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なぜ、村上春樹はノーベル賞を逃し続けるのか

2012-11-01 16:12:10 | 日々雑感
最近また、村上春樹作品を読み返してます。

まず『1Q84』を単行本で買い直し読破。その後『海辺のカフカ』、『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』を読み、現在は『ねじまき鳥クロニクル』に突入しています。

どれもこれも面白い。なにせストーリーをまったくといっていいほど憶えていないからね。

それはもちろん、僕が人並み外れて忘れっぽい、ということあるけれど、それだけではないと思う。そもそもムラカミ作品には、確固たるストーリーというものが存在しないんじゃないかと思う。

彼の作品には物語が進行していくドライブ感はハンパなくあるんだけど、ストーリーに必然性がないというか、結末がしっくりこない場合が多い。超常現象的なことが多すぎるし、設定も登場人物もストーリーまでもが似通っている場合が多い。

ストーリーは憶えていないけど、展開と結末はなんとなくわかる、という不思議な構造を持っているんですよ。だから、一度読んだ作品でも新鮮に感じるし、逆に初めて読む作品にもどこかで読んだような既視感を感じてしまう。

読者はまず、彼の文体の流麗さに惹きつけられる。登場自分達の会話は難解だし、知らない固有名詞もやららでてくるけど、言葉づかいが平易で、文章にリズムがあるから、読んでいるほうは、なんとなくわかった気になってしまう。

ジョン・コルトレーンの音楽は聞いたことないけど、その音楽が登場する場面の空気感がわかるので、コルトレーンの音楽がわかっているような錯覚に陥ってしまう。

ストーリーは腑に落ちないし、会話の端々にでてくる固有名詞も分からないけど、どうしようもなく小説の世界に引き込まれてしまう。

これって文学というより、催眠術に近いのかもしれない。

驚くことに村上春樹のファンは世界中に広がっている。言語や文化を共有する日本人が読んでもよくわからないものに、欧米やアジアの若者の共感が引き寄せられるのって不思議な感じがするけど、考えてみれば、日本の読者もわかったようなわかってないようなところが多いので、どっちもどっち(?)だ。

音楽や美術に限らず、名作と言われる芸術作品は抽象的だ。ダ・ビンチの『モナリザの微笑み』は写実的な技法で描かれているれれど、その絵が意図するものは、抽象的だ。逆にピカソの『明日の記憶』は抽象画だけれど、意図するものは実に明確だったりする。

また、僕ら日本人が洋楽にハマるとき、ほとんどの場合、まず曲とか、リズムとか、グルーブ感に惹きつけられる。よほど英語のできる人でない限り、歌詞から入る、という人は少ないはすだ。

歌詞の意味は分からなくても『Yesterday』を聴いて感傷的になったり、『天国への階段』を聴いて興奮したりする。芸術を理解するうえで、言葉は大した役割を果たしていない。せいぜいタイトルが訳されていればそれで十分だ。

芸術の素晴らしさは、文化や生まれ育った環境が違う同士が言葉を超えて共鳴できる点にある。

しかし、文学作品はそうはいかない。タイトルだけではどうにもならないから、他国の人に気に行ってもらうには、全文を翻訳する必要がある。

翻訳には不可避的に劣化が伴う。日本語の文章のニュアンスを他の言語で100%再現することはほとんど不可能だ。言葉というのは、その土地の文化や歴史から大きな影響を受けているので、かりに文法上は同じ言語であっても、微妙なニュアンスの違いがそこにはある。

翻訳小説に共感したり、のめり込んだりすることもある(もちろん)。ただ、多くの場合は、ストーリーの面白さや、世界観の華麗さに惹かれるのであって、純文学といわれる作品が世界的な共感を得ることは(近年においては特に)少ない。

ムラカミ作品は言葉や文化の壁をいとも簡単に超えてしまう。首都高の池尻付近の様子について一切の先入観をもたない地方出身の中国人が『1Q84』に共感することができる。

70年代安保のさなかの早稲田の街並みを想像すらできないアメリカ人が『ノルウェイの森』に涙したりする。

村上春樹の小説は、ある種の強固な抽象性を備えている。著者の意図は抽象的なストーリーのその奥でさらに深くエンコードされている。日本人だって理解できない人はできないけど、世界中にハマる人がたくさんいる。

僕らは、ムラカミ作品を読むのではなく、聴いている。

村上春樹は、小説を書くことを「井戸を掘る」とたとえるけれど、これは的を得ている表現だろう。自分の意識のより深いところへ降りていって、そこでストーリを紡ぎ出すことにより、彼は人類に共通する地下水脈みたいなものに触れているのかも知れない。

そもそも、そういう地下水脈が存在するということを証明したことがすごい。人間は言葉を通じて、言葉では到底表現できない感情に、物語に共鳴することができるのだから。

彼がノーベル文学賞を逃し続けているのは、彼の作品が「文学」という範疇では評価しきれないからなのかもしれない。


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