アモーレ・カンターレ・マンジャーレ

自称イタリア人のオヤジが、好きなサッカーやらグルメやら、何でも不定期に気まぐれに書き綴るサイトです。

千住宿を歩く~その1

2018-02-23 06:00:01 | つれづれ

先日のこと、北千住の旧日光街道の宿場めぐりをする機会があった。今回はその前半ということで紹介する。皆さんご存知の通り、江戸時代の宿場町は、江戸から最初の宿場町が四宿としてずいぶんと栄えていた。東海道の品川、中山道の板橋、甲州街道の新宿と日光街道(奥州街道)の千住だ

 

 この辺の話を真剣に語り始めると、読者の皆さんには迷惑千万なことになるわけで、また別の機会にしようということであるが、千住は俗に「コツ」と呼ばれていた。

 この名前の由来は近くにある小塚原処刑場に由来するという説が定説のようだ。足立区も当時の面影を残す史跡にはいろいろ解説文などを付けているとのこと。

 

 とはいえ、土地勘もないので見どころをチェックしようと、まず最初に向かったのが、北千住駅からほど近い宿の駅(トップ写真)だ。旧日光街道沿いにあり、見どころの案内をいただき、ガイドマップなどをもらった。

 そこでお話を聞いたのが、荒川放水路の掘削のコースの話。洪水対策ということであれば、極力まっすぐな方がいいわけだが、それだと名倉医院を川向こうにしてしまうということで、わざと迂回させたという。

 

 そのくらい宿場町時代からの老舗医院として地元になじんでいたとのことで、旧日光街道をそちらに向かって歩く。

 まずは風情を感じる古い町屋がお向かいに並んでいる。足立区の解説文なども立っている。絵馬屋という看板がなんともムードを醸しだしてくれる。

 

 途中には団子屋さんもあり、こちらで買いながら食べ歩き・・・なんともムードのある空気を感じる。

 また狭い路地もたくさんあり、江戸時代とは言わないが、ノスタルジーを感じる通りもたくさんあった。

  

 さらに少し歩くと、小さな公園にあたる。ここが高札場の跡という。中山道の妻籠などにも同様のものがあったが、歴史マニアには興味深いものだ。

 ここからさらに進むととりあえず目指す名倉医院が見えてくる。なるほど蔵まであって、なかなか歴史を感じさせてくれる佇まいだ。

 

 解説文によると、千住宿はもちろんのこと、川向こうなど近郷近在からもたくさんの患者さんが訪れるほどの人気の骨つぎだったと。

 確かに街道となれば、けが人も多かったはず。また最初の宿の駅での案内を聞く限り、この医院が千住の人たちにとって誇りだったことがうかがえる。

 

 といいつつ、宿の駅で「名倉さんを川向こうにしては千住の名折れだということだった」とお聞きしたのだが・・・

 ついついそれに反応してしまい、「つまりそんなことをしたら、なぐられるということですな」と。幸いウケたし、雰囲気ではそのネタを案内の方が以降使いそうな・・・(苦笑)

 

 この記事を読まれて、興味を持たれた方、お時間あればぜひ宿の駅にお立ち寄りいただきたい。そして、このギャグを聞くことができたら・・・

 ぜひ、「そのギャグお客さんから教わったんでしょ」とツッコミをしてやってほしい・・・って、だからなんだというわけでもないのだが・・・(苦笑)

 

 さて、名倉医院のすぐ向こうは土手になっている。この近くではかの金八先生の撮影が行われたという。

 そして小生はここから土手の手前の道を土手に沿って西に向かった。というところで後半に続く。

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