りることも出来たのです。容易いことでした。であれば、そのような力があるのに、十字架に留まり続けることは大変な葛藤であったに違いありません。「自分を救え」という罵倒の背後には、イエス様を誘惑しよう、何とかして十字架から降ろそうとする、サタンの存在が見えます[6]

 何のために十字架の苦しみを受けるのでしょう。それは、人々のためでした。でもその人々から、十字架にかけられ、

「自分を救え」

と嘲笑われるのです。イエス様の弟子たちでさえ、逃げてしまいました。いいえ、その一人であったユダこそがイエス様をユダヤ当局に売り渡し、素知らぬ顔でここ数日は一緒にいて、チャンスをうかがっていたのです。そういう人々のために十字架の、悶絶せんばかりの苦しみを耐える価値があるのでしょうか。サタンは、そのイエスに、こんな人間たちのために十字架の死だなんて虚しい、意味がない、人間のために死ぬだけの価値などないと、投げ出させたかったのです。そのために、十二弟子の一人の心の隙に入り込み、イエス様の愛が裏切りや恩知らずや嘲りでしか報われないことでイエス様を苦しめようとしました。この人々のために十字架だなんて馬鹿馬鹿しい、と誘いかけたのです。

 私たちも、ユダと大差ありませんよね。ふとした弾みで人を裏切ってしまうとか、殺したいほど憎むとか、神や人に自分勝手な期待をして、自分勝手に失望してしまうこともあるでしょう。お金や目の前の損得に飛びついてしまうこともあるでしょう。人の挑発に引っかかることもあるでしょう。後から思えば、なんであんなバカをやってしまったのかと悔やまれてももう遅い。そういう説明のつかない行動をしてしまうのです。サタンを招き入れる狡さが人間の中にはあります。「自分の願望が叶うためなら、サタンにだって魂を売り渡しても構わない」という思いさえないでしょうか。そういう思いがあるから、サタンもユダの中に入れたのです。

 そういう私たちの弱さ、脆さも、主は悉(ことごと)く完全に知っておられます。人間の恐れとか、憎しみとか、後悔とか、裏切る狡さも裏切られる悲しみも、すべて主は味わい知っておられます。その私たちの行動や言葉によって、どんなに神ご自身が裏切られ、傷つけられ、血を流すようなことがあっても、なお主は私たちを投げ出したりせずに、私たちを愛し、救いの御業を最後まで成し遂げてくださるお方です[7]。そして、その救いの中心になるのは、私たちが、もう人を恐れたり自分の心に振り回されたりせず、この測り知れない恵みの主を信頼して、主との交わりに生きるように、主への信頼によって、少しずつ変えられて行くことです[8]。主は、私たちを知って守るだけでなく、私たちの心と生活を、新しくしたいと考えておられます。

 ですから、毎日、自分の心が主に向かうように祈りましょう。家庭でも職場でも学校でも、私たちを支えるのは主の恵みです。自分も回りの人たちも、脆さや罪を抱えたもので神の代わりに頼りには出来ません。主イエス様の、揺るがない十字架の愛を見上げましょう。落ち込んだり人を裁いたり疑心暗鬼や自己憐憫に捕らわれて生きるのは勿体ない人生ではないでしょうか。主は、人間の思惑を超えて、生きて働いておられます。私たちの悲しみも痛みも、裏切られる辛さも、裏切った後悔もすべてご存じです。その人間の問題をすべて引き受けつつ、そこにあって動じることなく、神のご計画を推し進めて、尊い十字架の御業を果たされました。私たちもその主にならって、それぞれの場で生きるようにと遣わされていきます。罵られても罵り返さず、裏切られても裏切り返さず、イエス様の喜ばれる生き方を精一杯果たすのです。それは簡単ではありません。でも、難しくて大変なのでもありません。それは、本当に自由にされ、解放されていくプロセスなのです。朝晩、いつも、この幸いを祈り求めて行きましょう。

 

「主よ。ユダのようにサタンの入る隙だらけの私たちです。もっとあなたの喜びの中に生きられますように。あなた様を信じる信頼の中に羽を伸ばし、傷ついたときにはあなた様の慰めと勇気を戴かせてください。キリストの十字架の福音の力強い恵みを慕い求めます。どうぞ今週も一人一人の歩みに、主イエスが先立って、歩みを導き、励まし、御栄えを現してください」



[1] 今日の箇所で、「6ユダは承知した。そして群衆のいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会をねらっていた。」とあります。数日間は「機会をねらっていた」のでしょうから、実際にはもう少し前に(二〇章から二一章の間に)この出来事はあったのでしょう。けれども時間通りに並べるよりも、ここに持ってくることで最後の十字架の場面に至る背景として、こうした出来事もあったのだと伝えたいのだと思います。

[2] マタイやマルコは、「レプタ二枚のやもめ」の記事を挟むことで、彼女に対する主イエスの評価とユダの動機とを結びつけています(マタイ二六1~16、マルコ十四1~11)。ヨハネは、悪魔の働きを明言しつつ(十三2、21~31)、ユダの会計係としての不正(十二4~6)も言及しています。しかし、それ以上に、ルカは簡潔に語っています。ユダの動機にはあまり触れず、結果のみを詳しく記しています(使徒の働き一18~19)。これも、ルカの書き方全体を見るときに、ユダにふさわしい、という固有のさばきというよりも、罪に対する報酬の典型例、と読んだ方がよいと思います。アナニヤとサッピラ、魔術師シモン、などなどと同列なのです。

[3] もちろん、動機は明言されてはいませんが、ルカがこれまで記してきた「貪欲」への警戒を考えると、5節の「金」の登場には、ルカがこれまで警戒してきた、貪欲・マモンの働きがうかがえます。しかし、マタイが「銀貨三〇枚」と記すようなことをルカはしませんから、その額の多少を動機として伝えたいのではありません。

[4] 他にも、ルカでは九22、44でも「死の予告」がありますし、復活後も生前に予告されていたとおりだと繰り返されています(二四7、25-27、44-47)。

[5] ルカ二三35-39。

[6] 特に、公生涯の初めに、荒野でイエスを誘惑したサタンが「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい」(四3)と挑発したことが重なります。

[7] この悲しみは、聖なる愛であるイエスにとっては、まったく論外の誘惑でした。後にゲッセマネで祈られたときも「腹立たしさに耐えて、最後まで十字架に留まれるように」とは祈らず、十字架の苦しみ・神の御怒りに最後まで耐えられるように、と必死に願われたとおりです。サタンが考えるこの限界は、サタンが神の愛を全く理解できていないことから出て来るものです。これは、ヨブ記冒頭にもそのまま言えることです。

[8] ルカは祭司長、律法学者たちがイエスを殺すための良い方法を探していたのが、「彼らは民衆を恐れていたからである。」と記します(2節)。これは、「イエスを殺すことで民衆の騒ぎが起こるといけないから」(マルコ十四1)とも読めますが、ルカの場合は、直前の二一38との繋がりを想起させます。民衆が、イエスの教えを熱心に聞く姿に、祭司長たちは、イエスを殺す必要に迫られると思うほどの恐れを抱いたのです。主の言葉を聞くために熱心に集う民の存在に、世は恐れを抱きます。何もないような民衆が、主の教えに耳を傾けるとき、脅威となるのです。私たちが日曜毎に集まって、主の言葉に耳を傾けて生きている。この事自体が、世界に対する不協和音であり脅威、チャレンジ、変革です。

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