読書日記と読書ノート (2011年1月~2013年6月)   吉野三郎

退職してから読書中心の生活をしています。その日に読んだ本の感想を日記に記し、要点をノートに書いています。その紹介です。

259、上野千鶴子『家父長制と資本制」(岩波現代文庫) -後半-

2014-07-31 05:53:32 | 読書記録
(2)ノートから
①市場に内在的な運動法則からすると、恐慌は避けられない。これを避けるには、市場が『外部』を求めること、つまり、市場の運動が市場のなかで自己完結しないこと、が必要だ。
②戦争の必然性がそこにある。
③戦争という巨大な『消尽』がブラックホールとして市場の外部にある限り、市場の供給過剰は吸収されて、恐慌は起こらない。
④戦争は、成長した経済のダンピング・グランド。資本制にとってなくてはならないもう一つの『自然』だった。

①日本の子どもは、第一次社会化(0~3歳)の過程で、育児に献身する依存的な母親との関係を通じて、同じように依存的で従順な身体へと形成される。この子どもたちは、第二次社会化(大人になるまで)の段階で、家庭から学校へ引き渡され、管理された教育を通じて、同じように画一的で従順な身体へとさらに加工されていく。
②子どもを労働市場に適合的な製品に仕立て上げる管理教育という商品を買うために、母親は積極的に働きに出る。
③中断-再就職型の暮らしを女に押し付けることによって、資本は養育を無償労働として女に担わせた後、今度は教育の費用負担を(再就労によって)同様に女に担わせるという『受益者負担』を実現した。
④中断-再就職という主婦の労働者化は、女の自立ではなく、新・性別役割分担である。
⑤性に関与しない労働市場(労基法の女性保護規定の撤廃、など)というフェミニストの要求は、資本によって一部積極的に推進されている。
⑥その結果、女性労働は、性に非関与なエリート女性労働者と性に関与的なマスの女性労働者とに分解した。
⑦雇用機会均等法は二極分解を促進した。
⑧脱工業化社会で、質の高い労働力を求める資本は性差を問題にしなくなった。
⑨資本制は、家族という私的領域をミニマムにすることによって、家父長制の桎梏を脱しようとしている。
(了)

259、上野千鶴子『家父長制と資本制」(岩波現代文庫) -前半-

2014-07-30 05:18:43 | 読書記録
(1)日記から
・2013年1月5日(土)
上野千鶴子『家父長制と資本制』を読み始めた。歯切れのいい文体。前半50ページは論理的でわかりやすかったが、後半の学説史になるとゴチャゴチャしてわかりづらかった。俺の頭のせいかも。読んで知ったのは、フェミニズムとかウーマンリブとか、女性解放思想とその運動が、つい最近、1960年代ごろから始まったこと。市川房江や平塚雷鳥らの運動は、啓蒙的に女性の権利を主張したにすぎない。フェミニズムは、女性が抑圧されている根拠を、文化意識・差別意識に求めない。近代の資本制生産そのものがもたらしたもの、ととらえる。市場経済の外に家族を置き、そこを私的領域にすることによって、男性労働力の再生産コストを支払わない場とした。それが、つまり主婦の家事労働=不払い労働である。市場経済は、家族を外部化することによって、労働力再生産のコストを負担することを免れる。そして、不払いで済ますことができるのは、家族が権力関係に置かれているからである、とする。男による女の支配が、家事労働の無償化を可能にし、またドメスティック・バイオレンスを生む温床でもある。著者は、このような家族内の支配・権力関係を家父長的支配と名付ける。その前近代的名称にもかかわらず、この支配様式は近代の市場・資本主義が生みだしものである。だから、啓蒙的に性差別の不当性を主張するだけでは問題は解決しない。一つは、家族を愛の共同体ととらえ、無償労働を美化するイデオロギーの虚偽性を暴く。二つには、家事労働を不払い労働とする社会・経済構造のシステムそのものを変える。如何にして?著者はまだそこまで論じていない(そこまで読んでいない)が、考えられる一つは、家事労働を外部ソーシングすること。つまり、主婦が労働市場に参与し、家事労働をヘルパーなりベビーシッターなりに委ねる。これは、家事を市場経済化することだ。現に進行しつつある。しかし、これをもって女性解放の動きと見ることができるだろうか。資本はコストを支払わないことから、今や利潤を得る主体となっている。そんな疑問をもった。家父長制家族、というネーミングもピタッとこない。
・1月6日(日)
『家父長制と資本制』を150ページ読む。戦争が、資本主義の過剰生産を吸収する究極の外部だ、という指摘がおもしろかった。自然環境や家族など、非市場世界=外部を収奪することによって、資本制(市場経済)は発展してきた。戦争もまたそうした外部の一つ、というわけだ。独占段階の資本主義が、自然経済を基本とする植民地からの収奪によって存立しえたのも同じ理屈だ。ただ、旧植民地も、おそらく家族も、結局市場化されていくだろう。家族内の家父長制が支えた不払い労働としての家事労働も、現に進行しているように、市場化されていくだろう。そのことによって、家長の権力基盤は掘り崩され、家長に代わって資本が家族を支配することになるのだろうか。
・1月7日(月)
『家父長制と資本制』を読了。フェミニズムの理論・運動の基本的知識を得た。家族が私の領域に置かれ、そこで女性が不払い労働を強いられる構造が、近代の資本主義がもたらしたものであり、同時にそれを支えたこと。労働力の再生産コストの負担を免れるため、専業主婦(=性による役割分担)を美化するイデオロギーが注入されたこと。その後、労働力需要の高まりに伴い、パートタイマー労働者を生み、やがて90年代の情報産業化の進展が、女性労働の二極分解をもたらしたこと。この間、一貫して、家父長制家族と全社会的規模における女性差別が続いたこと。この分野の本は読んだことがなかったので、啓発されることが多かった。
(つづく)

258、藤田省三『全体主義の時代経験』(みすず) -後半―

2014-07-29 04:45:51 | 読書記録
(2) ノートから-つづき-
論文『全体主義の時代経験』より
➀貨幣という市場経済を成り立たせている制度的手段をも利益を生む流動物とみなす。流動する者それ自体が価値・富を生む。
②人間を労働力商品として規定するのは、精神を持ってしまった動物たる人間から再び精神を取り去ろうとするもの。
③人間は、それぞれが有機的生命の全体として生命をもち、世界に対する独立の想念を持った具体的存在として生きるもの。記号操作の抽象世界に対する生きた具体的形態だ。この世界で、パーソナル関係を取り結んで生きて行く存在。
④この具体的現象形態としてのパーソナル・リレーションの諸相は、全体主義(市場経済)の時代でこそ、いっそう大切な自覚の対象であるべきだ。
⑤ただの個人主義は、現状の中では利得エゴイズムになる。
⑥人間の最後の健全性を保つには、具体的対象性と性格的独立性の維持が決定的だ。⇒平凡で陳腐な具体性と現象性を全体性につきだすこと。部分にこだわること。
⑦同質社会。
異質なもの、他者なる者を毛嫌いするこということは、自分以外の者を知ろうとする意欲が欠けている、ということ。
⑧キュリオステイとは。
他者への興味、他者を他者として愛すること。それは自分の限界を知りたいという欲求でもあり、自己批判の精神につながる。
⑨民主主義は少数者の権利の尊重だが、それは少数意見の尊重という言論のレベルのことではない。生活様式その他のすべてを含んだ存在としての尊重である。
⑩日本で民主主義を言うのだったら、まず日本のなかの少数者を日常生活のなかでひき臼にかけていることの反省から始めなくてはならない。
⑪倫理は自己コントロールの術を持たない人間にのみ必要な徳だ。国家ごとき、ある特定の集団を統御する機関にすぎないものが倫理を説くことなど、おこがましいだけではなく不可能なことをやろうとするものだ。せいぜい国家主義者を生むだけだ。
⑫文化と国家は結びつかない。文化は自己批判と結びつく。自己批判というのは、国家の行動に対する自己批判。「文化国家」という語は、異質なものを結びつけたもの。
⑬国家が倫理とか日本文化を説くとき、思想を統制して国家主義を生むだけ。それを戦前にやったのが文部省教学局だ。

(了)

258、藤田省三『全体主義の時代経験』(みすず) -前半―

2014-07-27 05:17:42 | 読書記録
(1)日記から
・2013年1月4日(金)
藤田省三『全体主義の時代経験』を読了。1970年代~80年代、日本経済絶好調時の人々の精神のあり様を問い、それを「安楽への全体主義」と特徴づけた。「安楽」とは、単に不快・苦痛を避けるということではない。不快・苦の根源-それはつまり異質な少数派-その者を根絶したところに生まれる。自己と異なるものとの遭遇、そこでの違和感と驚き、理解不能な事態への戸惑い-これらが、他者との交渉の出発点であり、そこでの違和を通して自己の相対化と他者への寛容を、自己の精神として獲得できる。が、「安楽の全体主義」は自己と異なる者、社会における少数派の存在を認めない。在日朝鮮人、外国人労働者、天皇否定論者-要するに異質なものを認めない。そして、モノの享受、欲求の満足、飽くことのない消費願望。それらを可能にする貨幣への欲動。あらゆるモノを商品化し、貨幣をも利潤獲得の源泉として求めるこの無窮運動を、著者は全体主義になぞらえる。市場経済は、人間をその有用性において価値づける。精神をもった生きた存在であることを無視する。ストレスや身体の不調を起こすことなく、どれだけ長く働き続けることができるか。自動機械のように働き続けること、これが商品としての人間の効用だ。消費の享受・欲望充足は、その前提に商品としての人間の存在、つまり抽象化された人間、効用を測られる商品としての人間の存在がある。「安楽の全体主義」に抗するには、商品化され抽象化される人間存在に、具体的に生きる存在としての人間を突きだすことだ。異質を封殺する同質化社会に対して、他者との相互交渉の経験から獲得される精神のあり様を対置すること。藤田の論は、教育にも応用できるだろう。精緻な論とは言えないが、時代と社会を診断するには藤田のような感性が必要なのだ。

(2)ノートから
①物事は、元来それが人間の側の手前勝手な目論見を超えた独立の他者であるからこそ、物とか事とかと呼ばれ、それとの遭遇と交渉を通して私たちは経験を生きる。
②『他者』とは自分の外にある或る物であり、事であり、人であり、動植物であり、同時にその言葉は「見知らぬ者」として、それらすべての物に接すること-そういう方法的態度を含んでいる。
③経験とは他者との対面的な相互交渉である。
④世界はそれ自体として存在する物ではなく、消費されるためにだけ、その時までの間、一時的に存在している仮の物となる。
⑤物について考えるとは、その物に対して『親密である者から見知らぬ者へと立ち返ること』なのである。飼いならして自分の消費手段にするのではなくて、初めての存在に接することを含む『奇妙な不審』を我がものとすることなのである。
⑥このような他者への不審、違和の感覚があってこそ、自分の内側を無心に解析する自我が発生する。⇔自我のナルシシズムとの対極。
⑦ナルシスズムとは、対立的他者との相互関係を生きることを回避する精神のこと。
⑧自我を揺さぶられることへの恐怖⇒安心、安全への逃避。これが安楽への隷属。
⑨自分を震感する物ごとに対して自らを開いておく。自分の動揺への開放的態度。揺さぶられることを拒まない。自分の是認しない考え方の存在を受容すること。
⑩全体主義とは絶えざる運動、不安定。制度化・機構化を拒む。無窮運動。
⑪消費へのあくなき衝動。貨幣という記号のみによって制約される無窮運動。これが現代の全体主義。
⑫能動的ニヒリズムとは、別名虚無的技術主義。
(つづく)

257、中北浩爾『現代日本の政党デモクラシー」(岩波新書)

2014-07-26 05:52:50 | 読書日記
日記から
・2012年12月31日(水)
中北『現代日本の政党デモクラシー』を読んだ。90年代の小選挙区制の導入からマニュフェスト選挙に到るここ20年ほどの政党-選挙-有権者の関係の変容を跡づけている。同時代史であるが、理論的に整理されて、なるほどと思うところがいくつもあった。民主主義をどのような内容のものとして構想するか。政党が政策を掲げ、有権者にアピールし、有権者がその良し悪しを判断して投票する。小選挙区制の下では、より有権者にアピールする政策を掲げた政党が多数を獲得し、政権を担う。選挙は政権担当政党を選択する場となる。著者は、このような政党と選挙のあり方を、市場競争型のデモクラシーと名付ける。選挙が市場、政策が商品、有権者が消費者に位置づけられ、票で政策を買うわけだ。政策を集約したのがマニュフェストであり、これは政党と有権者との契約とみなされる。これに対して、選挙をリーダー選択の場と位置づける考えがある。シュンペーターの論だ。有権者は合理的に政策を判断する能力は持たない。リーダーにふさわしいと思われる人物の政党を選ぶ。政策の拘束性は弱い。これを、エリート競争デモクラシーと名付ける。もう一つのデモクラシー像は参加民主主義で、有権者自らが政治的決定過程に関与する。市民主義の政治構想だ。日本は20年に及ぶ試行錯誤を経て、市場競争型デモクラシーに向かいつつある。政党は党員に依拠しない議員政党であり、選挙至上主義。党員や支持団体よりも、無党派層をどれだけ多く獲得するかに精力を注ぐ。したがって、イメージ選挙となり、テレビで如何に強い印象を与えられるかに腐心する。そこに選挙プロも加わる。しかし、参議院はこうはいかない。参議院は定員が1~4(or5)の小・中選挙区だ。比例代表もある。二大政党化は進まず、一党が過半数を制しえない。それゆえ、衆議院で単独過半数を得ても、参議院対策として連立を組まざるを得ない。
 この分析は12月16日の総選挙で実証されただろうか。民主党は、自らが契約と称したマニュフエスト違反を責められて敗退。公約を回避し、原発は3年間論議して決める、TPPも?、とごまかした自民党が勝った。これでは、市場競争型選挙は行われなくなるだろう。はっきり政策を明言した政党が不利となったから。要はイメージ、感覚。風頼みの選挙・政治となる。そして、シラケがさらに進む。今回選挙の棄権の多さが証明している。
・2013年1月1日(火)
朝のうちに、『現代日本の政党デモクラシー」を読了。勉強になることがいくつもあった。
(了)