ロック : 酒 車そして女

好きな音楽や本、映画などについてのエッセイ

グアム 横井庄一さん

2008-10-18 05:06:52 | Weblog
グアム旅行へ行く前に、子供のころテレビニュースで見た様な気がする横井庄一さんの本が読みたかった。うちの近所の図書館は、不思議な図書館で、私が訪ねると閉館していることが多く、借りることができなかった。だいたい、いつ開館しているのかと、市長に抗議したいくらいだ。
 で、帰国してから「明日への道 全報告グアム島孤独の28年」(横井庄一、文芸春秋、1974)を読んだ。
 グアムでは一応、車で島を一周してみたので、地理的な記述がよく理解できた。
 子供のころ、横井さんはジャングルの奥地で一人取り残され、日本兵や現地人との接触もなく、戦争が終わったことも知らず、草とか虫とか食べて生き延びたんだろうと想像していた。
 私の想像は極端ではなくて、そんな印象を持っている日本人は多いのではないかと思う。元朝日新聞の記者で、当時、横井さん発見を取材した森本哲郎氏は「「私」のいる文章」(新潮文庫、1976年)で似たようなことを書いている。
 森本氏は他社の取材陣とともに、ジャングルを分け入って横井さんが住んでいた洞窟までたどりついたのだが、洞窟のそばの竹やぶを抜けてみたら、6キロ先にアパートのような建物や人家が見えたのでびっくりしたという。「人家のこんな近くで、よくもまあ28年間も見つからずにかくれていることができたもんだ」。
 このアパートや人家は、取材陣のみんなが見たのだが、記事に書いたのは森本氏だけだったという。ほかの記者たちはおそらく「イメージに合わない」という理由、もしくは思い込みで書かなかった。「人家が近い」という記述は一種のスクープになり、他社の記者の中には翌日しかられた人もいたとか。
 私がグアムをドライブした印象では、グアムはすごく狭い。淡路島の大きさしかない。
 当時、横井さんは中隊規模で転戦していて、米軍上陸後は小隊規模で米軍の掃蕩作戦と戦っていた。終戦ごろは7人ほどの仲間と移動し、米軍や現地人の兵におびえていたらしい。終戦は米軍の投降の呼びかけなどで、信じる信じないは別として知ってはいた。現地人が飼っている牛や豚を襲って食べたり、ウナギや川エビを獲ったりして飢えをしのぎ、絶えず現地人からの銃撃を恐れて「引越し」を繰り返していた。
仲間はいつしか3人となり、最後は1人だけとなり28年がすぎた。

 この本を読むと、投降はいつでもできたのだが、戦陣訓をかたくなに守ろうとする横井さんの苦悩がひしひしと伝わる。「生きて虜囚の辱めを受けず」が、孤独な28年の理由らしい。
 こんな戦陣訓のために、多くの日本人が玉砕や自決に追い込まれている。今の感覚では信じられない。
 私の考えでは、こんな思想は日本の伝統ではないし、武士道でもない。戦国の武将は簡単に寝返ったりしてる。日本人は伝統的に「ゆるい戦争」をしていた。
 それが、近代化の過程で、過去の「伝統」を忘れ、こんなおかしな思想が「伝統」になってしまった。
 さらに、日本は遅れてきた近代国家なので、ヨーロッパの国が戦争をしまくって作り上げてきた戦争のルールをよく理解していなかった。つまり「捕虜」や「被占領」の意味とか、その結果どうなるとかイメージできなかった。イメージできないから、沖縄戦やヒロシマ・ナガサキ、日本各地の空襲といった悲劇を招いたとしか思えない。
 
 
 
 
 

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