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日本国憲法は先人の智慧の結晶-5

2006-03-10 19:13:33 | 憲法
江藤新平の民権闘争(1872年)
 佐賀の江藤新平は、明治新政府の国家体制の設計を斬新に行なったが、彼の視点は民権の重視だった。
 彼は西欧への留学の機会をすんでのところで逃し、自らは体験することができなかったにも関わらず、幾多の文献・資料を駆使し、留学組以上の知見を持って、国法(憲法)の骨子をまとめ、民法体系を構築した。
 明治3・4年には、三権分立、上・下両議院、4段階の裁判所(最高裁から簡裁まで)、政府機関などの体系を発表している。
 明治5年から司法卿に任ぜられ、これらの体系を実践にうつすことになるが、(詳しくは省くが)薩長の汚職腐敗を容赦なく糾弾したことが大久保利通や伊藤博文らの反感を買い、「明治6年政変」(1873年;一種のクーデター)で西郷隆盛と伴に下野させられることになる。
 下野後は板垣退助らと共に自由民権運動の一員として「民撰議員設立建白書」にも名を連ねる。
 その建白書の直後、江藤新平は薩長の横暴に反発する郷里の“不平士族”を説得するため佐賀に下野するが、結局彼らの『党首』に祭り上げられる。
 薩長派は江藤新平を「佐賀の役」の首謀者として逆賊に仕立て上げ、捕縛後間も無く処刑されてしまう。
 この結果、彼の民権重視の法体系は殆ど反故にされてしまい、大久保利通が主導する天皇専制の体系へと変質して行くのである。
 江藤新平はその後、最近に至るまで「征韓論に敗れ」反政府反乱を起こしたという、彼の考えとは全く反する汚名を着せられていたが、毛利元就(長州)の末裔でもある毛利俊彦氏や江藤新平の遠縁にあたる鈴木鶴子氏の研究により、その民主制と先見性が再評価され始めた。
【参考:毛利俊彦著「江藤新平」「明治6年政変」】


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