「南北朝時代の防府」です。
今の地名でいうと、「鐘紡町」も「三田尻」も「勝間」も、全部海の中です。
田島山は完全に島でした。
新子が住んでいた「国衙」が直接、海に面していました。そこに千年前には港があったのです。
この海に「埋立地」ができたのは、工業化のためではありません。
これは関が原で負けて防長二州に押し込められた毛利家、江戸時代の長州藩の農地拡大策の結果なのです。
この江戸時代の地図にある「勝間御開作」が、今の「鐘紡町」。つまり、貴伊子の社宅のある工場の場所です。
昭和50年代までは、この鐘紡町が直接海に面していましたが、その後、さらに南に「新築地町」埋立地ができています。
現在の埋立地の南端に立つと、もう江泊、向島が目の前です。
(どうか、今の地図でお確かめください)
「ということは?」
と、ロケハンでこの新築地町埋立地に立ったわれわれは思いました。
「今、自分たち、ひょっとして千年前の海の上のど真ん中に立ってるんじゃない?」
ここにちょっとした煙突があったので、美術監督・上原さんがその真ん中まで登って(ほんとはやっちゃいけない)、360度をカメラでパノラマ撮影しました。全景を、全部の山の形を写真におさめることができました。
360度分の写真を丸くつなぎ合わせて、その真ん中に頭を入れると、まるでその場にいるようです。
これはつなぎ合わせた写真の一部です。左の低いのが多々良山、右の高いのが矢筈ヶ岳(敷山)。
こちらは東にそびえる大平山。
これが千年前の海の上から見た風景なのです。
われわれは、今、千年前の海の上にいます。
今の地名でいうと、「鐘紡町」も「三田尻」も「勝間」も、全部海の中です。
田島山は完全に島でした。
新子が住んでいた「国衙」が直接、海に面していました。そこに千年前には港があったのです。
この海に「埋立地」ができたのは、工業化のためではありません。
これは関が原で負けて防長二州に押し込められた毛利家、江戸時代の長州藩の農地拡大策の結果なのです。
この江戸時代の地図にある「勝間御開作」が、今の「鐘紡町」。つまり、貴伊子の社宅のある工場の場所です。
昭和50年代までは、この鐘紡町が直接海に面していましたが、その後、さらに南に「新築地町」埋立地ができています。
現在の埋立地の南端に立つと、もう江泊、向島が目の前です。
(どうか、今の地図でお確かめください)
「ということは?」
と、ロケハンでこの新築地町埋立地に立ったわれわれは思いました。
「今、自分たち、ひょっとして千年前の海の上のど真ん中に立ってるんじゃない?」
ここにちょっとした煙突があったので、美術監督・上原さんがその真ん中まで登って(ほんとはやっちゃいけない)、360度をカメラでパノラマ撮影しました。全景を、全部の山の形を写真におさめることができました。
360度分の写真を丸くつなぎ合わせて、その真ん中に頭を入れると、まるでその場にいるようです。
これはつなぎ合わせた写真の一部です。左の低いのが多々良山、右の高いのが矢筈ヶ岳(敷山)。
こちらは東にそびえる大平山。
これが千年前の海の上から見た風景なのです。
われわれは、今、千年前の海の上にいます。