■拜殿、幣殿■
(28th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/44/6f8a411be9b1a80ce4871412c9c42af6.jpg)
★須佐社★ 和歌山県有田市千田1641
・延喜式内社、紀伊國在田郡、須佐社、名大、月次新嘗。
・舊社格は縣社。
・祭は素盞嗚尊。
・有田の港灣に近い漁村、千田集落の中雄山の中腹に鎭座。
・通稱、千田社。
・千田、星尾、辻堂、山田原、下中島の産土。
・當社に古い文書は殘っておらず、江戸時代初期のものか、と思われる巻子本が殘るのみであるが、それによると、祭は紀ノ川上流の大和國吉野郡西川峯から和銅六年(713)十月に遷座し、当初、社殿は海に面していたという。當時、往来する船が恭勤の心を表さず、結果、転覆させられたり、壊されたりすることが多かったため、元明天皇のとき、勅命で社殿を南向きにしたところ、船は何事もなく航行できるようになったという。ちなみに、勧請されたという和銅の年月日は和歌山市鎭座の伊太祁曾社が現鎭座地へ遷座したと傳える年月日と同じである。
・『紀伊續風土記』『紀伊名所図会』によると、紀伊國一の宮伊太祁曾社の戸に接して須佐戸があったと記されており、須佐社には伊太祁曾社の遥拜所もある。天正の頃までは毎年九月寅卯日に伊太祁曾社から馬十二騎が出て、當社で事を務めた記録があり、この事は伊太祁曾社の五十猛が父素盞嗚に会うための儀礼であると考えられている。
・『出雲國風土記』の出雲國飯石郡須佐郷の条には、素盞嗚が「この國は小さき國なれども、國処なり。故わが御名を木石につけじ」といって自分の魂をここに鎭め、大須佐田、小須佐田を定めたので、この地を須佐という、と記されており、その傳承に關わる社は延喜式内社須佐社であり、古くから素盞嗚を祀っているが、小社であり、且つ、階を授けられることがなかった。これに対し、當社は名大社であり、従五位下の階を受けており、朝廷に重視されていたことがわかり、このことと當社の漁猟や航海に纏わる海洋的性格を併せて考え、松前健は紀伊の須佐を素盞嗚の原と推測している。
・『日本書紀』の一書から、素盞嗚は最初、新羅のソシモリに天降り、御子の五十猛としばらく住み、後に舟を作り、出雲の鳥上峯に着いたといい、また、五十猛は多くの樹木の種子を日本中に捲いて山々を青山としたので「有功の神」「紀伊國の大」と讃えられた、と記されている。
・紀伊國は木材の生産地として古來から知られ、それを用いて造った船で遠洋航海を行う海人たちの根拠地であったが、松前健は、素盞嗚は彼らが奉じたで、素盞嗚、五十猛以下紀伊の樹木を奉じた紀伊の海人が大和朝廷の先兵として韓土に渡った事が、記紀傳承の話に反映されたと推測している。
・古くから漁業のや船材としての樹木を供給する樹木として漁猟や航海に携わる紀伊の海人から崇敬を受けたと絵馬などから推測され、その後も漁民のとして祀られて來たが、その他にも近世には劔難除けのとして信仰され、劔難除の符を授與する古例があったという。
・明治四十年(1907)に近在の二十二の社(いずれも無格社)) 、翌年には星尾一ノ宮社を合祀。
■二の鳥居、石段■
(28th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/b2/9f29b1c2ee32734c9579905c96540fe8.jpg)
■中門■
(28th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/86/529f017da46769f5d0c70980fdc80970.jpg)
■境内■
(28th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/bb/2fb805b38ef3aaa2ede6a5e6cde57f64.jpg)
■鈴門■
(28th April 2009)
■拜殿■
(28th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/e6/989079f50e69e8ef4e36d0743b378b58.jpg)
■幣殿、本殿■
(28th April 2009)
■拜殿、幣殿■
(28th April 2009)
■社殿■
(28th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/c9/57a6afd275fd7b6efc53074db3cad7ed.jpg)
((コメント))
2009年4月28日
多くの人々は『出雲話』ありきで考えるので島根が話の発祥のように考えているのであるが、實際は、紀伊、大和の紀ノ川、熊野川流域が発祥地であると考えるべきで、そういった觀点からも、素盞嗚信仰の発祥地というべく紀伊の名大社須佐社に行ってみたのである。實際、土蜘蛛の子孫を名乗る人人には、「須佐の男」の話をする人もいるようで、そういったことも、武東征という侵略戰争伝説の裏に隠された歴史への推測を考えると納得できるものが多い。實際、個人的に、「紀伊熊野と玉置山」「丹波の出雲大宮」「伊太祁曾社」「日前および國懸宮」「土蜘蛛」「長髓彦」「杵築大社」「伊弉册と軻遇突智」「坂上田村麻呂の鬼退治」「熊野(三重)と北山に式内社のない事実」「三輪と巻向」「紀ノ川、熊野川と名草戸畔、丹敷戸畔、荒川戸畔」、その他色色と思うところがある。そして、出雲話に實は素盞嗚があまり登場しないという事實がある。そして、面白いことに、杵築大社(今の出雲大社)の祭は中世までは素盞嗚であったようであるということ。大國主ではないというのは非常に重要ではないだろうか。もう一つの一の宮の熊野大社の祭もまた素盞嗚なのである。
實は、個人的に素盞嗚は長髓彦であると考えている。そして、出雲國は最終的に戰さに破れ、紀伊、大和より落ちていった古代出雲族の人人により建てられ、そして、熊野坐社と杵築大社に一族の英雄であった素盞嗚こと長髓彦を祀ったのではないか、と思うのである。そして、後に出雲族のである三輪の大物主に祭を変えたのであろうと思うのである。丹波の出雲大宮(出雲社)も出雲族の移動離散に關係があると思われるし、やはり、「元出雲」というべきだろう。杵築大社の大國主はこの出雲社(出雲大宮)の大國主である可能性は非常にいと思う。崇天皇の子に当たる垂仁天皇は一應、開化天皇の子孫という丹波道主王の娘を皇后に迎え景行天皇らを儲けたことに『日本書紀』などではなっているが、おそらくは崇王朝と出雲族との關係を話化させたものであったのではないか、と推測するのである。つまり、丹波の地と出雲族が繋がるように思うのである。それが、紀伊大和から出雲への足取りなのかもしれない。
この須佐社に關しては、吉野から來たということであるので、やはり、紀ノ川(吉野川)流域であるという一つの構図が見てとれ、さらに、湯浅の國津社が一時、吉野に遷座になっていたという地も吉野川流域であるために出雲族との關係は容易に想像されるのである。非常に興味深いことである。
松原健氏の説は全面的に支持はしてはいないが、個人的に、紀伊、大和の傳承と神社の創建由緒などを辿っていくと、いわゆる島根の「出雲」が「出雲」でないという事實が浮かび上がってくるので、追求をするのは価値があるといえる。
(28th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/44/6f8a411be9b1a80ce4871412c9c42af6.jpg)
★須佐社★ 和歌山県有田市千田1641
・延喜式内社、紀伊國在田郡、須佐社、名大、月次新嘗。
・舊社格は縣社。
・祭は素盞嗚尊。
・有田の港灣に近い漁村、千田集落の中雄山の中腹に鎭座。
・通稱、千田社。
・千田、星尾、辻堂、山田原、下中島の産土。
・當社に古い文書は殘っておらず、江戸時代初期のものか、と思われる巻子本が殘るのみであるが、それによると、祭は紀ノ川上流の大和國吉野郡西川峯から和銅六年(713)十月に遷座し、当初、社殿は海に面していたという。當時、往来する船が恭勤の心を表さず、結果、転覆させられたり、壊されたりすることが多かったため、元明天皇のとき、勅命で社殿を南向きにしたところ、船は何事もなく航行できるようになったという。ちなみに、勧請されたという和銅の年月日は和歌山市鎭座の伊太祁曾社が現鎭座地へ遷座したと傳える年月日と同じである。
・『紀伊續風土記』『紀伊名所図会』によると、紀伊國一の宮伊太祁曾社の戸に接して須佐戸があったと記されており、須佐社には伊太祁曾社の遥拜所もある。天正の頃までは毎年九月寅卯日に伊太祁曾社から馬十二騎が出て、當社で事を務めた記録があり、この事は伊太祁曾社の五十猛が父素盞嗚に会うための儀礼であると考えられている。
・『出雲國風土記』の出雲國飯石郡須佐郷の条には、素盞嗚が「この國は小さき國なれども、國処なり。故わが御名を木石につけじ」といって自分の魂をここに鎭め、大須佐田、小須佐田を定めたので、この地を須佐という、と記されており、その傳承に關わる社は延喜式内社須佐社であり、古くから素盞嗚を祀っているが、小社であり、且つ、階を授けられることがなかった。これに対し、當社は名大社であり、従五位下の階を受けており、朝廷に重視されていたことがわかり、このことと當社の漁猟や航海に纏わる海洋的性格を併せて考え、松前健は紀伊の須佐を素盞嗚の原と推測している。
・『日本書紀』の一書から、素盞嗚は最初、新羅のソシモリに天降り、御子の五十猛としばらく住み、後に舟を作り、出雲の鳥上峯に着いたといい、また、五十猛は多くの樹木の種子を日本中に捲いて山々を青山としたので「有功の神」「紀伊國の大」と讃えられた、と記されている。
・紀伊國は木材の生産地として古來から知られ、それを用いて造った船で遠洋航海を行う海人たちの根拠地であったが、松前健は、素盞嗚は彼らが奉じたで、素盞嗚、五十猛以下紀伊の樹木を奉じた紀伊の海人が大和朝廷の先兵として韓土に渡った事が、記紀傳承の話に反映されたと推測している。
・古くから漁業のや船材としての樹木を供給する樹木として漁猟や航海に携わる紀伊の海人から崇敬を受けたと絵馬などから推測され、その後も漁民のとして祀られて來たが、その他にも近世には劔難除けのとして信仰され、劔難除の符を授與する古例があったという。
・明治四十年(1907)に近在の二十二の社(いずれも無格社)) 、翌年には星尾一ノ宮社を合祀。
■二の鳥居、石段■
(28th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/b2/9f29b1c2ee32734c9579905c96540fe8.jpg)
■中門■
(28th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/86/529f017da46769f5d0c70980fdc80970.jpg)
■境内■
(28th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/bb/2fb805b38ef3aaa2ede6a5e6cde57f64.jpg)
■鈴門■
(28th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/f2/255aeb2443af1034362a3009f73ddeb4.jpg)
■拜殿■
(28th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/e6/989079f50e69e8ef4e36d0743b378b58.jpg)
■幣殿、本殿■
(28th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/c3/901ac61e01ffc57680d0a4c0f9d62be7.jpg)
■拜殿、幣殿■
(28th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/3f/d8b6b45e6665f54ec0959965a1d7ab1c.jpg)
■社殿■
(28th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/c9/57a6afd275fd7b6efc53074db3cad7ed.jpg)
((コメント))
2009年4月28日
多くの人々は『出雲話』ありきで考えるので島根が話の発祥のように考えているのであるが、實際は、紀伊、大和の紀ノ川、熊野川流域が発祥地であると考えるべきで、そういった觀点からも、素盞嗚信仰の発祥地というべく紀伊の名大社須佐社に行ってみたのである。實際、土蜘蛛の子孫を名乗る人人には、「須佐の男」の話をする人もいるようで、そういったことも、武東征という侵略戰争伝説の裏に隠された歴史への推測を考えると納得できるものが多い。實際、個人的に、「紀伊熊野と玉置山」「丹波の出雲大宮」「伊太祁曾社」「日前および國懸宮」「土蜘蛛」「長髓彦」「杵築大社」「伊弉册と軻遇突智」「坂上田村麻呂の鬼退治」「熊野(三重)と北山に式内社のない事実」「三輪と巻向」「紀ノ川、熊野川と名草戸畔、丹敷戸畔、荒川戸畔」、その他色色と思うところがある。そして、出雲話に實は素盞嗚があまり登場しないという事實がある。そして、面白いことに、杵築大社(今の出雲大社)の祭は中世までは素盞嗚であったようであるということ。大國主ではないというのは非常に重要ではないだろうか。もう一つの一の宮の熊野大社の祭もまた素盞嗚なのである。
實は、個人的に素盞嗚は長髓彦であると考えている。そして、出雲國は最終的に戰さに破れ、紀伊、大和より落ちていった古代出雲族の人人により建てられ、そして、熊野坐社と杵築大社に一族の英雄であった素盞嗚こと長髓彦を祀ったのではないか、と思うのである。そして、後に出雲族のである三輪の大物主に祭を変えたのであろうと思うのである。丹波の出雲大宮(出雲社)も出雲族の移動離散に關係があると思われるし、やはり、「元出雲」というべきだろう。杵築大社の大國主はこの出雲社(出雲大宮)の大國主である可能性は非常にいと思う。崇天皇の子に当たる垂仁天皇は一應、開化天皇の子孫という丹波道主王の娘を皇后に迎え景行天皇らを儲けたことに『日本書紀』などではなっているが、おそらくは崇王朝と出雲族との關係を話化させたものであったのではないか、と推測するのである。つまり、丹波の地と出雲族が繋がるように思うのである。それが、紀伊大和から出雲への足取りなのかもしれない。
この須佐社に關しては、吉野から來たということであるので、やはり、紀ノ川(吉野川)流域であるという一つの構図が見てとれ、さらに、湯浅の國津社が一時、吉野に遷座になっていたという地も吉野川流域であるために出雲族との關係は容易に想像されるのである。非常に興味深いことである。
松原健氏の説は全面的に支持はしてはいないが、個人的に、紀伊、大和の傳承と神社の創建由緒などを辿っていくと、いわゆる島根の「出雲」が「出雲」でないという事實が浮かび上がってくるので、追求をするのは価値があるといえる。