聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問37「苦しみを知る方」Ⅰペテロ2章18-25節

2016-10-30 18:08:55 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/10/30 ハイデルベルグ信仰問答37「苦しみを知る方」Ⅰペテロ2章18-25節

 

 これは「パッションフルーツ」ですが「パッション」とはどういう意味でしょう。

 「あの人のパッションはすごい」「彼はパッションの人だ」なんて言います。情熱的、心が燃えている。そんな意味です。もう一つイエス・キリストの苦難も指します。

 元々は、パッションは「受ける・こうむる」という意味でした。キリストはとても激しい苦しみを受けられました。でも同時にそこには、キリストの情熱もありました。実は、パッションフルーツも、食べたらやみつきになる、というよりも、花の心が十字架の形に見えるからなんだそうです。パッションと言えば十字架です。そして、私たちは、美味しい食べ物やノリノリの音楽や、そんなもので情熱をかき立てられるに勝って、何よりもキリストの十字架の愛によって、私たち自身もパッションをかき立てられます。

問37 「苦しみを受け」という言葉によって、あなたは何を理解しますか。

答 キリストがその地上での全生涯、とりわけその終わりにおいて、全人類の罪に対する神の御怒りを身と魂に負われた、ということです。それは、この方が唯一のいけにえとして、御自身の苦しみによってわたしたちの身と魂とを永遠の刑罰から救い出し、わたしたちのために神の恵みと義と永遠の命とを獲得してくださるためでした。

 さて、夕拝ではハイデルベルグ信仰問答に従ってお話しをしていますが、今「使徒信条」の解説で、私たちの信仰の基本を確認していますね。そして前回は、使徒信条の

「処女マリヤより生まれ」

の誕生のことでした。それが、使徒信条では、次に

「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」

になるのですね。イエスがお生まれになってから、十字架に死なれるまで、30年ほどの御生涯がありますが、その間のことは何も触れずに、一気に「ポンテオ・ピラト」の話になるみたいですね。ところが、このハイデルベルグ信仰問答では、問い37で

「苦しみを受け」

を扱います。そして、次の問38で

「ポンテオ・ピラトのもとに」

を扱います。実は、使徒信条の元々の文章では日本語と逆で、確かに

「苦しみを受け・ポンテオ・ピラトのもとに」

なのです。だから、ハイデルベルグ信仰問答でも、その順番通りに丁寧に言っているのです。

 つまり、使徒信条のいう「苦しみ」も、ポンテオ・ピラトのもとで裁判を受けたり、十字架にかけられたりした苦しみだけではなく、その前からのすべてのキリストの苦しみを指している、と考えて欲しいのです。前回の「おとめマリヤより生まれ」から、間を飛ばして

「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」

だと、間のイエスの御生涯は全部すっ飛ばしているのではないのです。マリヤから生まれた後、ずっと苦しみを味わわれました。そもそも神の御子であるイエスにとって、蟹やウジ虫と変わらない人間になって生きる事自体が、大変な苦しみであり、リスクのあることでした。そういう大変なへりくだりをイエスはなさってくださったのです。イエスは、人として歩まれ、人としての様々な苦しみを味わわれました。私たちと同じ人間となり、私たちが受ける苦しみをすべて体験し、罪に対する神の怒りを代わって引き受けてくださったのです。

 神は私たちを愛しておられます。しかし、愛するからこそ、私たちの罪を見逃すことはゼッタイに出来ません。神は罪を憎み、怒られ、正しく償われることをお求めになります。そして、私たちの心の汚れからは、何としてでも救おうとなさるのです。でも、人間には罪を償うことも、自分で清い心になることも出来ません。人間の世界の法律であれば、本人を罰したり、追い出したりして、罪を罪として処分する事でしょう。しかし、神は私たちに罰を負わせて滅ぼすとか、私たちを追い出し、排除することは望まれません。では神はどのような方法なら、人間の罪を罪として正しく罰しつつ、人間を滅ぼさない、という方法をとることが出来るのでしょうか。

 なんと神は神の御子キリストが、自ら人間となって、すべての罪に対する神の御怒りを神の側で引き受けて下さったのですね。キリストが、十字架だけでなく、その受胎と誕生から、御生涯の間、私たちの罪に対する神の当然の怒りを引き受けてくださった。それが本当に人となって歩まれた、イエスの御生涯だったのです。ここでは、

 …それは、この方が唯一のいけにえとして、御自身の苦しみによってわたしたちの身と魂とを永遠の刑罰から救い出し、わたしたちのために神の恵みと義と永遠の命とを獲得してくださるためでした。

と教えてくれています。イエスの御生涯は、私たちの救いのための唯一の生贄となられた御生涯でした。だから、イエスは神の子として特別で、だれからも愛されたとか、誰をも寄せ付けなかった、とは思わないでください。むしろ、私たちの身と魂との苦しみ全てを体験されて、身体が傷ついたり、心が折れそうになったりしたこともあるでしょう。それは、私たちの「身と魂とを永遠の刑罰から救い出し」てくださるためでした。そして、もっと積極的に、「私たちのために神の恵みと義と永遠の命とを獲得してくださるため」でした。だから、今私たちは、イエスが人として苦しまれたから、自分たちが罪の永遠の刑罰からは完全に救われていると信じます。そして、今ここで、神の恵みと義と永遠の命とを獲得していただいている、とも信じるのです。

Ⅱペテロ二24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

 イエスの十字架の苦しみは、今の私たちにとっての模範でもあります。生きていると苦しい事、大変な事があります。戦いや「どうしてこんなことが」と思える事が起こります。イエスはそういう戦いも経験されました。そのイエスの苦しみや傷は、私たちの傷を癒やし、悲しみを慰めます。イエスが本当に私たちとともにおられる。それは私たちが苦しみに遭わないということではありません。むしろ、私たちは苦しみ、心砕かれ、悲しみ、自分の限界を知る時に、イエスと一つにされるのです。イエスも苦しみを味わわれました。そこで「もういやだ!」と言いたくならなかったでしょうか。でもイエスのパッションは、私たちを愛されたパッションです。私たちを愛して、私たちのためにご自分の自由も力も捨てて、あんな苦しみさえ厭われなかったイエスの情熱を知って、私たちはイエスにますます深く結びあわされるのです。

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礼拝⑥「救いを得させる福音」ローマ一章16-17節

2016-10-30 17:59:23 | シリーズ礼拝

2016/10/30 礼拝⑥「救いを得させる福音」ローマ一章16-17節

 来年は、宗教改革五百周年です。ルターがカトリック教会の教えに疑問をぶつけて、プロテスタントが生まれたのが1517年です。しかし今日、世界的な動きとしてはプロテスタントとカトリックが互いの違いも認め合いつつ、パートナーとしてともに歩もうとしています。批判や排除ではなく、良い関係の中で五百周年を迎えられることは、大変嬉しい事です。

1.礼拝の回復であった

 今日読みましたローマ人への手紙1章16-17節は、マルチン・ルターが「信仰義認」を発見した箇所としても知られています[1]。その頃、ルターは自分の罪の思いに苦しみ、悩んで、教会が教える苦行や巡礼などをあれこれ試したのですが、どれも効果はありません。義である神の前に自分の罪の深さに怯え、神を恐れ、遂には神を憎んだと書いています。神の義は彼にとって恐ろしいことでした。ところが、このローマ書1章17節にはこうあります。

ローマ一17なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 彼にとって「神の義」は裁きをもたらす恐怖でしかありませんでしたが、この御言葉は彼の神の義の理解を180度変えました。「神の義」は、罪人を罰する義ではなく、罪人にキリストの義をもたらしてくれる義、不義なる者にキリストの正しさを着せてくれる義だ、と気づいたのです。(「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」三21-22)そうして彼は福音の喜びに溢れるようになりました。福音の素晴らしさ。これが宗教改革の原点だと言えるでしょう。

 「宗教改革」と言えば「免罪符(贖宥状)」にルターが抗議をした運動と教科書では説明しています。しかしそれ以上に、宗教改革が目指したのは、この「福音」の回復でした。端的に言えば、それは「礼拝」の改革でした。福音から全く離れた礼拝を、福音によって、全ての信徒が養われて、喜びを回復する礼拝に取り戻そう、という「礼拝改革」の運動だったのです[2]

 それまでの礼拝では、信徒はキリストの福音がちっとも分からなかったのです。何しろ、言葉は全部ラテン語という難しい言葉です。最初から最後まで文語体の交読文を聞いているようなものです。讃美歌を歌う事もなく、聖歌隊がラテン語で歌うのを聞いていただけです。説教もラテン語だったり、なかったり。そして、一年に一度だけパンを食べ、ワインはこぼすと大変だからと信徒には与えられなかったのです[3]。それだけ、でした。聖書も自分の言葉に訳されたものはありませんから、聖書を読んで養われることもありません。改革者たちが取り組んだのは、母国語での礼拝や説教、また聖書の翻訳でした。全ての信徒が、お客様ではなく、福音を聴き、理解し、喜んで、素晴らしい福音を下さった神を心から褒め称える礼拝者となる。そういう礼拝へと改革していったのが、宗教改革だったのです。

2.神を知る事と自分を知る事

 ですから改革者たちが行ったのは、ただ「免罪符は間違っている」「教会は腐敗して、その教えは間違っている」という批判・非難ではありませんでした。「聖書的なあるべき礼拝のスタイルを整えてやろう」という事でもなく、「母国語で聖書を読み、理解できる礼拝をするぞ」という事自体が目的でもなかったのです。何しろ聖書そのものが、そうは言わないのですから。

ローマ一16私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

17なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 平たく言えば、福音の回復とは、信徒たちが皆、神の力によって救いを頂くことです。何を信じているのか分からないまま、なんとなく有り難がる礼拝ではなく、みんなが理解できる言葉で聖書を聴き、福音を分かり、分かるだけでなく、神から慰めをいただき、ますます心から神を信じて生きるようになることを求めたのです。私たちが高いお金を払って免罪符を買って、一年に一度はミサに行ったり、巡礼をしたりするよりも先に、神ご自身がイエス・キリストの十字架による福音を下さった。そう知って、私たちの深い生き方が変えられる事こそが、宗教改革の目指した所だったのです[4]。そしてそれは改革者たち自身の体験でもありました。

 「神を認識することと、我々自身を認識すること…この二者は多くの絆によって結び合わさっているので、どちらが他方に先立つか、どちらが他方を生み出すかを識別するのは容易でない」[5]

 こう言ったのは、カルヴァンで、これは『キリスト教綱要』の冒頭の文章です。私たちが神を知ることと自分を知る事が切り離せない。これは素晴らしく人間を知った洞察だと思いませんか。ただ神を知るだけではないし、神を賛美し、神を喜ばせれば良いのではないのです。私たちは、自分を知っているでしょうか。自分の特徴、願い、癖、何を幸せと感じるのか、どんな事に怒りを爆発させ、傷つくのか。どんな願いでも適うなら、何を願うのが自分なのか。またどのように人を傷つけ、どんな助けを自分が必要としているのか。そういう事を封じ込めたまま、神だけを知り、神を礼拝する事はない。神を知る事と自分を知る事とは切り離せない。そう言い切ったカルヴァンは(完全ではありませんが)深い人間理解の人でもあったのです。

3.神の力に生かされる教会

 私たちが今、日本語で聖書を読み、日本語の説教を聴き、日本語の讃美歌を歌っている事。これは全て、宗教改革で取り戻した礼拝の要素です。当たり前の事ではありませんし、取り戻さなければならない大事なことだったのです。ここで私たちはどのような神と出会うのでしょう。私たちの礼拝を求められ、喜ばれ、私たちを真実な礼拝者として整えて下さる神と出会うのですね。自分ひとりが礼拝に来ようと休もうと神は気になさらない、ではなく、神はこの私の礼拝を求め、喜び、受け入れて下さる。また、私たちの側で言えば、自分の言葉で聖書を読み、福音を聴き、讃美歌を歌いながら、自分が神を礼拝する者、言わば祭司だと知るのですね。自分なんかの礼拝やしどろもどろの祈りなんか、ではなく、この私の賛美、礼拝、祈り、信仰を神が喜んで受け入れておられる、そのように尊く愛されている自分だと知らされるのです。

 その私たちと神との礼拝を成り立たせるのは、贖宥状や献金や奉仕ではありません。歌が旨いか、祈りがちゃんと捧げられるかでもありません。ただ、イエス・キリストがご自分を捧げてくださった祭司の御業によって、私たちは神に受け入れられるのです。そのキリストがご自分を与えて下さる事なしには、人間がどんなに犠牲を払った所で決して人間の罪を償う事は出来ません。それほど私たちの抱えている問題は深く、癒やしがたいのです。ただ神の怒りだけを宥めて、幸せをもらえたらいいと人間は考えますが、神の願いはもっと素朴です。神は、私たち自身の心が、神に向かい、神への信仰を始めさせ、信仰へと進ませる、そういう関係の回復を求められます。私たちの心には自分でも気づかないほど様々な思いがありますが、どんな願望や怒りや恨み辛みよりも、遙かに大きな神の恵みに私たちが出会い、気づかされ、生涯かけて、神を心から信頼し、崇めるようになる。そうさせてくれるのが、キリストの十字架です。

 中世の礼拝で、会衆は「通行人」でしかなかったのが、今ここに

「礼拝者」

として私たちがいるのは宗教改革の賜物です。私たちが礼拝をささげ、また祭司として互いに仕え合い、愛し合う者とされていることが回復されたのです[6]。でもそれ自体が神の恵みです。決してプロテスタントだ改革派だと誇って傲り高ぶることではないのです。神は、その限りなく深く聖なる恵みをもって、私たちに働いておられます。この世界に働き、悪や暴力を悲しみ、そこにも慰めを現されます[7]。その生きて働いておられ、私を知っておられる神を礼拝するのです。

「主よ、イエス・キリストの完全な贖いに立ち戻った宗教改革から、あなた様を礼拝する特権を噛みしめます。しかし、その事さえ争いや独善にしてしまった愚かな歴史もあり、私たちの心を主が聖め、神に栄光を帰する歩みへと導いて下さいと願わずにおれません。どうぞ主の憐れみに立ち戻りつつ、その恵みへの感謝の一心で、愛し仕え、出て行く私たちとしてください」



 
[1] 宗教改革は、外的には「聖書の正しい説教と聖礼典の正しい執行」という礼拝論、教会論に立ち戻った運動です。またその三つの原理としては「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」あるいは「信仰義認、聖書のみ、万人祭司(全信徒祭司職)」として知られています。今日は、「礼拝」という観点からに絞ってお話しをします。

[2] 「スイスの宗教改革は礼拝の改革、すなわちミサを廃止し、神の言葉を説教する礼拝の確立から始まる。カルヴァンがジュネーヴに初めて来た時、福音の説教は行なわれていたが、まだ十分に神礼拝にふさわしい秩序を整えるに至っていないとカルヴァンは気付く。そこで、礼拝の充実のために最初の教会規則が取り上げたのは詩篇歌であった。ファレルの礼拝指導では詩篇歌は用いられていない。彼はそれを知らなかったのであろう。カルヴァンはフェラーラでクレマン・マロと知り合って詩篇歌の価値を知ったのであろう。詩篇歌はルネッサンスの文化運動の一環である。しかし、カルヴァンが詩篇歌を採用したのは時代の先端的文化的を評価したということではない。聖書をもって神を讃美すること、すなわち、人間の気持を表わした創作讃美歌でなく、神から与えられた文書にある讃美歌を歌い継ぐべきであるとの主張が一つある。また、旧約のイスラエルの礼拝の歌が新約の民の礼拝の歌であることの意味の大きさを彼は考えていた。/礼拝が神の言葉を聞くことに中心点を定めるべきは勿論であるが、その中心を中心として位置付ける秩序が必要である。すなわち、礼拝式文が大切である。これもファレルの気付いていなかった点である。礼拝式文はシュトラスブルクから学んだのではないか。/礼拝に関してカルヴァンが聖晩餐の意義を重視していたことをも挙げなければならない。本当は全ての礼拝に聖晩餐が伴うべきである。それが実行出来なかったのはジュネーヴ市当局がそれを認めなかったからである。聖晩餐の重視はカルヴァンとツヴィングリとの違いを示す重要な点である。」以上、渡辺信夫氏HP

[3] 中世は、御霊の働きではなく、礼典の正しい執行にその有効性がかかっているとしました。しかもミサは「キリストの完全な贖いの記念」ではなく、「神に捧げられるキリストの犠牲」となります。結果として、礼典そのものを重んじるため、信徒は礼典から遠ざけられる事になります。これに対して改革者は、神の恵みに有効性があり、聖霊の働きによって有効となることを信じます。また、信徒が救われるのは、(中世カトリックが言うように礼典によって、ではなく)信仰による、と告白したのです。

[4] 罪の赦しのために来る中世の礼拝に対して、改革者たちは、福音の説教に基づく礼拝を回復しました。しかし、その弊害は、「説教」や教育を過度に重視する主知主義的な傾向です。聖餐への陪餐の意味が薄れ、説教(講義)中心の礼拝理解に傾いていったのです。そして、結局は牧師・説教者の地位の向上・絶対化です。本来は、「脱教職化」が目的だったのに、結論的には違う「教職化」が進んだのでした。

[5] 「我々の知恵で、とにかく真理に適い、また堅実な知恵と見做さるべきものの殆ど全ては、二つの部分から成り立つ。すなわち、神を認識することと、我々自身を認識することとである。ところが、この二者は多くの絆によって結び合わさっているので、どちらが他方に先立つか、どちらが他方を生み出すかを識別するのは容易でない。すなわち、まず我々がその打ちに生きかつ動く神(使徒行伝17:28)、この神への瞑想に己が思いを真っ直ぐに向けない限り、誰一人として自分自身について考察することはできない。…自分自身の卑小さによって、神の内にある恵みの測りがたい豊かさが我々にはいよいよはっきり分かる。…すなわち、我々は、自己の悲惨によってこそ神にある諸々の善を考えざるを得ないように迫られるのであり、また自分自身に対する不快感を抱き始めてからでなければ、神を真剣に渇望することはできないのである。自己について無自覚な状態、つまり、自分の賜物に満足し、尾野が悲惨について無知あるいは忘却した状態にある限りは嬉々として安んじている-、こうでない人がどこにいるだろうか。そのようなわけで、自分自身についての知覚は、各々を駆り立てて神の探求に向かわせるのみでなく、言うならば手を取って導くようにして、神を発見するように各々を引いていくのである。」ジャン・カルヴァン『キリスト教綱要 改訳版 第一篇・第二篇』(渡辺信夫訳、新教出版社、2007年)38-39頁。

[6] ただ信徒が礼拝を「分かる」だけでなく、福音がひとりひとりを慰め、恵みに満たし、神の栄光のために生きることを願い、喜び、求めるように変えられて行くことをターゲットにした。それが「万人祭司(全信徒祭司論)」という理解です。

[7] ですからプロテスタントの指向する礼拝や献身は「教会のために」ではありません。それまで「俗世」と軽んじられたそれぞれの生活、職業を聖と見、神からの召命と見なし、神のために経済の発展を評価した改革主義の社会意識、職業意識も、この延長にあります。

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問36「生まれてくださったからこそ」ローマ八章一~四節

2016-10-23 16:28:11 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/10/23 ハイデルベルグ信仰問答36「生まれてくださったからこそ」ローマ八章一~四節

 教会では、「神とともに歩む」とか「神がともにおられますように」という言い方をよくします。私たちが神と共に歩む。そういう言い方が出来るのは、まず神ご自身が、私たちの所まで来て下さったからそのように言い得ることです。神は、私たちとともにいると仰るだけでなくて、イエス・キリストが人間となることによって、本当にともに歩んでくださいました。それも、前回見ましたように、キリストはいきなり大人の人間になるのではなく、マリヤという結婚間近の女性の胎に宿り、胎児から始められ、出産を経て、私たちと全く同じスタートから人間として歩み始めてくださったのです。

問36 キリストの聖なる受肉と誕生によって、あなたはどのような益を受けますか。

答 この方が私たちの仲保者であられ、ご自身の無罪性と完全なきよさとによって、母の胎にいる時からのわたしの罪を、神の御顔の前で覆ってくださる、ということです。

 キリストは、本当に神の御子でありながら、マリヤの胎に宿られました。だから私たちは、イエスが、神と私たちとの間の完全な「仲保者」だと信じることが出来ます。私たちと神との間に立って、仲裁をしてくださると信じることが出来ます。そして、キリストご自身に罪がないこと、そして罪がないだけでなく、もっと完全に「聖」である人として歩まれた事が、私の罪を覆うと言っています。「母の胎にいる時からの私の罪」という言葉は、恐らく、聖書の詩篇五一篇5節の言葉を引用したものでしょう。

ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。

 この詩を読んだのはダビデ王とされていますが、ダビデは、王様となった時に、心に緩みが生じて、部下の美しい奥さんを奪って、その部下や他の兵士たちを殺させてしまったのです。その罪を認めた時に、ダビデは自分の罪の深さを嘆くのです。自分が幼い時から持っていた罪の思いを振り返ります。そして、母のお腹に宿った時から罪があったと言います。勿論、お腹の赤ちゃんが悪さをするわけではありません。そういうことではなく、神から離れてしまった人間は、母の胎に宿った時点で、神に背いた性質を持っているのです。それは、どうしようも出来ない、すべての人間の性質です。

 でも、その自分ではどうしようも出来ない問題を、神は責めるだけだったのでしょうか。ほうっておかれて、見捨てられたのでしょうか。いいえ、そうではなく、キリストがマリヤの胎に宿る所から人間になって下さって、私たちの胎児となった初めのいのちから、ともにしてくださったのです。言い換えれば、ダビデは自分のことを

「罪ある者として母は私をみごもりました」

と言いましたが、私たちは今、主イエスを思うことによって、

「母の胎内にいるときから、主イエスはともにいてくださいました。罪ある者として母が私を身ごもった時にも、イエスは私とともにおられました」

と言えるのです。

 イエスが私たちを罪から救って下さるとは、ただ罪を赦してくださるとか、罪の罰を代わりに十字架で引き受けてくださったとか、そういう事だけではありません。最後には、罪を赦してくださる、というだけでなく、今ここにある生涯、母の胎内にいのちを戴いた時点から、死に至るまでのすべてを、キリストはともにしてくださるのです。でも案外、キリストの十字架の赦しとは、最後には天国に入れて下さるということだと考えている方も少なくありません。

 言わばスーパーで買い物をしているとします。いくらになるか分かりませんし、間違った商品を籠に入れているかもしれませんが、最後にはレジで、神様が全部支払いをしたり、間違った買い物はしないように調整してくれたりする、と考えたらどうでしょう。最後には、神様がうまくやってくれる、という考え方です。けれどもそれだと、たぶん、レジに並んでいると、「本当に大丈夫かなぁ。あまりにひどい間違いをして、怒られたらどうしようかなぁ」とドキドキするのではないかと思います。

 でも、そうではなくて買い物の最初から、自分一人ではないなら、もっと安心ですね。だれかが一緒に最初から付き添ってくれるのです。一緒に買い物に付き合い、これは買ったら良いかなどうかな?と考えさせてくれたり、間違った買い物も気づかせたり、笑ったりしてくれて、一緒にじっくり買い物をするのです。そうだとしたら、最後に一緒にレジに並ぶ時にも、ドキドキは少ないでしょう。安心して、任せてよいのです。キリストは、レジの向こうに立って、財布を開いてお支払いをしてくださるだけのお方ではありません。私たちの人生の最初から、ともにいて、途中もずっと一緒にいてくださり、私たちの歩みをともにしていてくださいます。その途中で、私たちは罪を行動に移したり、失敗をしたりしてしまいますけれども、イエスは、私たちとともにいて、その罪さえも、恵みのお話しに変えていってくださるのです。ここに、

 3…神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。

 4それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。

とあります。キリストが肉体をとられたのは、私たちの今のこの肉体での歩みが、御霊に従って歩み、律法の要求(神の御心に従う生き方)が全うされるためでした。それは、私たちにそうしなさい、神の律法に服従しなさい、という以上に、神が御子をお遣わしになった目的だったのです。だから、神は、キリストが完全に人となる事を通して、私たちの今の歩みを御心に叶うものとしてくださるのです。

「覆ってくださる」

と言われています。「覆いをかぶせて見えなくする」とイメージです。私の罪を、イエスの罪のない聖さで覆ってくださる。ただ覆いをかけるだけなら、下に何があるのかかえって気になりそうです。なかった事にしよう、というのも余り賢い解決ではありません。でも、ただ覆うのではないのです。キリストの完全な聖さで覆われるのです。私の人生の罪や過ち、出来事の一つ一つが、キリストの聖さを被されるのです。キリストの大きな歌の、尊いドラマの中に取り込まれるのです。ダビデの大きな罪も、聖書の中では、神の赦しと恵みを表す物語になりました。主がダビデの罪も、生涯も覆って下さったからです。

 同じように私たちの歩みも、イエスが覆って下さいます。「あなたの罪はちょっと酷いから、覆うのは嫌だ」などとは決して仰いません。私の人生をイエスは覆って下さる。そのためにキリストは初めから人間になられたのです。

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礼拝⑤「赦された喜びに生きる」イザヤ書六章

2016-10-23 16:07:23 | シリーズ礼拝

2016/10/23 礼拝⑤「赦された喜びに生きる」イザヤ書六章

 牧師になって、よく質問される質問は「牧師はどうやって生活しているのか。献金で生活しているのか」と「牧師は普段何をしているのか」。そして「牧師と神父はどう違うのか」です。カトリックとプロテスタントの違いは様々ですが、礼拝に対する大きな違いはこれです。

1.聖書に書かれてあることのみ

 カトリックやルター派は「聖書に禁じられていないことは許されている」と考えますが、特に私たちリフォームドの教会は

「聖書に命じられていないことは禁じられている」

と考えます。殊に、信仰の教理や礼拝、教会の運営(教会政治)に関するような大事な問題は、神が聖書に明記してくださっている。だから、聖書にないことを礼拝に持ち込むのではなく、聖書にある礼拝をお手本に礼拝を整えていくのです。マリヤ像やビジュアルな効果とかアイデアで、自分たちの好みの礼拝を造るのではなくて、神が聖書において示しておられる礼拝を、今ここで形にしていくのです。聖書に書かれてある規定を規範とする[1]。これが私たちの規範的原理です。

 ではそれは、窮屈な狭苦しい礼拝を生み出すのでしょうか。とんでもない! 聖書に書かれている礼拝は、非常に豊かで多様なものです。レビ記や詩篇、黙示録には、実に色鮮やかで、豊かで、言葉に尽くせない素晴らしい礼拝が見られます。「礼拝指針」はこう言います。

(公的礼拝の自由と秩序)1-7 主イエス・キリストは、公的礼拝に定まった様式を命じることはせず、礼拝にいのちと力が満ちるために大きな自由を教会に与えている。しかし、公的礼拝においては、神のみことばの規準が守られ、主の御霊の自由のうちに、すべてのことが秩序を保ちつつ、簡素、威厳、聖さ、美しさをもって神にささげられる。[2]

 今日開きましたイザヤ書六章は、私たちのモデルとして与えられている、素晴らしい礼拝の一つです。ここにある要素や順番からも、私たちの礼拝を改めて見つめ直すことが出来ます。まず、イザヤが栄光の主の幻を見て、セラフィムと呼ばれる生き物が歌うのを聴きます。

 3…「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」

 私たちの毎週の礼拝と重なります。神によって礼拝に集められ、そこで栄光の神に出会うのです。そして、賛美の歌を聴くのです。礼拝の最初の讃美歌は、神の栄光を歌う歌から選んでいます。神の偉大さ、会堂だけでなく全地に満ちる栄光の神を仰ぐのです。すると、イザヤは、どうするでしょうか。一緒に賛美し喜んだのでしょうか。いいえ、自分の汚れを嘆くのですね。

 5そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」

 罪の嘆きはイザヤの礼拝の鍵です。礼拝には「罪と赦し」は不可欠な要素です。

2.「あなたの罪も贖われた」(7節)

 栄光の神の前に立つ時、私たちは、自分が如何に汚れているかに気づかされます。礼拝では神を口先や気分だけで賛美するのではなく、自分が聖なる神の前になんと汚れているかも知るのです。神を賛美するには相応しくない自分を自覚するのです。神をこの目で見たらもうダメだ、滅びるしかないほどの自覚です。「みんなも同じなんだから」とか「割と自分は頑張っているよ」とか「心を入れ替えます。礼拝を捧げ、何か喜ばれるようなことをしますから、勘弁して下さい」などと言う余地は全くありません。「もうダメだ」としか言えない。しかし、

 6すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。

 7彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」

 こうしてイザヤは神の贖いに与るのです。ここで覚えたいのは、これが神の側から与えられた贖いであるということです。イザヤが願ったから神が赦して下さったのではありません。イザヤが悔い改めたから、セラフィムが飛んで来たのでもありません。もうダメだと思っているイザヤの所に、赦しを願うなど思いも及ばないイザヤの所に、神から赦しが届けられたのです。それが神の憐れみであり、礼拝において私たちが与る救いです。

 私たちはともすると、私たちが救いや罪の赦しを願っていて、その私たちの悔い改めが十分なら赦しに与れる、と考えないでしょうか。人間が救いを願うなら、少なくともある程度の信仰や忠実さが当然必要で、それが十分なら神は「よし赦してやってもよい」と考えてくださる、という図式です。赦しは人間の努力や真剣さに大きくかかっている、と思い込むのです。

 イザヤが示し、主イエスが成就された贖いはそれと正反対です。神の側から赦しが与えられるのです。悔い改めたら赦してあげようとか、派遣に従うなら贖ってあげよう、ではなく、神の側から、一方的に、贖いが宣言されるのです。ここで、イザヤは贖われた者とされたのです。

 夕拝では「罪の告白と赦しの宣言」をします。そして赦しが宣言されたら、その後まで「罪人」と自称して「赦しをお恵みください」という言葉遣いはしません。少なくとも礼拝の構成そのものが「赦しの宣言」なのです。最後まで「私はダメだ」でなく、もう「ダメではないんだ」と、神の計り知れない憐れみで赦されて神の子どもとされた喜びで出て行きたいのです。

3.あわれみという栄光

 そもそも、ここでイザヤが見た「主の栄光」そのものが、主の限りない恵み、愛の栄光です。

 「人は誰でも神の顔を見て、なお生きていることはできない。これは人は誰でも神の輝きを見て、なお生きていることはできないという意味であると私はいつも考えていた。友人の一人はそれはおそらく人は誰でも神の悲しさを見て、なお生きていることができないという意味だろうと言った。あるいは、おそらく神の悲しさが神の輝きなのかもしれない。」[3]

 ただ輝かしく眩しく素晴らしい、高尚過ぎる、というのでなく、真実で憐れみ深く、惜しみなくご自身を与えるのが、神の聖なる聖なる栄光です。この

「高く上げられた」

は、もう一度、イザヤ書五二章13節で登場し[4]、有名なイザヤ書五三章の「しもべの歌」、キリストの十字架の苦難が預言されていきます。イザヤに触れた、燃え盛る炭火が取られた

「祭壇」

は、主のしもべが自らを

「罪過のためのいけにえ」[5]

とされた祭壇でした。イザヤはキリストの贖いによって罪を取り去っていただいたのです[6]。ヨハネ伝十二章41節では、

「イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。」

と明言されています。ヨハネが語るイエスの栄光とは、神がひとり子をお与えになったほどに世を愛された栄光であり[7]、恵みとまことに満ちている栄光です。イザヤは主の憐れみの栄光を前にして、自分の汚れを恥じ入りました[8]。だから、彼は贖われて「あ~赦されて良かった」と思うだけで「自分が遣わされるだなんて無理です」と言ったりはしません。神の愛から離れた自分を恥じたのですから、どうぞ私をお遣わしくださいと言う他なかったのではありませんか。

 罪の赦しとは、自分の罪や過ちが罰せられなくてホッとする、というだけではありません。神は聖なる聖なるお方ですから、私たちをも罪や自分本位の生き方そのものから、愛の生き方へと向かわせてくださるのです。罪を赦す事は勿論、もう私たちの生き方そのものが罪に背を向け、それぞれの生活において、神とともに喜び、愛し、仕え合い、真実を語り合うようにとせずにはおれないのです。それは簡単ではありません。綺麗事は言えません。9節以下でもイザヤの派遣される先でも抵抗の方が大きいと語られています。人の頑なさはどれほど深いか神はご承知です。でも最後には

「切り株」

がある。

「聖なるすえ」

があると言われます。

「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」

が、最後の最後には、イザヤのように主の聖なる贖いに与る民を約束されたのです。私たちも、聖なる神の、聖なる約束を戴いています。その憐れみが私たちに先んじて主イエスの十字架に現され、その贖いを戴いた者として、遣わされていくのです。

「聖なる聖なる聖なる主よ。あなたの栄光は全地に満ちています。この礼拝で、主の憐れみの栄光を崇め、赦しを戴き、遣わされていきます。憐れみに逆らう、本当に恥ずべき現実がありますが、あなたはそれを悲しみ、嘆かれ、その社会へと私たちを遣わされるのです。憐れみはさばきに向かって勝ち誇ります[9]。それぞれの生活に主の聖なる恵みを見させてください」

 
シャガール『イザヤの召命』

[1] 日本長老教会「礼拝指針 一-1(公的礼拝の原理)公的礼拝の諸原理は、聖書からのみ引き出される。」

[2] 参考までに、「神礼拝と教会統治に関しては、常に守らなければならない御言葉の通則に従い、自然の光とキリスト教的分別とによって規制されなければならない、人間行動と社会に共通のいくつかの事情があることを認める」(ウェストミンスター信仰告白、一6)

[3]ニコラス・ウォルターストルフの言葉。G・L・シッツァー『愛する人を失うとき 暗闇からの生還』(朝倉秀之訳、教文館、2002年)171頁より。

[4] イザヤ五二13「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。」

[5] イザヤ五三10「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」

[6] この箇所についての詳しい講解説教は、玉川上水キリスト教会で清水武夫牧師が「聖なるものであること」のシリーズで書かれているもの(http://www.hat.hi-ho.ne.jp/ists1970/holiness76.pdf など)が大いに参考になります。

[7] ヨハネ三16「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

[8] ただ道徳的な罪や間違いがある、という以上に、自分の愛のなさ、自分本位の心を恥じたのではないでしょうか。唇の汚れも、悪口だけでなく、冷淡な言葉、批判、諂(へつら)い、二枚舌などに恥ずかしくて居たたまれなくなったのではないでしょうか。

[9] ヤコブ二13「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです」。

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問35「私たちと同じように」ガラテヤ4章4-5節

2016-10-16 14:32:26 | シリーズ礼拝

2016/10/16 ハイデルベルグ信仰問答35「私たちと同じように」ガラテヤ4章4-5節

 

 もう10月も後半になりました。あっという間に11月になり、クリスマスになっていくでしょう。教会でもクリスマスの準備を話していますし、街でも11月になればクリスマスの雰囲気が強まることでしょう。今日はちょうど、クリスマス(イエス・キリストのことに触れる、ハイデルベルグ信仰問答の問35を読みましょう。

問35 「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ」とはどういう意味ですか。

答 永遠の神の御子、すなわちまことの永遠の神であり、またあり続けるお方が、聖霊のお働きによって、処女マリヤの肉と血からまことの人間性を身にまとわれた、ということです。それは、ご自身もまたダビデのまことの子孫となり、罪を別にしては、あらゆる点で兄弟たちと等しくなるためでした。

 ここでは「使徒信条」の

「主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ」

の一文を取り上げて、その意味を問い直しています。しかし、クリスマスには、何となく「キリスト教のお祭り、イエス・キリストの生誕を祝う日」と言うお祝いムードで済ませているだけで、この意味について深く考えたりはしないでしょう。「キリストのお誕生なんだからおめでたそうだ。それに肖って、私たちも幸せに、ロマンチックに過ごせたら十分。何か奇蹟が起きるといいなぁ」という事だと思います。

 ですから、キリストの誕生は、キリストご自身の側からすると、決して「おめでたく」もなく、「ロマンチック」でもなかったと気づいておくことはとても大事なことです。教会では、イエス・キリストではなくとも、どんな赤ちゃんの誕生も祝って、喜ぶものです。そのような赤ちゃんの誕生の喜びと、イエス・キリストがお生まれになったクリスマスのお祝いとは、全く違います。ただ規模が大きいということでなく、人間の誕生と、神の御子キリストが、人間となって下さったのは、全く違うことだからです。

 C・S・ルイスという作家はこういう表現をしています。

「すべてをご存じの永遠の存在者、全宇宙を創造された神が一人の人間となられたばかりではありません。それに先だって赤ん坊となり、さらにそれに先だって女性の体のうちの胎児となられたのです。/それがどういうことか、理解しようと思うなら、あなた自身がなめくじに、あるいは蟹になったらうれしいかどうか、考えてみて下さい。」[1] 

 ナメクジや蟹になりたい人はいませんね? 人間と蟹やナメクジよりも、宇宙よりも大きな神が人間になるほうが、もっと距離が離れているはずです。もっと言えば、神にとっては、人間になるのもウィルスや大腸菌になるのも、大きな違いはないのでしょう。キリストは

「永遠の神の御子、すなわちまことの永遠の神であり、またあり続けるお方」

ですが、人間になることを選ばれたとはそのような大決断でした。

 それは、キリストが神であることを止めた、ということではありません。神が、マリヤの胎に宿った時、神ではなくなったのではないのですね。これもまた不思議な事です。神は神であることを止めることは出来ません。人間の考えるお話しでは、天使が人間になりたがって、天使であることや永遠の命を捨てる話がさもロマンチックに描かれることがあります。しかし、そういう空想話とは違います。キリストは、神の御子であるまま、人間となってくださったのです。それは、私たちの理解を超えています。それがここでは、

「聖霊のお働きによって」

と言われています。聖書で、キリストがマリヤの胎に宿る時に、

「聖霊によって」

と言われているからです。聖霊なる神様のお働きによって、イエスはマリヤの胎に宿られました。そして、正真正銘の人間となられたのです。

 そのマリヤに御使いが現れて、

「聖霊によって男の子を宿して、キリストを生みます」

と告げる場面を「受胎告知」と言いますが、この場面を題材にした絵は沢山描かれています。

 とても印象的な場面です。ユダヤの少女の体に、世界の主なる神の御子が胎児として宿る。それは、大いなるドラマです。天と地がここでかつてなかったほど触れあったのです。そのキリストの受胎の瞬間は、描く事が出来ません。それはだれの目にも見えません。天使でさえ、それを告げただけで、キリストを宿したのは、御使いではなく、見えない聖霊のお働きでした。また、この女性マリヤが特別だったのでもありません。マリヤを持ち上げて、キリストが宿るに相応しい女性だったのだ、特別なお方だったのだ、と持ち上げてしまっては、結局キリストの受胎の意味が私たちから遠くなってしまいます。

「処女マリヤの肉と血からまことの人間性を身にまとわれた、ということです。」

というのは、

「ご自身もまたダビデのまことの子孫となり、罪を別にしては、あらゆる点で兄弟たちと等しくなるためでした」

ということであって、そこでマリヤが普通よりも特別な女性だったのだ、という方向に流れてしまうと、キリストが本当に私たちと等しくなられたことが見えなくなってしまいます。キリストは、本当に私たちと同じ、本当の人間になってくださいました。その始まりの胎児となり、十月十日、母の胎に宿って、出産の苦しみも経て、人間としての歩みをスタートしてくださいました。神であるキリストが、この計り知れない謙りをなさいました。それは、何のためでしょうか。それは、私たちのため、だったのですね。

ガラテヤ四4しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。

これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。

 神は、御子キリストをこの世に遣わされ、マリヤから生まれさせました。それは私たちが虫けら以下になるよりも深い謙りでしたが、けれども決してイエスはこれを、嫌々なさったのではありません。神には、嫌々、不本意ながら何かをするということは出来ません。私たちを愛された神は、私たちと同じようになることを躊躇(ためら)われませんでした。それも、誕生だけでなく、人として歩まれ、最後は十字架に至る苦難の生涯へと踏み出される事さえ、私たちへの愛のゆえに、喜んでなさったのです。キリストは私たちの人間としての歩みを尊んでおられます。私たちの生活、人間である事、喜びも悲しみも楽しみも難しさも、イエスは全部、分かって下さいます。だから私たちは、クリスマスに、イエスへの感謝を捧げるのです。私たちのためにイエスがお生まれになった、計り知れない知らせに感謝して、イエスを讃美し、励まされ、心から喜び、お祝いをするのです。



[1] C・S・ルイス『影の国に別れを告げて』(新教出版社、中村妙子訳)、474頁。

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