の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

摩氣社

2010年11月21日 11時51分20秒 | 近畿(滋賀、京都)
■胎金寺山と傳舊社地■
(22nd May 2010)



★摩氣社★ 京都府南丹市園部町大字竹井字宮ノ谷1


・延喜式内社、丹波國船井郡、麻氣社、名大。

・舊社格は府社。

・祭は大御饌津彦命。

・創建年代不詳。

・丹波國唯一の北面する社として知られ、谷口を扼するかたちの現在地よりずっと奥の山裾に鎭座していたとの所傳がある。

・古墳等の遺跡はいまのところ當社付近には発見されていないが、園部川と二つの支流域に広がる氏子地域には、十四基を数える安谷古墳群(口人)をはじめとして古墳が散在、また古錢出土地もあることから、早くから開けた土地であったと推測される。

・『新抄格勅符抄』封部に「摩氣 一戸 丹波國 護景雲四年(770)」と神戸のことがみえている。

・延喜十七年(917)四月二十七日の「丹波國某長解」(『平安遺文』)に追記された保証人の中に、「麻氣祝部大宅」の名が認められ、大宅氏が有力者であったことを示唆する。

・近世に當社別當寺であった胎金寺(廃亡)の本寺である九品寺の『吉祥山縁起』によると、承暦三年(1079)、白河院が九品寺の伽藍を修造した際、鎭守摩氣社に對し、「船井第一麻氣大社」の額を下賜し、祭禮を復興したという。

・江戸時代には、摩氣十一ヶ村の總鎭守とされ、園部藩の祈願所となり、その援助を受けた。十一ヶ村については、城南町、横田、黒田、船坂、半田、口人、口司、大西、宍人、仁江および口八田で、これに宮本の竹井を加えた十二地区が氏子地域であるが、舊村単位で擧げると、竹井が摩氣、上新江、篠田の三ヶ村、横田も同じく、上、下、南横田の三ヶ村に分かれていたように、合わせて二十一ヶ村に達する。それぞれの地区に氏を祀るが、その数は十四社。この中で、口司の鏡社、口人の吉備社、春日社の三社は南大谷の籔田社の末社とされ、摩氣社の祭禮に參加せず、都合十一社となる。つまり、摩氣十一ヶ村とは摩氣十一社を意味する。

・宮本の舊摩氣村では當社があるために、他の村のように氏がなく、當社が「氏」であり、「村氏」であり、「總鎭守」であるという三層の重層構造を持つ。丹波國には、このような例が多々みられるが、當社はその典型とされている。

・祭祀が近世における摩氣十一ヶ村で行われ、園部、龜山両藩領にまたがり、藩政の枠を越えている事からも、この祭祀が中世に由来する一證とされる。

・現在の本殿、攝社、絵馬舎(舊拜殿)は明和四年(1767)、小出英持の建立。
 

■社號標■
(22nd May 2010)
 

・「延喜式内麻氣大社」とある。


■鳥居■
(22nd May 2010)
 


■門■
(22nd May 2010)



■門扁額■
(22nd May 2010)
 


■社殿全景■
(22nd May 2010)
 


■拜殿■
(22nd May 2010)
 


■本殿および本殿覆い屋■
(22nd May 2010)
 
 

 京都府指定文化財


■東攝社■
(22nd May 2010)


 京都府指定文化財


■西攝社■
(22nd May 2010)


 京都府指定文化財


■絵馬殿■
(22nd May 2010)
 


■宮遙拜所■
(22nd May 2010)
 


■末社四社殿■
(22nd May 2010)
 

・向かって左より、塞社、琴平社、山王社、稻荷社。


■泉■
(22nd May 2010)
 


((コメント))

2010年5月22日

 この日の主目的地の一つである摩氣社である。實は、摩氣橋の付近から山のほうに割りと入らないといけないと思っていたのだが、まったくそういうわけでなく下のほうにあったので拍子抜けした。舊社地はもっと奥まったところにあったとされるので、自分が行く前にぼんやりと見えていた姿はそのときの姿なのかもしれない。明らかに體が胎金寺山とされているわけではないが、鎭座地から考えると、山を祀っていた氣がしないでもないが、謎である。特に、山中に磐座があるとか、古代祭祀跡があるということも聞いたことがないので、なんとも言いかねるが。山とは別に、眞名井があり、祀ったのかもしれないが。謎に興味がある。

 あまり、域にしさというものは正直感じなかったのであるが、社殿の美しさに、絶句した次第である。ちなみに、宮司さん宅も美しく、羨ましいかぎりであった。


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