詩人で、俳人でもある西垣脩さんに、
「詩を書くから詩人なのでない。詩人だから詩を書くのだ」
と言う言葉がありますね。と言う話を詩人の伊勢山峻さんにしたら、
西垣さんは、こんな事も書いていると次の文章を送って下さった。
「詩は詩人がかくものであるというパラドクスをあえて言わねばならぬ気がする。今日詩に必要なものは、詩ではなくて、詩人であるということだ。詩人がそれぞれの生活領域でその生き方をつらぬくこと、あらゆる社会でその詩人たる精神を発揮することが、人間を正すことであり、つまり詩を立てる道であるという、そういう時代になった。詩人だけが信用できるという奇妙な時代になった」
これは、詩人が決して立派だということではないと思う。が、真実を見る目をもって、それぞれに真摯に時代と向かい合うという意味ではないか。
今度、14日の感泣亭例会では、小山正孝の「愛しあふ男女」を取り上げる。この詩に社会的な問題は何も出ては来ないが、人間としての生き方、そしてまた、ソネットという形式への向かう姿勢などに、同じ詩人魂というようなものを感じないわけではない。
時代と向かい合ったときに、どのような方向に進むのか、そこに詩人の有り様が問われるということだけは、そして、それは詩人に限らないが・・・確かなことのように思う。